『密約』

segakiyui

文字の大きさ
4 / 24

4

しおりを挟む
「う…ん」
 気がついたのは、あたりが夕闇の中に沈みきってからだった。
 体中が冷え冷えとして、寒さで凍りついてしまったような気がした。コンクリートの塊のような足を引きずり、ようやく立ち上がる。
 何とかしてアパートに戻りたかった。
 俺達の仲間で他の生命体と『密約』したものはいない。
 そんなことができるとも思われてなかったはずだ。
(本当に『密約』だったのかな)
 もし、『密約』でなければ、あの衝撃やこの寒さは何なのか。
(確かめることはできる)
 『密約』の始まりには、お互いにかなり緊密な『接触』を必要とするはずだった。生きていくためのエネルギー補給の方法が、それまでの外部からの物質によるものから全く違う形に移行するためだ。一日二日は、二、三時間おきに一回の『接触』がなければ、急激に体力を失い、死に至るはずだ。
 もし、このままアパートに戻って、そのまま動けなくなり死んでしまうなら、俺は秋野さんに『密約』されていることになる。
 けれど、万が一、ただ疲れ切っているだけなら、俺は明日の朝には多少なりと回復しているはずだ。あの秋野さんとの出来事は何だったのかと悩みながら。
「く…っ」
 だが、頭の中とは違って、体の方は全く自由にならなかった。
 机に寄りかかって壁に手をつき、ドアを開けて廊下に出る。そのまま、かたつむりがはうようなのろのろとした動きで、大学の門を出て行くまでに、一時間以上かかった。電車に乗れないばかりか、駅までもたどりつけないことは明らかだった。
 揺らめく視界を必死に瞬きして目をこらし、大学前の道路をするすると近づいて来る一台のタクシーを見つける。
 手を挙げて、タクシーが止まってくれるまでに、二度、ひどい波が襲ってきた。
 頭の上から足の先へと命が引きずり出されるような脱力感で、座り込まないようにするのも苦労した。転がるようにタクシーに乗り込んでも、すぐに行き先が告げられない。
「お客さん、どうしたんです?」
 バックミラーの中から、いぶかしげな不安そうな顔が尋ねた。
「具合悪いんなら」
 降りてくれ、といわれるだろうかと一瞬肝が冷えた。
「病院、連れてきましょうか。この時間でも見てくれるところ、知ってますぜ」
 ほっとして、俺は首を振った。乱れる呼吸を整えて、かすれる声を絞り出す。
「三田……霜橋町……日光アパート」
「日光、アパート?」
 運転手はなぜか妙な繰り返し方をした。
「そこに住んでるんですかい?」
 なぜ、そんなことを気にするんだろう、と思った次の瞬間、意識の全てを根こそぎさらうような波がやってきて俺はうめいた。
「ぐうっ」
 足がいきなり形をなくした。ぐにゃ、と不安定な感触と一緒に支えがなくなり、靴下をいれたままで、靴が床に脱げ落ちる。
 ごとん、と無機質な嫌な音がした。
「お客さん?」
 前の座席の方へ崩れ込んだ俺に運転手は車を止めた。
「ほんとに大丈夫ですか?」
 俺は首を振った。
 このままでは、タクシーの中で『原型』に戻ってしまう。
 同時に、自分が秋野さんに『密約』されたことがはっきりわかった。そして、それが、どれほど追い詰められた状況かも。
 俺がいる『この世界』では、普通は、恋愛関係にあるか、それにかなり近い親密な関係でないと、キスしてくれとはねだれない。
 いわんや、一方的に襲ってキスした場合には痴漢とか変態とかいわれてはねつけられるのが常だし、それでも諦めずに追い回せばストーカー扱いされるはずだ。
 だからといって、他でもない、秋野さんが俺の望む通りにキスしてくれる可能性なんて、ほとんどない。それも一回や二回ではすまないのだ。少しの間とは言え、二、三時間おきのキスなんて、恋人同士でもしないだろう。
 けれど、それなしでは、確実に俺は死ぬ。
 暗く澱んでちかちかする視界に、俺をポッドに押し込めた父親や、爆発する宇宙船の中で笑っていた母親の顔が交錯した。
(あんな状態で助けてくれたのに、俺はこんなところで死んでいくんだ)
 悔しいとも悲しいともいえない思いで胸がふさがった。
「秋野…さ…ん」
 答えるはずのない『密約』の相手を呼ぶ。
 呼吸が涙にせり上がって体が震えた。
「秋野? 今、あんた、秋野っていったか?」
 運転手がふいに間近で声を上げて、薄れかけていた意識を引き戻された。
「あんた、日光アパートっていったな? 今の秋野って、日光アパートの秋野ひかりのことなのか?」
 俺は顔を上げた。
 運転手の顔はかすんでよく見えない。
(秋野さんを知ってる?)
 助手席のところにある顔写真と、その横に書かれている名前を必死に読み取ろうとする俺の耳に、運転手の声がもう一度響いた。
「もしかして、あんた、近江とかいう奴か?」
(俺の名前?)
 俺はのろのろとうなずいた。
 視界が少し明るくなって、ネームプレートが読めるようになった。
『秋野太一』
「あきの…たいち」
「おうよ、わしの名前だ。するとおまえか、ひかりの同居人って。ちっ、つまんねえのを乗っけちまったな」
 運転手はいきなりふてくされた顔になった。茶色に見えるぐらいに日焼けした男っぽい顔が大っぴらに不快そうにしかめられる。
「同居…人?」
(何のことだ?)
「まあよ、乗せちまったもんは仕方ねえし、これも仕事だしな。日光アパート、連れてってやるよ。まあ、あいつもな、死んだニョウボに似て、いい出したらこっちのいうことなんか聞かねえし、へたなことすると、怒りやがるしな。また、これが、扱いにくいんだよ、怒るとよ」
 運転手の言っていることは半分もわからなかったが、一つだけようやく頭の中に形を成したものがあった。
「秋野さんの…おとうさん?」
「お父さん、だあ? いい気になんなよ、まだ早えぞ、おまえを認めたわけじゃねえんだからな」
 むっとした顔で乱暴に車を発進させられて、俺は座席にのけぞった。無防備な背中をシートに叩きつけられ、呼吸が止まる。
 支えがなくなっている体が保てるわけはなく、そのまま横倒しにシートに崩れたのに、相手はぎょっとしたようだ。
「おう、ほんとに大丈夫か? どうしたんだよ、一体」
 それはこっちが聞きたいと思ったが、口さえも動かない。のろのろと足を探った手がぬめっとした液体に触れて、体の内側から凍りついた。
(ほんとに、もたない?)
 爆発音。俺を呼ぶ父母の声。
(いやだ、そんなの)
 荒い呼吸を繰り返し、流れ出していく気力を止めようしたとたん、胸を傷めるような鮮やかさで秋野さんの笑顔がよみがえってきた。
(秋野さん)
 せめて、もう一度、秋野さんに会いたい。
「おい、着いたぞ!」
 気持ちが少しは支えてくれたらしい。秋野さんのおとうさんが慌てた様子でドアを開け放ったときには、何とか足を再生できていた。
「どうしたって…歩けねえのか? これ…靴……靴下まで脱いだのか?」
 秋野さんのおとうさんは、いぶかしそうに眉を寄せながら、支え起こしてくれた。そのまま、ぐったりした俺の体の重さによろめきながらも、アパートの方へ引きずるように連れていってくれる。
「ったく…何を食って…でかくなりやがったんだ…ここまで」
 はあはあとあえぎながら、相手は俺を一〇六号室へ引きずっていった。
「おーい、ひかりい! 開けろ!」
 結構響く大声に、慌てたようにドアの向こうで人の気配が動いた。
「なあによ、急に今ごろ…近江?!」
 出てきた声の主が、父親ではなく俺を見てとんきょうな声を上げる。
(秋野さん)
「どうしたの!」
「こっちが聞きてえよ、大学前で気分悪そうにしてたから…それより、わざわざ娘の同居人を連れてきてやったんだから…おい!」
 止まらなかった。
 秋野さんの声を聞く前から、その存在の波動とでもいうようなものを、俺の体が感じていた。
 生涯ただ一人の『密約』の相手。
 そして、俺はその相手から離されて、今にも死にそうになっている。だから。
 いや、本当は、そんな理由なんか後でつけたようなものだと思う。
 秋野さんが姿を見せたとたん、足に力が戻った。秋野さんのおとうさんの支えを振り切り、両手を伸ばして秋野さんを抱き締める。
 いつかの公園の噴水の水のように。
 きっと彼らも秋野さんをこうしたかったに違いない。
 俺は秋野さんの顎を押し上げて、あっけに取られて開いているその唇に、自分の唇を押しつけた。
 次に味わったのは、めまいがするほどの幸福感と安堵感だった。
(もう、死ななくていい)
 もう、どこへも行かなくてもいい。
 俺はここなら生きていける。
 俺はすぐに気を失った、経験したことのない喜びに包まれて。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

悪役令嬢は手加減無しに復讐する

田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。 理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。 婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...