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17.しゃべり鳥(ライノ)(3)
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「ほぉ」
固まったユーノを見下ろし、アシャは微笑する。さっきまでの軽蔑ではない、跳ねるように熱をもって立ち上がってくる感情に、思わぬ褒美を得られるのだと理解した。
「なるほど」
「なるほど、って……アシャ」
呆然としていたユーノがはっとしたように瞬きする。
「そんなの、」
慌てた口調で言いかけ、途中で何に気づいたのか薄く赤くなって、視線を泳がせる。
「そんなの、ボク」
「どうなの、視察官(オペ)」
ライノは腕を組み、嘲笑うように声を張り上げた。
まともに呼称されてびくりとしたが、ユーノはそれには反応しない。
(やっぱり、聞かされているのか)
また薄寒い風が胸の底に吹き溜まる。
「それぐらいの代償は払いなさいな」
「男だけどね」
「いい気味」
「みっともない、そんな子に」
「ちゃんと唇にキスよ」
「頬や額じゃごまかされないわ」
思わぬアシャの攻撃に怯んでいたしゃべり鳥(ライノ)達が、地面に落ちて怯えている仲間のことを忘れたように、くすくす笑い出した。
「欲しいなら貪ってもいいけど?」
「あたし達が見てるけどね」
「ずっと見ててあげるわ全部」
「あ…しゃ…」
ユーノは不安そうな目で嗤うしゃべり鳥(ライノ)達を見回す。
「どう、しよう」
泣きそうな顔、さっきまで命の危険に晒されていた時の方がよほどきつかったはずなのに、どうしてキス1つでこれほどまでに不安がるのか。
(きっと)
好きな男が居るからだ。
アシャは軽く目を伏せた。
自分の瞳の中に浮かんだだろう、邪な喜びを読み取られたくなかった。
(好きな男が居て、そいつに操を立てようとも)
今ここに居て、ユーノの唇を味わい、彼女を助けられる立場に居るのはアシャだけだ。
体の内側が冷え冷えして寒い。
熱が欲しい。
直接に触れ合って得られる熱、知っているだけに、すぐに満たされるそれを想った。
「キスすればいいんだな?」
「アシャ!」
「ええそうよ、キスして扉を開けなさい」
それならあたし達も今回の無体は見逃してもいい。
いつの間にか地面に転がったしゃべり鳥(ライノ)達までもが、鳥籠の影からアシャがどうするのか興味津々と言った顔で覗いている。
「でも、だって」
「ということだ、ユーノ」
「何がっ」
「諦めろ」
「でも、アシャ!」
「永久にそこに居るか?」
彼女らと一緒に?
「う」
「一瞬のことだ」
アシャはゆっくり鳥籠に近寄りながら説得する。
「怖いのか?」
「こ、怖くなんかないっ」
「上等」
「うっ」
売りことばに買いことばでユーノが受けて引き攣ったのに微笑を深めた。
降ろされた鳥籠に近寄る。
「…おい」
近寄って改めて、ユーノの顔と言わず手の甲と言わず、見えているほんのわずかな皮膚に無数の傷がついているのに気がついた。
「何をされた…?」
声が一気に冷えるのがわかった。
問いかけは形だけだ。さっき鳥籠の中で吊り上げられていたのを見た。四肢を縛られ、棘だらけの籠に押し付けられているのも。まだ手足に絡んでいる金髪や、籠の中に散っている蔦や葉、引き裂かれたり穴が開いたりしている衣服、けれど何より胸を締めつけたのは、見上げてきたユーノの瞳が切なげに潤んでいたからで。
ごく、と自分が呑み込んだ唾に、沸き起こる妖しい感覚を堪えようとしているのを自覚する。
「え…?」
意味がわからないように瞬きする黒い瞳の中に浮かぶのは信頼、この間までは決して向けられることのなかった確かな訴えはアシャの背筋を甘く這い上がる。
「ひどい目に合ったんだろう」
自分を制するために早口になった。
「大丈夫か? 傷まないか?」
きっとうんとひどい目に合ったから、これほど頼りなげに見えて、アシャを求めているように感じるのだ。
けれどきっとユーノのそれは、いわゆる危機に追い詰められた激情で。
一時のもので。
制御しようと構築する理論を突き崩すように、小さく震えながらユーノが伸ばしてくる手を受け止める。
「う、うん。大丈夫、けど気をつけて、その棘、触ると痺れる」
ひどくか細く感じる掌。
「どうした、珍しく素直だな」
ユーノの声が甘くて柔らかい。
なぜ急にこんなに優しい口調になった?
なぜ急にこれほど心を委ねてくる?
棘のせいだよ、そういいつつ震えている手を握ると、ひきつったように必死に笑いかけてくる顔に、大きな何かが切れた。
ああ、だめだ。
もうだめだ。
「生きるためだ」
微笑む自分の顔に魔性は透けていないか。
「何なら目を閉じろ」
好きな男を思い浮かべればいい。
「う」
「仕方ないだろう?」
囁きながら、手を引き寄せ、籠ごしにユーノを抱きかかえる。
「あ…の…っ」
「口を塞げ。しゃべってると舌を噛むぞ」
揺れる鳥籠を言い訳にしたが、開かれていると中まで侵してしまいそうになるからで。
「でも、棘、刺さってる、アシャの腕まで傷つ…!」
びく、とユーノが震えて目を見開いた。両腕で隙間を押し広げるアシャを呆然とみやる。
「痛い…だろ?」
「わからん」
突き刺さる棘も甘美なだけ、蕩け始めた脳には届かない。未練がましくユーノの手足に絡みついている金髪は、彼女の感覚を盗みとろうとしているようだ。
(奪えるなら奪え)
与える喜びをどれほど掠め取っていこうと、それを上回るものを与えて見せる。
「あ…しゃ…」
背中を撫でる。引き締まった筋肉をなだめるように指先で。
「う…」
そのまま背筋をたどって首筋へ、しつこく残る金髪の下へ指先を潜り込ませると、軽く首が絞まったのか、は、と小さく息を吐いてユーノが仰け反る。揺れた瞳が苦しげに細められる、それがまるで腕の中で極めていくような顔にも見えて。
「くる…し…」
俺のものだ、その顔は。
ひやりとした残酷な喜び、自分の酷薄さに苦笑する。
「すまん」
そっと謝りながら時間をかけて髪を解き落とす。抱き込んだ体から伝わってくる心臓の音が次第に速度を上げていくのに満足する。空気を求めるように唇が少し開いたのを、封じ込めるように覆い被さった。
「ん…っ」
ざわっ、と周囲の気配が凍りつく。
(小さな唇だな)
感触を確かめる。
(震えてる)
いつかの導師の所では、少年のようにただただ重ねて所有したかっただけ、けれど今ははっきりと、ユーノに自分を刻むつもりで、ユーノの熱を奪うつもりでキスを進める。
閉じた口の奥でかたかたと歯が鳴っている。押し開くように重ねるアシャの唇に、必死に服を掴んでいる手も、抱き込んでいる体も、今はまだ恐怖だけしかないのだろうか、竦んで冷え込んで揺れている。
(熱を寄越せ)
そんなふうに守ってないで。
「っ、…」
ぞくっ、とユーノが脚から震えた。重ね直したアシャの唇がユーノの唇から僅かにずれて、輪郭を辿るように舌先を触れたからだ。
「あっ…」
どこか悲鳴じみた呻きを漏らして、ユーノが崩れかけた体を堪えたのがわかった。
きっと初めてだと思っているんだろう。
「は…」
眉を寄せて拒もうとする、その切なげな顔をゆっくり眺める。
もし誰かがこの唇にもう触れていたとしても。
(それより強く)
俺を刻む。
自分が猛った顔をしている自覚はある。
「、や…」
微かな拒否が口から溢れかけたのをあっさり塞いだ。んっ、と口の中で唸る声が追い詰められて苦しそうだ。
(甘い)
こんな唇を知っていただろうか?
(柔らかい)
ユーノの体で柔らかなところ、けれどもっと柔らかなところに侵入していく奴がいる。
「んっん」
逃げかけたのを頭を押さえた。驚いたように見開いた瞳が泣きそうだ。瞳に視線を合わせ、目を細めてにっこり笑いかけてやる。今までならばそのまま溶ける、アシャの強い望みに応えて、自らを投げ出す女がほとんどだが。
ぎらりとした殺気が潤んだ瞳の向こうに広がって、唐突にがしっと胸元を握られた。
(鮮やかだな)
もっと深くまで侵したならば、この瞳はアシャを永久に忘れないでいてくれるだろうか?
「ん、んーっっ」
唸りながらアシャの抱擁から逃れようとするユーノを、もう少しと欲張って舌を突き出そうとした瞬間、
びしっ!
「!」
鋭い音が響いた。
(おしまい、か)
やれやれと思いつつ、唇を離し、見る見る真っ赤になったユーノが罵倒しようとしたのを強く胸に抱え込む。
「ああっ!」
次の瞬間、鳥籠は弾けた。
まるでとても不愉快なものを口にした獣のように、どこもかしこも一気に蔦を弾けさせ、ユーノを吐き出すように空中で分解する。
「きゃああっ!」
「いやあっ!」
衝撃が伝わったのか、周囲の鳥籠の幾つかが枝からまた落ち、扉を弾けさせ、しゃべり鳥(ライノ)達の歓喜とも恐怖ともつかぬ悲鳴が響き渡った。
「アシャぁあっっっ!!!」
転がり落ちてきたユーノはどさりと見事に腕の中にはまってくれたし、そのまま地面に転がったアシャに馬乗り状態でのしかかってくれるという、願ってもない状況だったのだが。
「何をするっ!」
突きつけられたのは抜き放たれた剣。切っ先は喉。
「何をって……キス、しただけだが」
びくっ、とユーノが大きく震えた。
「違うだろ!」
「違わないだろう」
アシャは地面に寝転がって、自分の上で騒ぐユーノを楽しく見上げる。紅潮した頬、乱れた髪に縁取られた顔は珍しく動揺していて、しかも唇がまだほんのり濡れていて。
「何ならもう一度証明しても」
「しなくていい!」
激怒しているユーノは伸ばした両手に応じようとせずに、慌ただしくアシャの上からも降りてしまう。
(やれやれ)
まあその方が、ぼちぼちいろいろとよかったのだが。
溜め息まじりに、アシャは起き上がって胡座を組んだ。
「何が不満だ?」
「何がって!」
「キスして助けろと言われたから、キスしたんだぞ?」
「う」
「礼を言われても、罵倒される筋合いはないと思うが」
「う、う」
「なーんだ!」
ふいにあっけらかんとした声が響いて、アシャはライノを振り返った。
てっきりユーノと同等、それ以上に激怒しているかと思っていた相手は、なぜか異様に明るい顔で大きく頷いている。
「そういうことだったの!」
「は?」
「あなた、男の方がよかったのね、アシャ!」
「え?」
ユーノががちりと凍りついた。
「だって。鳥籠が壊れるほどその子のことを」
ライノがこれみよがしに肩を竦めて横目で崩壊した鳥籠を見やる。
「それならあたし達に冷たいのもわかるわ!」
「おい」
「そうね!」
「そうだったのね!」
項垂れていた周囲のしゃべり鳥(ライノ)達が一気に顔を上げた。
「なぁんだ!」
「アシャはそういう趣味だったの!」
「女に興味はなかったの!」
「……おい」
しゃべり鳥(ライノ)がアシャのことを知っているのなら、数々流れた美姫との噂を知らぬわけがない。様々な王宮で、華麗な舞踏会で、繰り返された宴の席で女性達に取り囲まれたのを聞いていないわけがない。
「ア…シャ…?」
ひきつったユーノに、思わず強く否定する。
「違うぞ」
びく、とユーノが顔を強張らせて、なおも付け加えた。
「そんなつもりじゃない」
ふわ、とユーノの瞳が驚いたように見開かれる。
「いいえ、そうなのよ、きっと! ああなあんだ、悩んじゃった損しちゃった!」
ライノは朗らかに笑った。
「アシャは男が好きなのね! だからあたし達が魅力的に見えないのね!」
「だって、きれいでしょ!」
「あたしはきれいでしょ!」
「男が無視するわけはないわ!」
「きれいでしょ!」
「ねえきれいでしょ!」
「他の誰よりきれいなんだもの!」
周囲のしゃべり鳥(ライノ)は、もうアシャ達などどこにも居ないように、明後日の方向を向いて口々に声を高めていく。転がっているしゃべり鳥(ライノ)はそのまま鳥籠の中に踞り、開いた扉もあるというのに目も向けず、むしろ背中を向けて籠にしがみつき、如何にも本意ではなく捕まっているのだと言いたげに外へ向かって声を放つ。
「ねえ見て!」
「きれいでしょ!」
「誰よりきれいでしょ!」
「ええ、よぉくわかったわ!」
ライノはすっきり爽やかな、けれどどこか意地悪い微笑で言い放った。
「アシャは男好きなのよ! 女じゃなければ誰でもよかったのよ、男であればよかったの!」
「おいおい」
なんだその言い草は。
「そうよ、アシャは男が好きなのよ!」
うんざりしているアシャを放って、ライノは声高に叫びつつ、どんどん木立の向こうへ消えていく。
「あいつ……言いふらして回る気か…?」
溜め息まじりに立ち上がり、眉をしかめる。
まあそれはそれで、余計な誤解をされなくて済むが。
「行こう、もう彼女らは俺達に興味がない……ユーノ?」
「………ぷ……くく…くくっ」
突然、ユーノが吹き出して呆気にとられた。
「アシャ…が……男がいい……だなんて」
そりゃ、そういう感じもするけどさ。
さっきまでの可愛らしさはどこへやら、ユーノは体を折り曲げて笑っている。
「イルファは喜ぶだろうなあ」
「おい」
「それどころか、妙な取り巻きもできそう」
「あのな」
「ほんとに男のほうがいいの?」
ちらっと悪戯っぽい目で見やって来たユーノが付け加え、反論しようとした矢先、ふい、と目を逸らせた。
「男がいいから」
「?」
「男の人がいいから……私にでも、キス、できたの……?」
「何を言ってる」
手を伸ばして俯きがちになった頭をくしゃりと押さえる。
「俺は色惚けじゃない」
ちゃんと相手は選んでる。
証明するようにくしゃくしゃとユーノの頭を撫で回した。
さっきまで震えていた熱はない。けれど、掌にあたる小さな頭がひどく愛しく大事なものに思えて、そのままもう一度抱き込みたくてたまらない。
逃げるかと思ったユーノは大人しく頭を撫でられながら、小さな声で呟いた。
「……ありがと」
優しいね。
ふいに、ぱっと顔を上げ、にっこり明るい笑みを浮かべる。
「大事な人へのキス」
もらっちゃってごめんね?
消え入りそうな儚い気配にどきりとする。
「ユーノ?」
「私だったら、好きな人以外にキス、できないな」
「う」
暗に自分の無節操さを詰られた気がしてアシャは怯んだ。
確かに今まではあれやこれやと相手が途切れたことはない、ないが今はとにかく俺はお前が。
「でも、アシャは違うんだよね」
何が?
確認され間抜けな問い返しをしそうになって口をつぐむ。
「私も、アシャ、みたいな男の人に、生まれたかったな」
へへへ、とユーノは笑った。
「大事な仲間のためなら、自分の信条曲げてもあらゆる手立てを打てるような男に」
自分の信条を曲げても?
ことばの意味が微妙に伝わってこない気がして眉を寄せる。
それはつまり、俺が不本意なキスをしたって考えてるってことか?
ようやく思い至って慌てて口を開く。
「ユーノ、俺は」
お前が大事だから。いやむしろ、お前が欲しかったから。
「それでさ!」
言いかけたことばをあっさり封じられて、
「私も、アシャみたいに器の大きな剣士になる」
これからもよろしくご指導、お願いします!
改まって頭を下げられ、伸ばしていた手が宙に浮いた。
「さ、いこ! レスが待ってるよ」
「ユーノ!」
はっとして我に返った時は既に遅く、さっさとヒストに跨がったユーノはもう向きを変えている。そのまま置き去りにされそうで、急いで馬のところに駆け戻る。
だがユーノはアシャを待つ前に走り出した。
「ユーノ!」
叫ぶ声に振り返らない。
「違うんだ!」
「わかってるーっ」
明るい声が返ってくる。
「心配しなくていいからーっ」
けれど速度を落とさない。
「違う、俺は!」
何がわかってる? 何もわかってない、アシャのことばを聞いてもいない。
「く、そ!」
このまま距離があいてしまったら。
アシャは必死にユーノに轡を並べようと駆ける。
(十分、だろ?)
ユーノは揺れるヒストの背中で、溢れた涙を頭を振って落とす。
(もう、十分だよな?)
あんなに甘いキスなのだ、アシャがレアナに贈るものは。
そんな大事なものを、ユーノを助けるためにくれたのだ。
(ごめん、レアナ姉さま)
ユーノにキスなどしたがるわけはない、としゃべり鳥(ライノ)は言った。そんなことを考えるのは、きっと女に興味がないからだろうと。
そこまで言われてしまうような容貌なのだと、今さらながらに思い知った。そんな自分にキスしたからと、あそこまでアシャが不当に扱われてしまうほど。
(ごめん、アシャ)
ほんとは甘えてはいけなかったのだろう。
それでもアシャはキスしてくれたから。
棘のついた籠をものともせずに腕を差し入れて、引き寄せて抱き締めてくれたから。
きゅ、と噛みしめた唇に、まだアシャの唇が触れているようで切なくなる。それが二度と触れることはないとわかって体中がずきずきする。
(頑張ろう)
頭を上げて風を胸一杯に吸い込む。
決して手に入らない夢を一瞬だけでも味わえた。
(頑張ろう)
思いもかけなかった褒美だ、許されるはずのない温もりだ、それをこの唇に受け取れたのだから。
ざああ、っと風に鳴る木立の音を引き連れて隣にアシャが並んでくる。乱れる金髪、まっすぐに前を見据える紫の瞳、細身ながら腕の確かさ、胸の厚さは体が覚えている。
(頑張ろう)
滲みかけた涙を呑み込んだ。ゆっくりと息を、体の隅々にしみわたらせるように吸う。
(先はうんとまだ長い)
伝説でしか知らない太古生物、名称しか聞いたことがない視察官(オペ)の存在、得体の知れない『運命(リマイン)』の名を持つ敵、『銀の王族』である自分とその意味、そして。
(ラズーン)
性を持たぬ神々が住まう世界の統合府、おとぎ話のような存在は急速にユーノの前にその姿を現しつつある。
(そこで一体何がある?)
200年祭とは何なのだ?
(なぜ世界中から急に人々が集められている?)
謎は増えていくばかり、アシャについても、ラズーンの視察官(オペ)らしいとようやくわかってはきたものの、なぜセレドに来たのか、なぜユーノと共に旅などしているのか、そもそも視察官とは一体何なのか、アシャはユーノに何も語ってくれない。
ふとしゃべり鳥(ライノ)達の嘲りを思い出す。
あれはユーノの容姿に関してだったけれど、獲物を食べずに死ぬまでおもちゃにするレガ、いきなりは襲ってこずにじわじわと這い回る範囲を広げて街や人を呑み込むドヌーなど、太古生物には共通した何か、まるで今この世界に生きている命そのものを弄び嘲笑う気配がある。そしてその底には。
(怒り?)
そう、あえていうなら、それはこの世界への怒りや妬みに近い気がする。
(でも、なぜ?)
「クエァアアーッ!」
鋭い鳴き声が空を貫いた。
前方の丘、上空にサマルカンドの白い姿、その下で馬に乗って手を振っているレスファートとイルファの姿がある。
「ユーノぉ!」
陽の光にプラチナブロンドを輝かせて、レスファートが待ちかねたように両手を振り始めた。イルファが躍り上がる少年を必死に支えている。
「レス!」
「ユーノユーノ!」
連呼するレスファートに速度を上げる。遅れるまいと側につくアシャに微笑し、目を閉じて胸の中で繰り返す。
(ラズーンへ行こう)
全ての謎が集まっていく、世界の中心へ。
(そこでこの体で確かめる)
世界に今何が起きているのかを。
顔を上げ、太陽を仰ぎ、深く息を吸う。
目を開き、腹の底から大声で叫ぶ。
「レス! ただいまーっっ!」
「ユーノっ!」
堪え切れず馬を下りたレスファートが、追いすがるイルファを振り切って転がるように駆け寄ってきつつあった。
第一部 終了
固まったユーノを見下ろし、アシャは微笑する。さっきまでの軽蔑ではない、跳ねるように熱をもって立ち上がってくる感情に、思わぬ褒美を得られるのだと理解した。
「なるほど」
「なるほど、って……アシャ」
呆然としていたユーノがはっとしたように瞬きする。
「そんなの、」
慌てた口調で言いかけ、途中で何に気づいたのか薄く赤くなって、視線を泳がせる。
「そんなの、ボク」
「どうなの、視察官(オペ)」
ライノは腕を組み、嘲笑うように声を張り上げた。
まともに呼称されてびくりとしたが、ユーノはそれには反応しない。
(やっぱり、聞かされているのか)
また薄寒い風が胸の底に吹き溜まる。
「それぐらいの代償は払いなさいな」
「男だけどね」
「いい気味」
「みっともない、そんな子に」
「ちゃんと唇にキスよ」
「頬や額じゃごまかされないわ」
思わぬアシャの攻撃に怯んでいたしゃべり鳥(ライノ)達が、地面に落ちて怯えている仲間のことを忘れたように、くすくす笑い出した。
「欲しいなら貪ってもいいけど?」
「あたし達が見てるけどね」
「ずっと見ててあげるわ全部」
「あ…しゃ…」
ユーノは不安そうな目で嗤うしゃべり鳥(ライノ)達を見回す。
「どう、しよう」
泣きそうな顔、さっきまで命の危険に晒されていた時の方がよほどきつかったはずなのに、どうしてキス1つでこれほどまでに不安がるのか。
(きっと)
好きな男が居るからだ。
アシャは軽く目を伏せた。
自分の瞳の中に浮かんだだろう、邪な喜びを読み取られたくなかった。
(好きな男が居て、そいつに操を立てようとも)
今ここに居て、ユーノの唇を味わい、彼女を助けられる立場に居るのはアシャだけだ。
体の内側が冷え冷えして寒い。
熱が欲しい。
直接に触れ合って得られる熱、知っているだけに、すぐに満たされるそれを想った。
「キスすればいいんだな?」
「アシャ!」
「ええそうよ、キスして扉を開けなさい」
それならあたし達も今回の無体は見逃してもいい。
いつの間にか地面に転がったしゃべり鳥(ライノ)達までもが、鳥籠の影からアシャがどうするのか興味津々と言った顔で覗いている。
「でも、だって」
「ということだ、ユーノ」
「何がっ」
「諦めろ」
「でも、アシャ!」
「永久にそこに居るか?」
彼女らと一緒に?
「う」
「一瞬のことだ」
アシャはゆっくり鳥籠に近寄りながら説得する。
「怖いのか?」
「こ、怖くなんかないっ」
「上等」
「うっ」
売りことばに買いことばでユーノが受けて引き攣ったのに微笑を深めた。
降ろされた鳥籠に近寄る。
「…おい」
近寄って改めて、ユーノの顔と言わず手の甲と言わず、見えているほんのわずかな皮膚に無数の傷がついているのに気がついた。
「何をされた…?」
声が一気に冷えるのがわかった。
問いかけは形だけだ。さっき鳥籠の中で吊り上げられていたのを見た。四肢を縛られ、棘だらけの籠に押し付けられているのも。まだ手足に絡んでいる金髪や、籠の中に散っている蔦や葉、引き裂かれたり穴が開いたりしている衣服、けれど何より胸を締めつけたのは、見上げてきたユーノの瞳が切なげに潤んでいたからで。
ごく、と自分が呑み込んだ唾に、沸き起こる妖しい感覚を堪えようとしているのを自覚する。
「え…?」
意味がわからないように瞬きする黒い瞳の中に浮かぶのは信頼、この間までは決して向けられることのなかった確かな訴えはアシャの背筋を甘く這い上がる。
「ひどい目に合ったんだろう」
自分を制するために早口になった。
「大丈夫か? 傷まないか?」
きっとうんとひどい目に合ったから、これほど頼りなげに見えて、アシャを求めているように感じるのだ。
けれどきっとユーノのそれは、いわゆる危機に追い詰められた激情で。
一時のもので。
制御しようと構築する理論を突き崩すように、小さく震えながらユーノが伸ばしてくる手を受け止める。
「う、うん。大丈夫、けど気をつけて、その棘、触ると痺れる」
ひどくか細く感じる掌。
「どうした、珍しく素直だな」
ユーノの声が甘くて柔らかい。
なぜ急にこんなに優しい口調になった?
なぜ急にこれほど心を委ねてくる?
棘のせいだよ、そういいつつ震えている手を握ると、ひきつったように必死に笑いかけてくる顔に、大きな何かが切れた。
ああ、だめだ。
もうだめだ。
「生きるためだ」
微笑む自分の顔に魔性は透けていないか。
「何なら目を閉じろ」
好きな男を思い浮かべればいい。
「う」
「仕方ないだろう?」
囁きながら、手を引き寄せ、籠ごしにユーノを抱きかかえる。
「あ…の…っ」
「口を塞げ。しゃべってると舌を噛むぞ」
揺れる鳥籠を言い訳にしたが、開かれていると中まで侵してしまいそうになるからで。
「でも、棘、刺さってる、アシャの腕まで傷つ…!」
びく、とユーノが震えて目を見開いた。両腕で隙間を押し広げるアシャを呆然とみやる。
「痛い…だろ?」
「わからん」
突き刺さる棘も甘美なだけ、蕩け始めた脳には届かない。未練がましくユーノの手足に絡みついている金髪は、彼女の感覚を盗みとろうとしているようだ。
(奪えるなら奪え)
与える喜びをどれほど掠め取っていこうと、それを上回るものを与えて見せる。
「あ…しゃ…」
背中を撫でる。引き締まった筋肉をなだめるように指先で。
「う…」
そのまま背筋をたどって首筋へ、しつこく残る金髪の下へ指先を潜り込ませると、軽く首が絞まったのか、は、と小さく息を吐いてユーノが仰け反る。揺れた瞳が苦しげに細められる、それがまるで腕の中で極めていくような顔にも見えて。
「くる…し…」
俺のものだ、その顔は。
ひやりとした残酷な喜び、自分の酷薄さに苦笑する。
「すまん」
そっと謝りながら時間をかけて髪を解き落とす。抱き込んだ体から伝わってくる心臓の音が次第に速度を上げていくのに満足する。空気を求めるように唇が少し開いたのを、封じ込めるように覆い被さった。
「ん…っ」
ざわっ、と周囲の気配が凍りつく。
(小さな唇だな)
感触を確かめる。
(震えてる)
いつかの導師の所では、少年のようにただただ重ねて所有したかっただけ、けれど今ははっきりと、ユーノに自分を刻むつもりで、ユーノの熱を奪うつもりでキスを進める。
閉じた口の奥でかたかたと歯が鳴っている。押し開くように重ねるアシャの唇に、必死に服を掴んでいる手も、抱き込んでいる体も、今はまだ恐怖だけしかないのだろうか、竦んで冷え込んで揺れている。
(熱を寄越せ)
そんなふうに守ってないで。
「っ、…」
ぞくっ、とユーノが脚から震えた。重ね直したアシャの唇がユーノの唇から僅かにずれて、輪郭を辿るように舌先を触れたからだ。
「あっ…」
どこか悲鳴じみた呻きを漏らして、ユーノが崩れかけた体を堪えたのがわかった。
きっと初めてだと思っているんだろう。
「は…」
眉を寄せて拒もうとする、その切なげな顔をゆっくり眺める。
もし誰かがこの唇にもう触れていたとしても。
(それより強く)
俺を刻む。
自分が猛った顔をしている自覚はある。
「、や…」
微かな拒否が口から溢れかけたのをあっさり塞いだ。んっ、と口の中で唸る声が追い詰められて苦しそうだ。
(甘い)
こんな唇を知っていただろうか?
(柔らかい)
ユーノの体で柔らかなところ、けれどもっと柔らかなところに侵入していく奴がいる。
「んっん」
逃げかけたのを頭を押さえた。驚いたように見開いた瞳が泣きそうだ。瞳に視線を合わせ、目を細めてにっこり笑いかけてやる。今までならばそのまま溶ける、アシャの強い望みに応えて、自らを投げ出す女がほとんどだが。
ぎらりとした殺気が潤んだ瞳の向こうに広がって、唐突にがしっと胸元を握られた。
(鮮やかだな)
もっと深くまで侵したならば、この瞳はアシャを永久に忘れないでいてくれるだろうか?
「ん、んーっっ」
唸りながらアシャの抱擁から逃れようとするユーノを、もう少しと欲張って舌を突き出そうとした瞬間、
びしっ!
「!」
鋭い音が響いた。
(おしまい、か)
やれやれと思いつつ、唇を離し、見る見る真っ赤になったユーノが罵倒しようとしたのを強く胸に抱え込む。
「ああっ!」
次の瞬間、鳥籠は弾けた。
まるでとても不愉快なものを口にした獣のように、どこもかしこも一気に蔦を弾けさせ、ユーノを吐き出すように空中で分解する。
「きゃああっ!」
「いやあっ!」
衝撃が伝わったのか、周囲の鳥籠の幾つかが枝からまた落ち、扉を弾けさせ、しゃべり鳥(ライノ)達の歓喜とも恐怖ともつかぬ悲鳴が響き渡った。
「アシャぁあっっっ!!!」
転がり落ちてきたユーノはどさりと見事に腕の中にはまってくれたし、そのまま地面に転がったアシャに馬乗り状態でのしかかってくれるという、願ってもない状況だったのだが。
「何をするっ!」
突きつけられたのは抜き放たれた剣。切っ先は喉。
「何をって……キス、しただけだが」
びくっ、とユーノが大きく震えた。
「違うだろ!」
「違わないだろう」
アシャは地面に寝転がって、自分の上で騒ぐユーノを楽しく見上げる。紅潮した頬、乱れた髪に縁取られた顔は珍しく動揺していて、しかも唇がまだほんのり濡れていて。
「何ならもう一度証明しても」
「しなくていい!」
激怒しているユーノは伸ばした両手に応じようとせずに、慌ただしくアシャの上からも降りてしまう。
(やれやれ)
まあその方が、ぼちぼちいろいろとよかったのだが。
溜め息まじりに、アシャは起き上がって胡座を組んだ。
「何が不満だ?」
「何がって!」
「キスして助けろと言われたから、キスしたんだぞ?」
「う」
「礼を言われても、罵倒される筋合いはないと思うが」
「う、う」
「なーんだ!」
ふいにあっけらかんとした声が響いて、アシャはライノを振り返った。
てっきりユーノと同等、それ以上に激怒しているかと思っていた相手は、なぜか異様に明るい顔で大きく頷いている。
「そういうことだったの!」
「は?」
「あなた、男の方がよかったのね、アシャ!」
「え?」
ユーノががちりと凍りついた。
「だって。鳥籠が壊れるほどその子のことを」
ライノがこれみよがしに肩を竦めて横目で崩壊した鳥籠を見やる。
「それならあたし達に冷たいのもわかるわ!」
「おい」
「そうね!」
「そうだったのね!」
項垂れていた周囲のしゃべり鳥(ライノ)達が一気に顔を上げた。
「なぁんだ!」
「アシャはそういう趣味だったの!」
「女に興味はなかったの!」
「……おい」
しゃべり鳥(ライノ)がアシャのことを知っているのなら、数々流れた美姫との噂を知らぬわけがない。様々な王宮で、華麗な舞踏会で、繰り返された宴の席で女性達に取り囲まれたのを聞いていないわけがない。
「ア…シャ…?」
ひきつったユーノに、思わず強く否定する。
「違うぞ」
びく、とユーノが顔を強張らせて、なおも付け加えた。
「そんなつもりじゃない」
ふわ、とユーノの瞳が驚いたように見開かれる。
「いいえ、そうなのよ、きっと! ああなあんだ、悩んじゃった損しちゃった!」
ライノは朗らかに笑った。
「アシャは男が好きなのね! だからあたし達が魅力的に見えないのね!」
「だって、きれいでしょ!」
「あたしはきれいでしょ!」
「男が無視するわけはないわ!」
「きれいでしょ!」
「ねえきれいでしょ!」
「他の誰よりきれいなんだもの!」
周囲のしゃべり鳥(ライノ)は、もうアシャ達などどこにも居ないように、明後日の方向を向いて口々に声を高めていく。転がっているしゃべり鳥(ライノ)はそのまま鳥籠の中に踞り、開いた扉もあるというのに目も向けず、むしろ背中を向けて籠にしがみつき、如何にも本意ではなく捕まっているのだと言いたげに外へ向かって声を放つ。
「ねえ見て!」
「きれいでしょ!」
「誰よりきれいでしょ!」
「ええ、よぉくわかったわ!」
ライノはすっきり爽やかな、けれどどこか意地悪い微笑で言い放った。
「アシャは男好きなのよ! 女じゃなければ誰でもよかったのよ、男であればよかったの!」
「おいおい」
なんだその言い草は。
「そうよ、アシャは男が好きなのよ!」
うんざりしているアシャを放って、ライノは声高に叫びつつ、どんどん木立の向こうへ消えていく。
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溜め息まじりに立ち上がり、眉をしかめる。
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「………ぷ……くく…くくっ」
突然、ユーノが吹き出して呆気にとられた。
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そりゃ、そういう感じもするけどさ。
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「イルファは喜ぶだろうなあ」
「おい」
「それどころか、妙な取り巻きもできそう」
「あのな」
「ほんとに男のほうがいいの?」
ちらっと悪戯っぽい目で見やって来たユーノが付け加え、反論しようとした矢先、ふい、と目を逸らせた。
「男がいいから」
「?」
「男の人がいいから……私にでも、キス、できたの……?」
「何を言ってる」
手を伸ばして俯きがちになった頭をくしゃりと押さえる。
「俺は色惚けじゃない」
ちゃんと相手は選んでる。
証明するようにくしゃくしゃとユーノの頭を撫で回した。
さっきまで震えていた熱はない。けれど、掌にあたる小さな頭がひどく愛しく大事なものに思えて、そのままもう一度抱き込みたくてたまらない。
逃げるかと思ったユーノは大人しく頭を撫でられながら、小さな声で呟いた。
「……ありがと」
優しいね。
ふいに、ぱっと顔を上げ、にっこり明るい笑みを浮かべる。
「大事な人へのキス」
もらっちゃってごめんね?
消え入りそうな儚い気配にどきりとする。
「ユーノ?」
「私だったら、好きな人以外にキス、できないな」
「う」
暗に自分の無節操さを詰られた気がしてアシャは怯んだ。
確かに今まではあれやこれやと相手が途切れたことはない、ないが今はとにかく俺はお前が。
「でも、アシャは違うんだよね」
何が?
確認され間抜けな問い返しをしそうになって口をつぐむ。
「私も、アシャ、みたいな男の人に、生まれたかったな」
へへへ、とユーノは笑った。
「大事な仲間のためなら、自分の信条曲げてもあらゆる手立てを打てるような男に」
自分の信条を曲げても?
ことばの意味が微妙に伝わってこない気がして眉を寄せる。
それはつまり、俺が不本意なキスをしたって考えてるってことか?
ようやく思い至って慌てて口を開く。
「ユーノ、俺は」
お前が大事だから。いやむしろ、お前が欲しかったから。
「それでさ!」
言いかけたことばをあっさり封じられて、
「私も、アシャみたいに器の大きな剣士になる」
これからもよろしくご指導、お願いします!
改まって頭を下げられ、伸ばしていた手が宙に浮いた。
「さ、いこ! レスが待ってるよ」
「ユーノ!」
はっとして我に返った時は既に遅く、さっさとヒストに跨がったユーノはもう向きを変えている。そのまま置き去りにされそうで、急いで馬のところに駆け戻る。
だがユーノはアシャを待つ前に走り出した。
「ユーノ!」
叫ぶ声に振り返らない。
「違うんだ!」
「わかってるーっ」
明るい声が返ってくる。
「心配しなくていいからーっ」
けれど速度を落とさない。
「違う、俺は!」
何がわかってる? 何もわかってない、アシャのことばを聞いてもいない。
「く、そ!」
このまま距離があいてしまったら。
アシャは必死にユーノに轡を並べようと駆ける。
(十分、だろ?)
ユーノは揺れるヒストの背中で、溢れた涙を頭を振って落とす。
(もう、十分だよな?)
あんなに甘いキスなのだ、アシャがレアナに贈るものは。
そんな大事なものを、ユーノを助けるためにくれたのだ。
(ごめん、レアナ姉さま)
ユーノにキスなどしたがるわけはない、としゃべり鳥(ライノ)は言った。そんなことを考えるのは、きっと女に興味がないからだろうと。
そこまで言われてしまうような容貌なのだと、今さらながらに思い知った。そんな自分にキスしたからと、あそこまでアシャが不当に扱われてしまうほど。
(ごめん、アシャ)
ほんとは甘えてはいけなかったのだろう。
それでもアシャはキスしてくれたから。
棘のついた籠をものともせずに腕を差し入れて、引き寄せて抱き締めてくれたから。
きゅ、と噛みしめた唇に、まだアシャの唇が触れているようで切なくなる。それが二度と触れることはないとわかって体中がずきずきする。
(頑張ろう)
頭を上げて風を胸一杯に吸い込む。
決して手に入らない夢を一瞬だけでも味わえた。
(頑張ろう)
思いもかけなかった褒美だ、許されるはずのない温もりだ、それをこの唇に受け取れたのだから。
ざああ、っと風に鳴る木立の音を引き連れて隣にアシャが並んでくる。乱れる金髪、まっすぐに前を見据える紫の瞳、細身ながら腕の確かさ、胸の厚さは体が覚えている。
(頑張ろう)
滲みかけた涙を呑み込んだ。ゆっくりと息を、体の隅々にしみわたらせるように吸う。
(先はうんとまだ長い)
伝説でしか知らない太古生物、名称しか聞いたことがない視察官(オペ)の存在、得体の知れない『運命(リマイン)』の名を持つ敵、『銀の王族』である自分とその意味、そして。
(ラズーン)
性を持たぬ神々が住まう世界の統合府、おとぎ話のような存在は急速にユーノの前にその姿を現しつつある。
(そこで一体何がある?)
200年祭とは何なのだ?
(なぜ世界中から急に人々が集められている?)
謎は増えていくばかり、アシャについても、ラズーンの視察官(オペ)らしいとようやくわかってはきたものの、なぜセレドに来たのか、なぜユーノと共に旅などしているのか、そもそも視察官とは一体何なのか、アシャはユーノに何も語ってくれない。
ふとしゃべり鳥(ライノ)達の嘲りを思い出す。
あれはユーノの容姿に関してだったけれど、獲物を食べずに死ぬまでおもちゃにするレガ、いきなりは襲ってこずにじわじわと這い回る範囲を広げて街や人を呑み込むドヌーなど、太古生物には共通した何か、まるで今この世界に生きている命そのものを弄び嘲笑う気配がある。そしてその底には。
(怒り?)
そう、あえていうなら、それはこの世界への怒りや妬みに近い気がする。
(でも、なぜ?)
「クエァアアーッ!」
鋭い鳴き声が空を貫いた。
前方の丘、上空にサマルカンドの白い姿、その下で馬に乗って手を振っているレスファートとイルファの姿がある。
「ユーノぉ!」
陽の光にプラチナブロンドを輝かせて、レスファートが待ちかねたように両手を振り始めた。イルファが躍り上がる少年を必死に支えている。
「レス!」
「ユーノユーノ!」
連呼するレスファートに速度を上げる。遅れるまいと側につくアシャに微笑し、目を閉じて胸の中で繰り返す。
(ラズーンへ行こう)
全ての謎が集まっていく、世界の中心へ。
(そこでこの体で確かめる)
世界に今何が起きているのかを。
顔を上げ、太陽を仰ぎ、深く息を吸う。
目を開き、腹の底から大声で叫ぶ。
「レス! ただいまーっっ!」
「ユーノっ!」
堪え切れず馬を下りたレスファートが、追いすがるイルファを振り切って転がるように駆け寄ってきつつあった。
第一部 終了
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