『闇を闇から』番外編

segakiyui

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『七つの海を渡っても』

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「七海」
「……明さん」
 くたりと熱い体を横たえていたのを起き上がろうとしたら、指を絡められてそっと引き上げられる。辿りつくのは柔らかな唇。人さし指、中指、薬指、親指、それから。
「あ…」
 結婚が決まってからは儀式のようになっている小指を軽く含まれて、七海は体を強ばらせた。
「まだだめ?」
「だって」
 くすりと明が指先で笑い、やがて顎に触れてきて唇を重ねられる。
「ん…」
 風邪。
 移っちゃう。
 抵抗する気はないけれど、引き起こされながら抱き込まれて胸を合わせられると。
 とんとんとんとん。
 いつもより少し早くなった明の鼓動が伝わってきて拒み切れなくなる。
 ほしい、ほしい、と囁かれるようで。
「ん、ん」
 唇を開かされて舌でいたずらされて。眉をしかめると、そっと口を離した明が静かに尋ねてくる。
「…大丈夫?」
「うん…」
「……熱は下がったね」
「あ…っ」
 胸を撫でられ、そのまま下腹へと手を滑らされかけて慌てる。
「だめっ」
「どうして?」
 熱は下がったんだろ?
「だって、また上がったら」
 せっかくお義姉さん達来て下さるのに、またお断りしなくちゃならなくなっちゃう。
「お義父さんやお義母さん、美並さんのお相手、楽しみに待ってらしたのに」
「馬鹿、七海」
 そんなの、俺のせいですって言っておけばいいのに。
 明の指がきわどいところをうろうろするのを必死に防ぐ。
「で、でも」
 私だって早く美並さんに決まった人ができてほしい。
 そう思った瞬間に、自分の熱の原因に気付いて情けなくなる。
 たぶんこれは嫉妬。
 明がかけがえなく大事にしている姉という女性の存在を、受け止めたつもりでまだ納得しきれていない。
 身内なのに、血が繋がっているのに。
『美並の肘に傷があるんだ』
 いつか話してくれた切なそうな声。
『野犬に襲われて、犬の口に腕突っ込んで川に飛び込んで、何とか助かったときの傷』
 普段は見えない、誰も気付かない。
『でも、俺には見えるから』
 いつもいつも傷だらけで。
 見えないところで切り刻まれるような思いして、なのにそれでも優しくて強くて。
『大切な、大切な人なんだ』
 甘い声に聞きそびれた。
 私とお姉さんとどちらが大事?
 私とお姉さんが同時に命の危険に晒されたなら、あなたはどちらを助けるの?
 美並。
 そう答えが戻ってくるに違いない。
 だって。

 七海が明のことを初めて知ったのはバスケットボールの試合に連れていってもらったときだ。
 凄いプレーヤーが居るのよ、でもプロにはならないんだって。
 そう友達に説明されて、でもそんなの誰だかわからないじゃない、と笑い返した。
 見えないくせにバスケットやバレーボールの試合は大好きだった。
 人々の歓声、熱気、興奮した叫び声、ボールの跳ねる音、走り回る足音、会場に満ちるエキサイティングな振動、そのリズム。
 きっと他から見れば、一体何をしに来てるんだと思われただろうけれど、一試合一試合違うそれは、まるで交響組曲のようで。
 ホイッスルが鳴るとどきどきする。沈黙と緊張。いつ始まるんだろう、どう動くんだろう。
 無意識に指先でリズムを取り、体を揺らして響き渡る音の世界を堪能する。
「?」
「どうしたの、七海」
「あれ、誰?」
「え?」
「ほら、今……あっちに走って、ほら、飛んで、すぐ戻って」
 ああ、凄く速い。
 気付いたのは自分の心音とリズムが似ているドリブル音。雑多に乱れる音の中で、それだけが正確無比、しかもあっという間に場所が移動していく。同時に響くはずの足音がまるでその伴奏のようで。
 追いかけられる、ただ一人だけ。
「凄い……すごい」
「へえ、わかるんだ」
「わかる?」
「あれが伊吹、明」
「いぶき、あきら」
 それからずっとその足音とドリブル音だけ追いかけていた。凄まじい速さでコートを移動するけれど、止まる場所が一定のラインを作るから、七海の頭の中に容易く四角い平面が描かれる。明がジャンプする高さに他の誰もついてこないから、そこを頂点として空間が立ち上がる。時折、その空間を突き破るような歓声の前に、はっ、と短い呼吸音が聞こえてくる気がする。
 きっと、明、という人の。
 そう思った瞬間に、恋に落ちた。
「すごかったでしょう? すごかったよね、いぶき、さん」
 体が熱くてとても嬉しい。一緒にコートを走り回ったようで、区切りのない空間に四角く切り取られたバスケットコートに明の軌跡が煌めきながら漂っている。それがとても美しい。
「こんなの初めて、すごい」
「七海?」
「すごい…なあ……」
「七海…っ」
 ぼろぼろと零れてきたのは涙。
 叶うわけがない。
 願うこともできない。
 自分にない世界をあれほど縦横無尽に駆け抜ける人を、どうやって魅きつけられるだろう。七海のアプローチは触れること、声を交わすことから始まるのに、その距離にどうやって近付けるというのだろう。
「しなちゃん…」
「何」
「………女の子ってつまんないよ…」
「……七海…」
 優しい人だと聞いた。明るい人だと聞いた。ファンで満足できるなら、近付きもできる、ことばも交わせる。
 けれど七海の欲しい場所はもっと深くて熱い場所、それこそ明の心臓の側なのだ。
 手に入らない望みなら、最初からうんと遠い方がよかったのに。
「七……あ」
「どうしたの?」
「っ」
 体中の血が沸騰した。頭ががんがんして、その中でもはっきりと、近寄ってきた足音のリズムを聞き取っていた。
「何かあった?」
「伊吹、さん」
「その子……」
 振り向いた。何もかも忘れて、泣きながら訴えた。
「側に居て」
「え…っ」
「声、聞かせて」
 手を伸ばした。倒れてもいいから思いきり。足下に何かが引っ掛かって、それでも構わず両手を伸ばしたら、崩れた体を受け止めてくれたから、ぎゅっと服を掴んで叫んだ。
「心臓、ちょうだい…っ」
「……う…ぉい」
 びくりと震えた明がゆっくり体を抱き締めてくれて、泣き続ける七海の耳元に囁いたことばは。
「何、あんたゾンビなの、こんなに柔らかい体してんのに」
 いいよ、心臓あげるから。
「あんたは俺に一生くれなくちゃ」
 俺の心臓、高いんだ。

 あの時、俺も七海に落っこちたんだよね。
 明はそう笑ってくれるけれど、それでも結構勢いとか、そういうものはあったと思う。
 七海が見えないことを明が確認したのはその後で、ひょっとしたらその時に、明なりに思うことはあったのかもしれないけれど、発作的な求愛から我に返った七海が怯んでも、明はついに怯まなかった。
『一生くれるって言っただろ?』
 ただただ笑って、七海と交際を始め、渋る親に会ってくれ、やがて結婚を申し込んでくれて。
 でも。
 いいの?
 いいの?
 私でいいの?
 明を知るたびどんどん魅かれて、どんどん落ち込む。
 間違ったんじゃないの?
 失敗したんじゃないの?
 今ならまだ。
 結婚する前ならまだ。
 明と七海が付き合いだしたことをよく思わない連中は居て、通りすがりに言ってよこしたことばがある。
『七海って皮肉よねえ。七つの海に囲まれてて、誰も辿りつけないって意味じゃないの』
 顔が見られないから。
 名前が告げられないから。
 絶対の安全圏から放たれた矢。
 比べても仕方ないことなのに、それでも比べてしまう、明の中に光り輝く美並という存在と、自分のどちらを選ぶのだろうと。
「あき…ら…っ」
「いい、声」
 探られて息が上がる。すがりつく腕にこのまま体で落とし込めたらとそんなことまで考えてしまう。
 狡い。
 狡い。
 私は狡い。
「や…っ」
「七海」
 もっと声聞かせて?
「あ…あっ」
「七海」
 明の弾む息に出会いを重ねる。一生をあげる、何でもあげる、だからどうか側に居て、美並さんより私を選んで、誰よりもどうか。
「七海?」
「…んっ」
「……きつい?」
「……うう、ん」
「………嘘つきだな」
 きついんじゃないか、ほら、汗びっしょり。
 手を止められて体が弛んだ。ほっと息を吐くのをそっと抱え込まれて、やっぱり情けなくて涙が出る。
「明、さん」
「七海が気持ちいいときはもっと甘い匂いがするから」
「…やだ…っ」
「何、考えてたの」
「………」
「七海?」
「……何も」
「隠し事はしないって約束したろ?」
「……なに、も」
「………美並のこと?」
「え…?」
「図星かあ」
 明がくすりと笑う。
「七海、ちょっと京介に似てるなあ」
「きょう、すけ?」
「美並の彼氏。完璧尻に引かれてる……っていうか」
 美並なしじゃ生きてられないってか?
 くすぐったそうに笑う明にまた力が抜ける。
「ほら」
「?」
「七海の体が一番正直」
「……やだ」
 でも、そういう人が彼なら美並さんだってもう安心よね、そう思った七海に、明がぽつりと呟いた。
「大丈夫だよ」
「え」
「たとえ姉弟じゃなくっても、俺は美並を恋人にしない」
「……どうして」
「……俺は結局美並に甘える。無理させても追い詰めても、最後は俺の願いを聞いてくれるって思ってる」
 それって恋人の場所じゃないんだ。
「でも、京介は」
 一瞬口を噤んだ明が、そっと静かに口づけてきた。
「美並を守るために死んじゃうよ」
「そう、なの?」
「っていうか」
 よいしょ、と明が七海を横たえて自分もごろりと横に寝そべる。
「美並が死んだら京介に生きてる意味がなくなっちゃうから、どっちだって同じだって考えるだろうなあ」
 ほんとアブナイ男だよ、あれは。
「ふう…ん」
 またキスされて、七海は再び動きだした明の手をそっと受け止める。
「俺だって同じだけど?」
「……同じ…?」
「七海が俺の目の前から消えたら」
「……」
「探し回る」
 それこそ、七つの海を渡っても。
「あき…」
 溢れた涙と声をあっという間に吸い取られて、七海は熱い明に開かれる。

 翌朝、再び七海が熱を出して、やってきた美並に明が部屋から追い出されたのは御愛嬌。
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