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4.死神
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『それは定められたもの』
柔らかな香りがする。
太陽に温められた生き物の匂い。豊かな血の通う命の匂い。
見開いた目に光が弾け、眩しさに目を閉じた。視界に一瞬真っ黒な髪が一筋二筋過ったのをまぶたの後ろにおさめて顔を歪める。
(あの日の朝もそうだった)
10歳の誕生日の朝。
アシュレイでは10歳の誕生日は特別なものだと聞かされていた。だからとても緊張して興奮していた。前夜もなかなか寝つけず、ようやく眠りに落ちたのは屋敷が静まり返ってからだった。
朝も早くに目が覚めた。天気がよくて、気持ちがよかった。
窓から入る日射しの眩さに瞬きをして、うっとりと温かさを楽しんでいたときに、ふいに違和感を感じた。
視界の隅、白いベッドに広がる何か黒いもの。
じっと見つめて、それが枕に広がった髪の毛だとはわかったけれど、その後がうまく考えられなかった。
なぜだろう? なぜ、ここにこんな黒い髪の毛がある?
アシュレイにこんな髪の毛の者はいない。いや、見たことはある、肖像画の中で。
そうだ、確かマースの亡くなった父親がこんな髪の色をしていた。
母はもっと早くに、父はマースが5歳ぐらいのときに亡くなった。厳密にはマースは父親の死体は見ていない。外国へでかけたときに、自動車事故に巻き込まれたという。
マースもクリスもプラチナブロンドだ。伯父のラピドリアンも、その娘のマージもそうだ。マースの髪の毛は特に見事な色で『銀のマース』とよく呼ばれた。瞳の色が淡いから、余計に全身銀色に見えたのだろう。
瞬きをして、それが消えないのを知って、マースはおそるおそるその髪の毛に触れた。
「っ」
手触りに覚えがあった。長さも、そして、それがもたらした感触も。
けれどもまだわからなかった、わかりたくなかったのかもしれない。
マースは悲鳴を上げた。
自分の髪の毛がいきなり真っ黒になってしまった理由がわからず、困惑と恐怖で悲鳴を上げて泣き出していた。
あるいはそれは、この先にマースを待っていた運命を無意識に感じ取っての悲鳴だったのかも知れない。
(あの瞬間に、全てが終わった)
吐息を深くついて、一層眉をしかめる。
朝はいつも辛い。
責められた後、どれほどすみやかに回復しようとも、身体の修復に使ったエネルギーはなかなか補充されず、体を起こすのにも一苦労する。
それでも、何とか起きるのは。
(芽理がいるから)
朝食の席に芽理がいる。夕食は命じなくてはその場に落ち着いてくれないが、朝はお腹が空くのだろう、パンやスープをおいしそうに平らげる。サラダを山に盛り、迷った顔で果物を付け加える。クリスやマージと笑う。最後のコーヒーはクリス達と会話を楽しみたいからだろうけど、見つめないように努力していても、視線が魅きつけられてぼんやり彼女に見愡れてしまい、ときどききつく睨まれる。
仕事が立て込んでいると、朝食の席にゆっくりしていられない。話し続けている芽理とクリス達に気持ちを残しながら、立ち上がって去る。
歯噛みするほどくやしい。
だから、少しでも長く、少しでも早く席についているために、重だるい体をベッドから引き剥がす。傷の回復に力を使ってしまってるからだろう、ベッドも体も朝になると冷えきっているから、余計に起きるのが辛いのかも知れない。
もう一度吐息をついて、体を力を入れ直そうとし、マースは固まった。
ふわり、とまた温かな柔らかな匂いが呼吸に押された波のように返ってくる。
(温かい……匂い?)
瞬きし、目を凝らす。
すぐ間近に、静かな寝息が響いていた。白い朝日に照らされているのに、全く目覚める気配もなく、くうくうと甘い息を紡いでいる顔。起きているときとは打って変わって穏やかで幼い、少女の顔。僅かに紅潮した頬の産毛や、吐息に押し開かれたような唇の紅、それらに乱れ落ちている黒々と艶のある髪。
「め……!」
「ん……」
頭が真っ白になって叫びだしそうになり、マースは慌てて口を押さえて自制した。相手がもぞもぞとなおも眠たげに上掛けの中へ、それこそ自分にすりよるように潜り込むのに、あっという間に体の温度が跳ね上がる。
(芽理? どうしてここに? どうして一緒に……ベッドに?)
自分が取り返しのつかないことをしてしまったのかと、頭の中で弾け飛ぶ疑問符に唾を呑み込み、そっと上掛けの中を覗き込めば、芽理はマースの選んだガウンを着たままで眠っているようだ。
(ああ……そうだ……)
そこでようやくマースは昨夜のことを思い出してきた。
(責められて……いつもみたいに芽理を呼んで……)
眠り続ける芽理の顔をじっと見つめる。
(でもマージは機嫌が悪かった)
名前を呼ぶなと命じられた。堪えているうちに、次第に意識の境があやふやになっていくのを感じていたけれど、それを止める術が奪われていた。
(マージが出ていって……)
芽理が死ねと言ったから、今夜こそは死ねるかもと知れないと、胸に指を突き入れたことは覚えている。そのとき、なぜか芽理の声がした。それも、マースを呼ぶ声が。
(君は……どうしてあそこにいた……?)
マースはためらいながら、そろそろともう一度ベッドに体を横たえた。
芽理の身体は手を伸ばせば触れられるところに無防備に晒されている。同じ一枚の上掛けの中で、芽理の温もりが空気を介してマースの体を温める。顔にかかった髪の毛がうっとうしそうで取り除いてやりたいけれど、その動作で起きてしまうかもしれない。今は安らかに眠っているけれど、目が覚めれば、マースの隣にいたことに怒り悔やみ飛び出していってしまうかも知れない。
伸ばしかけた手を握りしめて、マースは体を竦めた。できる限り身動きしないで、ベッドを揺らせないで、慌ただしく速度をあげる心臓と乱れてくる呼吸に耐える。
(今なら芽理はここにいる。今だけ芽理はここにいる)
荒々しい衝動が揺らめいて立ち上がってくる。
この時を逃せば芽理はきっと永久に手に入らないだろう。
(芽理は僕を嫌ってる)
自分に必死に言い聞かせる。
(芽理は僕が死ぬことを望んでいる)
好まぬ運命に縛りつける鎖を引き千切ることを望まぬ者はいない。
(それでも……)
今、ここに芽理がいる。
耐えてきた辛い年月を一時でもいい、慰めて、どこが悪い? 芽理はマースの妻なのだ。
粘りつく喉にマースは唾を呑み込んだ。
無防備な寝顔、無防備な身体、男のベッドに入り込んで邪気なく眠る危険性をわかっていないはずがないではないか。
(襲って、しまえ)
組み敷いて、抱き締めて、身動きできない相手の身体を貪って。
そうして名実ともに彼女を自分のものにすれば、もう芽理を手放さなくてすむ。どんなに嫌われようと、どんなに疎まれようと、自分の妻として世界が認める。
マースは体を起こした。
たった一度でいい。
その一度でどれほど慰められるだろう。
どれほど繰り返す夜が耐えやすくなるだろう。
(たった、一度だ)
ごくり、と自分の喉が鳴った。
(僕が引き込んだんじゃない)
相手が飛び込んできたのだ。
(芽理が悪い)
こんなにぎりぎりのところで、壊れかけてるマースの側に、そんなあどけない顔をして眠っている方が、うんと、悪い。
「んぅ……」
「!」
ふいに相手のまつげの下から、ぽろぽろと涙が零れて、マースの自制が切れた。ベッドを揺らすのもお構いなしに上掛けを剥ぎながら相手に近寄り、顔を掬い上げ零れた涙を吸い取る。伝った涙の跡に唇を這わせて、そのまま開いた相手の唇にむしゃぶりつこうとした矢先、
「マース……」
「っ!」
柔らかく名前をつぶやかれて、マースは凍った。背筋を走り上がった快感に視界が眩む。まさかそれほど甘い声で呼ばれるとは思ってもみなくて、上がった息に呼吸が苦しい。
(もう、一度)
名前を呼んでほしい。
(同じ声で、もう一度)
「芽……理っ」
じれったさに顔を掬ったまま呻くと、芽理が唇を開いた。期待に胸を詰まらせて凝視したマースの耳を、紛れもなく同じ甘い声が、けれど、全く違う内容をつぶやいた。
「ごめん……」
「あっ……」
一気に熱が冷えた。
「ひどい……こと……言って……ごめん…ね……」
「芽……理」
我に返る。上掛けを乱し、ガウンをずり落とし這わせかけた手を、自分の膝に抱き込めるほどの華奢な身体を、自分のもののように抱え込んで貪りかけた唇を見て、茫然とした。
よほど疲れているのだろう。芽理は荒々しく抱きかかえられても目覚めない。ただまだぽろぽろと夢の中で泣きじゃくっていて……しかも、それはマースの気持ちを案じての涙に他ならない。
「僕は……」
動けない。手放せない。抱き締めもできない。
「そのまま、やっちまえよ」
「!」
背後からひんやりとした嘲笑が響いて、マースは弾かれたように振り返った。
クリスが楽しそうに壁にもたれてベッドのマース達を見つめている。にやにやした薄笑いが端正な顔を下卑た印象に染めている。
「どうして止めるのさ? 誰も止めないよ。芽理だって拒んでないんじゃない?」
マースは芽理の着衣を整えた。そっとベッドに横たわらせて、上掛けを掛け直す。ベッドを滑り降りて立ち上がり、天蓋から下がったカーテンを閉めて、芽理の姿をクリスから遮り、背後に庇った姿勢のままで相手に対峙した。
「なんだ、もう終わり?」
「いつから居た?」
「ずっと」
クリスはくすくす笑った。
「夕べマージが楽しんでから、ずっとね。知ってた? マージ、わざと日本語使ってたけど?」
「!」
腹の底にある気力をいきなり握り潰されたような気がした。
「芽理を呼んでたろ? それで芽理が来たんだよ。ドアの外でずっと聞いてた」
びく、と体が震えてしまう。それを満足そうにクリスは見遣った。
「マージも気づいてたよ? 芽理は誤解してたみたいだけど」
「誤解?」
「兄さんとマージが寝てるって」
「…………そのために……?」
「うん。芽理だって『健全な若者』だしさ、男と女がベッドで何してるかなんて想像することは決まってるよね? だから、それを煽ってくのも面白いかなって」
(それ、なのに?)
マージとマースの関係を疑った、仮にも自分という存在がありながら、と芽理のことだ、怒り狂っていただろうに。
「それなのに」
クリスが冷たく笑った。
「部屋から出て来たマージを見て一度は引き上げかけたのにさ、芽理って、なんか不思議な子だよね、兄さんが芽理のことを呼んでるって気づくと、部屋に入ってきて、おまけに兄さんが血まみれになってるのにもパニックにならないし。助けを呼びにいこうとまでした。覚えてないの?」
「あ……あ」
クリスに事細かに説明されて、ようやくマースの頭にも記憶が戻ってきた。
「兄さんは、芽理に、一晩一緒にいてくれって頼んでた。それも忘れた?」
(死んでしまえと望んだ相手が)
死にそうになっていたからって、頼まれたからって、一晩共にいなくてはならない理由などなかったろうに。
おそらくはただ、哀れみと同情ゆえに。
憎んでもあまりある相手に、その憎しみを越えて滴った豊かな甘露。
(芽理)
マースは一瞬目を閉じて、胸に広がった深い幸福感を味わった。選んだ相手が真価を発揮したことを知らされた喜び、背後に庇った人物が命をかけるに価するとわかった喜びだ。
「いいよね、芽理ってさ?」
ぽつりとクリスが囁いて、マースは目を開けた。
相手のにこやかな笑みの中に広がっていく限りない悪意に気づいて、体が強ばる。
「よせ」
睨みつけてつぶやいた声がきしるように響いた。相手の邪気のない明るい微笑を消し去ろうとでもするように睨み続ける。
「芽理に手を出すな」
「こわいこわい」
クリスはくすくすと笑った。
「今は出さないよ。兄さんの妻になる、大事な人だ、そうだろ?」
「芽理は……妻にしない」
決意を込めて繰り返す。
「二度と手を出さない」
「おやおや」
クリスはひょいと肩をすくめて見せた。
「じゃあ、どうしてあの娘を選んできたのさ。兄さんだって、ここに連れてくることがどういうことか、わかってたはずだよね?」
クリスはさも驚いたふうに肩を竦め、窓際に寄って外を眺めた。
プラチナブロンドの髪に日が跳ねて光っている。そうだ、かつてマースも同じ髪を持っていた。
(あのころは、こんな運命が待っているなんて、誰も教えてくれなかった)
失ったものの大きさ、これから失い続けるものの大きさに、体が竦むのを感じた。
(芽理を失って……僕は、本当に生きて、いけるんだろうか)
「誰も、兄さんにあの娘を選んでこいとは言ってなかったはずだよ」
クリスはまばゆそうに目を細めながら、
「バルディア内で構わない、どんな娘でも構わないとさえ言ったはずだ。それを、わざわざ世界を巡ってまで捜し出すと言い出したのは、兄さんだろ?」
クリスは肩越しにちらりとマースを見た。
「愛してる、とか? まさかね。愛してる娘なら、兄さんはなおさら選べないよね」
マースの胸にことばの棘が突き刺さったのを確かめるように嗤った。
「ま、いいや」
答えないマースに苛立ったふうもなく、クリスは視線をマースの体に走らせた。
「次は僕の番だね。変に助けなんか呼ばないでよ。せっかくの楽しみがめちゃくちゃになるからさ」
舌なめずりしながら、
「でも、どうしても無理なら、いろいろと考えなくちゃ、ね、兄さん」
クリスは唇をつりあげた。禍々しい、悪意に満ちた微笑みだった。
「今更だろう、兄さん? そう生まれてきたんだから。兄さんは僕たちに逆らえやしない、そう定められているんだから」
クリスのことばはマースの心を砕いていく。いつもゆっくり、でも確実に、マースの身動きできなくなる場所を狙って、逃げ場がなくなるように責めてくる。
「兄さんは一族の中でも優秀だから、僕も嬉しいよ。何せ、傷つきやすくて感じやすくて、そのくせ一番回復が早いものね。マージの傷ももう治ってるんでしょう、さすがだよね」
マースは唇を引き締めた。手足の先から這い上がる物憂い疲労感に座り込みたくなる気持ちを堪える。
(終らない)
傷みも苦痛も絶望も。
消えて崩れていく夢の残骸を、こうしていつも見ていることしかできない。
「ああ。でも、大丈夫だよ。『闇と光の祭』までは無茶はしないから。今年はラピドリアン伯父さんが来るからね、兄さんには元気でいてもらわなきゃ。ラピドリアン伯父さんの趣味を知ってる? 思いっきり時間をかけて楽しむんだよ」
「いやに今日はおしゃべりだな」
マースは遮った。ふと気がついて、
「芽理のせいか?」
「まあ、ね」
一瞬ためらったクリスは、薄い笑みを返した。
「あの娘は今は兄さんのものだけど、考えてみればさ……僕にもいいかなと思ってさ」
「だめだ」
ひやりとした怒りが爆発しそうになって、マースはかろうじて抑えた。
「芽理はだめだ」
「ふふん、だからだって、わかんないのかな」
クリスはほくそ笑んだ。
「芽理を使えば、兄さんはもっと苦しむ、よね?」
マースは凍りついた。考える間もなく言い放つ。
「芽理は関係ない」
「僕はさ、さっきみたいに、兄さんがあんなに幸せそうに見えたこと、なかったよ」
クリスのことばに致命的なミスを犯したと気がついた。
「芽理がいるだけで、兄さんはとても幸せなんだね。そんなこと、許せるわけないよね?」
クリスはにっこりと笑った。
「辛いのも『祭』までだよ、兄さん。もっとも、兄さんは強いから、きっと最後まで僕達を楽しませてくれるだろうけど」
ことばを返せないマースに、クリスはくすくす笑ってドアを開けた。出て行きながら、
「きれいだよ、兄さんの黒髪」
「…」
閉まったドアを見つめたマースは自分が微かに体を震わせているのに気づいて舌打ちした。
甘くて切ない夢を見た。
憧れ愛おしいと思う、優しい男性の胸で眠る夢。
互いの間にあった誤解と不安を越えて、ようやく気持ちが結ばれていく、未来への誓いと約束の夢。
安心と幸福に心が膨らんで温かくなる。
「ふ…」
芽理は吐息をついて目を覚ます。
静まり返った部屋の中、朝日がまばゆく差し込んでいる。
アシュレイ家の大きな窓を通して入った太陽光は、細かな粒となって、床に、カーテンに、壁に当たって砕けていた。砕けた光はより細かな霧になって、天蓋から下がっているカーテンのレースを通り、ベッドに散っている。
「きれい…」
それらをゆっくり眺めて、ベッドまで視線を降ろした芽理は、そこに、とっくに目を覚ましていたらしいマースが座って、例のごく薄い青の目で、瞬きもせずに自分を見つめているのに気がついた。
マースの瞳も光を跳ねて輝いている。まるで極上のダイヤモンドを思わせる見事さだ。
(きれいな、青)
この美しさにどうして気がつかなかったのだろう。
(みんなはすぐに気づいていたのに)
マースは生真面目な表情で芽理を見ている。芽理が何を考えているのか推し量るような表情だ。
とたんに、芽理の脳裏に、昨夜のことが甦った。跳ね起きるように身を起こして叫ぶ。
「マース! けが! 大丈夫?」
だが、返ってきた応えは予想を裏切った。
「怪我? 何のことだ?」
目が覚めたことを確認しただけと言うようなそっけない仕草で立ち上がり、マースは天蓋のカーテンを開いた。
「まぶし……」
「君は夜中にいきなりやってきて、僕が驚いてる間にさっさとベッドで眠ってしまった」
光を背中に受けて逆光になったマースが不愉快そうにつぶやく。
「寝ぼける癖があったとは知らなかった。今度からドアには鍵をかけておくよ」
「え……え? だって? え?」
芽理は混乱してベッドを見回した。
ふんわりした枕、熱の籠った上掛け、もちろんシーツにもシミ一つない。
(だって、でも、それは)
マースの血が零れ落ちて染み通っていたはずの場所は見事に何の跡も残っていないが、それは昨夜マース自身が説明した通り、彼の身体が特別だったからではないのか。
片手をあげて日射しを遮りながら、ベッドの側でのっそりと立っている相手を見上げた。
マースはタートルネックの黒っぽいセーターと灰色のスラックスを身につけている。昨夜の乱れた気配など、どこにも見当たらない。端正で整った姿、訝しげにひそめた顔には困惑が広がっている。昨夜は潤んで熱っぽく懇願していた瞳は今はひんやりと澄んだ水のようにこちらを見返しているだけ、やがて、皮肉な微笑に薄い唇が歪んだ。
「それとも……君も結構僕のことを気に入りだしたのかな? いきなり夜這いされるとは思ってなかったが」
「夜這い……?」
「日本では男性がするものだと聞いていたが、女性でもするんだな。よっぽど飢えていたのか、男に?」
「な……に……?」
(男に、飢えてた?)
意味が通ったとたんに視界が眩む。
「幸いに仕事があって、そこにいなかったからよかったようなものの。これだから油断できないよ、女っていうのは。言ってることとすることがすぐにずれてくる……っ!」
ぱん、とマースの頬が鳴った。
立ち上がりざまに芽理が片手を閃めかせたのだ。
あまりの意外な行動に避ける間もなかったのか、思い切りくっきりと左頬に手形をプリントされて、マースが惚ける。
「今夜一晩側にいろって言ったのはそっちでしょ」
「は?」
「何でかわかんないけど、血まみれになってて! マージと何やってたのか知らないけれどっ!」
昨夜の光景を思い出して、芽理はぞくりとした。
(死んでるのかと思った)
顔も真っ白で、呼吸も弱くて、意識も虚ろで。
「血まみれ? 僕が?」
くく、と低い笑い声を上げて、マースが顔を歪めた。
「えらくスプラッタな夢だな。それとも君の願望か?」
「夢なんかじゃない、何、願望って……っ」
一瞬自分の弱いところを指摘されて芽理は声を呑んだ。
(私は、あんなことを、望んだ)
だからマースが傷ついた、そんな気持ちが胸のどこかに澱んでいる。
「でも、絶対夢じゃない、身体がずたずたになってて、血がいっぱい流れてて」
「どこに?」
間髪入れずに問い返されて、再び芽理はことばを失った。
「それだけの状況なら部屋もベッドも汚れてるはずだね? どこにそんな汚れがある?」
平然と問い返すマースの顔にためらいも怯みもない。
「それに」
くすり、と妙な笑みを浮かべてセーターの裾を摘んでみせる。
「そういう状況ならこんなふうに平気で立っていられるとは思わないが。それとも、脱いで見せるか? お望みなら」
「っっ!」
意味深に声を揺らされて、芽理は全身が熱くなった。
「誰がっ」
「マージがどうのこうのと言ってたようだが」
マースはなおも追い打ちをかけるように皮肉な微笑を深める。
「君は少なくとも寝ぼけるだけじゃなくて、盗み聞きの癖もあるということなのかな?」
芽理は目を見開いた。
確かにマージとのやりとりを盗み聞きしていたのは事実だったし、何よりもそれをマースに知られてしまったということが、思った以上にショックだった。
マースが黙り込んだ芽理を冷ややかに見つめる。
「最低だな」
吐き捨てた。
氷河なみに凍りついた表情で、
「僕は人選を誤ったらしい。だからといって、返品もきかん。もっとも、君がこの先一生働いて金を返してくれるなら、相談に乗らないこともないが? 僕としても由緒あるアシュレイ家に男を求めて夜中にふらふらするような女を迎えるわけにもいかないからね。どうかな?」
(男を求めて夜中にふらふらする、女)
そういうふうにマースは自分を見ているのか。
我に返って乱れたガウンを急いで整えながら、芽理は、自分が小刻みに震えているのに気がついた。視界がにじみ、ぼやけて今にも融け落ちそうだ。
「そういう女ほど、涙をうまく使うな」
芽理の状態を見てとったらしいマースがことばを重ねてくる。
「涙で人を操ることに慣れてもいるなんて、つくづく失望したよ」
もう、限界だった。
「…ばかっ!」
思いっきりわめいてマースの側をすり抜け、部屋を飛び出していく。
(ばか! ばか!)
胸の中で罵倒を繰り返し、芽理は唇を噛んで階段を駆け上がった。部屋に飛び込み、ガウンを脱ぎ捨て、そのままベッドに投げつける。荷物を片付けさっさとこの屋敷から出ていってしまえ、そう思った瞬間に、それが叶わないことであることを思い知る。
「ばか…」
全ては夢だったのか。単に手の込んだお芝居だったのか。
それとも、どこかで誰かが、芽理が泣いたり心配したりうろたえたりしているのを見て、楽しみ面白がっているのだろうか。
ふっと何か白いものが出ようとしていたような壁を思い出し、けれどそれこそマースの身体以上にありえない話だと自分で首を振った。
よろめくように部屋のソファに腰を落とす。
(でも、もっとばかなのは私だ)
どうしてだろう。これほど悲しくて腹立たしくて怒っているのに、マースがいつもと変わらず元気でいて、傷も負っていないし、昨夜みたいに壊れそうに見えないことに、どこかほっとしている自分がいる。
「……ばか……」
(私は愛さないって言ってたのに)
マースは芽理を愛さない。
(私は……ああ……そうか……そういうこと、なのか)
芽理は、愛さない。
けれど芽理以外、ならば。
(つまり、マージだったなら)
昨夜の出来事はそれを芽理に遠回しに知らせるためのものだった、のだろうか。
芽理は立ち上がり、のろのろとベッドに近寄った。
叩きつけたガウンを拾い上げる。そっと胸に抱き締める。
「でも、私は……」
その後のことばを芽理は涙と共に呑み込んだ。
朝食には結局出なかった。
どこで脱ぎ飛ばしてしまったのか、室内ばきもなかったし、胸に重い塊がつかえて何も喉を通りそうになかった。
怖かった。
さっきあんなことがあったのに、のうのうと澄ましていられるのかとマースに嘲笑われるのも怖かったが、マースに笑われるのを不安がってる自分がより怖かった。
(マースに、嫌われたくない、んだ)
自分の気持ちに気づいてしまうと、そしてそれが、マースが軽蔑して嘲笑ったそのままの気持ちだということがわかってしまうと、身動き取れなくなってしまった。
(こういう怖さって……初めてだ)
逃げることも叶わない。会わないわけにもいかない。かといって、会ってもどう振舞えばいいのかわからない。無意識に気持ちが肌身を破って零れて出してしまいそうだ。
ベッドに無言で座っていて、このまま何十年でもたってくれればいいと思えてくる。
(どうしよう)
初めての気持ちだ。とても愛しい気持ちだ。相手の無事が心底嬉しい。
けれど、相手にその気持ちが受け入れられる場所はとっくにない。
(どうしよう)
形だけでも繋がっていると感謝すればいいのか、形だけしか繋がっていないと恨んだ方が正しいのか。
その応えが出ないと、何もできないような気がする。
きりきりと痛む胸を抱えていると、唐突にノックが響いた。
「はあい!」
きゅ、と唇を引き締めて、できるだけ明るく答えを返す。
「いいかしら、芽理」
艶のある声が響いて、一瞬体が竦んだ。
(マージ……)
「朝食、持ってきたの」
重ねて呼び掛けられて、仕方なしに立ち上がる。
そっとドアを開けると、銀色の盆にパンや紅茶のポット、サラダなどをのせて、マージが入ってきた。肩に少し触れる程度の銀色のくせっ毛が、部屋に差し込む陽光にきらきらと光輪のように輝いている。
(きれい、だよね?)
比較しても仕方のないことだけど、一瞬自分の髪の毛がプラチナブロンドならばマースも少しは気に入ってくれたかと情けないことを考え、慌てて首を振ってそれを頭から追い出した。
「泣いてたの、芽理」
マージは細い三日月のような眉を寄せて、心配そうに尋ねてくる。テーブルに盆を置いて、紅茶をカップに注いでくれながら、
「また、マースが何か言ったのね」
桜色の唇からこぼれた日本語は、なまじの日本人よりきれいな発音だ。
「ううん、ちょっと勘違い、して」
勘違いなどではない。マースは、芽理が男を求めてふらふらするような女だと言った。自分は迷惑していて、この先面倒ごとをかけないでほしいとも曖昧ながら伝えてきた。
「そう……」
憂いを帯びて緑がかった灰色の瞳が芽理を見た。その顔にどうにも昨夜、マースの部屋からでてきた姿が重なって、つい目を逸らせてしまう。
(この人が)
マースを傷つけた? いや、とてもそうは思えない。
(やっぱり、寝ぼけてた、のかなあ)
けれど、マージがマースの部屋から出て来たのは確かで、その直前に部屋の中で響いていた濡れた物音も夢ではないと断言できる。
(なら……やっぱり)
一番ありそうなこと、マースはマージと逢瀬を重ねていて、カムフラージュのために芽理が必要だっただけ、芽理でなくてもマースに惚れ込みそうもない女なら誰でもよかった、というのが真相なのだろう。
「…かしら?」
「え?」
マージの唇が動いていたのが、何かを話しかけていたのだと気づいて、芽理は慌てて相手を振り向いた。
「ごめんなさい、なんて?」
問い返すと、マージは困ったように瞬きした。どうやら一番言いたくないことを説明した後だったらしく、小さく溜め息をついて、言い直す。
「実はね、今日から、この屋敷にお客様が来るの。少しずつだけど、最終的にはかなりの数になる予定で……大きなお祭りがあるのよ。この地方独特のものなんだけど、アシュレイ家が主催するの」
マージは少しためらった。
「朝食のときに、それを話そうと思ってたの。でも、芽理は食べたくないって来なかったから」
「ごめん、なさい」
何とか笑みを押し上げて見せる。笑みに力を得たように、マージが隣に腰を降ろしてうなずいた。
「それで、とても悪いんだけど」
ことばを切って、困った表情で笑う。
「マースの部屋で一緒に寝てくれないかしら」
「え? ええっ」
芽理はうろたえた。
(マースと一緒の部屋?)
「あ、もちろん、マースと一緒にというんじゃなくて、マースの部屋の続きにもう一つゲストルームがあるの。寝室が別で居間が共用、という形になるんだけど……それでもだめ、かしら?」
「でも……」
それでもあなたはいいの?
尋ねかけて、芽理はマージの鮮やかな微笑みに気づいた。
(そっか……)
マージは芽理のことなど、何とも思っていないのだ。恋人が芽理と続きの部屋に寝泊まりしようが、それで芽理とマースがどうにかなるなんて考えもしていない。
きっとマージとマースの間に確かで強い繋がりがあるのだろう。そしてそれはマースと芽理が同室になるぐらいでは揺らぎもしないものなのだ。
(一緒の部屋になっても……来る、のかな。それともマースが行く……のかな)
考えるだけで胸が塞がる。
「ね、芽理?」
マージが覗き込んでくる。
芽理は思いついたように紅茶のカップを取り上げた。
「はい、いいです」
答える声が掠れたのを紅茶を呑み込み、ごまかす。
「ありがとう。マースには話しておくし、お部屋の用意もしておくから、昼過ぎになったら荷物をまとめて移ってもらえると有り難いんだけど」
(マース……)
芽理は無理にパンを口に詰め込んでそれ以上答えなかった。
(芽理)
部屋を飛び出した芽理は室内ばきを忘れていった。
ベッドの横に置き去りにされたそれが、まるで芽理に見捨てられた自分のようでいたたまれなくて、朝食から戻ってからそっと拾い上げた。
(食事に来なかった)
当然だろう、と胸の奥で苦々しい声がする。
あそこまでひどいことを言われて、傷つかない人間なんていやしない。
(夕食も来ないかもしれない)
昼はマースは仕事で同席しない。
(この先ずっと来ない……?)
自分が招いたことなのに、それを思うと胸が苦しい。
ゆら、と壁が揺れ動いて、はっとマースは室内ばきを降ろした。ベッドに寄せて隠してしまう。
壁が波打ち、まるで柔らかなゼリーのように蠢いていたかと思うと、ぬるりと白い指先が突き出した。そのままずるずるとはみ出てくるのは、クリスの姿だ。粘稠性のある液体をくぐり抜けてきたように、少ししっとりとした髪をかきあげながら、妙な笑みを浮かべてみせた。
「朗報だよ、兄さん」
無言で見据えるマースに笑みを絶やさないまま、壁の中から半身突き出した状態で続ける。
「芽理が向こうの部屋に来るからね」
「え……」
指し示された部屋を見て、マースはぎょっとした。居間を挟んで一部屋向こう、友人などを泊めるために用意されているゲストルームだ。もちろん、互いの部屋は壁一枚ずつで遮られているだけ、ドアを開け放てば一室も同然になる。
「そんな……」
「マージがさ、やっぱり恋人同士ならそうしてあげるべきだってさ。さすが女性だよね、考えることが違うよ」
クリスが笑みを含む。
(芽理が近くに来る)
胸が轟くのを感じた。
食事の席を待たなくても、居間で顔をあわせるかもしれない。時には一言二言会話できるかもしれない。たとえ憎まれ口や罵倒でも、声が聞けるかもしれない。
だが、そう思う一方で、それを提案したマージや楽しげに報告しに来たクリスの意図に気がついた。
「クリス……」
「ああ、次は僕の番だからさ」
引きつったマースの声に、クリスが笑う。再び今度は、少しずつ壁の向こうに身を沈めていきながら、きらきらする瞳でウィンクして見せる。
「声を上げてもいいよ? 助けを求めたっていい。芽理に聞こえて構わないならね? ドアは開け放しておくんだから、きっとよく聞こえるよ」
「ク……リス……」
にらみつけたマースにクリスが笑みを広げる。
凄絶な、殺意に満ちた笑み。
「声をあげなよ。芽理の前で僕に屠られて弄ばれて……さぞかしいい声で啼くんだろうね?」
「クリ、ス!」
とっさに投げつけた時計は波打つ壁に遮られて、その奥に消えたクリスには届かない。
「く……そっ……!」
しばらく体を震わせながら立っていたマースは低く呻き、やがて顔を覆ってうなだれた。
柔らかな香りがする。
太陽に温められた生き物の匂い。豊かな血の通う命の匂い。
見開いた目に光が弾け、眩しさに目を閉じた。視界に一瞬真っ黒な髪が一筋二筋過ったのをまぶたの後ろにおさめて顔を歪める。
(あの日の朝もそうだった)
10歳の誕生日の朝。
アシュレイでは10歳の誕生日は特別なものだと聞かされていた。だからとても緊張して興奮していた。前夜もなかなか寝つけず、ようやく眠りに落ちたのは屋敷が静まり返ってからだった。
朝も早くに目が覚めた。天気がよくて、気持ちがよかった。
窓から入る日射しの眩さに瞬きをして、うっとりと温かさを楽しんでいたときに、ふいに違和感を感じた。
視界の隅、白いベッドに広がる何か黒いもの。
じっと見つめて、それが枕に広がった髪の毛だとはわかったけれど、その後がうまく考えられなかった。
なぜだろう? なぜ、ここにこんな黒い髪の毛がある?
アシュレイにこんな髪の毛の者はいない。いや、見たことはある、肖像画の中で。
そうだ、確かマースの亡くなった父親がこんな髪の色をしていた。
母はもっと早くに、父はマースが5歳ぐらいのときに亡くなった。厳密にはマースは父親の死体は見ていない。外国へでかけたときに、自動車事故に巻き込まれたという。
マースもクリスもプラチナブロンドだ。伯父のラピドリアンも、その娘のマージもそうだ。マースの髪の毛は特に見事な色で『銀のマース』とよく呼ばれた。瞳の色が淡いから、余計に全身銀色に見えたのだろう。
瞬きをして、それが消えないのを知って、マースはおそるおそるその髪の毛に触れた。
「っ」
手触りに覚えがあった。長さも、そして、それがもたらした感触も。
けれどもまだわからなかった、わかりたくなかったのかもしれない。
マースは悲鳴を上げた。
自分の髪の毛がいきなり真っ黒になってしまった理由がわからず、困惑と恐怖で悲鳴を上げて泣き出していた。
あるいはそれは、この先にマースを待っていた運命を無意識に感じ取っての悲鳴だったのかも知れない。
(あの瞬間に、全てが終わった)
吐息を深くついて、一層眉をしかめる。
朝はいつも辛い。
責められた後、どれほどすみやかに回復しようとも、身体の修復に使ったエネルギーはなかなか補充されず、体を起こすのにも一苦労する。
それでも、何とか起きるのは。
(芽理がいるから)
朝食の席に芽理がいる。夕食は命じなくてはその場に落ち着いてくれないが、朝はお腹が空くのだろう、パンやスープをおいしそうに平らげる。サラダを山に盛り、迷った顔で果物を付け加える。クリスやマージと笑う。最後のコーヒーはクリス達と会話を楽しみたいからだろうけど、見つめないように努力していても、視線が魅きつけられてぼんやり彼女に見愡れてしまい、ときどききつく睨まれる。
仕事が立て込んでいると、朝食の席にゆっくりしていられない。話し続けている芽理とクリス達に気持ちを残しながら、立ち上がって去る。
歯噛みするほどくやしい。
だから、少しでも長く、少しでも早く席についているために、重だるい体をベッドから引き剥がす。傷の回復に力を使ってしまってるからだろう、ベッドも体も朝になると冷えきっているから、余計に起きるのが辛いのかも知れない。
もう一度吐息をついて、体を力を入れ直そうとし、マースは固まった。
ふわり、とまた温かな柔らかな匂いが呼吸に押された波のように返ってくる。
(温かい……匂い?)
瞬きし、目を凝らす。
すぐ間近に、静かな寝息が響いていた。白い朝日に照らされているのに、全く目覚める気配もなく、くうくうと甘い息を紡いでいる顔。起きているときとは打って変わって穏やかで幼い、少女の顔。僅かに紅潮した頬の産毛や、吐息に押し開かれたような唇の紅、それらに乱れ落ちている黒々と艶のある髪。
「め……!」
「ん……」
頭が真っ白になって叫びだしそうになり、マースは慌てて口を押さえて自制した。相手がもぞもぞとなおも眠たげに上掛けの中へ、それこそ自分にすりよるように潜り込むのに、あっという間に体の温度が跳ね上がる。
(芽理? どうしてここに? どうして一緒に……ベッドに?)
自分が取り返しのつかないことをしてしまったのかと、頭の中で弾け飛ぶ疑問符に唾を呑み込み、そっと上掛けの中を覗き込めば、芽理はマースの選んだガウンを着たままで眠っているようだ。
(ああ……そうだ……)
そこでようやくマースは昨夜のことを思い出してきた。
(責められて……いつもみたいに芽理を呼んで……)
眠り続ける芽理の顔をじっと見つめる。
(でもマージは機嫌が悪かった)
名前を呼ぶなと命じられた。堪えているうちに、次第に意識の境があやふやになっていくのを感じていたけれど、それを止める術が奪われていた。
(マージが出ていって……)
芽理が死ねと言ったから、今夜こそは死ねるかもと知れないと、胸に指を突き入れたことは覚えている。そのとき、なぜか芽理の声がした。それも、マースを呼ぶ声が。
(君は……どうしてあそこにいた……?)
マースはためらいながら、そろそろともう一度ベッドに体を横たえた。
芽理の身体は手を伸ばせば触れられるところに無防備に晒されている。同じ一枚の上掛けの中で、芽理の温もりが空気を介してマースの体を温める。顔にかかった髪の毛がうっとうしそうで取り除いてやりたいけれど、その動作で起きてしまうかもしれない。今は安らかに眠っているけれど、目が覚めれば、マースの隣にいたことに怒り悔やみ飛び出していってしまうかも知れない。
伸ばしかけた手を握りしめて、マースは体を竦めた。できる限り身動きしないで、ベッドを揺らせないで、慌ただしく速度をあげる心臓と乱れてくる呼吸に耐える。
(今なら芽理はここにいる。今だけ芽理はここにいる)
荒々しい衝動が揺らめいて立ち上がってくる。
この時を逃せば芽理はきっと永久に手に入らないだろう。
(芽理は僕を嫌ってる)
自分に必死に言い聞かせる。
(芽理は僕が死ぬことを望んでいる)
好まぬ運命に縛りつける鎖を引き千切ることを望まぬ者はいない。
(それでも……)
今、ここに芽理がいる。
耐えてきた辛い年月を一時でもいい、慰めて、どこが悪い? 芽理はマースの妻なのだ。
粘りつく喉にマースは唾を呑み込んだ。
無防備な寝顔、無防備な身体、男のベッドに入り込んで邪気なく眠る危険性をわかっていないはずがないではないか。
(襲って、しまえ)
組み敷いて、抱き締めて、身動きできない相手の身体を貪って。
そうして名実ともに彼女を自分のものにすれば、もう芽理を手放さなくてすむ。どんなに嫌われようと、どんなに疎まれようと、自分の妻として世界が認める。
マースは体を起こした。
たった一度でいい。
その一度でどれほど慰められるだろう。
どれほど繰り返す夜が耐えやすくなるだろう。
(たった、一度だ)
ごくり、と自分の喉が鳴った。
(僕が引き込んだんじゃない)
相手が飛び込んできたのだ。
(芽理が悪い)
こんなにぎりぎりのところで、壊れかけてるマースの側に、そんなあどけない顔をして眠っている方が、うんと、悪い。
「んぅ……」
「!」
ふいに相手のまつげの下から、ぽろぽろと涙が零れて、マースの自制が切れた。ベッドを揺らすのもお構いなしに上掛けを剥ぎながら相手に近寄り、顔を掬い上げ零れた涙を吸い取る。伝った涙の跡に唇を這わせて、そのまま開いた相手の唇にむしゃぶりつこうとした矢先、
「マース……」
「っ!」
柔らかく名前をつぶやかれて、マースは凍った。背筋を走り上がった快感に視界が眩む。まさかそれほど甘い声で呼ばれるとは思ってもみなくて、上がった息に呼吸が苦しい。
(もう、一度)
名前を呼んでほしい。
(同じ声で、もう一度)
「芽……理っ」
じれったさに顔を掬ったまま呻くと、芽理が唇を開いた。期待に胸を詰まらせて凝視したマースの耳を、紛れもなく同じ甘い声が、けれど、全く違う内容をつぶやいた。
「ごめん……」
「あっ……」
一気に熱が冷えた。
「ひどい……こと……言って……ごめん…ね……」
「芽……理」
我に返る。上掛けを乱し、ガウンをずり落とし這わせかけた手を、自分の膝に抱き込めるほどの華奢な身体を、自分のもののように抱え込んで貪りかけた唇を見て、茫然とした。
よほど疲れているのだろう。芽理は荒々しく抱きかかえられても目覚めない。ただまだぽろぽろと夢の中で泣きじゃくっていて……しかも、それはマースの気持ちを案じての涙に他ならない。
「僕は……」
動けない。手放せない。抱き締めもできない。
「そのまま、やっちまえよ」
「!」
背後からひんやりとした嘲笑が響いて、マースは弾かれたように振り返った。
クリスが楽しそうに壁にもたれてベッドのマース達を見つめている。にやにやした薄笑いが端正な顔を下卑た印象に染めている。
「どうして止めるのさ? 誰も止めないよ。芽理だって拒んでないんじゃない?」
マースは芽理の着衣を整えた。そっとベッドに横たわらせて、上掛けを掛け直す。ベッドを滑り降りて立ち上がり、天蓋から下がったカーテンを閉めて、芽理の姿をクリスから遮り、背後に庇った姿勢のままで相手に対峙した。
「なんだ、もう終わり?」
「いつから居た?」
「ずっと」
クリスはくすくす笑った。
「夕べマージが楽しんでから、ずっとね。知ってた? マージ、わざと日本語使ってたけど?」
「!」
腹の底にある気力をいきなり握り潰されたような気がした。
「芽理を呼んでたろ? それで芽理が来たんだよ。ドアの外でずっと聞いてた」
びく、と体が震えてしまう。それを満足そうにクリスは見遣った。
「マージも気づいてたよ? 芽理は誤解してたみたいだけど」
「誤解?」
「兄さんとマージが寝てるって」
「…………そのために……?」
「うん。芽理だって『健全な若者』だしさ、男と女がベッドで何してるかなんて想像することは決まってるよね? だから、それを煽ってくのも面白いかなって」
(それ、なのに?)
マージとマースの関係を疑った、仮にも自分という存在がありながら、と芽理のことだ、怒り狂っていただろうに。
「それなのに」
クリスが冷たく笑った。
「部屋から出て来たマージを見て一度は引き上げかけたのにさ、芽理って、なんか不思議な子だよね、兄さんが芽理のことを呼んでるって気づくと、部屋に入ってきて、おまけに兄さんが血まみれになってるのにもパニックにならないし。助けを呼びにいこうとまでした。覚えてないの?」
「あ……あ」
クリスに事細かに説明されて、ようやくマースの頭にも記憶が戻ってきた。
「兄さんは、芽理に、一晩一緒にいてくれって頼んでた。それも忘れた?」
(死んでしまえと望んだ相手が)
死にそうになっていたからって、頼まれたからって、一晩共にいなくてはならない理由などなかったろうに。
おそらくはただ、哀れみと同情ゆえに。
憎んでもあまりある相手に、その憎しみを越えて滴った豊かな甘露。
(芽理)
マースは一瞬目を閉じて、胸に広がった深い幸福感を味わった。選んだ相手が真価を発揮したことを知らされた喜び、背後に庇った人物が命をかけるに価するとわかった喜びだ。
「いいよね、芽理ってさ?」
ぽつりとクリスが囁いて、マースは目を開けた。
相手のにこやかな笑みの中に広がっていく限りない悪意に気づいて、体が強ばる。
「よせ」
睨みつけてつぶやいた声がきしるように響いた。相手の邪気のない明るい微笑を消し去ろうとでもするように睨み続ける。
「芽理に手を出すな」
「こわいこわい」
クリスはくすくすと笑った。
「今は出さないよ。兄さんの妻になる、大事な人だ、そうだろ?」
「芽理は……妻にしない」
決意を込めて繰り返す。
「二度と手を出さない」
「おやおや」
クリスはひょいと肩をすくめて見せた。
「じゃあ、どうしてあの娘を選んできたのさ。兄さんだって、ここに連れてくることがどういうことか、わかってたはずだよね?」
クリスはさも驚いたふうに肩を竦め、窓際に寄って外を眺めた。
プラチナブロンドの髪に日が跳ねて光っている。そうだ、かつてマースも同じ髪を持っていた。
(あのころは、こんな運命が待っているなんて、誰も教えてくれなかった)
失ったものの大きさ、これから失い続けるものの大きさに、体が竦むのを感じた。
(芽理を失って……僕は、本当に生きて、いけるんだろうか)
「誰も、兄さんにあの娘を選んでこいとは言ってなかったはずだよ」
クリスはまばゆそうに目を細めながら、
「バルディア内で構わない、どんな娘でも構わないとさえ言ったはずだ。それを、わざわざ世界を巡ってまで捜し出すと言い出したのは、兄さんだろ?」
クリスは肩越しにちらりとマースを見た。
「愛してる、とか? まさかね。愛してる娘なら、兄さんはなおさら選べないよね」
マースの胸にことばの棘が突き刺さったのを確かめるように嗤った。
「ま、いいや」
答えないマースに苛立ったふうもなく、クリスは視線をマースの体に走らせた。
「次は僕の番だね。変に助けなんか呼ばないでよ。せっかくの楽しみがめちゃくちゃになるからさ」
舌なめずりしながら、
「でも、どうしても無理なら、いろいろと考えなくちゃ、ね、兄さん」
クリスは唇をつりあげた。禍々しい、悪意に満ちた微笑みだった。
「今更だろう、兄さん? そう生まれてきたんだから。兄さんは僕たちに逆らえやしない、そう定められているんだから」
クリスのことばはマースの心を砕いていく。いつもゆっくり、でも確実に、マースの身動きできなくなる場所を狙って、逃げ場がなくなるように責めてくる。
「兄さんは一族の中でも優秀だから、僕も嬉しいよ。何せ、傷つきやすくて感じやすくて、そのくせ一番回復が早いものね。マージの傷ももう治ってるんでしょう、さすがだよね」
マースは唇を引き締めた。手足の先から這い上がる物憂い疲労感に座り込みたくなる気持ちを堪える。
(終らない)
傷みも苦痛も絶望も。
消えて崩れていく夢の残骸を、こうしていつも見ていることしかできない。
「ああ。でも、大丈夫だよ。『闇と光の祭』までは無茶はしないから。今年はラピドリアン伯父さんが来るからね、兄さんには元気でいてもらわなきゃ。ラピドリアン伯父さんの趣味を知ってる? 思いっきり時間をかけて楽しむんだよ」
「いやに今日はおしゃべりだな」
マースは遮った。ふと気がついて、
「芽理のせいか?」
「まあ、ね」
一瞬ためらったクリスは、薄い笑みを返した。
「あの娘は今は兄さんのものだけど、考えてみればさ……僕にもいいかなと思ってさ」
「だめだ」
ひやりとした怒りが爆発しそうになって、マースはかろうじて抑えた。
「芽理はだめだ」
「ふふん、だからだって、わかんないのかな」
クリスはほくそ笑んだ。
「芽理を使えば、兄さんはもっと苦しむ、よね?」
マースは凍りついた。考える間もなく言い放つ。
「芽理は関係ない」
「僕はさ、さっきみたいに、兄さんがあんなに幸せそうに見えたこと、なかったよ」
クリスのことばに致命的なミスを犯したと気がついた。
「芽理がいるだけで、兄さんはとても幸せなんだね。そんなこと、許せるわけないよね?」
クリスはにっこりと笑った。
「辛いのも『祭』までだよ、兄さん。もっとも、兄さんは強いから、きっと最後まで僕達を楽しませてくれるだろうけど」
ことばを返せないマースに、クリスはくすくす笑ってドアを開けた。出て行きながら、
「きれいだよ、兄さんの黒髪」
「…」
閉まったドアを見つめたマースは自分が微かに体を震わせているのに気づいて舌打ちした。
甘くて切ない夢を見た。
憧れ愛おしいと思う、優しい男性の胸で眠る夢。
互いの間にあった誤解と不安を越えて、ようやく気持ちが結ばれていく、未来への誓いと約束の夢。
安心と幸福に心が膨らんで温かくなる。
「ふ…」
芽理は吐息をついて目を覚ます。
静まり返った部屋の中、朝日がまばゆく差し込んでいる。
アシュレイ家の大きな窓を通して入った太陽光は、細かな粒となって、床に、カーテンに、壁に当たって砕けていた。砕けた光はより細かな霧になって、天蓋から下がっているカーテンのレースを通り、ベッドに散っている。
「きれい…」
それらをゆっくり眺めて、ベッドまで視線を降ろした芽理は、そこに、とっくに目を覚ましていたらしいマースが座って、例のごく薄い青の目で、瞬きもせずに自分を見つめているのに気がついた。
マースの瞳も光を跳ねて輝いている。まるで極上のダイヤモンドを思わせる見事さだ。
(きれいな、青)
この美しさにどうして気がつかなかったのだろう。
(みんなはすぐに気づいていたのに)
マースは生真面目な表情で芽理を見ている。芽理が何を考えているのか推し量るような表情だ。
とたんに、芽理の脳裏に、昨夜のことが甦った。跳ね起きるように身を起こして叫ぶ。
「マース! けが! 大丈夫?」
だが、返ってきた応えは予想を裏切った。
「怪我? 何のことだ?」
目が覚めたことを確認しただけと言うようなそっけない仕草で立ち上がり、マースは天蓋のカーテンを開いた。
「まぶし……」
「君は夜中にいきなりやってきて、僕が驚いてる間にさっさとベッドで眠ってしまった」
光を背中に受けて逆光になったマースが不愉快そうにつぶやく。
「寝ぼける癖があったとは知らなかった。今度からドアには鍵をかけておくよ」
「え……え? だって? え?」
芽理は混乱してベッドを見回した。
ふんわりした枕、熱の籠った上掛け、もちろんシーツにもシミ一つない。
(だって、でも、それは)
マースの血が零れ落ちて染み通っていたはずの場所は見事に何の跡も残っていないが、それは昨夜マース自身が説明した通り、彼の身体が特別だったからではないのか。
片手をあげて日射しを遮りながら、ベッドの側でのっそりと立っている相手を見上げた。
マースはタートルネックの黒っぽいセーターと灰色のスラックスを身につけている。昨夜の乱れた気配など、どこにも見当たらない。端正で整った姿、訝しげにひそめた顔には困惑が広がっている。昨夜は潤んで熱っぽく懇願していた瞳は今はひんやりと澄んだ水のようにこちらを見返しているだけ、やがて、皮肉な微笑に薄い唇が歪んだ。
「それとも……君も結構僕のことを気に入りだしたのかな? いきなり夜這いされるとは思ってなかったが」
「夜這い……?」
「日本では男性がするものだと聞いていたが、女性でもするんだな。よっぽど飢えていたのか、男に?」
「な……に……?」
(男に、飢えてた?)
意味が通ったとたんに視界が眩む。
「幸いに仕事があって、そこにいなかったからよかったようなものの。これだから油断できないよ、女っていうのは。言ってることとすることがすぐにずれてくる……っ!」
ぱん、とマースの頬が鳴った。
立ち上がりざまに芽理が片手を閃めかせたのだ。
あまりの意外な行動に避ける間もなかったのか、思い切りくっきりと左頬に手形をプリントされて、マースが惚ける。
「今夜一晩側にいろって言ったのはそっちでしょ」
「は?」
「何でかわかんないけど、血まみれになってて! マージと何やってたのか知らないけれどっ!」
昨夜の光景を思い出して、芽理はぞくりとした。
(死んでるのかと思った)
顔も真っ白で、呼吸も弱くて、意識も虚ろで。
「血まみれ? 僕が?」
くく、と低い笑い声を上げて、マースが顔を歪めた。
「えらくスプラッタな夢だな。それとも君の願望か?」
「夢なんかじゃない、何、願望って……っ」
一瞬自分の弱いところを指摘されて芽理は声を呑んだ。
(私は、あんなことを、望んだ)
だからマースが傷ついた、そんな気持ちが胸のどこかに澱んでいる。
「でも、絶対夢じゃない、身体がずたずたになってて、血がいっぱい流れてて」
「どこに?」
間髪入れずに問い返されて、再び芽理はことばを失った。
「それだけの状況なら部屋もベッドも汚れてるはずだね? どこにそんな汚れがある?」
平然と問い返すマースの顔にためらいも怯みもない。
「それに」
くすり、と妙な笑みを浮かべてセーターの裾を摘んでみせる。
「そういう状況ならこんなふうに平気で立っていられるとは思わないが。それとも、脱いで見せるか? お望みなら」
「っっ!」
意味深に声を揺らされて、芽理は全身が熱くなった。
「誰がっ」
「マージがどうのこうのと言ってたようだが」
マースはなおも追い打ちをかけるように皮肉な微笑を深める。
「君は少なくとも寝ぼけるだけじゃなくて、盗み聞きの癖もあるということなのかな?」
芽理は目を見開いた。
確かにマージとのやりとりを盗み聞きしていたのは事実だったし、何よりもそれをマースに知られてしまったということが、思った以上にショックだった。
マースが黙り込んだ芽理を冷ややかに見つめる。
「最低だな」
吐き捨てた。
氷河なみに凍りついた表情で、
「僕は人選を誤ったらしい。だからといって、返品もきかん。もっとも、君がこの先一生働いて金を返してくれるなら、相談に乗らないこともないが? 僕としても由緒あるアシュレイ家に男を求めて夜中にふらふらするような女を迎えるわけにもいかないからね。どうかな?」
(男を求めて夜中にふらふらする、女)
そういうふうにマースは自分を見ているのか。
我に返って乱れたガウンを急いで整えながら、芽理は、自分が小刻みに震えているのに気がついた。視界がにじみ、ぼやけて今にも融け落ちそうだ。
「そういう女ほど、涙をうまく使うな」
芽理の状態を見てとったらしいマースがことばを重ねてくる。
「涙で人を操ることに慣れてもいるなんて、つくづく失望したよ」
もう、限界だった。
「…ばかっ!」
思いっきりわめいてマースの側をすり抜け、部屋を飛び出していく。
(ばか! ばか!)
胸の中で罵倒を繰り返し、芽理は唇を噛んで階段を駆け上がった。部屋に飛び込み、ガウンを脱ぎ捨て、そのままベッドに投げつける。荷物を片付けさっさとこの屋敷から出ていってしまえ、そう思った瞬間に、それが叶わないことであることを思い知る。
「ばか…」
全ては夢だったのか。単に手の込んだお芝居だったのか。
それとも、どこかで誰かが、芽理が泣いたり心配したりうろたえたりしているのを見て、楽しみ面白がっているのだろうか。
ふっと何か白いものが出ようとしていたような壁を思い出し、けれどそれこそマースの身体以上にありえない話だと自分で首を振った。
よろめくように部屋のソファに腰を落とす。
(でも、もっとばかなのは私だ)
どうしてだろう。これほど悲しくて腹立たしくて怒っているのに、マースがいつもと変わらず元気でいて、傷も負っていないし、昨夜みたいに壊れそうに見えないことに、どこかほっとしている自分がいる。
「……ばか……」
(私は愛さないって言ってたのに)
マースは芽理を愛さない。
(私は……ああ……そうか……そういうこと、なのか)
芽理は、愛さない。
けれど芽理以外、ならば。
(つまり、マージだったなら)
昨夜の出来事はそれを芽理に遠回しに知らせるためのものだった、のだろうか。
芽理は立ち上がり、のろのろとベッドに近寄った。
叩きつけたガウンを拾い上げる。そっと胸に抱き締める。
「でも、私は……」
その後のことばを芽理は涙と共に呑み込んだ。
朝食には結局出なかった。
どこで脱ぎ飛ばしてしまったのか、室内ばきもなかったし、胸に重い塊がつかえて何も喉を通りそうになかった。
怖かった。
さっきあんなことがあったのに、のうのうと澄ましていられるのかとマースに嘲笑われるのも怖かったが、マースに笑われるのを不安がってる自分がより怖かった。
(マースに、嫌われたくない、んだ)
自分の気持ちに気づいてしまうと、そしてそれが、マースが軽蔑して嘲笑ったそのままの気持ちだということがわかってしまうと、身動き取れなくなってしまった。
(こういう怖さって……初めてだ)
逃げることも叶わない。会わないわけにもいかない。かといって、会ってもどう振舞えばいいのかわからない。無意識に気持ちが肌身を破って零れて出してしまいそうだ。
ベッドに無言で座っていて、このまま何十年でもたってくれればいいと思えてくる。
(どうしよう)
初めての気持ちだ。とても愛しい気持ちだ。相手の無事が心底嬉しい。
けれど、相手にその気持ちが受け入れられる場所はとっくにない。
(どうしよう)
形だけでも繋がっていると感謝すればいいのか、形だけしか繋がっていないと恨んだ方が正しいのか。
その応えが出ないと、何もできないような気がする。
きりきりと痛む胸を抱えていると、唐突にノックが響いた。
「はあい!」
きゅ、と唇を引き締めて、できるだけ明るく答えを返す。
「いいかしら、芽理」
艶のある声が響いて、一瞬体が竦んだ。
(マージ……)
「朝食、持ってきたの」
重ねて呼び掛けられて、仕方なしに立ち上がる。
そっとドアを開けると、銀色の盆にパンや紅茶のポット、サラダなどをのせて、マージが入ってきた。肩に少し触れる程度の銀色のくせっ毛が、部屋に差し込む陽光にきらきらと光輪のように輝いている。
(きれい、だよね?)
比較しても仕方のないことだけど、一瞬自分の髪の毛がプラチナブロンドならばマースも少しは気に入ってくれたかと情けないことを考え、慌てて首を振ってそれを頭から追い出した。
「泣いてたの、芽理」
マージは細い三日月のような眉を寄せて、心配そうに尋ねてくる。テーブルに盆を置いて、紅茶をカップに注いでくれながら、
「また、マースが何か言ったのね」
桜色の唇からこぼれた日本語は、なまじの日本人よりきれいな発音だ。
「ううん、ちょっと勘違い、して」
勘違いなどではない。マースは、芽理が男を求めてふらふらするような女だと言った。自分は迷惑していて、この先面倒ごとをかけないでほしいとも曖昧ながら伝えてきた。
「そう……」
憂いを帯びて緑がかった灰色の瞳が芽理を見た。その顔にどうにも昨夜、マースの部屋からでてきた姿が重なって、つい目を逸らせてしまう。
(この人が)
マースを傷つけた? いや、とてもそうは思えない。
(やっぱり、寝ぼけてた、のかなあ)
けれど、マージがマースの部屋から出て来たのは確かで、その直前に部屋の中で響いていた濡れた物音も夢ではないと断言できる。
(なら……やっぱり)
一番ありそうなこと、マースはマージと逢瀬を重ねていて、カムフラージュのために芽理が必要だっただけ、芽理でなくてもマースに惚れ込みそうもない女なら誰でもよかった、というのが真相なのだろう。
「…かしら?」
「え?」
マージの唇が動いていたのが、何かを話しかけていたのだと気づいて、芽理は慌てて相手を振り向いた。
「ごめんなさい、なんて?」
問い返すと、マージは困ったように瞬きした。どうやら一番言いたくないことを説明した後だったらしく、小さく溜め息をついて、言い直す。
「実はね、今日から、この屋敷にお客様が来るの。少しずつだけど、最終的にはかなりの数になる予定で……大きなお祭りがあるのよ。この地方独特のものなんだけど、アシュレイ家が主催するの」
マージは少しためらった。
「朝食のときに、それを話そうと思ってたの。でも、芽理は食べたくないって来なかったから」
「ごめん、なさい」
何とか笑みを押し上げて見せる。笑みに力を得たように、マージが隣に腰を降ろしてうなずいた。
「それで、とても悪いんだけど」
ことばを切って、困った表情で笑う。
「マースの部屋で一緒に寝てくれないかしら」
「え? ええっ」
芽理はうろたえた。
(マースと一緒の部屋?)
「あ、もちろん、マースと一緒にというんじゃなくて、マースの部屋の続きにもう一つゲストルームがあるの。寝室が別で居間が共用、という形になるんだけど……それでもだめ、かしら?」
「でも……」
それでもあなたはいいの?
尋ねかけて、芽理はマージの鮮やかな微笑みに気づいた。
(そっか……)
マージは芽理のことなど、何とも思っていないのだ。恋人が芽理と続きの部屋に寝泊まりしようが、それで芽理とマースがどうにかなるなんて考えもしていない。
きっとマージとマースの間に確かで強い繋がりがあるのだろう。そしてそれはマースと芽理が同室になるぐらいでは揺らぎもしないものなのだ。
(一緒の部屋になっても……来る、のかな。それともマースが行く……のかな)
考えるだけで胸が塞がる。
「ね、芽理?」
マージが覗き込んでくる。
芽理は思いついたように紅茶のカップを取り上げた。
「はい、いいです」
答える声が掠れたのを紅茶を呑み込み、ごまかす。
「ありがとう。マースには話しておくし、お部屋の用意もしておくから、昼過ぎになったら荷物をまとめて移ってもらえると有り難いんだけど」
(マース……)
芽理は無理にパンを口に詰め込んでそれ以上答えなかった。
(芽理)
部屋を飛び出した芽理は室内ばきを忘れていった。
ベッドの横に置き去りにされたそれが、まるで芽理に見捨てられた自分のようでいたたまれなくて、朝食から戻ってからそっと拾い上げた。
(食事に来なかった)
当然だろう、と胸の奥で苦々しい声がする。
あそこまでひどいことを言われて、傷つかない人間なんていやしない。
(夕食も来ないかもしれない)
昼はマースは仕事で同席しない。
(この先ずっと来ない……?)
自分が招いたことなのに、それを思うと胸が苦しい。
ゆら、と壁が揺れ動いて、はっとマースは室内ばきを降ろした。ベッドに寄せて隠してしまう。
壁が波打ち、まるで柔らかなゼリーのように蠢いていたかと思うと、ぬるりと白い指先が突き出した。そのままずるずるとはみ出てくるのは、クリスの姿だ。粘稠性のある液体をくぐり抜けてきたように、少ししっとりとした髪をかきあげながら、妙な笑みを浮かべてみせた。
「朗報だよ、兄さん」
無言で見据えるマースに笑みを絶やさないまま、壁の中から半身突き出した状態で続ける。
「芽理が向こうの部屋に来るからね」
「え……」
指し示された部屋を見て、マースはぎょっとした。居間を挟んで一部屋向こう、友人などを泊めるために用意されているゲストルームだ。もちろん、互いの部屋は壁一枚ずつで遮られているだけ、ドアを開け放てば一室も同然になる。
「そんな……」
「マージがさ、やっぱり恋人同士ならそうしてあげるべきだってさ。さすが女性だよね、考えることが違うよ」
クリスが笑みを含む。
(芽理が近くに来る)
胸が轟くのを感じた。
食事の席を待たなくても、居間で顔をあわせるかもしれない。時には一言二言会話できるかもしれない。たとえ憎まれ口や罵倒でも、声が聞けるかもしれない。
だが、そう思う一方で、それを提案したマージや楽しげに報告しに来たクリスの意図に気がついた。
「クリス……」
「ああ、次は僕の番だからさ」
引きつったマースの声に、クリスが笑う。再び今度は、少しずつ壁の向こうに身を沈めていきながら、きらきらする瞳でウィンクして見せる。
「声を上げてもいいよ? 助けを求めたっていい。芽理に聞こえて構わないならね? ドアは開け放しておくんだから、きっとよく聞こえるよ」
「ク……リス……」
にらみつけたマースにクリスが笑みを広げる。
凄絶な、殺意に満ちた笑み。
「声をあげなよ。芽理の前で僕に屠られて弄ばれて……さぞかしいい声で啼くんだろうね?」
「クリ、ス!」
とっさに投げつけた時計は波打つ壁に遮られて、その奥に消えたクリスには届かない。
「く……そっ……!」
しばらく体を震わせながら立っていたマースは低く呻き、やがて顔を覆ってうなだれた。
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