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8.パンドラの箱(3)
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実は僕から目を逸らせた。目深に被った帽子の下で、あいまいな微笑が消えて厳しい顔になった。プルオーバーパーカーの腕を自分を抱くように引き寄せて、
「誰もわかってくれなかったボク。逃げて隠れたのにズタボロにされたボク。毎日どこかでボクが死んでる。だから叫ぶことにした。思いっきり。火事があるぞーって。ここでとんでもないことが起こってるぞーって」
実の顔が少し和らいだ。
「ほんのときどき、叫んだ声を聞きつけてくれる人がいる。そしたら、その人にも頼む。できたら、叫んでくれって」
実はまっすぐに前を見た。
怯まない顔だった。
タフな顔だった。
「おまえは、すごい奴だったんだ」
ぷふっ、と実は吹いた。
「バカヤロー、だよ」
「僕にはムリだ」
「叫べたからいいよ」
「僕は…」
僕はうつむいた。
きっと今でも、こんな目にあっても、僕は誰かのためには叫べない。
怖くて。
竦んで。
「僕は…だめだ」
母さん印の僕。
僕でない僕。
でも、それ以外の僕は何もない。
「おまえは大丈夫だよ」
実がふっと優しい目で僕を見た。
「あいつに比べれば」
「あいつ?」
僕は真っ白な朗の顔を思い出した。
「朗のこと?」
「あいつには、ほんとに、何もないんだ」
実の目が暗く重くなった。
「あいつの母親のこと、覚えてる?」
「うん」
「あいつが真面目に高校生をやっていると思ってる。確かに朗は高校に通ってるけど、授業を受けてるわけじゃない」
実は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「ボク、街をうろついてるから知ってるんだ」
「…補導、されたって?」
一歩踏み込んで聞いてみると、実はくすん、と笑った。
「そんなふうに言われてんだ? まあ、今日も警察から帰ってくる途中だったけど」
「違うの?」
「事情聴取。あいつにくっつかれて困ってる奴がいるんだ。で、ちょっと前にそいつに頼まれて朗を追いかけてたんだよ」
実は疲れたような顔でごろりと寝転がった。
「バカだよなあ、朗。親なんかのために、自分潰しちまって」
「何があったんだ?」
「人を刺した」
実のことばは妙に浮いて聞こえた。
「カッターじゃなくて、でかいので。奴ともめてたところから、ボク、くっついてビデオ撮ってたんだよね。そしたら、ばたばたっとして、そうなって。あの時間、あいつ塾へ行ってるはずだったのに。もう終わりだよ、明るく元気で『いい子』の朗くんはどこにもいなくなるんだ」
実はちらりと僕の手を見た。
「それも追加してやったら? 警察は喜ぶだろうな」
何も答えられないでいると、実はひょいと立ち上がった。
「わかってるだろ」
僕を高い位置から見下ろして、
「あいつだけが、ああじゃないんだ」
厳しい声だった。
「…うん」
僕が母さんを刺さなかったのはたまたまだ。リカを追いかけて殴らなかったのはタイミングだ。父さんに叩かれて反撃しなかったのは、怖さの方が勝っただけのこと、押さえつけられた気持ちが消えたわけじゃない。
「難しい世代、だよな」
実はひとごとのようにつぶやいた。ゆるやかに目を逸らせ、そのままゆっくり歩き始める。その実の肩に、何かを押さえつけようとするような力が入っていた。
僕はすぐに立つ気にならなくて、実の後ろ姿を見送っていた。
朗。頭が良くて、人望もあって、結構ほんとはいい奴で、けれど、今は人を傷つけることなんて何とも思っちゃいない。
実。小学生のときからいじめ続けられて、誰にも何にもわかってもらえずかばってもらえなかったのに、それでも今日もいじめられてる誰かのために叫んでる。
僕。あれこれ家の中がうまくいくように考えて自分を押し殺して、気がつけば自分の中に何にもなくなって、生きてるかどうかもよくわからない。
僕達は何か間違っているんだろうか。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
ふいに、実が立ち止まった。そのまま、少し上を見上げ、息を吸い込み、はあっと大きなため息をついた。
すとん。
いつかの春日のことばが僕の中で大きな何かを落としたように、実の中でも何かの塊が通り抜けて落ちていったように見えた。
くるりと実は振り返った。
ハーフパンツのポケットに両手を無理やり突っ込んで、近づかないまま声をかけてきた。
「なあ?」
「え?」
「友達、やらないか、ごっこじゃなくて」
実はあいまいに笑った。
胸が、詰まった。
畜生。
「なあ、どうする?」
「さっさといっちまえ!」
僕は叫んだ。目の奥が熱くなって、泣きたいのか笑いたいのかわからなかった。
実はわかったと言いたげに微笑んだ。その笑みは、春日にどこか似ている気がした。
僕は力を込めて立ち上がった。
「春日に、会ってから!」
叫び返すと、右手の傷がじん、と痛んだ。
「わかった」
実はうなずき再び背中を向けた。それから、平和しか知らないみたいに歩いていった。
「誰もわかってくれなかったボク。逃げて隠れたのにズタボロにされたボク。毎日どこかでボクが死んでる。だから叫ぶことにした。思いっきり。火事があるぞーって。ここでとんでもないことが起こってるぞーって」
実の顔が少し和らいだ。
「ほんのときどき、叫んだ声を聞きつけてくれる人がいる。そしたら、その人にも頼む。できたら、叫んでくれって」
実はまっすぐに前を見た。
怯まない顔だった。
タフな顔だった。
「おまえは、すごい奴だったんだ」
ぷふっ、と実は吹いた。
「バカヤロー、だよ」
「僕にはムリだ」
「叫べたからいいよ」
「僕は…」
僕はうつむいた。
きっと今でも、こんな目にあっても、僕は誰かのためには叫べない。
怖くて。
竦んで。
「僕は…だめだ」
母さん印の僕。
僕でない僕。
でも、それ以外の僕は何もない。
「おまえは大丈夫だよ」
実がふっと優しい目で僕を見た。
「あいつに比べれば」
「あいつ?」
僕は真っ白な朗の顔を思い出した。
「朗のこと?」
「あいつには、ほんとに、何もないんだ」
実の目が暗く重くなった。
「あいつの母親のこと、覚えてる?」
「うん」
「あいつが真面目に高校生をやっていると思ってる。確かに朗は高校に通ってるけど、授業を受けてるわけじゃない」
実は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「ボク、街をうろついてるから知ってるんだ」
「…補導、されたって?」
一歩踏み込んで聞いてみると、実はくすん、と笑った。
「そんなふうに言われてんだ? まあ、今日も警察から帰ってくる途中だったけど」
「違うの?」
「事情聴取。あいつにくっつかれて困ってる奴がいるんだ。で、ちょっと前にそいつに頼まれて朗を追いかけてたんだよ」
実は疲れたような顔でごろりと寝転がった。
「バカだよなあ、朗。親なんかのために、自分潰しちまって」
「何があったんだ?」
「人を刺した」
実のことばは妙に浮いて聞こえた。
「カッターじゃなくて、でかいので。奴ともめてたところから、ボク、くっついてビデオ撮ってたんだよね。そしたら、ばたばたっとして、そうなって。あの時間、あいつ塾へ行ってるはずだったのに。もう終わりだよ、明るく元気で『いい子』の朗くんはどこにもいなくなるんだ」
実はちらりと僕の手を見た。
「それも追加してやったら? 警察は喜ぶだろうな」
何も答えられないでいると、実はひょいと立ち上がった。
「わかってるだろ」
僕を高い位置から見下ろして、
「あいつだけが、ああじゃないんだ」
厳しい声だった。
「…うん」
僕が母さんを刺さなかったのはたまたまだ。リカを追いかけて殴らなかったのはタイミングだ。父さんに叩かれて反撃しなかったのは、怖さの方が勝っただけのこと、押さえつけられた気持ちが消えたわけじゃない。
「難しい世代、だよな」
実はひとごとのようにつぶやいた。ゆるやかに目を逸らせ、そのままゆっくり歩き始める。その実の肩に、何かを押さえつけようとするような力が入っていた。
僕はすぐに立つ気にならなくて、実の後ろ姿を見送っていた。
朗。頭が良くて、人望もあって、結構ほんとはいい奴で、けれど、今は人を傷つけることなんて何とも思っちゃいない。
実。小学生のときからいじめ続けられて、誰にも何にもわかってもらえずかばってもらえなかったのに、それでも今日もいじめられてる誰かのために叫んでる。
僕。あれこれ家の中がうまくいくように考えて自分を押し殺して、気がつけば自分の中に何にもなくなって、生きてるかどうかもよくわからない。
僕達は何か間違っているんだろうか。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
ふいに、実が立ち止まった。そのまま、少し上を見上げ、息を吸い込み、はあっと大きなため息をついた。
すとん。
いつかの春日のことばが僕の中で大きな何かを落としたように、実の中でも何かの塊が通り抜けて落ちていったように見えた。
くるりと実は振り返った。
ハーフパンツのポケットに両手を無理やり突っ込んで、近づかないまま声をかけてきた。
「なあ?」
「え?」
「友達、やらないか、ごっこじゃなくて」
実はあいまいに笑った。
胸が、詰まった。
畜生。
「なあ、どうする?」
「さっさといっちまえ!」
僕は叫んだ。目の奥が熱くなって、泣きたいのか笑いたいのかわからなかった。
実はわかったと言いたげに微笑んだ。その笑みは、春日にどこか似ている気がした。
僕は力を込めて立ち上がった。
「春日に、会ってから!」
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