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107.『化身』(2)
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白くキラキラした空間にライヤーはカークを抱えて浮かんでいる。
「出口はどこだ?」
どこから聞こえたのだろう、オウライカの呼び声は。
カークの問いに目を凝らした。
自分の体が巨大化し、硬く巌のようにごつごつとした塊に変わっているのを感じる。両手に抱えたカークが今にも指の間で握り潰せそうでひやひやする。
「…あそこです、カークさん」
ようやく見つけた出口は、遥か彼方の空間に黒い染みとなって見えていた。
「行けるか?」
「もちろん」
速度を上げながら同時に怯む気持ちがみるみる広がった。
『この紅茶、美味しいね』
優しく笑う顔が脳裏に過る。
『オレンジ・ピールが入っているんだ。気に入ったならあげるけど』
『いや……いいかな。そらはあまり好きじゃないみたいだ』
『ふうん?』
そらが好きじゃないのは、オレンジ入りの紅茶じゃなくて、もりとと親しく話している自分じゃないかと思ったが黙ってななくは頷いた。
おおき・そらが滅亡と崩壊に進みつつある世界を憂えて、母親とは違う方向で解決しようとした『桜樹』プランは面白いとは思う。月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも間違ってはいないと感じる。
もちろん、人殺し兵器を開発した研究者の息子が、一体何を言ってるんだという輩もいるし、月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも優生思想だのエリートの差別意識だのと反感があるのも知っている。
そらやもりとのように人体からの正常出産で産まれた者と、ななくのように人工授精を基本として受胎ケースで生まれた者には、厳然とした社会的な格差があって、そらやもりとは意識したことがないだろうけれど、世界で戦争が絶えない底には、そう言う『意識されることもない違いへの認識不足』がある。
例えば、進路として『うさぎ』をあっさり選べる人間と、辿り着くための旅費から捻出しなければならない人間の差、のように。
大事で貴重な紅茶を『上げる』と伝える決心を、さらりと断ってしまえるぐらいの扱いにしてしまえるように。
「…」
ななくは大切に淹れた紅茶を丁寧に含む。
ほのかに甘くて酸味のあるこの紅茶を、特別な時にしか飲まないと教えたら、もりとはどんな顔をするだろう。
けれど伝える気はない、この先ずっと。
伝えられないまま、顔を見ているのが苦しいから『桜樹』に参加しないのだと言ったら、もりとはどんな顔をするだろう。
たぶん、困ったような、不安なような、優しい笑顔。
その時初めて、ななくが、本来ならば参加することも厳しい上級レベルのプロジェクトに、どれだけの決意と覚悟と努力で潜り込んだのかを理解するのだろう。
崩壊する未来ではない、今ここで倒れている仲間を支えたい。
ななくの願いはそこにしかなかった。
初めから一人でしかなかった。
だから終わりも一人で迎えるはずなのだろう。
けれど、あの時。
『……98%…?』
地球で死滅した人類のパーセンテージに頭が痺れるような感覚があった。
それでは足りない。
背筋を走り上がる恐怖と共に、この先に起こる出来事を正確に弾き出す思考を恨んだ。5%がぎりぎりで8%でようやく叶う、そんな数字だったはずだ。
なのに、残存個体数、しかも不完全なものを入れても2%しか残っていない人類が、どうやって種族を保存して行くのか、『SORA』に穿たれ荒れ果てた地上で。
『桜樹』は失敗する。
地上の人類の状況は『うさぎ』にも衝撃をもたらした。誰もが生き延びる気力を失った。自分達が最後の砦だと言う自負さえ圧力と脅迫にしかならなかった。
滅びて行く、滅びて行く。
人がこれほど心の傷みに脆いなんて誰が研究していただろう。
『うさぎ』の中でも自殺・自傷・発病・故意としか思えない怪我・互いへの攻撃が増えていった。
『脱出が必要だと思う』
もう地上には戻れない。『うさぎ』の結論は固まりつつあった。
『もう一度だけ、地上を確認したい』
地上に降りると言い出したななくを止める者はいなかった。
宙港はまともに機能していなかった。『桜樹』にはコードを打ち込んだときだけ開閉するヘリポートがあって、そこは生きていたからなんとか降りたが、着陸時に機体は損傷し、もう飛び立てないとわかった。
『うさぎ』に居る間に事故があって、体を半分機械化していたから無事だった。
少ない酸素でもやっていけるようになっていたし、食べ物も水も通常の1/3で維持できる。瓦礫を持ち上げ、狭い通路を破砕し、歪んだ扉を爆破して入り込むことも容易かった。
死臭と汚泥。
『桜樹』には人と呼べるものなどいなかった。
『……もりと……?』
一つの部屋に入り込んで、壁に寄りかかった白骨化した死骸があった部屋に、見覚えのあるカップがあった。
『桜樹』と『うさぎ』に道を分かった日、それとは知らせずお揃いにしたカップだった。今は彼方の『うさぎ』の一室で、うまく働かなくなった古いUSBが放り込んである、そのカップと色違いのものだった。
部屋を見渡し、もりとが持っていた幾つもの手回り品を確認した。
皮肉なことに電源は生きていた。
何度も確認し確実にバックアップを残せるように、最悪を考えて最善のものを整えた施設の設備は生きていた。
データを確認し、施設内を調べ、ななくは理解した、何があったのかを。
『……もりと……そら……あかね……』
施設の外には幾つかの生物のコロニーがあった。そのどこかにあかねが居るのかも知れないが、正気ではないだろうし、生きてもいないのだろう。
自分は終焉を見届けに来たのだ。
ななくは亡霊のように歩き回り、一人の子どもが溶液に浮かんでいるのを見つけた。
『……もりと…と……あかね……の…?』
遺伝子情報は二人のDNAを含んだ個体であること、しかも、それが全てをチェックしても健全な個体であることを示している。
『僕がきたのは、このため…なのか』
ラズ・ルーン。枯れた泉。
懐かしく響く、母国のことば。
たとえ受胎ケースのセンターであっても、彼を育てようとして差し伸べられた手を思い出す。
『……蘇らせてみせる』
戦乱で残された、この傷んだ世界を、命の雫で潤すのだ。
連絡のために通信機のスイッチを入れた。
「出口はどこだ?」
どこから聞こえたのだろう、オウライカの呼び声は。
カークの問いに目を凝らした。
自分の体が巨大化し、硬く巌のようにごつごつとした塊に変わっているのを感じる。両手に抱えたカークが今にも指の間で握り潰せそうでひやひやする。
「…あそこです、カークさん」
ようやく見つけた出口は、遥か彼方の空間に黒い染みとなって見えていた。
「行けるか?」
「もちろん」
速度を上げながら同時に怯む気持ちがみるみる広がった。
『この紅茶、美味しいね』
優しく笑う顔が脳裏に過る。
『オレンジ・ピールが入っているんだ。気に入ったならあげるけど』
『いや……いいかな。そらはあまり好きじゃないみたいだ』
『ふうん?』
そらが好きじゃないのは、オレンジ入りの紅茶じゃなくて、もりとと親しく話している自分じゃないかと思ったが黙ってななくは頷いた。
おおき・そらが滅亡と崩壊に進みつつある世界を憂えて、母親とは違う方向で解決しようとした『桜樹』プランは面白いとは思う。月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも間違ってはいないと感じる。
もちろん、人殺し兵器を開発した研究者の息子が、一体何を言ってるんだという輩もいるし、月基地『うさぎ』への移住で人類を存続させようと言う考えも優生思想だのエリートの差別意識だのと反感があるのも知っている。
そらやもりとのように人体からの正常出産で産まれた者と、ななくのように人工授精を基本として受胎ケースで生まれた者には、厳然とした社会的な格差があって、そらやもりとは意識したことがないだろうけれど、世界で戦争が絶えない底には、そう言う『意識されることもない違いへの認識不足』がある。
例えば、進路として『うさぎ』をあっさり選べる人間と、辿り着くための旅費から捻出しなければならない人間の差、のように。
大事で貴重な紅茶を『上げる』と伝える決心を、さらりと断ってしまえるぐらいの扱いにしてしまえるように。
「…」
ななくは大切に淹れた紅茶を丁寧に含む。
ほのかに甘くて酸味のあるこの紅茶を、特別な時にしか飲まないと教えたら、もりとはどんな顔をするだろう。
けれど伝える気はない、この先ずっと。
伝えられないまま、顔を見ているのが苦しいから『桜樹』に参加しないのだと言ったら、もりとはどんな顔をするだろう。
たぶん、困ったような、不安なような、優しい笑顔。
その時初めて、ななくが、本来ならば参加することも厳しい上級レベルのプロジェクトに、どれだけの決意と覚悟と努力で潜り込んだのかを理解するのだろう。
崩壊する未来ではない、今ここで倒れている仲間を支えたい。
ななくの願いはそこにしかなかった。
初めから一人でしかなかった。
だから終わりも一人で迎えるはずなのだろう。
けれど、あの時。
『……98%…?』
地球で死滅した人類のパーセンテージに頭が痺れるような感覚があった。
それでは足りない。
背筋を走り上がる恐怖と共に、この先に起こる出来事を正確に弾き出す思考を恨んだ。5%がぎりぎりで8%でようやく叶う、そんな数字だったはずだ。
なのに、残存個体数、しかも不完全なものを入れても2%しか残っていない人類が、どうやって種族を保存して行くのか、『SORA』に穿たれ荒れ果てた地上で。
『桜樹』は失敗する。
地上の人類の状況は『うさぎ』にも衝撃をもたらした。誰もが生き延びる気力を失った。自分達が最後の砦だと言う自負さえ圧力と脅迫にしかならなかった。
滅びて行く、滅びて行く。
人がこれほど心の傷みに脆いなんて誰が研究していただろう。
『うさぎ』の中でも自殺・自傷・発病・故意としか思えない怪我・互いへの攻撃が増えていった。
『脱出が必要だと思う』
もう地上には戻れない。『うさぎ』の結論は固まりつつあった。
『もう一度だけ、地上を確認したい』
地上に降りると言い出したななくを止める者はいなかった。
宙港はまともに機能していなかった。『桜樹』にはコードを打ち込んだときだけ開閉するヘリポートがあって、そこは生きていたからなんとか降りたが、着陸時に機体は損傷し、もう飛び立てないとわかった。
『うさぎ』に居る間に事故があって、体を半分機械化していたから無事だった。
少ない酸素でもやっていけるようになっていたし、食べ物も水も通常の1/3で維持できる。瓦礫を持ち上げ、狭い通路を破砕し、歪んだ扉を爆破して入り込むことも容易かった。
死臭と汚泥。
『桜樹』には人と呼べるものなどいなかった。
『……もりと……?』
一つの部屋に入り込んで、壁に寄りかかった白骨化した死骸があった部屋に、見覚えのあるカップがあった。
『桜樹』と『うさぎ』に道を分かった日、それとは知らせずお揃いにしたカップだった。今は彼方の『うさぎ』の一室で、うまく働かなくなった古いUSBが放り込んである、そのカップと色違いのものだった。
部屋を見渡し、もりとが持っていた幾つもの手回り品を確認した。
皮肉なことに電源は生きていた。
何度も確認し確実にバックアップを残せるように、最悪を考えて最善のものを整えた施設の設備は生きていた。
データを確認し、施設内を調べ、ななくは理解した、何があったのかを。
『……もりと……そら……あかね……』
施設の外には幾つかの生物のコロニーがあった。そのどこかにあかねが居るのかも知れないが、正気ではないだろうし、生きてもいないのだろう。
自分は終焉を見届けに来たのだ。
ななくは亡霊のように歩き回り、一人の子どもが溶液に浮かんでいるのを見つけた。
『……もりと…と……あかね……の…?』
遺伝子情報は二人のDNAを含んだ個体であること、しかも、それが全てをチェックしても健全な個体であることを示している。
『僕がきたのは、このため…なのか』
ラズ・ルーン。枯れた泉。
懐かしく響く、母国のことば。
たとえ受胎ケースのセンターであっても、彼を育てようとして差し伸べられた手を思い出す。
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