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8.パンドラの箱(4)
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春日に会ってから。
駅の改札を抜け、電車に乗り込んで、春日の家に近づくに従って、ことばは僕の中で重さを増した。この前よりは一層鮮やかで目を奪う緑が、南高杉の駅にも、そこから続く道の両側にもあふれている。
きっと、リカは春日の所へ行ったんだ。
そう、僕は思った。
相変わらず静まり返った住宅地の中を、一本の坂が貫いている。その坂を、今度は力をいれて一歩一歩踏みしめながら上っていたつもりなのに、だんだん感覚がぼんやりしていくのがわかった。
この前。
よしの、は僧を訪ねてはいなかったはずだ。僕も右手を切られて海に落ちたから、あの後僧を訪ねていない。
今度は少し、道が変わったのかもしれない、そう思って我に返る。
何を考えているんだろう。
夢の話だ。ただの夢。ただの妄想。
僕が春日を訪ねるのは、リカと春日の関係をはっきりさせるためで、夢の何かを確かめるためなんかじゃない。春日のおかしなやり取りに毒されて、だから、こんな物騒なことに巻き込まれて、右手にしなくていい怪我までして。
春日と関わらない方が良かったんだ。あの日、『グラン・ブルー』に春日が何を言おうが、無視すればよかった。
だけど、と小さな声がした。
春日の前で黙って座っていた夕暮れは、不思議にほっとしたよな。春日の家で食べた昼飯がうまかったよな。それに、保健室で僕はどうしてあれほど泣いたのか。
春日がわかってくれたせいだ。
僕がずっとがんばってきた、と春日は言ってくれた。誰も気に止めてくれなかった僕の気持ちを、春日は丁寧にすくい上げてくれた。だから、僕は安心できた。安心したから、泣けたんだ。
それに、どちらかというと、春日は僕を拒んだじゃないか。
声は低くささやいた。
関わるな、関わりたくないと言っていた。夢の話もしたくない、と。
僕は吐息をついた。
図書室でリカと夢の話をしてから一週間もたっていないのに、一体何が起こったんだろう。
何かが起こって何かが変わって、そのせいで僕は今、それまでわかりきっていると思っていた世界の端っこで、見たこともない光景を突きつけられている。
力をいれて歩き過ぎ、息が切れて立ち止まり、呼吸を整えた。坂の頂上が近づくにつれて、自分が怯んでいくのがわかる。どんどんとんでもないことを見るはめになったのは、きっと春日のせいなのに、その終わりも見届けたいという気持ちも強くなっていることにも怯えてる、すごく。
春日。
あいつは一体なんなんだろう。
『転生』記憶なんて信じない。
人間が生死を繰り返すことも、同じことをやっていることも信じたくない。
ひょっとして、春日はとんでもないペテン師か何かで、僕のことやリカのことも、実は単に僕より先にリカと知り合っていて、いろいろと聞いていただけのことじゃないのか。
春日は単に頭の切れる、探偵ごっこの好きなオカルト野郎で、その手管にまんまとのせられているだけじゃないのか。
道斗さんの話だって、孫の特殊な力を誇りたい、一風変わったじいさんだと思えば説明がつく。そのほうが、春日が『転生』の記憶を蓄えている不思議な男で、他人の問題や過去を知っていて、未来もまた理解できるなんて考えるより、よっぽどありそうな話じゃないか。
そう考え直すと、少し元気が出てきた。
人間は『転生』を繰り返すだの、夢が『転生』の記憶で特殊な意味を持っているだの、この世界は基本的に夢でしかないだの、それぞれのテーマをクリアしなければ果てしなく同じことをやり続けるだのと考えるより、よっぽどポジティブでリアリティがある話じゃないか。
勢いをつけて、もう一度歩きだす。
そうだそうだ、怯えることなんてない。春日に会ったら、いいかげんにしろと言ってやればいい。サイコな付き合いは真っ平だと。
でも、それなら、あのよしのと俺の夢の異様な現実感はどこからきている、と声がささやいた。
リカに重なって見えたよしの、僧に入れ替わった春日、そして、偶然にしてはあまりにもそっくりなこの状況の繰り返し。
坂の頂上がゆっくり見えてくる。歩道に二人の人間が立っている。
風が激しく吹いてきた。
パンドラの箱が転がって蓋が開いたばかりだと僕が気づくのに、そう時間はかからなかった。
駅の改札を抜け、電車に乗り込んで、春日の家に近づくに従って、ことばは僕の中で重さを増した。この前よりは一層鮮やかで目を奪う緑が、南高杉の駅にも、そこから続く道の両側にもあふれている。
きっと、リカは春日の所へ行ったんだ。
そう、僕は思った。
相変わらず静まり返った住宅地の中を、一本の坂が貫いている。その坂を、今度は力をいれて一歩一歩踏みしめながら上っていたつもりなのに、だんだん感覚がぼんやりしていくのがわかった。
この前。
よしの、は僧を訪ねてはいなかったはずだ。僕も右手を切られて海に落ちたから、あの後僧を訪ねていない。
今度は少し、道が変わったのかもしれない、そう思って我に返る。
何を考えているんだろう。
夢の話だ。ただの夢。ただの妄想。
僕が春日を訪ねるのは、リカと春日の関係をはっきりさせるためで、夢の何かを確かめるためなんかじゃない。春日のおかしなやり取りに毒されて、だから、こんな物騒なことに巻き込まれて、右手にしなくていい怪我までして。
春日と関わらない方が良かったんだ。あの日、『グラン・ブルー』に春日が何を言おうが、無視すればよかった。
だけど、と小さな声がした。
春日の前で黙って座っていた夕暮れは、不思議にほっとしたよな。春日の家で食べた昼飯がうまかったよな。それに、保健室で僕はどうしてあれほど泣いたのか。
春日がわかってくれたせいだ。
僕がずっとがんばってきた、と春日は言ってくれた。誰も気に止めてくれなかった僕の気持ちを、春日は丁寧にすくい上げてくれた。だから、僕は安心できた。安心したから、泣けたんだ。
それに、どちらかというと、春日は僕を拒んだじゃないか。
声は低くささやいた。
関わるな、関わりたくないと言っていた。夢の話もしたくない、と。
僕は吐息をついた。
図書室でリカと夢の話をしてから一週間もたっていないのに、一体何が起こったんだろう。
何かが起こって何かが変わって、そのせいで僕は今、それまでわかりきっていると思っていた世界の端っこで、見たこともない光景を突きつけられている。
力をいれて歩き過ぎ、息が切れて立ち止まり、呼吸を整えた。坂の頂上が近づくにつれて、自分が怯んでいくのがわかる。どんどんとんでもないことを見るはめになったのは、きっと春日のせいなのに、その終わりも見届けたいという気持ちも強くなっていることにも怯えてる、すごく。
春日。
あいつは一体なんなんだろう。
『転生』記憶なんて信じない。
人間が生死を繰り返すことも、同じことをやっていることも信じたくない。
ひょっとして、春日はとんでもないペテン師か何かで、僕のことやリカのことも、実は単に僕より先にリカと知り合っていて、いろいろと聞いていただけのことじゃないのか。
春日は単に頭の切れる、探偵ごっこの好きなオカルト野郎で、その手管にまんまとのせられているだけじゃないのか。
道斗さんの話だって、孫の特殊な力を誇りたい、一風変わったじいさんだと思えば説明がつく。そのほうが、春日が『転生』の記憶を蓄えている不思議な男で、他人の問題や過去を知っていて、未来もまた理解できるなんて考えるより、よっぽどありそうな話じゃないか。
そう考え直すと、少し元気が出てきた。
人間は『転生』を繰り返すだの、夢が『転生』の記憶で特殊な意味を持っているだの、この世界は基本的に夢でしかないだの、それぞれのテーマをクリアしなければ果てしなく同じことをやり続けるだのと考えるより、よっぽどポジティブでリアリティがある話じゃないか。
勢いをつけて、もう一度歩きだす。
そうだそうだ、怯えることなんてない。春日に会ったら、いいかげんにしろと言ってやればいい。サイコな付き合いは真っ平だと。
でも、それなら、あのよしのと俺の夢の異様な現実感はどこからきている、と声がささやいた。
リカに重なって見えたよしの、僧に入れ替わった春日、そして、偶然にしてはあまりにもそっくりなこの状況の繰り返し。
坂の頂上がゆっくり見えてくる。歩道に二人の人間が立っている。
風が激しく吹いてきた。
パンドラの箱が転がって蓋が開いたばかりだと僕が気づくのに、そう時間はかからなかった。
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