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『あなた向きの罠』(7)
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不愉快。
不愉快な音。
男は薄く目を開けた。
目覚ましのような甲高い音が、辺り一面に鳴り響いている。
湯は相変わらずほのかに温かいが、胸の辺りに差し込むような冷たさがある。
新しい罠が用意されたか。だが、こちらの用意も万全、じっくり休養した体には力が漲っている。けれども、眠っている人間に目覚ましとは貧困な発想だ。そんな程度の頭だから、女房にも見限られるのだ。
男は苦笑して、湯船から立ち上がろうとした。が、体はぴくりとも動かない。
変だな。
この風呂のイメージは俺が作ったものだ。自由にならないなんて、妙だな。それともまた、あいつの介入があったのか。
薄く開いていた目を、もう少しはっきり開ける。それと同時に、ざわめいていた波の音が、再びけたたましい目覚ましのベルと、お互いに怒鳴り合うような話し声に変わった。
「よーし、いいだろう!」
「そっちは異常ないな!」
「さっき、念のために見てきました。もう住人は誰もいないようです! 一箇所鍵がかかってましたけど、ガラス戸から覗いても誰もいませんでした!」
「まあ、これだけ派手な音を立てりゃ、眠ってるやつでも気がつくよ」
「そりゃ、そうだな」
ひとしきり賑やかな笑い声が続く。知らず知らず耳をそばだてていた男は、次に続いた声に体全体を強張らせた。
「じゃあ、取り壊すか!!」
何?
何だって?
どしん、と重い音が響いて、寝ているベッドごと体が揺れた。
取り壊す?
見開いた視界に、汚れて煤けた天井と薄暗い部屋の中の光景が迫ってくる。せめて指でも動かないかと必死に力を込めると、胸の辺りでひくりと何かが震えた。やがて、そろそろとそれが持ち上がってきて視界に入り、男は低い叫び声を上げた。
かさかさの皺だらけ、枯れ木にまとわりついた人の皮。
これが、俺の手か?
男は狂おしく、あちらこちらに目を走らせた。澱んだ空気が振動で揺れるばらばらと天井から埃や屑が落ちてくる。
男は噎せて、そのか弱い音が部屋に吸い込まれるのを恐怖で聞いた。
殺される?
本当に?
いや、待て。
めまいを感じ出した頭に、目を閉じ、息を吸う。
これが罠だ。あいつの考え出した、新手の罠だ。この手に乗ったら、あいつの思うままだ。オカルトまがいの状況が効果を上げないと見たので、こんなパニック状況を想定したに違いない。けれども、考えてみれば、これこそ夢の常套手段の恐怖じゃないか。
身動きできない自分に、何らかの危険が迫る。自分は何も対処できない。危険はどんどん迫ってくる。やがて俺は悲鳴を上げて飛び起き、製薬会社の社員とあいつの目の前で、汗まみれになって息を喘がせ、夢だったのかなどと呟いて、2人の失笑を浴びるだろう。心理学を研究されていても、やはり怖いものは怖いのですねとか何とか、陳腐な皮肉を背中に受けて、すごすご帰っていく羽目になるのだ。
それこそ冗談じゃない。
それが、あいつらの考えている結末なら、俺は俺の結末を自分で作り変えてやろう。あいつらの想像もできないような夢の時間を組み立ててやる。
男は目を閉じ、意識を集中した。揺れる部屋も妙にごりごりした感触しかない自分の体も無視する。
俺は今、再び湯船の中に居る。今度は一人じゃない。もう一人、滑らかな肌を持った女……どうだな、あいつの妻がいい。あいつの妻が一緒だ。あいつの妻は俺に囁く。
「こんな体験初めてよ…」
ざまあみろ。
男は心の中で呟いて、満面に勝ち誇った笑みを浮かべた。
ざまあみろ。
お前は俺に復讐なんてできやしないんだ。
どおん!
部屋が重りに潰された時、男は至福の時の中にいた。
終わり
不愉快な音。
男は薄く目を開けた。
目覚ましのような甲高い音が、辺り一面に鳴り響いている。
湯は相変わらずほのかに温かいが、胸の辺りに差し込むような冷たさがある。
新しい罠が用意されたか。だが、こちらの用意も万全、じっくり休養した体には力が漲っている。けれども、眠っている人間に目覚ましとは貧困な発想だ。そんな程度の頭だから、女房にも見限られるのだ。
男は苦笑して、湯船から立ち上がろうとした。が、体はぴくりとも動かない。
変だな。
この風呂のイメージは俺が作ったものだ。自由にならないなんて、妙だな。それともまた、あいつの介入があったのか。
薄く開いていた目を、もう少しはっきり開ける。それと同時に、ざわめいていた波の音が、再びけたたましい目覚ましのベルと、お互いに怒鳴り合うような話し声に変わった。
「よーし、いいだろう!」
「そっちは異常ないな!」
「さっき、念のために見てきました。もう住人は誰もいないようです! 一箇所鍵がかかってましたけど、ガラス戸から覗いても誰もいませんでした!」
「まあ、これだけ派手な音を立てりゃ、眠ってるやつでも気がつくよ」
「そりゃ、そうだな」
ひとしきり賑やかな笑い声が続く。知らず知らず耳をそばだてていた男は、次に続いた声に体全体を強張らせた。
「じゃあ、取り壊すか!!」
何?
何だって?
どしん、と重い音が響いて、寝ているベッドごと体が揺れた。
取り壊す?
見開いた視界に、汚れて煤けた天井と薄暗い部屋の中の光景が迫ってくる。せめて指でも動かないかと必死に力を込めると、胸の辺りでひくりと何かが震えた。やがて、そろそろとそれが持ち上がってきて視界に入り、男は低い叫び声を上げた。
かさかさの皺だらけ、枯れ木にまとわりついた人の皮。
これが、俺の手か?
男は狂おしく、あちらこちらに目を走らせた。澱んだ空気が振動で揺れるばらばらと天井から埃や屑が落ちてくる。
男は噎せて、そのか弱い音が部屋に吸い込まれるのを恐怖で聞いた。
殺される?
本当に?
いや、待て。
めまいを感じ出した頭に、目を閉じ、息を吸う。
これが罠だ。あいつの考え出した、新手の罠だ。この手に乗ったら、あいつの思うままだ。オカルトまがいの状況が効果を上げないと見たので、こんなパニック状況を想定したに違いない。けれども、考えてみれば、これこそ夢の常套手段の恐怖じゃないか。
身動きできない自分に、何らかの危険が迫る。自分は何も対処できない。危険はどんどん迫ってくる。やがて俺は悲鳴を上げて飛び起き、製薬会社の社員とあいつの目の前で、汗まみれになって息を喘がせ、夢だったのかなどと呟いて、2人の失笑を浴びるだろう。心理学を研究されていても、やはり怖いものは怖いのですねとか何とか、陳腐な皮肉を背中に受けて、すごすご帰っていく羽目になるのだ。
それこそ冗談じゃない。
それが、あいつらの考えている結末なら、俺は俺の結末を自分で作り変えてやろう。あいつらの想像もできないような夢の時間を組み立ててやる。
男は目を閉じ、意識を集中した。揺れる部屋も妙にごりごりした感触しかない自分の体も無視する。
俺は今、再び湯船の中に居る。今度は一人じゃない。もう一人、滑らかな肌を持った女……どうだな、あいつの妻がいい。あいつの妻が一緒だ。あいつの妻は俺に囁く。
「こんな体験初めてよ…」
ざまあみろ。
男は心の中で呟いて、満面に勝ち誇った笑みを浮かべた。
ざまあみろ。
お前は俺に復讐なんてできやしないんだ。
どおん!
部屋が重りに潰された時、男は至福の時の中にいた。
終わり
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