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とても幸せに眠ったのに、夢はやっぱりひどかった。
繰り返される爆発、逃げ惑う仲間、そして、脱出ポッドに一人押し込まれる俺。
引き裂かれて飛び散る父親、炎の渦に飲み込まれてそれでも笑う母親、悲鳴と絶叫、暗黒の宇宙に滅亡の光の華が咲き乱れる。
そして、青い地球。
どこまでも青い、母親の胎内のような、父親の腕のような、優しい祈りを満たした紺藍の惑星。
けれど、そこへ飲み込まれて、それでも異質なものとして、たった一人、永久に一人の俺。
「くっ、ふっうっ」
目が覚めるとやっぱり、それも盛大に泣いていた。
枕元に小さな赤い目覚まし時計があって、音楽を鳴らしている。
この曲は、知っている。知っていて、でも、絶対に聞きたくない曲、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』。私を月まで連れていって、という題の歌。
そのせいだけではなかった。
体中が冷えてきている。足元から覚えのあるだるさが這い上ってきている。エネルギーが切れてきたのだ。
そうか、何にも、変わってないんだ。
冷えた絶望に潰されそうになる。
秋野さんは部屋にはいなかった。
布団に寝かされた体はずっしりと重くなってきていて、遠からず溶け出すのは目に見えていた。
さっきは勢いで唇を奪ってしまったけど、今度はそうさせてくれないだろう。
「近江?」
ドアの開く音と、ナイロン袋がこすれあう音がして、優しい声が響いた。
「目が覚めたのか……どうした?」
秋野さんが部屋の小さな明かりの下に顔を突き出して、俺を覗き込んでいた。
体の細胞が一斉に声を上げて騒ぎだすのがわかった。
『密約』者がそこにいる。早くエネルギーをもらうんだ、と。
「泣いてた、んだ?」
「秋野さん」
指先で頬をそっとなでられて、自制が吹っ飛んだ。
「キス、してよ」
気が付くと、秋野さんに向かって憶面もなくねだっていた。
そんなこと、無理だよ。
心に閃いた反論に耳を塞ぐ。
「キスしてよ……でないと…俺…死んじゃう」
なんて半端な告白。
無理だって、わかってるのに。
心の中の『近江潤』が重苦しく首を振る。
秋野さんは一瞬大きく目を見開いた後、何だか険しい顔で俺を見下ろしている。
今にもここから逃げ出してしまうかもしれない。恐怖が襲ってくる。
けれど、体の焦りはそれよりはるかに大きかった。
「せっかく……父さんと母さんが助けてくれたのに…助けてよ…秋野さん」
涙が溢れた。
けど、もう、だめだ。
繰り返してねだる間も脱力感がひどくなってきていた。ともすれば、意識が遠のいていきそうになる。
秋野さんは何を思ったのか、いきなり俺の布団を剥いだ。
ひやひやとした空気が直接体に触れて、なぜか、服を着ていないらしい。胸元まで布団を引き下ろした秋野さんは、やがて静かに布団を戻した。
じっと俺を見つめる。
不思議な視線だった。
問いかけるような、そして、どこか心配そうな。
それとも、それは俺の思い込みだったんだろうか。
ふいと唐突に目を逸らして、秋野さんはドアの方を見た。立ち上がり、ドアの方へ歩いて行く。
ああ、だめだ………捨てられる。
胸にことばが詰まって、俺は目を閉じた。涙がまたこぼれ落ちる。その涙と一緒に体の細胞も溶け出し、流れだしていく気がした。
「ん…」
けれど、閉じたまぶたの向こうを陰が過った気がして目を開けようとしたとたん、唇に柔らかで温かなものが当たったのを感じた。
顔の横に秋野さんの両手が置かれているのがわかる。俺の体を気遣ってか被さってはこないけど、それでも確かに秋野さんは俺に唇を合わせてくれている。
夢だろうか、現実だろうか。
でも、夢なら、夢でもいい。
こんな夢の中で死ねるなら。悪夢の中で毎日死ぬよりよっぽどいい。
俺は両手を上げた。秋野さんを抱き寄せ、強く抱き締める。びくっと体を震わせた秋野さんを逃がすまいと、より強く唇を押しつけたとたん、
「っ!」
突然きつく唇を噛まれた。
慌てて手を放し、目を開ける。
「近江ィ」
唇を手の甲でいまいましそうに擦った秋野さんに、俺はことばを失った。
「一体、何のつもりだ」
秋野さんの目が怒っている。今まで見たことがないほど、荒々しい目だ。
ひょっとすると、もうキスしてもらえないかもしれない。
「俺は、秋野さんが」
いいかけて、口ごもった。
体は今キスから受け取ったエネルギーで満たされて、温かくて気持ちがいい。俺はやっぱり秋野さんに『密約』されていて、秋野さんなしでは生きていけなくなっている。
けれど、それは『好き』だというのとはまた違うのだろうか。
ためらった俺を、秋野さんは見逃さなかった。
「秋野さんが、何なんだ」
頬が赤く燃えている。瞳がちかちかと燐光のように光っている。どこか悔しそうに見えるのは気のせいかもしれないが、秋野さんは十分にきれいだった。
「秋野さんが……必要なんだ」
「ほう」
ごくりと唾を飲み込んでしまって、誤解されたかも知れない。
でも、誤解じゃないよな、たぶん。
俺は秋野さんが、まだ欲しい。
「女っけなしは訂正だな、ずいぶん口説き慣れてるじゃないか」
突き放すような男口調でいわれて、俺は我に返った。
秋野さんは本気で怒ってるんだ。
急にぐでぐでになって担ぎ込まれてきたかと思えば、父親の前でいきなりキスしてきて、あげくの果てに気を失って。それで介抱してやっていれば、夜中に秋野さんに襲いかかってくる、とんでもない男だと思ってる。
秋野さんは冷ややかなそっけない動作で俺の側を離れて、鳴り続けていた目覚ましを止めた。ナイロン袋を開けて、中味をあちらこちらへ片付け始める。
熱冷ましの湿布、曲がるストローつきのジュース、小さなパン。タオルとどうやら男物らしい下着一組。
俺のために買ってきてくれたんだと気づいて、嬉しいよりも切なくなった。
秋野さんは優しい、秋野さんは親切だ。
けれど、それとこれとは話が違う、病人だから介抱した、元気になったんならさっさと出て行け。
そう言われているんだ、と気づいた。
「あ、あの」
「うん?」
秋野さんは布団に体を起こした俺を振り返った。まっすぐな視線に思わずうなだれてしまう。
どう言えばいいんだろう?
俺は実は地球外生命体で、ここにいる『近江潤』というのは仮の姿で、本当はコバルト・ブルーでぬるぬると動くスライム状の不定形宇宙人で、地球には宇宙船の事故で落ちたんだ、と?
そんなこと、誰が信じてくれる?
そのうえ、『成人』した俺達は、エネルギーを分かち合う相手と生涯生死を共にするのだ、なんて?
ましてや、俺の生死は、実は秋野さんのキス一つにかかっていて、特にこの数日は、二、三時間ごとにキスしてもらう必要があるのだ、などと?
そんなこと、言えるわけがない。
言っても信じてくれるわけがない。
舞い上がった後の落胆で目の前が暗くなった。
「ごめん。ありがとう…ずいぶん、元気になったから…出て行く」
ようようことばを絞り出す。出たら最後だとわかっていた。二度と秋野さんは俺に会ってはくれないだろう。
そうなれば、俺は明日の朝には見事に溶けて、下水に流れ込んでいるはずだ。
「あ……れ?」
ふと、俺は妙なことに気がついた。
赤い小さな目覚まし時計を振り返る。もう夜中の三時になろうとしている。
俺が倒れたのは夕方だった。あの直前に、秋野さんにキスしていたから二時間、いや三時間もったとしても、どうして今まで無事だったんだ?
それに、何でこんな夜中に、目覚まし時計がセットされてるんだ?
「大体、三時間ごと、みたいだから。夜中に眠ってたらわかんないだろ。でも、心配で結局眠れなかったよ」
まるで、俺の疑問に答えるように、秋野さんが小さな溜め息をついて呟き、改めて俺を見つめて尋ねた。
「もう、大丈夫なの?」
そのことばの意味がわかるまで、かなりの時間がかかった。
「秋野…さん?」
俺があんまり間抜けた顔をしていたんだろう、秋野さんはくす、と苦笑してこちらへ近づいてきた。
「本当はなんて呼ばれてる? 生まれた星じゃ、そんな姿じゃないんだよね。今だって悪くないけど元の姿も結構気に入ってる。見たことがないぐらいきれいな深いブルーだった」
「俺…?」
心を支えていた克己心みたいなものが、音をたてて崩れていくのがわかった。
「覚えてないみたいだから、教えたげるよ。あんたは昨夜運び込まれてから、二回、人間じゃなくなってる。あえていえば、コバルト・ブルーのスライム、かな」
俺は、秋野さんの前で、戻ったのか。
ひんやりとした恐怖が体を貫いていった。
ただでさえ『密約』してくれにくいのに、そんな姿を見たら、たいていの女性なら二度と関わりたくないと思うだろう。
それで、さっき秋野さんが取った行動の意味がわかった。秋野さんは俺がまた『コバルト・ブルーのスライム』に戻っていないかを確かめていたんだ。
よほど強ばった顔になっていたんだろう。秋野さんはなだめるように言った。
「一番初めは悪いけど、逃げかけた」
……やっぱり。
それが普通だよな。
落ち込んだ俺の耳に、ふいに優しくなった声が届く。
「そしたら、あんた、小さな声で呟いたんだ。『おかあさあん、おとおさあん、ぼく、しんじゃう』って」
顔に見る見る血が上っていくのを感じた。
誰も知らないはずの俺、それを秋野さんに見抜かれて、嬉しいのか恥ずかしいのかわからなくなった。
「あんたが運び込まれたときに、やたらとキスしたがったから、ひょっとしたらと思ってさ、ちょっとキス、してみたんだ。そしたら、見る見る元に戻ったよ。えーと、だから、服が脱げてる」
秋野さんは少し赤くなった。
「キス、してくれた?」
「うん」
「スライム、なのに?」
秋野さんはふんわりと笑った。
「ほっとけないだろ、ほんとに、ちっさな、ちっさな男の子の声だったんだ。そのときも泣きじゃくってて、とてもつらそうだった」
俺は胸が一杯になった。
「どうしてここにいるの? 何で、その、えーと、故郷の星に帰んないの?」
秋野さんは次のことばを少しためらってから、それでも、そっと優しく囁いた。
「どうして『あたし』が必要なの? 全部話してくれるなら付き合ってもいいよ、近江と」
秋野さん。
この人が俺の本当の『密約』者なんだ。
俺はそのとき、故郷から遠く離れたこの星で、自分が正しい『密約』の相手を選んだことを悟った。
繰り返される爆発、逃げ惑う仲間、そして、脱出ポッドに一人押し込まれる俺。
引き裂かれて飛び散る父親、炎の渦に飲み込まれてそれでも笑う母親、悲鳴と絶叫、暗黒の宇宙に滅亡の光の華が咲き乱れる。
そして、青い地球。
どこまでも青い、母親の胎内のような、父親の腕のような、優しい祈りを満たした紺藍の惑星。
けれど、そこへ飲み込まれて、それでも異質なものとして、たった一人、永久に一人の俺。
「くっ、ふっうっ」
目が覚めるとやっぱり、それも盛大に泣いていた。
枕元に小さな赤い目覚まし時計があって、音楽を鳴らしている。
この曲は、知っている。知っていて、でも、絶対に聞きたくない曲、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』。私を月まで連れていって、という題の歌。
そのせいだけではなかった。
体中が冷えてきている。足元から覚えのあるだるさが這い上ってきている。エネルギーが切れてきたのだ。
そうか、何にも、変わってないんだ。
冷えた絶望に潰されそうになる。
秋野さんは部屋にはいなかった。
布団に寝かされた体はずっしりと重くなってきていて、遠からず溶け出すのは目に見えていた。
さっきは勢いで唇を奪ってしまったけど、今度はそうさせてくれないだろう。
「近江?」
ドアの開く音と、ナイロン袋がこすれあう音がして、優しい声が響いた。
「目が覚めたのか……どうした?」
秋野さんが部屋の小さな明かりの下に顔を突き出して、俺を覗き込んでいた。
体の細胞が一斉に声を上げて騒ぎだすのがわかった。
『密約』者がそこにいる。早くエネルギーをもらうんだ、と。
「泣いてた、んだ?」
「秋野さん」
指先で頬をそっとなでられて、自制が吹っ飛んだ。
「キス、してよ」
気が付くと、秋野さんに向かって憶面もなくねだっていた。
そんなこと、無理だよ。
心に閃いた反論に耳を塞ぐ。
「キスしてよ……でないと…俺…死んじゃう」
なんて半端な告白。
無理だって、わかってるのに。
心の中の『近江潤』が重苦しく首を振る。
秋野さんは一瞬大きく目を見開いた後、何だか険しい顔で俺を見下ろしている。
今にもここから逃げ出してしまうかもしれない。恐怖が襲ってくる。
けれど、体の焦りはそれよりはるかに大きかった。
「せっかく……父さんと母さんが助けてくれたのに…助けてよ…秋野さん」
涙が溢れた。
けど、もう、だめだ。
繰り返してねだる間も脱力感がひどくなってきていた。ともすれば、意識が遠のいていきそうになる。
秋野さんは何を思ったのか、いきなり俺の布団を剥いだ。
ひやひやとした空気が直接体に触れて、なぜか、服を着ていないらしい。胸元まで布団を引き下ろした秋野さんは、やがて静かに布団を戻した。
じっと俺を見つめる。
不思議な視線だった。
問いかけるような、そして、どこか心配そうな。
それとも、それは俺の思い込みだったんだろうか。
ふいと唐突に目を逸らして、秋野さんはドアの方を見た。立ち上がり、ドアの方へ歩いて行く。
ああ、だめだ………捨てられる。
胸にことばが詰まって、俺は目を閉じた。涙がまたこぼれ落ちる。その涙と一緒に体の細胞も溶け出し、流れだしていく気がした。
「ん…」
けれど、閉じたまぶたの向こうを陰が過った気がして目を開けようとしたとたん、唇に柔らかで温かなものが当たったのを感じた。
顔の横に秋野さんの両手が置かれているのがわかる。俺の体を気遣ってか被さってはこないけど、それでも確かに秋野さんは俺に唇を合わせてくれている。
夢だろうか、現実だろうか。
でも、夢なら、夢でもいい。
こんな夢の中で死ねるなら。悪夢の中で毎日死ぬよりよっぽどいい。
俺は両手を上げた。秋野さんを抱き寄せ、強く抱き締める。びくっと体を震わせた秋野さんを逃がすまいと、より強く唇を押しつけたとたん、
「っ!」
突然きつく唇を噛まれた。
慌てて手を放し、目を開ける。
「近江ィ」
唇を手の甲でいまいましそうに擦った秋野さんに、俺はことばを失った。
「一体、何のつもりだ」
秋野さんの目が怒っている。今まで見たことがないほど、荒々しい目だ。
ひょっとすると、もうキスしてもらえないかもしれない。
「俺は、秋野さんが」
いいかけて、口ごもった。
体は今キスから受け取ったエネルギーで満たされて、温かくて気持ちがいい。俺はやっぱり秋野さんに『密約』されていて、秋野さんなしでは生きていけなくなっている。
けれど、それは『好き』だというのとはまた違うのだろうか。
ためらった俺を、秋野さんは見逃さなかった。
「秋野さんが、何なんだ」
頬が赤く燃えている。瞳がちかちかと燐光のように光っている。どこか悔しそうに見えるのは気のせいかもしれないが、秋野さんは十分にきれいだった。
「秋野さんが……必要なんだ」
「ほう」
ごくりと唾を飲み込んでしまって、誤解されたかも知れない。
でも、誤解じゃないよな、たぶん。
俺は秋野さんが、まだ欲しい。
「女っけなしは訂正だな、ずいぶん口説き慣れてるじゃないか」
突き放すような男口調でいわれて、俺は我に返った。
秋野さんは本気で怒ってるんだ。
急にぐでぐでになって担ぎ込まれてきたかと思えば、父親の前でいきなりキスしてきて、あげくの果てに気を失って。それで介抱してやっていれば、夜中に秋野さんに襲いかかってくる、とんでもない男だと思ってる。
秋野さんは冷ややかなそっけない動作で俺の側を離れて、鳴り続けていた目覚ましを止めた。ナイロン袋を開けて、中味をあちらこちらへ片付け始める。
熱冷ましの湿布、曲がるストローつきのジュース、小さなパン。タオルとどうやら男物らしい下着一組。
俺のために買ってきてくれたんだと気づいて、嬉しいよりも切なくなった。
秋野さんは優しい、秋野さんは親切だ。
けれど、それとこれとは話が違う、病人だから介抱した、元気になったんならさっさと出て行け。
そう言われているんだ、と気づいた。
「あ、あの」
「うん?」
秋野さんは布団に体を起こした俺を振り返った。まっすぐな視線に思わずうなだれてしまう。
どう言えばいいんだろう?
俺は実は地球外生命体で、ここにいる『近江潤』というのは仮の姿で、本当はコバルト・ブルーでぬるぬると動くスライム状の不定形宇宙人で、地球には宇宙船の事故で落ちたんだ、と?
そんなこと、誰が信じてくれる?
そのうえ、『成人』した俺達は、エネルギーを分かち合う相手と生涯生死を共にするのだ、なんて?
ましてや、俺の生死は、実は秋野さんのキス一つにかかっていて、特にこの数日は、二、三時間ごとにキスしてもらう必要があるのだ、などと?
そんなこと、言えるわけがない。
言っても信じてくれるわけがない。
舞い上がった後の落胆で目の前が暗くなった。
「ごめん。ありがとう…ずいぶん、元気になったから…出て行く」
ようようことばを絞り出す。出たら最後だとわかっていた。二度と秋野さんは俺に会ってはくれないだろう。
そうなれば、俺は明日の朝には見事に溶けて、下水に流れ込んでいるはずだ。
「あ……れ?」
ふと、俺は妙なことに気がついた。
赤い小さな目覚まし時計を振り返る。もう夜中の三時になろうとしている。
俺が倒れたのは夕方だった。あの直前に、秋野さんにキスしていたから二時間、いや三時間もったとしても、どうして今まで無事だったんだ?
それに、何でこんな夜中に、目覚まし時計がセットされてるんだ?
「大体、三時間ごと、みたいだから。夜中に眠ってたらわかんないだろ。でも、心配で結局眠れなかったよ」
まるで、俺の疑問に答えるように、秋野さんが小さな溜め息をついて呟き、改めて俺を見つめて尋ねた。
「もう、大丈夫なの?」
そのことばの意味がわかるまで、かなりの時間がかかった。
「秋野…さん?」
俺があんまり間抜けた顔をしていたんだろう、秋野さんはくす、と苦笑してこちらへ近づいてきた。
「本当はなんて呼ばれてる? 生まれた星じゃ、そんな姿じゃないんだよね。今だって悪くないけど元の姿も結構気に入ってる。見たことがないぐらいきれいな深いブルーだった」
「俺…?」
心を支えていた克己心みたいなものが、音をたてて崩れていくのがわかった。
「覚えてないみたいだから、教えたげるよ。あんたは昨夜運び込まれてから、二回、人間じゃなくなってる。あえていえば、コバルト・ブルーのスライム、かな」
俺は、秋野さんの前で、戻ったのか。
ひんやりとした恐怖が体を貫いていった。
ただでさえ『密約』してくれにくいのに、そんな姿を見たら、たいていの女性なら二度と関わりたくないと思うだろう。
それで、さっき秋野さんが取った行動の意味がわかった。秋野さんは俺がまた『コバルト・ブルーのスライム』に戻っていないかを確かめていたんだ。
よほど強ばった顔になっていたんだろう。秋野さんはなだめるように言った。
「一番初めは悪いけど、逃げかけた」
……やっぱり。
それが普通だよな。
落ち込んだ俺の耳に、ふいに優しくなった声が届く。
「そしたら、あんた、小さな声で呟いたんだ。『おかあさあん、おとおさあん、ぼく、しんじゃう』って」
顔に見る見る血が上っていくのを感じた。
誰も知らないはずの俺、それを秋野さんに見抜かれて、嬉しいのか恥ずかしいのかわからなくなった。
「あんたが運び込まれたときに、やたらとキスしたがったから、ひょっとしたらと思ってさ、ちょっとキス、してみたんだ。そしたら、見る見る元に戻ったよ。えーと、だから、服が脱げてる」
秋野さんは少し赤くなった。
「キス、してくれた?」
「うん」
「スライム、なのに?」
秋野さんはふんわりと笑った。
「ほっとけないだろ、ほんとに、ちっさな、ちっさな男の子の声だったんだ。そのときも泣きじゃくってて、とてもつらそうだった」
俺は胸が一杯になった。
「どうしてここにいるの? 何で、その、えーと、故郷の星に帰んないの?」
秋野さんは次のことばを少しためらってから、それでも、そっと優しく囁いた。
「どうして『あたし』が必要なの? 全部話してくれるなら付き合ってもいいよ、近江と」
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