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『ワンピース・オバサン』(5)
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5.片桐サンの家(1)
「鏡子、起きなさい、鏡子」
お母さんの声が耳にじんじん響いた。
「起きなさい。学校、遅れるわよ」
「うん…」
目を開けると机が見えた。机の上に鞄がある。学校へ持って行く、鞄が。
ちくん、とお腹の辺りが痛くなった気がした。昨日、あの風船を入れた辺り。
鏡子はお腹を押さえてみた。違う。痛くない。息を詰めて少し待ってみたけれど、痛くなるようでもない。
「鏡子!」
「はぁ…い」
鏡子はそろそろ、手をついて体を起こした。立ち上がって机に近づく。机も鞄も教科書も、朝の光にぴかぴか光っている。まるで鏡子のことなんか何も知らないよと言いたげな顔で。クラスメートのような知らん顔。
学校へ行かなくちゃならない。友達のいない学校へ。
鏡子はふいに口を押さえた。お腹がぐいっと捩じ上げられて、酸っぱいものが上がってくる。慌てて部屋を飛び出して、トイレに飛び込んだ。
「鏡子!」
お母さんが走ってくる。絶対吐くと思ったのに、口を開けても何も出なかった。ただお腹はぎゅうぎゅう締まってきて、それが苦しくて、何度も口を開けて吐こうとした。それでも何も出なくて、代わりに涙がどんどん出た。
「大丈夫? お医者さん、行く?」
「うん…」
お母さんが学校に電話をしてくれた。それでもしばらくトイレに居て、吐き気が収まってから、鏡子はお母さんに連れられて、近くの医院に行った。
「おや、珍しいねえ。久しぶりだねえ、風邪かい、鏡子ちゃん」
小さな頃から顔見知りのヤギ髭を生やした先生は、にこにこ笑って鏡子達を迎えてくれた。
「それが…」
お母さんが言いにくそうに話し始める。
時々、学校で、とか、担任の先生が、といったことばが聞こえてくる。ヤギ先生はゆっくり頷きながら、鏡子を見ている。その細い小さな目に捕まりそうな気がして、鏡子は目をそらせた。
先生の机の向こうに窓が一つある。その窓から青々とした葉っぱをつけた枝が一本、部屋の中に入り込んでいた。
枝を伝って光が入るのだろうか、それとも外がそれほど明るいのか、枝はキラキラした光の粒を一杯付けていた。
片桐サンに会いたい。そう思った。
「鏡子?」
「もう、大丈夫になりました。ありがとうございました」
「ちょっと待ちなさ…」
びっくりしたお母さんとヤギ先生を置き去りにして医院を飛び出すと、できる限りの速さで公園に向かって走った。
不思議と、片桐サンがいないとは思わなかった。そしてその通り、片桐サンは前と同じ真っ白のワンピースを着て、あのポプラの下に立っていた。
「片桐サン! 片桐サァン!」
入り口を入った時から声をかけたのに、片桐サンは振り返らなかった。かなり側まで走って行って、ようやく鏡子に気づいてくれた。
「あれ?」
「片桐サンに、会いたかったの」
走り続けたせいで切れる息を整え整え、鏡子は続けた。
「ずっと、会って、話したかったの」
「何を?」
学校はどうしたの、と聞かずに、すぐに答えてくれた片桐サンに、鏡子はほっとした。嬉しくなっって、少し声を大きくする。
「あのね、私、わかったの。私、あきちゃんやヒロくん、もう好きじゃないの。あきちゃん達もあたしのこと好きじゃないの、だからいじめるんだよね。クラスのみんなもそうなの。あたしのこと、嫌いなんだ、だから、だからさ」
鏡子は少しためらった。片桐サンがどう思うだろう、と思った。けれど、片桐サンは他の大人とは違う。鏡子の言っていることをちゃんとわかってくれている、そう思い直した。
「あたし、もう、学校、行かないの。だってさ、友達いないんだもん。みんな、あたしが嫌いなんだし、あたしも、あの子達嫌いだし。友達がいない学校なんて行けないよね。あたし、片桐サンと居ることにする。毎日、ここへ来て、片桐サンとポプラの『すごい木』、見る練習する」
「鏡子ちゃん」
ふいにそう呼ばれて、鏡子はびっくりした。片桐サンと居て名前を呼ばれたことなどなかったせいだ。
片桐サンはしばらくじっと鏡子の目を見て、ゆっくり言った。
「私の住んでいる所に行ってみる?」
「片桐サンの…」
「そう。少し遠いから、タクシーで行かなくちゃならない。帰りは送ってあげる。お母さんはお家?」
「う…ん」
まだヤギ先生の所に居るかも知れないと思ったけれど、鏡子は頷いた。片桐サンは道案内もなしで、先に立って鏡子の家に行った。
「こんにちは」
「はい、あの……まあ! 鏡子!」
どこか白かったお母さんの顔がいきなり真っ赤になって、鏡子は片桐サンの後ろに隠れた。
「一体、あんたは…」
「お話は鏡子ちゃんから聞いているんです。もしできれば、鏡子ちゃんと少し出かけて来たいのですが」
片桐サンが口を挟んだ。もしできれば、なんてことばは嘘みたいに、はっきりと言った。お母さんもそう思ったらしい。赤くなったり白くなったりしながら、夕方までに帰るなら、と言ってくれた。
「良かったわね。さ、行きましょう」
片桐サンは鏡子を連れてタクシーに乗った。
通りを幾つも過ぎ、鏡子が知っている一番遠い本屋さんも通り過ぎた。タクシーはどんどん走って行く。
「鏡子、起きなさい、鏡子」
お母さんの声が耳にじんじん響いた。
「起きなさい。学校、遅れるわよ」
「うん…」
目を開けると机が見えた。机の上に鞄がある。学校へ持って行く、鞄が。
ちくん、とお腹の辺りが痛くなった気がした。昨日、あの風船を入れた辺り。
鏡子はお腹を押さえてみた。違う。痛くない。息を詰めて少し待ってみたけれど、痛くなるようでもない。
「鏡子!」
「はぁ…い」
鏡子はそろそろ、手をついて体を起こした。立ち上がって机に近づく。机も鞄も教科書も、朝の光にぴかぴか光っている。まるで鏡子のことなんか何も知らないよと言いたげな顔で。クラスメートのような知らん顔。
学校へ行かなくちゃならない。友達のいない学校へ。
鏡子はふいに口を押さえた。お腹がぐいっと捩じ上げられて、酸っぱいものが上がってくる。慌てて部屋を飛び出して、トイレに飛び込んだ。
「鏡子!」
お母さんが走ってくる。絶対吐くと思ったのに、口を開けても何も出なかった。ただお腹はぎゅうぎゅう締まってきて、それが苦しくて、何度も口を開けて吐こうとした。それでも何も出なくて、代わりに涙がどんどん出た。
「大丈夫? お医者さん、行く?」
「うん…」
お母さんが学校に電話をしてくれた。それでもしばらくトイレに居て、吐き気が収まってから、鏡子はお母さんに連れられて、近くの医院に行った。
「おや、珍しいねえ。久しぶりだねえ、風邪かい、鏡子ちゃん」
小さな頃から顔見知りのヤギ髭を生やした先生は、にこにこ笑って鏡子達を迎えてくれた。
「それが…」
お母さんが言いにくそうに話し始める。
時々、学校で、とか、担任の先生が、といったことばが聞こえてくる。ヤギ先生はゆっくり頷きながら、鏡子を見ている。その細い小さな目に捕まりそうな気がして、鏡子は目をそらせた。
先生の机の向こうに窓が一つある。その窓から青々とした葉っぱをつけた枝が一本、部屋の中に入り込んでいた。
枝を伝って光が入るのだろうか、それとも外がそれほど明るいのか、枝はキラキラした光の粒を一杯付けていた。
片桐サンに会いたい。そう思った。
「鏡子?」
「もう、大丈夫になりました。ありがとうございました」
「ちょっと待ちなさ…」
びっくりしたお母さんとヤギ先生を置き去りにして医院を飛び出すと、できる限りの速さで公園に向かって走った。
不思議と、片桐サンがいないとは思わなかった。そしてその通り、片桐サンは前と同じ真っ白のワンピースを着て、あのポプラの下に立っていた。
「片桐サン! 片桐サァン!」
入り口を入った時から声をかけたのに、片桐サンは振り返らなかった。かなり側まで走って行って、ようやく鏡子に気づいてくれた。
「あれ?」
「片桐サンに、会いたかったの」
走り続けたせいで切れる息を整え整え、鏡子は続けた。
「ずっと、会って、話したかったの」
「何を?」
学校はどうしたの、と聞かずに、すぐに答えてくれた片桐サンに、鏡子はほっとした。嬉しくなっって、少し声を大きくする。
「あのね、私、わかったの。私、あきちゃんやヒロくん、もう好きじゃないの。あきちゃん達もあたしのこと好きじゃないの、だからいじめるんだよね。クラスのみんなもそうなの。あたしのこと、嫌いなんだ、だから、だからさ」
鏡子は少しためらった。片桐サンがどう思うだろう、と思った。けれど、片桐サンは他の大人とは違う。鏡子の言っていることをちゃんとわかってくれている、そう思い直した。
「あたし、もう、学校、行かないの。だってさ、友達いないんだもん。みんな、あたしが嫌いなんだし、あたしも、あの子達嫌いだし。友達がいない学校なんて行けないよね。あたし、片桐サンと居ることにする。毎日、ここへ来て、片桐サンとポプラの『すごい木』、見る練習する」
「鏡子ちゃん」
ふいにそう呼ばれて、鏡子はびっくりした。片桐サンと居て名前を呼ばれたことなどなかったせいだ。
片桐サンはしばらくじっと鏡子の目を見て、ゆっくり言った。
「私の住んでいる所に行ってみる?」
「片桐サンの…」
「そう。少し遠いから、タクシーで行かなくちゃならない。帰りは送ってあげる。お母さんはお家?」
「う…ん」
まだヤギ先生の所に居るかも知れないと思ったけれど、鏡子は頷いた。片桐サンは道案内もなしで、先に立って鏡子の家に行った。
「こんにちは」
「はい、あの……まあ! 鏡子!」
どこか白かったお母さんの顔がいきなり真っ赤になって、鏡子は片桐サンの後ろに隠れた。
「一体、あんたは…」
「お話は鏡子ちゃんから聞いているんです。もしできれば、鏡子ちゃんと少し出かけて来たいのですが」
片桐サンが口を挟んだ。もしできれば、なんてことばは嘘みたいに、はっきりと言った。お母さんもそう思ったらしい。赤くなったり白くなったりしながら、夕方までに帰るなら、と言ってくれた。
「良かったわね。さ、行きましょう」
片桐サンは鏡子を連れてタクシーに乗った。
通りを幾つも過ぎ、鏡子が知っている一番遠い本屋さんも通り過ぎた。タクシーはどんどん走って行く。
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