7 / 31
3.周一郎(1)
しおりを挟む
『…きさん』
眠りの波の向こうから、俺を呼ぶ声が響いている。あたりの闇は、どこか甘い灰色がかっていて、幾重もの襞の間に声の主を隠してしまっている。
俺は、そこではないどこかにいて、その光景を見つめている。
『…きさん……どこ……?』
声は子どもっぽい素直な調子で、繰り返し俺を捜し求めた。声の合間に走る軽い足音、襞に吸収されて、ほんの一瞬しか聞こえないが、俺の耳には猫の走る音に聞こえた。
『滝さん……』
声は不安げに俺を呼んだ。呼ばれても、夢の中の俺は出て行こうとはしない。ただ、走り回っている少年の姿をじっと目で追っているだけだ。
『嘘だよね……滝さんが……死んでるはずないよね……』
少年は必死に周囲を見回しながら呟いた。顔の上半分には薄青に煙った水晶の仮面をつけていて、表情がよく見えない。
『そんな……ことないよね……ぼくのせいで……滝さんが死ぬなんて……こと……ないよね……?』
少年の唇が震えて、そうだとも、と答えてくれる主を捜し求めた。だが周囲は大劇場の舞台のカーテンのように重々しい光沢のある帳が下ろされ、恐る恐る差し出す少年の手を拒んでいる。
『滝さん……滝さん!』
ダーン!!
『!!』
いきなり響いた銃声に少年ははっと振り返った。帳がその部分だけ左右に引き上げられる。転がっている人間、肩から滲む紅の血潮…。
『た…!』
『滝さん!!』
呼びかけようとした少年の声を遮って、もう1つの声が響いた。帳の陰から走り出てくる少年、その顔には仮面をつけていない。呆然と立ち竦む仮面の少年の前で、後から来た少年、周一郎は、転がった人間の側に膝をつき、肩の紅に指を触れ、見る見る涙を溜めながら首を振った。
『いや…いやだーっ!!』
涙が煌めいて零れる。転がった人間にすがって泣き出す周一郎をじっと見つめていた少年の顔から水晶の仮面がずり落ちる。唇を少し開き、眉をひそめ、今にも泣き出しそうな表情……だが、その顔はすがりついている少年と同じ、周一郎だ。スローモーションで落ちた仮面が床と思われるあたりに当たって砕け散る。
『たき…』
構わず一、二歩進んで手を差し伸べた少年は、自分の指先もまたしとどに血に濡れているのに気づいて立ち止まった。手を引き寄せて見つめ、ぼんやりと、なおも転がっている人間にしがみついて肩を震わせているもう一人の周一郎に目を遣る。
突然、立ち竦んだ周一郎の唇が淡くほころんだ。ぞくりとするほど異様なものを秘めた微笑で、見ている俺の背中も寒くする。
立っている周一郎は両手をのろのろと降ろした。少し顔を背け、体を伏せて泣き続けるもう1人の自分を見ないようにする。状況にそぐわない明るい笑みは顔に張り付いたまま、まるで割れ砕けた水晶の仮面の代わりに、より精巧なマスクで顔全体を覆ってしまったようだ。
ポトリと指先から雫が滴って落ち、闇の中に鮮紅色の染みを作る。ぷつ。何かが切れたような音がして、周一郎の表情がより虚ろになったかと思うと、胸のあたりが横一文字に切り裂かれた。見る間に溢れた紅が彼の体を伝い降り始める。
(!)
さすがにそれまで傍観者でいた俺もぎょっとして、慌てて『舞台』へ駆け上がろうとしたが、実体がどこにあるやら身動き取れない。
いつの間にか、もう1人の周一郎の姿も転がっていた人間も消え、『舞台』の上には始めの周一郎1人が取り残されていた。笑みはそのまま、ポーズも変わらず、ただ足元に流した血だけが鮮やかにじわじわと広がっていく。赤と黒の強烈なトーンの中、まるで殺されるのを待っているような周一郎の姿は、ますます現実味(もっとも夢の中でも現実味と言うのかどうか知らないが)を失い、存在を消していきつつあった。
これ以上は我慢できない、こうなったら実体があろうとなかろうと、『ゆーれい』だろうと『ぼーれい』だろうと、絶対『舞台』の上に駆け上がり、あいつの頬を引っ叩いて、このバカやろうと怒鳴りつけてやろう。
決意を固めた俺の目に、前触れもなくいきなりつうっと周一郎の頬を光るものが伝うのが飛び込んだ。泣き顔ではない、端正すぎるほどの微笑、異様に明るい笑みを浮かべて彫像のように立っているのに、深さを失った瞳から唯一生きている証のように涙が零れ落ちていく。
(周一郎…?)
思わず立ち止まった俺の目が、再びあるものを捉えた。
帳の向こうにぼんやりと光が当たり、闇を割って1本の手が突き出される。続いてふくよかな胸、少し捻った腰、妙に優しい微笑を浮かべた顔が。
(陽子像!)
ぞっとする俺の目の前で、陽子像は生あるもののように、血濡れた剣を振り上げた。その顔が鈴音に変わる。振り降ろされた剣は真っ直ぐに周一郎の背中へと……。
(よせーっ!!)
眠りの波の向こうから、俺を呼ぶ声が響いている。あたりの闇は、どこか甘い灰色がかっていて、幾重もの襞の間に声の主を隠してしまっている。
俺は、そこではないどこかにいて、その光景を見つめている。
『…きさん……どこ……?』
声は子どもっぽい素直な調子で、繰り返し俺を捜し求めた。声の合間に走る軽い足音、襞に吸収されて、ほんの一瞬しか聞こえないが、俺の耳には猫の走る音に聞こえた。
『滝さん……』
声は不安げに俺を呼んだ。呼ばれても、夢の中の俺は出て行こうとはしない。ただ、走り回っている少年の姿をじっと目で追っているだけだ。
『嘘だよね……滝さんが……死んでるはずないよね……』
少年は必死に周囲を見回しながら呟いた。顔の上半分には薄青に煙った水晶の仮面をつけていて、表情がよく見えない。
『そんな……ことないよね……ぼくのせいで……滝さんが死ぬなんて……こと……ないよね……?』
少年の唇が震えて、そうだとも、と答えてくれる主を捜し求めた。だが周囲は大劇場の舞台のカーテンのように重々しい光沢のある帳が下ろされ、恐る恐る差し出す少年の手を拒んでいる。
『滝さん……滝さん!』
ダーン!!
『!!』
いきなり響いた銃声に少年ははっと振り返った。帳がその部分だけ左右に引き上げられる。転がっている人間、肩から滲む紅の血潮…。
『た…!』
『滝さん!!』
呼びかけようとした少年の声を遮って、もう1つの声が響いた。帳の陰から走り出てくる少年、その顔には仮面をつけていない。呆然と立ち竦む仮面の少年の前で、後から来た少年、周一郎は、転がった人間の側に膝をつき、肩の紅に指を触れ、見る見る涙を溜めながら首を振った。
『いや…いやだーっ!!』
涙が煌めいて零れる。転がった人間にすがって泣き出す周一郎をじっと見つめていた少年の顔から水晶の仮面がずり落ちる。唇を少し開き、眉をひそめ、今にも泣き出しそうな表情……だが、その顔はすがりついている少年と同じ、周一郎だ。スローモーションで落ちた仮面が床と思われるあたりに当たって砕け散る。
『たき…』
構わず一、二歩進んで手を差し伸べた少年は、自分の指先もまたしとどに血に濡れているのに気づいて立ち止まった。手を引き寄せて見つめ、ぼんやりと、なおも転がっている人間にしがみついて肩を震わせているもう一人の周一郎に目を遣る。
突然、立ち竦んだ周一郎の唇が淡くほころんだ。ぞくりとするほど異様なものを秘めた微笑で、見ている俺の背中も寒くする。
立っている周一郎は両手をのろのろと降ろした。少し顔を背け、体を伏せて泣き続けるもう1人の自分を見ないようにする。状況にそぐわない明るい笑みは顔に張り付いたまま、まるで割れ砕けた水晶の仮面の代わりに、より精巧なマスクで顔全体を覆ってしまったようだ。
ポトリと指先から雫が滴って落ち、闇の中に鮮紅色の染みを作る。ぷつ。何かが切れたような音がして、周一郎の表情がより虚ろになったかと思うと、胸のあたりが横一文字に切り裂かれた。見る間に溢れた紅が彼の体を伝い降り始める。
(!)
さすがにそれまで傍観者でいた俺もぎょっとして、慌てて『舞台』へ駆け上がろうとしたが、実体がどこにあるやら身動き取れない。
いつの間にか、もう1人の周一郎の姿も転がっていた人間も消え、『舞台』の上には始めの周一郎1人が取り残されていた。笑みはそのまま、ポーズも変わらず、ただ足元に流した血だけが鮮やかにじわじわと広がっていく。赤と黒の強烈なトーンの中、まるで殺されるのを待っているような周一郎の姿は、ますます現実味(もっとも夢の中でも現実味と言うのかどうか知らないが)を失い、存在を消していきつつあった。
これ以上は我慢できない、こうなったら実体があろうとなかろうと、『ゆーれい』だろうと『ぼーれい』だろうと、絶対『舞台』の上に駆け上がり、あいつの頬を引っ叩いて、このバカやろうと怒鳴りつけてやろう。
決意を固めた俺の目に、前触れもなくいきなりつうっと周一郎の頬を光るものが伝うのが飛び込んだ。泣き顔ではない、端正すぎるほどの微笑、異様に明るい笑みを浮かべて彫像のように立っているのに、深さを失った瞳から唯一生きている証のように涙が零れ落ちていく。
(周一郎…?)
思わず立ち止まった俺の目が、再びあるものを捉えた。
帳の向こうにぼんやりと光が当たり、闇を割って1本の手が突き出される。続いてふくよかな胸、少し捻った腰、妙に優しい微笑を浮かべた顔が。
(陽子像!)
ぞっとする俺の目の前で、陽子像は生あるもののように、血濡れた剣を振り上げた。その顔が鈴音に変わる。振り降ろされた剣は真っ直ぐに周一郎の背中へと……。
(よせーっ!!)
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
翡翠の歌姫-皇帝が封じた声【中華サスペンス×切ない恋】
雪城 冴 (ゆきしろ さえ)
キャラ文芸
宮廷歌姫の“声”は、かつて皇帝が封じた禁断の力? 翠蓮は孤児と蔑まれるが、才能で皇子や皇后の目を引き、後宮の争いや命の危機に巻き込まれる【詳細⬇️】
陽国には、かつて“声”で争い事を鎮めた者がいた。田舎の雪国で生まれ育った翠蓮(スイレン)。幼くして両親を亡くし孤児となった彼女に残されたのは、翡翠の瞳と、母が遺した小さな首飾り、そして歌への情熱だった。
宮廷歌姫に憧れ、陽華宮の門を叩いた翠蓮だったが、試験の場で早くもあらぬ疑いをかけられる。
その歌声が秘める力を、彼女はまだ知らない。
翠蓮に近づくのは、真逆のタイプの二人の皇子。優しく寄り添う“学”の皇子・蒼瑛(ソウエイ)と、危険な香りをまとう“武”の皇子・炎辰(エンシン)。
誰が味方で、誰が“声”を利用しようとしているのか。歌声に導かれ、三人は王家が隠し続けてきた運命へと引き寄せられていく。
【中華サスペンス×切ない恋】
ミステリー要素あり/ドロドロな重い話あり/身分違いの恋あり
旧題:翡翠の歌姫と2人の王子
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる