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98.『夜を荒らすなかれ』(2)
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「おらよ」
ごしごしごしと前後左右に揺すりながら包丁を抜いたレシンは笑っている。
「随分まあ、怒らせたな」
「…申し訳ない」
仕事を中断させたな、と謝りながら体を起こすと、まあいいだろうさ、たまには、とレシンは胡座をかいた。そのままじっとオウライカの側で座っている。
何かを黙って聞くような気配に、オウライカは一つ吐息を重ねた。
「どうした、恋煩いか」
「……かも知れない」
もう一つ二つと吐き出す息を重ねる。くらりくらりと揺らめく躯が苦しい。
「しんどそうだな。横になるかい?」
「いや。横になるとやってくる」
「……寝てねえのか」
レシンが低く唸った。
「眠りたいんだがな、あちらは予定より早く欲しがっているようだ」
「…まだ早えだろ」
「時間はあったはずなんだが」
もう一度息を吐いて、すまないと断りつつ、胡座をかいて壁にもたれた。
「いつからだ」
「トラスフィが出てから、数日でひどくなった」
「無茶するからだ」
「今に始まったことじゃない」
「…覗いてもいいかい?」
レシンがじっと眼帯を眺めたまま静かに聞いてきて、さすがに一瞬口を噤む。
「どうしたい?」
「…止めた方がいいと思うが」
「ずいぶん気弱だな、『斎京』のオウライカが」
「…自信がない」
思わず知らず本音が零れた。
「左側は『紋章』の世界に近い。眼帯で封じていると意識しているから止められる。暴かれると暴走しそうだ」
「…あんたが制御できねえなら、遅かれ早かれ皆呑み込まれるさ」
レシンはオウライカの前に顔を据えたまま、低く笑った。下町の職人らしくないしたたかさと冷ややかさで、
「そんな甘え覚悟であいつを預かっちゃいねえよ」
「……そうだな」
オウライカも苦笑を返した。
「…見てもらうか」
『紋章』を他の人間に覗いてもらうのは初めてかも知れない。
「いや、違うか」
「あん?」
「見てもらうのは、初めてじゃなかったな」
「…ああ、そうだな。『斎京』へ来た最初の日に覗いてるさ」
「雨の日だった」
「思い出したかい」
レシンが優しい声で呟きながら眼帯に手をかけるのに、顎を上げて待つ。
「あんたは人柱になりに来た、そう言ったんだぜ」
「蝶だ、そう教えてくれたな…」
眼帯が取り外されると記憶が一気に吹き上がり目の前を覆った。
ざああああああ。
ざあああああ。
風のような、波のような、無数の鳥が羽ばたくような、空気を震わせ皮膚を粟立たせる音が身体全てを包んでいる。
『聞こえるかい?』
『ああ。これは何だ?』
『「斎京」じゃ「紋章」って呼ばれるもんだ』
『「紋章」?』
『人の心の底にある、誰一人重ならない、たった一つの形、みたいなもんだ』
ごしごしごしと前後左右に揺すりながら包丁を抜いたレシンは笑っている。
「随分まあ、怒らせたな」
「…申し訳ない」
仕事を中断させたな、と謝りながら体を起こすと、まあいいだろうさ、たまには、とレシンは胡座をかいた。そのままじっとオウライカの側で座っている。
何かを黙って聞くような気配に、オウライカは一つ吐息を重ねた。
「どうした、恋煩いか」
「……かも知れない」
もう一つ二つと吐き出す息を重ねる。くらりくらりと揺らめく躯が苦しい。
「しんどそうだな。横になるかい?」
「いや。横になるとやってくる」
「……寝てねえのか」
レシンが低く唸った。
「眠りたいんだがな、あちらは予定より早く欲しがっているようだ」
「…まだ早えだろ」
「時間はあったはずなんだが」
もう一度息を吐いて、すまないと断りつつ、胡座をかいて壁にもたれた。
「いつからだ」
「トラスフィが出てから、数日でひどくなった」
「無茶するからだ」
「今に始まったことじゃない」
「…覗いてもいいかい?」
レシンがじっと眼帯を眺めたまま静かに聞いてきて、さすがに一瞬口を噤む。
「どうしたい?」
「…止めた方がいいと思うが」
「ずいぶん気弱だな、『斎京』のオウライカが」
「…自信がない」
思わず知らず本音が零れた。
「左側は『紋章』の世界に近い。眼帯で封じていると意識しているから止められる。暴かれると暴走しそうだ」
「…あんたが制御できねえなら、遅かれ早かれ皆呑み込まれるさ」
レシンはオウライカの前に顔を据えたまま、低く笑った。下町の職人らしくないしたたかさと冷ややかさで、
「そんな甘え覚悟であいつを預かっちゃいねえよ」
「……そうだな」
オウライカも苦笑を返した。
「…見てもらうか」
『紋章』を他の人間に覗いてもらうのは初めてかも知れない。
「いや、違うか」
「あん?」
「見てもらうのは、初めてじゃなかったな」
「…ああ、そうだな。『斎京』へ来た最初の日に覗いてるさ」
「雨の日だった」
「思い出したかい」
レシンが優しい声で呟きながら眼帯に手をかけるのに、顎を上げて待つ。
「あんたは人柱になりに来た、そう言ったんだぜ」
「蝶だ、そう教えてくれたな…」
眼帯が取り外されると記憶が一気に吹き上がり目の前を覆った。
ざああああああ。
ざあああああ。
風のような、波のような、無数の鳥が羽ばたくような、空気を震わせ皮膚を粟立たせる音が身体全てを包んでいる。
『聞こえるかい?』
『ああ。これは何だ?』
『「斎京」じゃ「紋章」って呼ばれるもんだ』
『「紋章」?』
『人の心の底にある、誰一人重ならない、たった一つの形、みたいなもんだ』
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