『segakiyui短編集』

segakiyui

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SSS107『約束』

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 霊安室は思ったより冷えていなかった。正面に仏壇があり、その前に頭を奥にして白布をかけられた体がある。小さく溜息をついて、葉子は静かに近寄った。
「あなた……あなた」
 間近でそっと呼びかけるが、返答はない。
「…やっぱり約束を忘れたんですね」
 元々忘れっぽい夫だった。買い物リストを忘れ、家族の計画を忘れる。認知症かと疑った時もあるが、診断ではそうでもなく、性格的なものと知って色々諦めた。
「死ぬ時は一緒ですよって、あれほどきちんと約束したのに」
 体調を崩して入退院を繰り返すようになったから、無駄かも知れないと思いつつ、意識がはっきりしている時に約束を取り付けた。逝く時は一緒に行くこと、もし先に逝ってしまう時は、ちゃんと迎えにやってくること。子ども達も独立し、家の片付けもそこそこ済んでいる。心残りはほとんどない。
 けれど、案の定、一人でさっさと出かけてしまった。
「いつものことですけどね、本当に忘れっぽいんだから。もう一つの方も、きっと忘れてしまったんでしょう」
 恨みがましく聞こえるかも知れないが、最後のことだ、多少詰ってもバチは当たるまい。
 と、ふと、白布が動いた。風かと思ったが、霊安室は締め切られている。葉子が視線を落とすと、布の下から青白い手が静かに伸びて、葉子の指先をそっと握った。覚えている、プロポーズの際に初めて触れた、おどおどと頼りなげな不安そうな動き。あの日も時間を忘れて、2時間遅れて現れた。
「あらあら」
 葉子はにっこり笑って、その手をそっと握り返した。
「よろしいわ、許してあげます。少し遅れるけど、ちゃんと待ってて下さいね」
 溢れた涙を拭わず、葉子はそっと白い手を布の下に入れ直した。
 ガチャリとノブが回って医師が現れた。葉子の目元に光る涙に深く頭を下げ、
「力及びませんでした……これが死亡診断書となります」
「ありがとうございます」
 葉子は白い紙を、婚姻届のように受け取った。
                       終わり
 
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