『ドリーム・ウォーカー』

segakiyui

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9.解ける絆(2)

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 リカが微かによろめいた。頬を赤く染めた横顔に乱れた髪がかかっている。握ったこぶしは白く色を失っている。
 春日は顔の半分を覆ってしまった前髪を払いのけようともしなかった。ものを見るのに視力なんて使う必要がないという感じだ。
「悪いことなんて……してないわ」
 リカが小さくつぶやいた。
 まるで九つか十の女の子のような声だった。
「ママは幸せになるし…和樹にはGショックあげられるし…」
「君は?」
 春日が静かに尋ねた。
「あたし…あたしは…」
 リカがふらふらと頼りなげに体を揺らせる。
「あたしも…幸せよ……お金も入るし……好きなことできるし…あんたに…あんたに!」
 ぐいとリカはもう一度体に力を入れ直した。
「あんたにあたしを裁く権利なんてないでしょ! あんた、神さまか何かのつもり?」
 春日は目を閉じている、そんな気がした。
 目を閉じ、けれど逃げないで、閉じたまぶたと乱れた髪の向こうから、何かを見ている。
「ぼくは裁いてなんかいない」
 春日は淡々と言った。
「ぼくは尋ねているだけだ、君は幸せなのか、と」
 ふう、と何か不思議な気配が春日の中に動いた感じがあった。
 リカが怯えたように後じさりする。その畏怖といってもいい恐れを、僕も感じた。
 巨大な炎が目の前に突然現れたみたいに、リカと同じように体が固まった。
「ぼくは心配しているだけだ」
 今度は深い憐れみをたたえた声、リカをそっと抱きとめるような、温かみのある声だった。
 じり、と僕の胸の奥で、何かに小さな火が点く。
「心配?」
 リカがまた少し、後じさりする。
 春日は追わない。動く気配もない。
「君は悪いことをしていない。君は回りを幸せにして、うまくやっているという」
 春日の声はいよいよ深い。
「では、なぜ、夢に襲われている?」
 ひくっとリカが息を吸って凍りついた。僕も同じ衝撃を感じ取った。
 春日の中に立ち上がった存在を、僕は知っている。
 今までいるとさえ思っていなかった、何か手の出しようもないほど大きなものが、すぐ目の前、手さえ触れられそうなところに、人の形を取っている。
 圧倒的な存在感になぎ倒されそうだ。
 リカは小刻みに体を震わせながら、なおも数秒、春日の前で耐えていた。だが、それが限界だったのだろう、突然身を翻した。
 隠れる暇なんてなかった。振り向いたそのとたん、リカと僕の目があった。
「あっ…ああっ」
 意味不明の声がリカの唇から漏れた。
 僕は動けなかった。
 リカがくるっと白目を剥いた。バランスを失って不安定に体を泳がせる。と、それまで全く動かなかった春日が、まるで舞うような優雅さで斜めに傾いでいくリカの体を抱きとめた。受け止めるや否や、気を失ってしまったらしいリカを軽々と抱き上げる。
 リカの花柄のワンピースが再び吹き始めた風にあおられた。長い髪が春日の体にまとわりつく。夢の中のようなあやふやな動きで、リカが春日の胸にすがるように手を伸ばした。それを春日が抱え込む。
 春日の腕の中で、リカは幼い少女に見えた。
 あれが、リカの本当の姿なんだ。
 ふいに、僕は気がついた。
 ピカピカしてきらきらして生き生きしていたリカ、僕の前で笑っていたリカは、全部偽物だったんだ。
 僕の前にいたリカは、リカが僕に見せたかった幻。
 僕が、リカに見せたかった僕を必死に演じていたように。
 けれど、今春日の前で泣きわめき、そして抱かれているリカは、リカが誰にも見せなかった、でも、本当のただ一人のリカ。
 あのリカを僕は知らなかった。僕の前で、リカはあんな姿は見せてくれなかったから。
 そして、これからも、リカは決して本当の姿を見せないだろう、この一瞬、春日の腕にいる一瞬をのぞいては。
 笑うよしのの顔が揺らめくように視界に入ってきた。
 よしの。
 よしの。
 本当は、俺に笑ってほしかった。俺に怒ったり、だだをこねたり、我がままを言ったりしてほしかった。俺だけに甘えてほしかった。
 本当は、別れを覚悟していた。最後に、よしのの笑った顔をもう一度だけ見たかった。
 だからこそ、追っ手がいる家に戻ったのだ。
 あのまま逃げれば死なずに済んだものを。
 本当は。
 よしの。
 おまえの中に何があってもよかったんだ。それを見ないようにするから。だから、俺の側に居てくれ。ほんの一瞬笑ってくれ、俺に。
 けれど、よしのは笑わない。笑ったのは、田島の腕の中だけ。
 リカは見せてくれなかった、本当のリカを。見せたのは、春日の腕の中だけ。
 僕の前じゃなくて。
「春日!」
 僕が居るのを無視するみたいに、リカを抱いてそのまま家の中へ入って行こうとする相手に、僕はわめいた。
 春日が歩を止め、振り返る。風が舞い、春日の前髪を吹き上げる。
 不可思議な色に澄んだ春日の瞳が僕を凝視する。
「リカに何をした!」
 僕は叫んで、凍りついていた足を一歩前へ踏み出した。
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