59 / 148
『あなた向きの罠』(4)
しおりを挟む
すうっと爽やかな風が流れ込んで来た。
青と灰色を基調にしたオフィス・ルーム。
正面に開け放たれた大きな窓、風はそこから流れてくる。右端に整頓された書類棚とパソコン、FAX、電話がある。左端には木目が美しい机、ゆったりとした黒い革張りの椅子は座り心地が良さそうだ。
男は窓に歩み寄って、外を見回した。
緑の豊かな地平、整理区画された近代都市という感じの建物が、太陽を浴びて誇らしげに建っている。道路は混み合うこともなくスムーズに車が流れている。うるさい騒音もない。灰色の空の代わりに、目が痛くなるほどの青空、息苦しい大気の代わりに、信じられないが微かな花の薫りさえする。こうして窓に立っているだけで、体がほぐれ寛いで、さあもうひと頑張り、という気持ちになる。
理想的なオフィスだな、と男は知らず知らず微笑みながら考えた、その男の鼻先を、不意に強烈な臭いが襲った。
眉を顰めて臭いの元に目をやる。スラックスがさっきの果汁に濡れたままだ。腐りかけた重いのったりする甘さが、途切れた風に濃く強く立ち上った。
せっかくの空気が台無しだ。シャワー室でもイメージするか。
じとじと、足にまとわりつくスラックスを摘み上げながら考え、男はぎくりとした。
待てよ?
どうして、この果実のイメージが残っているんだ?
まるで、押し付けられたみたいに。
その答えを探す前に、背後でドアが開く気配がして、男は振り返った。木目のドアが外側からゆっくり押されて開く。開いた暗闇から、すらりと伸びた一本の脚が内側へ入ってくる。黄色のパンプスが絨毯を踏むのを、男は凍りついたように見つめていた。スローモーション、と見えたのは錯覚、次の瞬間きれいな動作で入って来た黄色のワンピースを着た美女は、窓枠を握りしめて立っている男に、どこか不審そうに笑いかけた。
「社長? どうかされましたか?」
それが自分に向けられたものだと気づくのには、少し時間がかかった。男はぎごちなく笑い返し、美女を見たまま、スラックスを触った。スラックスは濡れても湿ってもいない。
「いや…」
答えながら、男は急いで頭を働かせた。
きっと、イメージを移行させる時に、あまり極端な展開にならないように、脳が不自然にならない程度にイメージを残したのだろう。或いは、これも薬としての特性かも知れない。目が覚めたら、会社側に確認しておこう。他に同じ症例があれば、特性として考えられる………。
男が頭の中をまとめている間に、美女はスリットの入ったタイト・スカートから日焼けした脚をこれ見よがしに見せながらオフィスを横切り、FAXの前で少し状態を屈めた。くっきりと腰のラインが浮かび上がる。男は少し唾を呑んだ。ここのところ、同僚の妻ともご無沙汰だった。夢の中のことを逐一報告することもないだろう。
やっぱり、隣にシャワー室が要るな。
男は考えながら、美女に近寄った。FAXを操作して要る美女の真後ろに立ち、声をかけながら、彼女の肩に手を置く。
「ねえ、君…」
「え…」
待っていたかのように、美しい笑みを見せながら美女が振り返り……男は声にならない悲鳴を上げて飛び退った。
「な…ん……で……す……か………」
録音の再生音がだんだん遅くなるように、美女の声が間延びしていく。それと同時にどろどろと眼鼻から黄色のワンピースの中身までが絨毯の上に溶けていく。鼻を突く腐敗臭。
男は混乱した。
おかしいぞ、こんな事はイメージしていない。
頭の隅を、再びかつての同僚の影が掠めていく。眠りに落ちる前の光景が、丁寧に引き伸ばされて、もう一度頭の中をよぎっていく。笑った同僚の顔。楽しげな、これ以上の楽しみはないと言いたげな、笑みほころんだ『鼠男』の顔。その口許が、一言一言噛みしめるように動いた。
インプットしてやってくれ。
男はその後のことばを想像した。
謝礼は弾む。
青と灰色を基調にしたオフィス・ルーム。
正面に開け放たれた大きな窓、風はそこから流れてくる。右端に整頓された書類棚とパソコン、FAX、電話がある。左端には木目が美しい机、ゆったりとした黒い革張りの椅子は座り心地が良さそうだ。
男は窓に歩み寄って、外を見回した。
緑の豊かな地平、整理区画された近代都市という感じの建物が、太陽を浴びて誇らしげに建っている。道路は混み合うこともなくスムーズに車が流れている。うるさい騒音もない。灰色の空の代わりに、目が痛くなるほどの青空、息苦しい大気の代わりに、信じられないが微かな花の薫りさえする。こうして窓に立っているだけで、体がほぐれ寛いで、さあもうひと頑張り、という気持ちになる。
理想的なオフィスだな、と男は知らず知らず微笑みながら考えた、その男の鼻先を、不意に強烈な臭いが襲った。
眉を顰めて臭いの元に目をやる。スラックスがさっきの果汁に濡れたままだ。腐りかけた重いのったりする甘さが、途切れた風に濃く強く立ち上った。
せっかくの空気が台無しだ。シャワー室でもイメージするか。
じとじと、足にまとわりつくスラックスを摘み上げながら考え、男はぎくりとした。
待てよ?
どうして、この果実のイメージが残っているんだ?
まるで、押し付けられたみたいに。
その答えを探す前に、背後でドアが開く気配がして、男は振り返った。木目のドアが外側からゆっくり押されて開く。開いた暗闇から、すらりと伸びた一本の脚が内側へ入ってくる。黄色のパンプスが絨毯を踏むのを、男は凍りついたように見つめていた。スローモーション、と見えたのは錯覚、次の瞬間きれいな動作で入って来た黄色のワンピースを着た美女は、窓枠を握りしめて立っている男に、どこか不審そうに笑いかけた。
「社長? どうかされましたか?」
それが自分に向けられたものだと気づくのには、少し時間がかかった。男はぎごちなく笑い返し、美女を見たまま、スラックスを触った。スラックスは濡れても湿ってもいない。
「いや…」
答えながら、男は急いで頭を働かせた。
きっと、イメージを移行させる時に、あまり極端な展開にならないように、脳が不自然にならない程度にイメージを残したのだろう。或いは、これも薬としての特性かも知れない。目が覚めたら、会社側に確認しておこう。他に同じ症例があれば、特性として考えられる………。
男が頭の中をまとめている間に、美女はスリットの入ったタイト・スカートから日焼けした脚をこれ見よがしに見せながらオフィスを横切り、FAXの前で少し状態を屈めた。くっきりと腰のラインが浮かび上がる。男は少し唾を呑んだ。ここのところ、同僚の妻ともご無沙汰だった。夢の中のことを逐一報告することもないだろう。
やっぱり、隣にシャワー室が要るな。
男は考えながら、美女に近寄った。FAXを操作して要る美女の真後ろに立ち、声をかけながら、彼女の肩に手を置く。
「ねえ、君…」
「え…」
待っていたかのように、美しい笑みを見せながら美女が振り返り……男は声にならない悲鳴を上げて飛び退った。
「な…ん……で……す……か………」
録音の再生音がだんだん遅くなるように、美女の声が間延びしていく。それと同時にどろどろと眼鼻から黄色のワンピースの中身までが絨毯の上に溶けていく。鼻を突く腐敗臭。
男は混乱した。
おかしいぞ、こんな事はイメージしていない。
頭の隅を、再びかつての同僚の影が掠めていく。眠りに落ちる前の光景が、丁寧に引き伸ばされて、もう一度頭の中をよぎっていく。笑った同僚の顔。楽しげな、これ以上の楽しみはないと言いたげな、笑みほころんだ『鼠男』の顔。その口許が、一言一言噛みしめるように動いた。
インプットしてやってくれ。
男はその後のことばを想像した。
謝礼は弾む。
0
あなたにおすすめの小説
「魔物の討伐で拾われた少年――アイト・グレイモント」
(イェイソン・マヌエル・ジーン)
ファンタジー
魔物の討伐中に見つかった黄金の瞳の少年、アイト・グレイモント。
王宮で育てられながらも、本当の冒険を求める彼は7歳で旅に出る。
風の魔法を操り、師匠と幼なじみの少女リリアと共に世界を巡る中、古代の遺跡で隠された力に触れ——。
あなたの片想いを聞いてしまった夜
柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」
公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。
政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。
しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
どうやらお前、死んだらしいぞ? ~変わり者令嬢は父親に報復する~
野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
ファンタジー
「ビクティー・シークランドは、どうやら死んでしまったらしいぞ?」
「はぁ? 殿下、アンタついに頭沸いた?」
私は思わずそう言った。
だって仕方がないじゃない、普通にビックリしたんだから。
***
私、ビクティー・シークランドは少し変わった令嬢だ。
お世辞にも淑女然としているとは言えず、男が好む政治事に興味を持ってる。
だから父からも煙たがられているのは自覚があった。
しかしある日、殺されそうになった事で彼女は決める。
「必ず仕返ししてやろう」って。
そんな令嬢の人望と理性に支えられた大勝負をご覧あれ。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる