『俺の死んだ日』〜『猫たちの時間』8〜

segakiyui

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2.夢少女(3)

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 お由宇がタクシーを降りたのは、自分以外は来ていないだろうと思った事故現場に人影があったせいだけではなかった。その人影が妙に頼りなげで、影が薄く見えたからだ。
(まさか、この前事故があったところで、自殺なんかしないだろうけど)
 数歩近寄って、それがまだ少年の域を出ていないように見える男なのに気づいた。
 ガードレールが捻じ曲がり海へ突き出した花弁のようになっている、そのぎりぎりの場所に、少年は物憂い様子で立っている。焦げ茶の三つ揃いのスラックスのポケットに両手を突っ込み、寒そうに肩を竦めるでもなく、何を見ている様子でもなく、冷え込んでくる風にただ吹かれながら、茫とした視線を海に投げている。
 風が強く吹きつけてその体を押す、と、まるでそれに逆らい難い力でもあったように、少年が一、二歩前へ進んで、お由宇はぎょっとした。あと一歩進んでいれば、支えを失って青黒い水に吸い込まれていたのは間違いないだろうに、少年はそれに気づいていない様子だったのだ。
(周一郎)
 お由宇はもう少し近寄り、それがまぎれもなく朝倉周一郎なのに気づいた。だが、サングラスをかけていない。風が髪を巻き上げ、端正な顔に乱れさせている。払おうともせず、周一郎は遠い目をして、眼下に砕ける波濤のあたりを見つめている。顔からは表情らしいものが一切なくなってしまっている。虚ろな幼い顔つきだ。
「周一郎君?」
 お由宇はゆっくりと声をかけてみた。一瞬ぎくりと相手の肩が強張り、次には驚くほどの速さで緊張を解き、周一郎はお由宇に向き直った。
「お久しぶりです、佐野さん」
「妙なところで会ったわね」
「妙な所? ああ、そうかも知れませんね」
 淡い微笑が周一郎の唇に浮かび、ほんの一瞬、周一郎は海へ視線を向けたが、すぐに振り向いてお由宇を凝視した。
「あなたはどうして?」
「志郎の供養、ということにしておいてくれる?」
 お由宇は手に持っていた小さな花束を見せた。初めてそれに気づいたように、は、と小さな笑い声を上げ、周一郎はゆっくり繰り返した。
「あ…あ、滝さんの…供養…」
「そう」
 お由宇は崖っぷちまで進み、花束を持った手を少し揺らせて海へと投げた。鮮やかな色合いの花弁が、落ちて行きながら風に舞い、広がり、パラパラと水面に散る。
「花…なんて……ぼくが……花なんて…」
 微かな呟きに周一郎を見ると、相手は眉をひそめ下唇を嚙んでいた。やがて、無防備な感情を出すまいとするようにきつく目が閉じられ、唐突にくるりと周一郎は海に背を向けた。
「あなたも…滝さんが死んだと思うんですか?」
 低い声で問いかけてくるのに、お由宇は頷いた。出来るだけ暗い声を装って応じた。
「あの事故ではね……事故の時はかろうじて生きていても…」
 お由宇の目に、見えない潮流に引き裂かれていく花束が映る。
「この海に落ちたなら…駄目だったでしょうね。無傷で落ちたとは…思えないし」
「そう…ですよね…」
 柔らかな声音にお由宇は呆気にとられて周一郎を見返した。これが本当に『あの』朝倉周一郎なのか。視線をサングラスで遮ることも忘れたように、周一郎はお由宇をまっすぐ見つめている。
「…僕の家に」
 気を取り直したように周一郎がことばを継いだ。
「まだ滝さんの持ち物がありますけど……どうしますか?」
「そうね……一応全部受け取りに行くわ。渡したほうがいい人を知っているから」
「…はい」
 一瞬何か言いたげに口を開いた周一郎は、結局それ以上は続けず、一言で同意した。
「何か、受け取りたい物がある?」
「いえ、僕は! ……僕は……何も……」
 その時、2人の横を通り過ぎた者があった。細いタイヤのロードバイクに乗った青年だった。
 一瞬、周一郎がびくっと体を震わせて目で追い、次の瞬間、泣き笑いのような表情になった。
「あ…は」
「周一郎君?」
「そうだ…滝さんは……自転車なんて…持ってなかった……ん…だっけ…」
 呟いた周一郎は置き去られた子どものように、いつまでも走り去ったロードバイクの姿を見つめていた……。

「今、思い出すとね」
 お由宇はコーヒーカップを口元に運びながら、続けた。
 ソファにずり上がった俺も無言でカップを傾ける。
 コーヒーの苦さが、さっきから感じている心の苦さに重なって、重いものを心にのしかけてくる。
「そのロードバイクに乗っていた男、ジーパンTシャツで、髪も切る前のあなたぐらいだったわ」
「…」
 最後の一口を無理やり一気に喉に流し込んだ。
「お由宇」
「ん?」
「俺、急に死にたくなったんだが」
「そう言うと思ってたわ」
 溜め息混じりに、俺に合わせて立ち上がる。
「でも、今あなたに死んでもらうと困るのよ。付いていくわ。周一郎なら、あなたが無事だとわかってもお芝居できるだろうし……『休戦協定』を結ぶしかないわね」
 俺はサングラスを押し上げ、ドアに向かった。
 時計は23時を過ぎている。『化けて』出るにはまあいい時刻だろう。
 もっとも、生前より派手な格好で出てくる幽霊なぞ聞いたこともなかったが。
「でも、自覚はしておいてね。あなたは、春日井あつしがマイクロフィルムを渡したかも知れない重要人物なんだから、『十分死ねる』ってこと」
「それだ。あれ、結局、俺はあいつから受け取らないままだったん……!」
 ドアを開けた途端、俺は外からぐいっと腕を引っ張られてぎょっとした。つい素直に足がついて行ってしまい、ドアの外に引き摺り出される。
 バチン!!
「っっ?!」
 次の瞬間、嫌という程左頬を張り飛ばされた。
「…え?」「え?!」
 声を上げると異口同音に、どうやら張り飛ばしたらしい相手が、俺以上に素っ頓狂な声を上げる。左頬を押さえ、飛ばされかけたサングラスをもう一方の手で止めて、そっちへのろのろ向き直り、ますます呆気にとられた。
 目の前にいるのは、茶色がかったおかっぱ頭にふんわりしたフレアスカート、シュガーピンクのセーターの上からジャケットを羽織った、14、5歳の可愛い女の子で、薄茶の瞳をまん丸に開いて俺を見つめている。
「…あの…?」
 頬とサングラスを押さえたまま問いかけると、かあっと見る見る女の子は赤くなった。
「え…やだ…」
「やだ?」
「あの…あなた、椎我さんじゃ…ありませんよね」
「俺、木田史郎…ですけど」
 使い慣れない偽名を名乗ると、相手は耳まで真っ赤になって目を伏せ、ぺこんと頭を下げた。
「ごめんなさい! 人違いですっ!」
 そのままくるっと身を翻して走り去った後ろ姿を、振られた男よろしく、俺はぽかんと見送った。
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