1 / 48
『山椿』
しおりを挟む
その日、雪が積もった職場の庭に、点々と転がり落ちていた薮椿。
『圭吾は自殺しました』
奈保子の声がゆっくりとしみ込む頭を、鮮やかな紅が侵す。
『返してっ。圭吾を返してっっ』
響き渡る、奈保子の泣き声。
『御恩に報いたいと思ってるんだ』
静かな決意を秘めた圭吾のつぶやき。
蘇ってくるのは。
くまのぬいぐるみを前に、じっと座っている夜。
同じ夜の光景があった。
高校生になったばかりの、冬。
ずっと気になっていた。
微かな曇り。
胃の辺りに濁った暗い靄。
『最近、すぐお腹が減るんだ、なのにいっぱい食べられなくて』
笑う顔。
『歳なのかな、ちょこちょこ摘んで食べるんだ』
家の近くのお寺に住み込むおじいさん。
住職さんは僧職だけれど気が荒い。
参拝者が途絶えぬのは、庭を静かに掃除する人の優しさのせい。
紅葉が散り山茶花が散る中で穏やかに微笑む顔の柔らかさ。
逃げたかった、力から。
見なくていいものばかり見る。
知らなくていいことばかり知る。
説明してもわからない。
伝えたくともことばがない。
家族を思って堪えて夜闇の中で泣く。
どうかもう連れていって。
どんな闇でも構わないから。
空が高いと哀しくなるの、遠くてとても戻れないから。
『じゃあもう少しここにおいで』
雨が降るとほっとする、気の迷いだってごまかせる。
『眼を閉じることもできないんだね』
幸福そうな人に傷みを見るのが辛くて苦しい。
きっと私は間違って生きている。
『よしよし』
今にきっと、いいことが、ある。
嬉しくて、大切で、だから言えなかった。
おじいさん。
そこにおかしな曇りがあるの。
どうか気をつけて。
そのたった一言。
高校生活は楽しかった。
仲間に囲まれ、ひょっとしたらと期待した。
私が私でいてもいい?
そうやって夢中で生きてて、思い出したのは通りがかった店先のくま。
小さな孫娘を失って、そうして寺にお世話になるようになった。
話した老人の部屋に飾られていた古ぼけたくま。
おじいさん。
喜んで。
私、少し元気になった。
ここで生きていけるかもしれない。
そう思えるようになった。
話に行って気がついた。
荒れた庭、点々と放り出されたままの、花ごと落ちた薮椿。
死んだよ、胃が悪かった。
自分でも食の細さに気付いてたくせに、医者にかからなかったのが災いしたんだ。
小馬鹿にして笑う住職に立ち竦む。
私は、知っていたのに。
私は、わかっていたのに。
ぼたりと落ちた椿の真紅。
まるで自分の心臓を削ぎ落とされたみたい。
違ったんだ、逃げてたんだ。
傷みから逃げて。
苦痛から逃げて。
それがこの結果。
なら、次は逃げない。
頑張って、逃げない。
圭吾と逢って、何度も泣きそうになる。
たとえば『御恩に報いたい』。
たとえば『ぬいぐるみのくま』。
おじいさん、いいことがあった。
今度は逃げなかったからかな。
温かな人に逢った。
おじいさん、見えてる?
私、笑ってるでしょ?
けれど。
けれど。
薮椿。
雪の上に落ちた紅。
部屋に残ったぬいぐるみのくま。
痛かった、圭吾?
辛かった、圭吾?
私が私で居ることで、あなたを殺してしまったんだよね?
ごめんね。
ごめんなさい。
どうして私は生きてるのかな。
こんなに虚しい能力抱えて。
くまを抱いて、そっと家を抜け出して。
心配する弟や父母の目を欺くなんて容易いこと。
そんなふうに力を使ったことはないけど。
きっとこれ以上、生きてちゃいけない。
おじいさん。
私のいいことは、人を殺してしまうようなことでした。
どこがいいかなと探していたときに、ふと覗き込んだ家の庭に息を呑む。
白い砂の上に鮮やかに撒かれた紅の花。
『綺麗でしょう』
唐突に声をかけてきたのは、そこに居た老婆。
柔らかな笑みはあの日のままで。
優しい声で、そのまま置いてあるのですよ、と続けた。
『落ちてなお綺麗でしょう、あんな風に生きたいと思いましてね』
落ちて、なお。
生きたいです。
ごめんなさい。
生きたいんです。
人を傷つけても、それでもなお、生きたいんです。
なんて酷い願いでしょう。
でも、そうしてしか生きられないなら。
『ああ、ほら、見なさい』
老婆が指差す。
落ちた椿を包むかのように散る白い山茶花。
『珍しいこと、めったにないことですよ』
まるであなたのために散ってきたようですね。
『だから諦めてはいけないんですよ』
静かに静かに諭されて。
泣いた。
くまを連れ戻った。
一緒に行こう。
忘れないために、逃げないために。
自分の弱さに怯まないために。
最後の最後まで諦めないために。
失った人の命を背負って生きるために。
私は、私の傷みを漏らさない。
最後に落ちるその時まで。
我一代の命でも、きっと意味がありますよね?
だからこの先ずっと一人で行く。
雪に落ちれば本懐。
たとえ泥に沈むとも。
たとえ土に埋まるとも。
踏みにじられても花で居る。
命を貫く、花で居る。
『圭吾は自殺しました』
奈保子の声がゆっくりとしみ込む頭を、鮮やかな紅が侵す。
『返してっ。圭吾を返してっっ』
響き渡る、奈保子の泣き声。
『御恩に報いたいと思ってるんだ』
静かな決意を秘めた圭吾のつぶやき。
蘇ってくるのは。
くまのぬいぐるみを前に、じっと座っている夜。
同じ夜の光景があった。
高校生になったばかりの、冬。
ずっと気になっていた。
微かな曇り。
胃の辺りに濁った暗い靄。
『最近、すぐお腹が減るんだ、なのにいっぱい食べられなくて』
笑う顔。
『歳なのかな、ちょこちょこ摘んで食べるんだ』
家の近くのお寺に住み込むおじいさん。
住職さんは僧職だけれど気が荒い。
参拝者が途絶えぬのは、庭を静かに掃除する人の優しさのせい。
紅葉が散り山茶花が散る中で穏やかに微笑む顔の柔らかさ。
逃げたかった、力から。
見なくていいものばかり見る。
知らなくていいことばかり知る。
説明してもわからない。
伝えたくともことばがない。
家族を思って堪えて夜闇の中で泣く。
どうかもう連れていって。
どんな闇でも構わないから。
空が高いと哀しくなるの、遠くてとても戻れないから。
『じゃあもう少しここにおいで』
雨が降るとほっとする、気の迷いだってごまかせる。
『眼を閉じることもできないんだね』
幸福そうな人に傷みを見るのが辛くて苦しい。
きっと私は間違って生きている。
『よしよし』
今にきっと、いいことが、ある。
嬉しくて、大切で、だから言えなかった。
おじいさん。
そこにおかしな曇りがあるの。
どうか気をつけて。
そのたった一言。
高校生活は楽しかった。
仲間に囲まれ、ひょっとしたらと期待した。
私が私でいてもいい?
そうやって夢中で生きてて、思い出したのは通りがかった店先のくま。
小さな孫娘を失って、そうして寺にお世話になるようになった。
話した老人の部屋に飾られていた古ぼけたくま。
おじいさん。
喜んで。
私、少し元気になった。
ここで生きていけるかもしれない。
そう思えるようになった。
話に行って気がついた。
荒れた庭、点々と放り出されたままの、花ごと落ちた薮椿。
死んだよ、胃が悪かった。
自分でも食の細さに気付いてたくせに、医者にかからなかったのが災いしたんだ。
小馬鹿にして笑う住職に立ち竦む。
私は、知っていたのに。
私は、わかっていたのに。
ぼたりと落ちた椿の真紅。
まるで自分の心臓を削ぎ落とされたみたい。
違ったんだ、逃げてたんだ。
傷みから逃げて。
苦痛から逃げて。
それがこの結果。
なら、次は逃げない。
頑張って、逃げない。
圭吾と逢って、何度も泣きそうになる。
たとえば『御恩に報いたい』。
たとえば『ぬいぐるみのくま』。
おじいさん、いいことがあった。
今度は逃げなかったからかな。
温かな人に逢った。
おじいさん、見えてる?
私、笑ってるでしょ?
けれど。
けれど。
薮椿。
雪の上に落ちた紅。
部屋に残ったぬいぐるみのくま。
痛かった、圭吾?
辛かった、圭吾?
私が私で居ることで、あなたを殺してしまったんだよね?
ごめんね。
ごめんなさい。
どうして私は生きてるのかな。
こんなに虚しい能力抱えて。
くまを抱いて、そっと家を抜け出して。
心配する弟や父母の目を欺くなんて容易いこと。
そんなふうに力を使ったことはないけど。
きっとこれ以上、生きてちゃいけない。
おじいさん。
私のいいことは、人を殺してしまうようなことでした。
どこがいいかなと探していたときに、ふと覗き込んだ家の庭に息を呑む。
白い砂の上に鮮やかに撒かれた紅の花。
『綺麗でしょう』
唐突に声をかけてきたのは、そこに居た老婆。
柔らかな笑みはあの日のままで。
優しい声で、そのまま置いてあるのですよ、と続けた。
『落ちてなお綺麗でしょう、あんな風に生きたいと思いましてね』
落ちて、なお。
生きたいです。
ごめんなさい。
生きたいんです。
人を傷つけても、それでもなお、生きたいんです。
なんて酷い願いでしょう。
でも、そうしてしか生きられないなら。
『ああ、ほら、見なさい』
老婆が指差す。
落ちた椿を包むかのように散る白い山茶花。
『珍しいこと、めったにないことですよ』
まるであなたのために散ってきたようですね。
『だから諦めてはいけないんですよ』
静かに静かに諭されて。
泣いた。
くまを連れ戻った。
一緒に行こう。
忘れないために、逃げないために。
自分の弱さに怯まないために。
最後の最後まで諦めないために。
失った人の命を背負って生きるために。
私は、私の傷みを漏らさない。
最後に落ちるその時まで。
我一代の命でも、きっと意味がありますよね?
だからこの先ずっと一人で行く。
雪に落ちれば本懐。
たとえ泥に沈むとも。
たとえ土に埋まるとも。
踏みにじられても花で居る。
命を貫く、花で居る。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる