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5.吊られた男
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『見よ、これがその証』
夜がまたやってくる。
マースは強ばった顔でベッドに腰をかけたまま、正面のドアを見つめている。
固く閉ざされたドアの向こうには、マースのデスクの置かれている広々とした居間があり、その部屋を横切ればゲストルームのドアがある。
その向こうには、数日前から芽理がいる。
(芽理)
たったドアニ枚のことなのに、たった二部屋のことなのに、その距離が彼女が日本にいるときよりも遠く感じるのはなぜだろう。
『マージに言われてきました。ここのドア、開けないでいいでしょう?』
荷物を持ってきた日、胸をときめかせて待っていたマースに、芽理は淡々とした口調で告げた。それはもうマースのどんなことばも受け入れない頑さに満ちていて、うなずくより他なかった。
(ドアは……開かない)
たぶんこの先ずっと。
どんなに待っても、どんなに望んでも、マースには開ける術がなく、芽理には開ける気持ちがない。
(いや……違うか……また、クリスが)
暗い笑いをにじませた矢先、ぴとん、と微かな水滴の音がして、マースは振り返った。
手の込んだ織物のかかった壁が波打ち、細く白い指が突き出す。空中にすがるものを探すようにくねりながら、揺れながら、次第に突き出てくるそれがわずかにぬめり光り、けれど瞬く間に渇いていくのをマースは緊張しながら見守った。
(いつになっても慣れない)
目を伏せて薄笑いを浮かべたクリスが、腕から肩を、やがて体を壁から抜き出してくるのに、身体の芯が竦んでいく。逃れることはできないか、何とか楽にしのげないかと、あるはずのない可能性を心のどこかで必死に考えていると、気持ちが緊張に疲れ果て半透明にあやふやに形を失っていく。
「なんだ、『待ってた』の」
クリスが冷ややかに笑って、マースは唇を噛んだ。
「楽しみにしてるんだねえ……脱いで」
マースは無言で立ち上がった。着ていたセーターを脱ぎながら、クリスが部屋を横切っていくのを視界の端で確認する。
「下もだよ……全部……ああ、なんだ、わかってるんだ?」
クリスが寝室と居間のドアを開け放ちながら続けて振り返り、くすくすとスラックスを脱ぎ落としかけていたマースを嘲笑った。全身がみるみる熱くなる。確かに下も、と命じられる前に脱ぎ出していたのに、これは逃れようのないことなのだと諦めている自分を感じ取って居たたまれなくなる。
スラックスを手にしたまま、マースが凍りついていると、居間を横切ってクリスが芽理の部屋に近づき、境のドアを開く音が聞こえた。それほど待つまでもなく、クリスが戻ってくる。にやにや笑いながら、
「よく眠ってるみたいだ。そのうち、起こしてあげるけどね?」
ふる、と微かに身体が震えたのは、裸になったせいだけではないだろう。皮膚が粟立ったのは芽理に気づいてもらえるかもという喜びよりも、そこまで我を失うほど責められる予感のせいかもしれない。
「全部だよ? ……ベッドに寝てよ、今は俯いててもいいからさ」
マースは下着を落としてベッドに寝そべった。
ひんやりと冷たいシーツにまた身体が震える。目を閉じると、背中にクリスが身体を跨いでのしかかる重みがかかる。
「震えてるね?」
ゆっくりと背中をクリスが指先で撫で下ろす。そっと、幾つも、まるで設計図を描くように指先で線を書いていく。繰り返されていく曖昧な柔らかな感触にマースの気持ちが緩み始めた矢先、ずぶ、とその指先が背中に穴を穿った。
「……っ!」
かろうじて声を殺したものの、突き込まれたままの指が容赦なく奥へ、蠢きながら肉を掘り込んできて、激痛が一瞬ごとに倍加していく。すがりついて握りしめたシーツが指先で粉々になりそうだ。汗が吹き出る。気持ち悪いねとつくような、けれど異常に熱い汗、そのもの自体が肌を裂いていくように流れ落ちていくのがわかる。
「どこまで頑張れるのかな……今夜は芽理の部屋のドア、かなり広く開けてきたよ?」
「っ…………っっ……!」
突き込まれた指をそのまま一気に腰まで引き降ろされて、マースは跳ね上がった。仰け反った喉から絞り出しかけた悲鳴を、それでも噛み殺して唇を噛み、ベッドに崩れる。背中に真っ赤に焼けた鉄の棒が埋め込まれたようだ。熱く溶けた金属の塊が傷から溢れて流れ出していく。
「きれいな色さ」
「っ!」
再びその棒の真横に次の穴が穿たれた。肉が引きつれねじ込まれるのをお構いなしに、今度は二つ三つと指が突き込まれ、しっかりと掴まれ、意識が飛びかける。
「鮮やかな血の色」
「ぃ……っっ……っ!」
クリスが掠れた囁きを漏らして、その指先を再び腰へひき降ろし、朦朧としかけた意識が叩き起こされた。身をよじらなくては耐えきれない痛みに、けれど腰をのしかかられていては身動きできず、マースはシーツを必死に引き寄せもがいた。視界が滲み砕け弾ける。何度も開いた口を壮絶な意志で引き締める。
(芽……理っ……!)
呼吸が上がって胸が苦しい。汗なのか涙なのか、濡れた顔に髪が張りつく。シーツはどれほど引き寄せても身体を支えずへなへなと崩れる。それでもなおすがりつく、その身体の頼りなさに喘いでいると、いきなり下半身を握り込まれて硬直した。
「兄さん、ほんとは気持ちいいんだろ?」
荒い呼吸でクリスが耳元に囁いてきた。
「マージが夢中になるのわかるよ、こんなことされてるのに、こんな状態になってさ、泣きながら喘がれて……おかしくならないやつがどうかしてる……ねえ、気持ちいいんだろ?」
「ち……が……」
焼けつくような喉から必死に声を絞り出す。
「何が違うのさ……兄さんの身体はそんなこと言ってない……そうだろ? もっと、って言ってるんだろ? もっと引き裂いてくれ……ってさ」
「ひ……っ…………!!」
クリスが揺れる声でつぶやいたとたんに、腰を中心に捻るように身体をひっくり返されて、マースは思わず声を上げた。視界が一気に暗くなり、力が抜け、意識が飛ぶ。だが、それもまた一瞬、ふっと生温かなものが首筋にあたったかと思うと、がぶりと食いつかれて思わず目を見開いた。皮一枚を歯で噛みながら、そのまま肉を引きむしる野性の動物のように顔を振るクリスの髪に鮮血が跳ね散る。顔を上げてにんまりと笑う顔は修羅、真っ赤に濡れた口元をゆっくりと舌で舐めると、その味に誘われたようにマースの胸へと口を落としてくる。
「おいしいよ、とても……もっと楽しんで……兄さん」
「っ!……っ……っ!!」
三度、今度は両胸に尖った指を突き立てられて引き裂かれ、マースは身悶えして顔を振った。噛み殺す悲鳴も限界、ともすれば食いしばった唇を突き破って助けてくれ、と叫びそうになる。
(芽理……っ……芽……理……っ)
気を失ってしまえればいいのに、激痛にそれができない。むき出しにされた神経の先を1mmずつ切れ味の鈍い鋏で切り取られていくようだ。
「ねえ……認めろよ……認めてしまえよ……気持ちいいんだろ、ねえ、ほら、こんなにさ? 身体がそう言ってるよ?」
血で汚れた顔に嬉しそうな笑みを広げて、クリスがまたマースの下半身に触れた。
「べたべただ……なんでかわかる? 気持ちいいんだ、そうだろ、兄さんがいくら違うって言っても……身体ってのは裏切る…………気持ちいいからだろ?」
「ちが……う……っっっ……くぅ!」
否定しかけた声が絶叫になりかけ、マースは唇を噛み締めた。クリスがもう片方の手を引き裂いた傷を押し広げ抉りながら腹の奥へ進めてきたのだ。熱く大きな塊がそこから見る見る四肢を駆け巡り、先を争う軍団のように胃から喉へ競り上がってきて、マースは思わず口を開いた。
「あふ……っ」
がぶっと無気味な音をたてて口から溢れた血が喉を胸をしとどに濡らす。大量の血を失ってみるみる身体が冷えてくる。
「まだだ、まだだよ、そうだろ……兄さんはまだ僕の名前も呼んでくれないものね? それとも呼ぶのは芽理の名前だけ? マージは怒ってたよ、芽理の名前を呼び続けたって……イクのに彼女を思ってるわけ?」
なお深く入り込むクリスの指が内臓を掴み引きずり出そうとするように蠢く。強烈な吐き気と急速に身体から搾り取られる気力、口を閉じていることさえもうできない。流れ続けている涙がにじませる視界に、クリスの顔が醜く歪む。
「マージ……そうだよね、マージは……女……だもんな」
低く苦しげなクリスの笑い声が零れた。
「男の身体がこうなってれば……欲望があるって思うんだよね? こちらの気持ちがどうであれ、快楽を感じている、と思うんだ……僕も女なら…………そう思って楽しめたんだよね……?」
「……っ」
再び強く握られてマースは朦朧としていた意識を呼び戻された。
口を閉じていなくても、もう声にならない。悲鳴もあげられない。クリスが握り込んだ腹も下半身も冷えて強ばりつつあって、まるで自分のものだと感じられない。
「けど……僕は男だからわかる……わかってしまう……これは……違うんだ……兄さんはもう死にかけてる……次の命を残さなきゃならない……だから……」
うねるように遠くから近くから、クリスの声が闇から響いてくる。クリスの鮮やかな青い目がじっとマースを見下ろしているのを感じる。
「ここで僕はやめなくちゃいけない……兄さんを失わないためには、ね」
「っっ!!」
いきなり両方の手を引き抜かれ、しかも行き掛けの駄賃とばかりに引っ掻かれて、身体が無意識に跳ね上がった。残っていた理性が砕け散る。弾けるように生温い液体が身体を汚すのにももう反応できずに、ただただ必死に空気を貪る呼吸を繰り返す。
「忌々しい……身体だ……愚かで欲に塗れてて、いつも気持ちを裏切って」
クリスは吐き捨てるようにつぶやいた。
「こんなものにいつまで縛られてればいいんだ」
陰鬱な声で続けると、ぐいとマースの顎を掬った。
「兄さん……」
ぐったりとベッドに四肢を投げ出しているマースに屈み込み、血と汗と涙に汚れた顔を掌で拭った。うっすらと目を開けたマースの瞳を覗き込む。
「僕はときどき終わらせてもいいと思うよ。兄さんを殺してあげてもいいって。でも……でもさ」
クリスはそっと、マースが大切に飼っている小動物であるかのように顔を擦り寄せてきた。耳元に声を直接吹き込むように唇を寄せ、
「その後僕はどうなるんだって思うと……たまらない……ぞっとする……兄さんなしでどうやって生きていけばいいんだろう? こんな無様で扱いづらい身体と未来永劫やっていくなんて……それこそ地獄じゃないか? それぐらいなら……それぐらいならさ、兄さん」
引き裂かれてずたずたになっている身体を引き寄せられ、抱き締められて、マースは眉をしかめて仰け反った。ようやくおさまりかけた呼吸が痛みにみるみる速くなる。
「っ……」
「それぐらいなら、僕は未来永劫兄さんを傷つける方を選ぶよ」
甘いとさえ聞こえる声が響き、唐突にマースは床に投げ捨てられた。
「っく」
衝撃に呼吸が止まった。止まりかけていた血がまた流れ始める。寒さと吐き気が襲ってきて、マースは身体を抱きかかえた。痙攣する手足が冷たくてだるい。
「おやすみ……いい夢をね……芽理が気づいてくれるといいね?」
くつくつとクリスが笑いながら遠ざかっていく。
絨毯は敷いてあるとはいえ、ベッドにくらべれば格段に固い床に落とされて、またしばらく意識が消えていたらしい。
(芽……理……どこに……いる……?)
夢を見たような気がした。
遠い昔、日本を訪れて初めて芽理を見たときのことだ。側にいた水尾が呆れていた……そんなに女を見るもんじゃない、飢えてるのかって思われるぜ……。
(飢えてるよ……僕は……君に……ずっと飢えている……)
手に入らないと知るがゆえに。手に入れてはいけないと言い聞かせるがゆえに。
(芽理……)
このまま夢の中で死にたかった。
芽理の笑う鮮やかな幻の中で。
気がつけば、冷えた床に身体を丸め、がたがたと震え続けていた。
相変わらずの全裸で背中と胸の傷はかなり回復はしてきていたが、腹に開いた穴が塞がるにはまだ時間がかかりそうだと気づき、のろのろと床を這って戸口に近づく。近くのテーブルにすがって体を支え、気力を振り絞って立ち上がると、それでもなおぼたぼたと腹から血が零れた。仕方なしに片手で押さえて壁にもたれ、何とかドアの側まで歩いていく。開いたドアを引き寄せ閉める、それだけの動作に目の前に霧がかかっていく。
(芽理に……見られたくない)
この間みたいに怪我をしているだけならまだしも、今夜は全裸で、どう見ても自分も納得しての行為にしか見えず、その説明も言い訳もできないような気がする、ばかりか、単純に一瞥するだけでも自分が心を委ねる相手にはしたくないと思われるはずだ。
(嫌われたくない)
もう十分嫌われているのに?
「は……」
そう思って浮かんだ苦い笑みに、少し気力が戻ってきた。ドアを閉めたとたん、きい、と向こうの境のドアが動く音がした。ひやりとしてドアにもたれて息を殺して立ち竦む。
「マース……?」
闇の底を密かに渡ってくるような柔らかな声がした。
(芽理……)
いつから起きていたのか、どこから起きていたのか。血が流れ過ぎて耳鳴りのする頭に、その声の温かさだけがしみ通ってくる。
芽理はしばらく返事を待っていた様子だが、まもなく部屋に引っ込んだらしく、やがてドアが閉まる音がした。どうやら間一髪だったようだ。
(芽理が……僕を呼んでくれた)
半開きになっていたドアを自ら開いてくれ、しかもマースを探してくれた。
無意識に唇が綻んだ。
(君は……いつも本当に……優しい)
思った瞬間に張り詰めていた気持ちが弛んだ。
意識があっさりと闇に奪われ、マースはドアに沿って崩れ落ちた。
眠れていない。
これでもう三日はちゃんと眠れていない。
芽理は寝室のベッドに座り込んで、眩しい朝の光を喧嘩を売られたように睨みつけた。
マースの部屋のゲストルームで休みだしてから、ただでさえ浅い眠りがなお一層浅くなって、昨夜はとうとう起き出して境のドアまで開けて覗いてしまった。
(声がした気がしたんだ)
この部屋に初めて入ったときに出迎えた、マースの珍しく緊張した白い表情を思い出す。境のドアを開けなくていいだろう、と確認すると無言でただただうなずいた。
(それは……そうだよね?)
恋人との密会を形だけの婚約者に知られたいものなどいない。けれど、それはまだ少しでもマースが芽理のことを気にしてくれているからだとついつい思ってしまう自分の情けなさが悔しい。
それから夜になると憂鬱になる。
マージが来るのか、マースが忍び出ていくのかと、無意識に聞き耳をたててしまう。
いつの間にか戻されていた室内履きを脱ぎ捨ててベッドに潜り込み、気にしないようにしようと固く目を閉じるのだけど、いつもなら布団の中で自分の呼吸を聞いているうちに訪れてくる眠りは気配さえ見せず、やがては全身の神経をドアの外、居間の方へ向けている。
実際なぜだか、毎夜わずかに境のドアが開いていることがあって、立て付けでも悪いのか、あるいはマースがこっそりと覗いているのかとしばらくたぬき寝入りで様子を見たこともあったのだが、一度などは妙に荒々しい呼吸や声を密かに耐えているような呻きが聞こえた気がして、慌てて布団に潜って眠ってしまった。
朝になれば大抵ドアは閉まっていたし、すると昨夜のは思い過ごしか、それとも自分の妄想だったかと思うと、改めてマースに聞くわけにもいかない。
(でも……昨夜は……)
無理に目を閉じ羊を753匹まで数えて眠ってしまった後、いきなり誰かに呼ばれた気がして目が覚めた。深閑と静まり返った屋敷には、『祭』のために集まってきたという多くの客人がいるとは思えないほど静かだったけれど、微かに微かに何かの気配が漂ってくるような気がした。
(漂ってくる? ううん、あれは……)
空間を見えない鞭が打つような。生々しくて気持ち悪い温かな風が吹き込んでくるような。
思い出してしまうと、ぞく、と思わず身体が竦んでベッドの上に足を上げ、膝を抱えて丸くなる。
(まるで)
地獄の蓋が開いてるような。
何も起こっているような気はしない、けれど遠くでぱたんとマースの部屋のドアが閉まる音がして、それに思わず起き上がってしまっていた。
(一瞬、同じことになってるんじゃないかと)
マース自身が幻だといい、夢だといったあの血に塗れた光景が再現されているようで。
そんなことはない、そんな酷いことが起こってるはずがないと言い聞かせても、何だかあの夜のように儚い声で呼ばれてるような気がして、とうとうベッドを降り、やっぱり薄く開いていたドアを見つけた。ためらったけれど引き開けて、居間を覗き込んでみれば、そこはしんと何も動くもののない、家具が置かれてるばかりの空間で。
「マース……?」
呼び掛けてみても当然のように応えはない。深く重い溜息をついて、自分の馬鹿さ加減に呆れながらベッドに戻ったけれど、結局それから碌に眠れなかった。
寝不足でいい加減疲れ切っていたし、朝食を済ませたら一眠りしようとダイニングに向かえば、珍しくマースの姿がなかった。
「兄さん? 何だか仕事が立て込んでるんだって……部屋で摂るって。ごめんね、芽理。兄さんにはちゃんと言っておくよ、大事な婚約者と会える貴重な時間を仕事に使わないでって」
「あ、あの、うん、いいの、別に」
慌てて食事を済ませて逃げるように部屋に戻ってきたものの、マースが来なかったことに拗ねてるように取られたかなと、今はかなり後悔している。
(マース……いるのかな)
ちら、と芽理は居間の方を見遣った。
そちらの部屋は静かだけれど、人の気配は確かにしている。とすると、昨夜のおかしな気配は芽理の気のせいで、マースが朝食に来なかったのは本当に仕事が忙しいのだろう。
目を閉じて、そっとマースの気配を探す。
デスクについているのだろうか。それとも一休みしているところだろうか。
ぼんやり想像してみていると、ふいに小さな音が響いた。ぎょっとして目を開けたのは、それが余りにも違和感のある音だったからだ。
オルゴール。
ころころと金属の板を爪が弾く澄んだ音がクラッシックのような曲を奏でている。
(聴いたことがある……えーっと)
授業でいつか習った……そうだ、ショパンの『別れの曲』だ。
マースとロマンチックなオルゴールなんてずいぶん妙だ、マージにでももらったのだろうか、と暗くなりながら考えて異変に気づく。
オルゴールが鳴りやまない。
芽理はドアを凝視した。
まだ止まらない。
マースは仕事をしているのに、どうしてオルゴールなどを鳴らしているのだろう。
そう思った時には身体が動いていた。ベッドを滑り降り室内履きを突っかけて、そっとドアに忍び寄る。
オルゴールは鳴り続けていて、止まる気配さえない。
ごくんと唾を呑み込んで、そっと境のドアを開けた。
日がいっぱいに差し込んでいるデスクにはマースの姿はない。どこで鳴っているのか、鳴り続けているオルゴールも見当たらない。
「マー……」
呼び掛けながら部屋を巡りかけて、芽理は途中でことばを呑んだ。
日射しの当たらないソファの背にもたれ掛かってマースが眠っている。よほど疲れ切っているのだろう、長い睫を閉じた顔に小さく口を開いたまま、穏やかに寝息を立てている。黒々とした髪が凝った刺繍の背もたれに広がり、いつもながら乱れたところなど見たことのないスーツ姿で無心に眠り込んでいるのだ。
その膝に小さな木製のオルゴールが開かれていた。
マースにもこの屋敷にもひどく不似合いな素朴な彫りが施されていて、開いた箱の中には手紙が何通か入っているようだ。片方の手でオルゴールを支え、もう片方の手には封筒を、どちらも見ているうちに眠り込んだらしい主の手からぼちぼち滑り落ちていきそうだ。
(誰からの手紙なんだろう)
本当は人のものなのだから、覗き見てはいけないのだろうけど、余りにも大切そうにしまわれているものだから、そしてまた、あのマースがこんなふうに手紙を保管しているなどと思いもしなかったものだから、その送り主がふいに知りたくなってしまった。
(いい、よね? 私は一応マースの妻、なんだし)
いつでも身を翻せるように、そっと背中から覗き込もうとした矢先、微かにマースが身じろぎした。
「ん……」
「!」
思わず身を引いたが、相手は目覚める気配もない。一瞬震えて持ち上がりかけたまぶたが諦めたように深く閉ざされる。同時に苦しそうに眉がひそめられた。
(何か辛い夢を見てるのかな……)
仕事仕事で忙しかったのだろう、と考えて、夜も夜だしと思いついてしまい、芽理は暗くなった。
(放っとけばいいんだ、楽しくやってるんだから)
胸の中で響いた言い訳に後押しされるように、今度は大胆に体を乗り出して、オルゴールを覗き込む。と、そのオルゴールの蓋にどう見ても素人仕事で後から彫り込まれた、不器用な文字があるのに気づいた。
「?」
どこかで見たような文字、だけどまっすぐすぎる直線とぎこちない曲線で彫り込まれたそれは、木目に紛れ込みそうになっていて、うまく読み取れない。始めの文字はどうやらアルファベットのMのようだ。
(M……マージ……?)
どきりとしてちゃんと綴りを読み取ろうとしたとたん、ふ、とマースの眼が開いた。日射しを浴びてきらりとした光を弾き、すぐに眩そうに伏せられ……次の一瞬、何を見たのか突然気づいたように、マースは叫びを上げて跳ね起きた。
「芽理!」
「わ」
とっさに後じさりした芽理から逃げるように離れたマースがうろたえた顔でオルゴールを抱え込む。芽理の視線に気づいて、慌てて手にしていた手紙をオルゴールの中に押し込み蓋を閉めた。鳴り続けていた『別れの曲』がぷつんと断ち切られたように途絶え、奇妙な沈黙が満ちる。
静寂を破ったのは芽理の方だった。
「そのオルゴール、マースのなの?」
「あ、あ、いや、うん、ああ、その、そうだが」
うっすらとマースが赤くなった。神経質な口調でことばを続ける。
「何か、見たのか? いや、いつからそこに居た?」
「さっきから。オルゴールが鳴り出したのに止まらないから、どうしたのかなと思って……仕事をしてるって聞いてたし」
「あ、ああ、少し、疲れてたから、それで、一休み、してたんだ」
普段のマースからは考えられないほどしどろもどろな口調で答えると、慌ただしい動作で隅の棚の上にオルゴールを戻した。芽理に背中を向けたまま、
「……何か……見たのか?」
「手紙のこと? うん、あ、でも」
誤解されてはかなわないと芽理は急いでことばを継いだ。
「宛名は見てないし、差出人も見てない……ただ、マースがそんなところに手紙を入れておくっていうのがイメージと違ったし」
(何言ってるんだろ、私)
考えてみれば長い間直接話していない。ましてや二人きりの部屋で話したことなどほとんどない。もっと話すべきことがあるような気がするのに見つからない。
「あの……そのオルゴール、誰かへのプレゼント?」
思いつくままに口にしたことばは、マースに衝撃を与えてしまったらしい。激しい勢いで振り返ったマースが食い入るような険しい目でこちらを見つめた。
「どうして……?」
「だって、蓋に名前、みたいなのが彫ってあったから……うまく読めなかったけど」
芽理がそう答えると、相手は露骨にほっとした顔になった。
「ああ……そうだ、な」
「『別れの曲』だったよね?」
「君でも知っているのか」
マースがようやく本来の皮肉な調子に声を響かせて、芽理も少し気が楽になった。
「学校で習ったから」
「君の父親は損をしなかったというわけだな」
「どうして?」
「え?」
「どうして、プレゼントなのに、『別れの曲』なんか選んだの?」
芽理の問いかけに、初めてマースが動揺した顔になった。不安そうに芽理とオルゴールを見比べる。その幼い仕草がスーツ姿のビジネスマン然とした容姿にますます不似合いで、芽理はつい微笑んだ。
その笑みを見とがめたのか、マースが動きを止めた。じっと芽理を凝視する。不自然なほど長い沈黙にそろそろ芽理が耐えられなくなってきたころ、低い掠れた声が何かの台詞を棒読みするようにつぶやいた。
「あれは……僕が愛した娘のために買った」
「愛した?」
あまりと言えばあまりな言い種に、芽理はむかっとした。きつい声で繰り返す。
「へええ、愛した娘には『別れの曲』を贈るんだ、バルディアでは」
その『愛した娘』に自分が入っていないことが悲しくて、精一杯の罵倒を続ける。
ゆら、とマースの体が揺れたように見えた。見開いていた瞳が感情を失い光を失う。
「……贈って……別れる、つもりだったから」
自分がしゃべっているという意識がないのか、漂うような動作でオルゴールの棚を振り返り、のろのろと芽理に向き直り、唐突にぼんやりとした笑みを浮かべた。
「勝ち気で……だけど可愛くて……かばってやりたくて……でも強くて……優しくて」
笑みが蕩けるように甘く広がる。細められた瞳がきらきらと日を跳ねている。
「もし、誰かを選ぶなら、その娘だと決めていた…………僕は、忘れていた……僕はマース・アシュレイで、それ以外ではなくて……でも、その時はそんなことは気づかなかった」
その声の甘さ、笑みの豊かさ、それら全てを胸引き裂かれるような思いで芽理は受け取った。
(なんて、幸せそうに)
なんて誇らしげに話すんだろう、その娘のことを。まるで唯一無二、自分が仕える王女のように。
マースはどこかうっとりとした顔で芽理の方を向いている。これまでも、いやきっとこの先も芽理には向けられることがないだろう微笑に、芽理は吹き上がってくる苦しい気持ちを必死に堪えた。だが、芽理の箍を外すように、マースがもっと柔らかな声でことばを重ねた。
「気づかないほど……夢中だった……けど僕は彼女にふさわしくないから……オルゴールを贈って離れていこうと……でも…………無理だった、みたいだ」
「!」
(マージのことだ)
確信して芽理は唇を噛んだ。
(聞かなきゃよかった)
零れそうになった涙を息を呑んでやり過ごし、相手を睨みつける。
「じゃあ、どうしてその人を選ばなかったの」
(私じゃなくて。どうして本当に好きなマージを選ばなかったの)
聞いたところで、たとえ、その理由がわかってもどうなるものでもない。芽理は形を保つための道具である現実に変わりはない。惨めになるのはわかっていたが、聞かずにおられなかった。
マースが笑みを引っ込める。まるで意識が霞んでいるように、茫洋とした目でオルゴールを振り返り、再び芽理に視線を戻した。ためらい口ごもる、その頬にまた薄紅が広がっていく。
やがて、囁くような小さな声で、マースはつぶやいた。
「大事、だったから」
そのはにかんだ気配に芽理の気持ちがぶつりと切れた。
「……へええええ……そうなんだ、大事だから、マージは選べなかったんだ?」
力いっぱい皮肉りながら、知ってるんだよと嘲りながら、マースの顔にことばを叩きつける。
「大事じゃないから、私は選べたんだ? 道具でよかったから? 金で買ってこれたから?」
言い募りながら情けなさと恥ずかしさ悔しさがごっちゃになってわけがわからなくなってきた。
「……え? マージ?」
ふいにマースが凍りついたような表情になって瞬きした。今の今まで自分が何をしゃべっていたのかわからなかったというような顔、それがやがて焦りと驚きに変わっていく。
「……っ」
口元を片手で覆いながら目を逸らせる、不安そうに何度も支えを求めるようにオルゴールに視線を泳がせる。その目に含まれた安心に芽理の気持ちがよりささくれだっていく。
「そんなつもりで言ったわけじゃ……君を道具だなんて思ったことなんて……」
「思ったことはなくても!」
マースの半端な弁解をきりきりした声で芽理は切り捨てた。
「そんなふうに扱ってるよ!」
「あ」
ひく、とマースがことばを呑み込んだのをきっかけに芽理は向きを変えた。立ち竦む相手を振り返りもせずにさっさと隣室へ引き上げ、境のドアを思いきり音をたてて閉じる。そのまま、溢れて来た涙を抱え込むようにベッドに転がり込んだ。
(ひどいよ、ひどいよ、マース、ひどい)
マージの方が大切だなんてわかっている。今さら言われなくても重々承知している。けれど、それをあんなふうに、芽理には見せたことのない優しい笑顔で教えなくてもいいはずだ。
形だけでも、そうだ形だけでも、愛してるふりだけでも、そうやってごまかしていてくれても……。
(……よくない)
思わず首を振った。
(そんなの嫌だ)
これは偽ものなのだ、幻なのだと言い聞かせて暮すなんてどうやって耐えられるだろう。マースの愛してるのは自分ではないとわかりながら、どうして自分が大切にされていると思い込めるだろう。
(そんなの……無理だ)
「芽理?」
境のドアをノックする音が響いた。珍しく戸惑うように不安定な声が呼び掛ける。
「芽理?」
答えられない。答える術が、答えることばが見つからない。自分がマースには全く不必要なのだということを呑み込むだけで今は精一杯だ。
「芽理、君を傷つけるつもりはなかったんだ……僕は……ただ……」
ことばが後を続けかねたように途絶える。
(そうだ、わかってる、わかってる!)
最初からそういう『約束』だったのだ。愛はない、気持ちはないと言われていたのだ。
(わかってるから、もう言わないでよ!)
耳を塞ぎ目を閉じて、芽理はベッドに深く体を埋めた。
結構長い間泣いていたように思ったが、疲れてしまってベッドからはい出してみれば、時計は昼近くになっただけだった。
(結局、この程度なんだ)
ごしごしと目許を擦りながら起き上がると空腹を感じた。部屋の隅の洗面所で顔を洗い、気を取り直して境のドアを開けてみれば、もちろんもうマースの姿はない。
(泣いてても、私のことなんか気にならないんだ)
マージならば一晩中でも抱き寄せて慰めるんだろう、そう思うと辛くなったが、重い溜息をついて体に溜まったものを吐き出してみれば、妙に虚ろな感覚が残っているだけ、死にたくなるほど辛いわけでもなかった。
のそのそと足を引きずるように昼食を摂りにダイニングに向かう。今はクリスの明るい笑顔や楽しい話題が欲しかった。おいしいものを食べて、空っぽの胃なりと満たしたかった。
昼食は幸いに芽理の好きなものばかりだった。
おまけにクリスが「街の図書館に出かけてみる?」と誘ってくれてほっとした。
「でも……私、バルディアのことばとか読めないし」
「外国のものあるし……ああ、それにインターネットも接続できるよ? 久しぶりに日本のこととか知りたくない?」
「ネット……ああ、そっか」
家でも豪三が仕事用だからとめったにパソコンに触らせてはくれなかったけれど、友達の家や学校などでは扱ったことがあるし、やり方も知っている。
「行きたい……連れてってくれる? あ、マースに怒られる?」
「いいよ」
クリスはウィンクした。
「兄さんだって芽理がそんな顔してるなら、ほっとくなって言うと思うよ?」
「そんな顔?」
「泣いてたみたいな顔」
「あ、は」
じんわりとクリスの優しさが身にしみて、芽理は新しくにじみそうになった涙を慌てて飲み下した。
昼食後クリスの運転する車で街外れの図書館に出かけた。クリスがあれこれ手続きしてくれて、パソコンを開いて覗き込み、そこに見なれた漢字とひらがな文字を見つけて、思わず歓声を上げてしまった。
「どうする? もう少し見てる? 僕は向こうに用事があるけど……一人で大丈夫?」
「あ……うん」
「帰るときに迎えにくるよ。そんなに喜ぶなら、また連れてきてあげる」
「ありがとう、クリス」
軽く手を振って離れていくクリスを見送り、手始めに検索をかけようとして、手元のバッグを落としてしまう。それを隣にいた席の男性がすぐに手を伸ばして拾ってくれた。
「あ」
(ありがとう、ってどう言うんだっけ)
口ごもってそれでも手を差し出した芽理だったが、相手はバッグをなかなか渡してくれない。ばかりか、
「紫陽くん?」
唐突に懐かしい名前を呼ばれて芽理はぎょっとした。改めて相手の顔をまじまじと見る。白いセーターに紺のジーンズ、髭面にはなっているけれど、確かにそれは前に近所に居た大学生、水尾集だ。
「水尾さん?」
半信半疑で問い返すと、相手は変わらぬ無邪気な笑みを返してきて、
「やあ、なんだ、マースのやつ、とうとう君を呼び寄せたのか」
「え……え? ……マースって……水尾さん、知ってるんですか?」
訳が分からなくなって重ねて尋ねると、水尾はひどく奇妙な顔をして周囲を見回し、心底不思議そうな声で付け足した。
「知ってるか? 知ってるかどころか、君をマースに紹介したのは俺だけど……じゃあ、あいつは一緒じゃないのか? ならどうしてこんなところに居るんだ、紫陽くん」
夜がまたやってくる。
マースは強ばった顔でベッドに腰をかけたまま、正面のドアを見つめている。
固く閉ざされたドアの向こうには、マースのデスクの置かれている広々とした居間があり、その部屋を横切ればゲストルームのドアがある。
その向こうには、数日前から芽理がいる。
(芽理)
たったドアニ枚のことなのに、たった二部屋のことなのに、その距離が彼女が日本にいるときよりも遠く感じるのはなぜだろう。
『マージに言われてきました。ここのドア、開けないでいいでしょう?』
荷物を持ってきた日、胸をときめかせて待っていたマースに、芽理は淡々とした口調で告げた。それはもうマースのどんなことばも受け入れない頑さに満ちていて、うなずくより他なかった。
(ドアは……開かない)
たぶんこの先ずっと。
どんなに待っても、どんなに望んでも、マースには開ける術がなく、芽理には開ける気持ちがない。
(いや……違うか……また、クリスが)
暗い笑いをにじませた矢先、ぴとん、と微かな水滴の音がして、マースは振り返った。
手の込んだ織物のかかった壁が波打ち、細く白い指が突き出す。空中にすがるものを探すようにくねりながら、揺れながら、次第に突き出てくるそれがわずかにぬめり光り、けれど瞬く間に渇いていくのをマースは緊張しながら見守った。
(いつになっても慣れない)
目を伏せて薄笑いを浮かべたクリスが、腕から肩を、やがて体を壁から抜き出してくるのに、身体の芯が竦んでいく。逃れることはできないか、何とか楽にしのげないかと、あるはずのない可能性を心のどこかで必死に考えていると、気持ちが緊張に疲れ果て半透明にあやふやに形を失っていく。
「なんだ、『待ってた』の」
クリスが冷ややかに笑って、マースは唇を噛んだ。
「楽しみにしてるんだねえ……脱いで」
マースは無言で立ち上がった。着ていたセーターを脱ぎながら、クリスが部屋を横切っていくのを視界の端で確認する。
「下もだよ……全部……ああ、なんだ、わかってるんだ?」
クリスが寝室と居間のドアを開け放ちながら続けて振り返り、くすくすとスラックスを脱ぎ落としかけていたマースを嘲笑った。全身がみるみる熱くなる。確かに下も、と命じられる前に脱ぎ出していたのに、これは逃れようのないことなのだと諦めている自分を感じ取って居たたまれなくなる。
スラックスを手にしたまま、マースが凍りついていると、居間を横切ってクリスが芽理の部屋に近づき、境のドアを開く音が聞こえた。それほど待つまでもなく、クリスが戻ってくる。にやにや笑いながら、
「よく眠ってるみたいだ。そのうち、起こしてあげるけどね?」
ふる、と微かに身体が震えたのは、裸になったせいだけではないだろう。皮膚が粟立ったのは芽理に気づいてもらえるかもという喜びよりも、そこまで我を失うほど責められる予感のせいかもしれない。
「全部だよ? ……ベッドに寝てよ、今は俯いててもいいからさ」
マースは下着を落としてベッドに寝そべった。
ひんやりと冷たいシーツにまた身体が震える。目を閉じると、背中にクリスが身体を跨いでのしかかる重みがかかる。
「震えてるね?」
ゆっくりと背中をクリスが指先で撫で下ろす。そっと、幾つも、まるで設計図を描くように指先で線を書いていく。繰り返されていく曖昧な柔らかな感触にマースの気持ちが緩み始めた矢先、ずぶ、とその指先が背中に穴を穿った。
「……っ!」
かろうじて声を殺したものの、突き込まれたままの指が容赦なく奥へ、蠢きながら肉を掘り込んできて、激痛が一瞬ごとに倍加していく。すがりついて握りしめたシーツが指先で粉々になりそうだ。汗が吹き出る。気持ち悪いねとつくような、けれど異常に熱い汗、そのもの自体が肌を裂いていくように流れ落ちていくのがわかる。
「どこまで頑張れるのかな……今夜は芽理の部屋のドア、かなり広く開けてきたよ?」
「っ…………っっ……!」
突き込まれた指をそのまま一気に腰まで引き降ろされて、マースは跳ね上がった。仰け反った喉から絞り出しかけた悲鳴を、それでも噛み殺して唇を噛み、ベッドに崩れる。背中に真っ赤に焼けた鉄の棒が埋め込まれたようだ。熱く溶けた金属の塊が傷から溢れて流れ出していく。
「きれいな色さ」
「っ!」
再びその棒の真横に次の穴が穿たれた。肉が引きつれねじ込まれるのをお構いなしに、今度は二つ三つと指が突き込まれ、しっかりと掴まれ、意識が飛びかける。
「鮮やかな血の色」
「ぃ……っっ……っ!」
クリスが掠れた囁きを漏らして、その指先を再び腰へひき降ろし、朦朧としかけた意識が叩き起こされた。身をよじらなくては耐えきれない痛みに、けれど腰をのしかかられていては身動きできず、マースはシーツを必死に引き寄せもがいた。視界が滲み砕け弾ける。何度も開いた口を壮絶な意志で引き締める。
(芽……理っ……!)
呼吸が上がって胸が苦しい。汗なのか涙なのか、濡れた顔に髪が張りつく。シーツはどれほど引き寄せても身体を支えずへなへなと崩れる。それでもなおすがりつく、その身体の頼りなさに喘いでいると、いきなり下半身を握り込まれて硬直した。
「兄さん、ほんとは気持ちいいんだろ?」
荒い呼吸でクリスが耳元に囁いてきた。
「マージが夢中になるのわかるよ、こんなことされてるのに、こんな状態になってさ、泣きながら喘がれて……おかしくならないやつがどうかしてる……ねえ、気持ちいいんだろ?」
「ち……が……」
焼けつくような喉から必死に声を絞り出す。
「何が違うのさ……兄さんの身体はそんなこと言ってない……そうだろ? もっと、って言ってるんだろ? もっと引き裂いてくれ……ってさ」
「ひ……っ…………!!」
クリスが揺れる声でつぶやいたとたんに、腰を中心に捻るように身体をひっくり返されて、マースは思わず声を上げた。視界が一気に暗くなり、力が抜け、意識が飛ぶ。だが、それもまた一瞬、ふっと生温かなものが首筋にあたったかと思うと、がぶりと食いつかれて思わず目を見開いた。皮一枚を歯で噛みながら、そのまま肉を引きむしる野性の動物のように顔を振るクリスの髪に鮮血が跳ね散る。顔を上げてにんまりと笑う顔は修羅、真っ赤に濡れた口元をゆっくりと舌で舐めると、その味に誘われたようにマースの胸へと口を落としてくる。
「おいしいよ、とても……もっと楽しんで……兄さん」
「っ!……っ……っ!!」
三度、今度は両胸に尖った指を突き立てられて引き裂かれ、マースは身悶えして顔を振った。噛み殺す悲鳴も限界、ともすれば食いしばった唇を突き破って助けてくれ、と叫びそうになる。
(芽理……っ……芽……理……っ)
気を失ってしまえればいいのに、激痛にそれができない。むき出しにされた神経の先を1mmずつ切れ味の鈍い鋏で切り取られていくようだ。
「ねえ……認めろよ……認めてしまえよ……気持ちいいんだろ、ねえ、ほら、こんなにさ? 身体がそう言ってるよ?」
血で汚れた顔に嬉しそうな笑みを広げて、クリスがまたマースの下半身に触れた。
「べたべただ……なんでかわかる? 気持ちいいんだ、そうだろ、兄さんがいくら違うって言っても……身体ってのは裏切る…………気持ちいいからだろ?」
「ちが……う……っっっ……くぅ!」
否定しかけた声が絶叫になりかけ、マースは唇を噛み締めた。クリスがもう片方の手を引き裂いた傷を押し広げ抉りながら腹の奥へ進めてきたのだ。熱く大きな塊がそこから見る見る四肢を駆け巡り、先を争う軍団のように胃から喉へ競り上がってきて、マースは思わず口を開いた。
「あふ……っ」
がぶっと無気味な音をたてて口から溢れた血が喉を胸をしとどに濡らす。大量の血を失ってみるみる身体が冷えてくる。
「まだだ、まだだよ、そうだろ……兄さんはまだ僕の名前も呼んでくれないものね? それとも呼ぶのは芽理の名前だけ? マージは怒ってたよ、芽理の名前を呼び続けたって……イクのに彼女を思ってるわけ?」
なお深く入り込むクリスの指が内臓を掴み引きずり出そうとするように蠢く。強烈な吐き気と急速に身体から搾り取られる気力、口を閉じていることさえもうできない。流れ続けている涙がにじませる視界に、クリスの顔が醜く歪む。
「マージ……そうだよね、マージは……女……だもんな」
低く苦しげなクリスの笑い声が零れた。
「男の身体がこうなってれば……欲望があるって思うんだよね? こちらの気持ちがどうであれ、快楽を感じている、と思うんだ……僕も女なら…………そう思って楽しめたんだよね……?」
「……っ」
再び強く握られてマースは朦朧としていた意識を呼び戻された。
口を閉じていなくても、もう声にならない。悲鳴もあげられない。クリスが握り込んだ腹も下半身も冷えて強ばりつつあって、まるで自分のものだと感じられない。
「けど……僕は男だからわかる……わかってしまう……これは……違うんだ……兄さんはもう死にかけてる……次の命を残さなきゃならない……だから……」
うねるように遠くから近くから、クリスの声が闇から響いてくる。クリスの鮮やかな青い目がじっとマースを見下ろしているのを感じる。
「ここで僕はやめなくちゃいけない……兄さんを失わないためには、ね」
「っっ!!」
いきなり両方の手を引き抜かれ、しかも行き掛けの駄賃とばかりに引っ掻かれて、身体が無意識に跳ね上がった。残っていた理性が砕け散る。弾けるように生温い液体が身体を汚すのにももう反応できずに、ただただ必死に空気を貪る呼吸を繰り返す。
「忌々しい……身体だ……愚かで欲に塗れてて、いつも気持ちを裏切って」
クリスは吐き捨てるようにつぶやいた。
「こんなものにいつまで縛られてればいいんだ」
陰鬱な声で続けると、ぐいとマースの顎を掬った。
「兄さん……」
ぐったりとベッドに四肢を投げ出しているマースに屈み込み、血と汗と涙に汚れた顔を掌で拭った。うっすらと目を開けたマースの瞳を覗き込む。
「僕はときどき終わらせてもいいと思うよ。兄さんを殺してあげてもいいって。でも……でもさ」
クリスはそっと、マースが大切に飼っている小動物であるかのように顔を擦り寄せてきた。耳元に声を直接吹き込むように唇を寄せ、
「その後僕はどうなるんだって思うと……たまらない……ぞっとする……兄さんなしでどうやって生きていけばいいんだろう? こんな無様で扱いづらい身体と未来永劫やっていくなんて……それこそ地獄じゃないか? それぐらいなら……それぐらいならさ、兄さん」
引き裂かれてずたずたになっている身体を引き寄せられ、抱き締められて、マースは眉をしかめて仰け反った。ようやくおさまりかけた呼吸が痛みにみるみる速くなる。
「っ……」
「それぐらいなら、僕は未来永劫兄さんを傷つける方を選ぶよ」
甘いとさえ聞こえる声が響き、唐突にマースは床に投げ捨てられた。
「っく」
衝撃に呼吸が止まった。止まりかけていた血がまた流れ始める。寒さと吐き気が襲ってきて、マースは身体を抱きかかえた。痙攣する手足が冷たくてだるい。
「おやすみ……いい夢をね……芽理が気づいてくれるといいね?」
くつくつとクリスが笑いながら遠ざかっていく。
絨毯は敷いてあるとはいえ、ベッドにくらべれば格段に固い床に落とされて、またしばらく意識が消えていたらしい。
(芽……理……どこに……いる……?)
夢を見たような気がした。
遠い昔、日本を訪れて初めて芽理を見たときのことだ。側にいた水尾が呆れていた……そんなに女を見るもんじゃない、飢えてるのかって思われるぜ……。
(飢えてるよ……僕は……君に……ずっと飢えている……)
手に入らないと知るがゆえに。手に入れてはいけないと言い聞かせるがゆえに。
(芽理……)
このまま夢の中で死にたかった。
芽理の笑う鮮やかな幻の中で。
気がつけば、冷えた床に身体を丸め、がたがたと震え続けていた。
相変わらずの全裸で背中と胸の傷はかなり回復はしてきていたが、腹に開いた穴が塞がるにはまだ時間がかかりそうだと気づき、のろのろと床を這って戸口に近づく。近くのテーブルにすがって体を支え、気力を振り絞って立ち上がると、それでもなおぼたぼたと腹から血が零れた。仕方なしに片手で押さえて壁にもたれ、何とかドアの側まで歩いていく。開いたドアを引き寄せ閉める、それだけの動作に目の前に霧がかかっていく。
(芽理に……見られたくない)
この間みたいに怪我をしているだけならまだしも、今夜は全裸で、どう見ても自分も納得しての行為にしか見えず、その説明も言い訳もできないような気がする、ばかりか、単純に一瞥するだけでも自分が心を委ねる相手にはしたくないと思われるはずだ。
(嫌われたくない)
もう十分嫌われているのに?
「は……」
そう思って浮かんだ苦い笑みに、少し気力が戻ってきた。ドアを閉めたとたん、きい、と向こうの境のドアが動く音がした。ひやりとしてドアにもたれて息を殺して立ち竦む。
「マース……?」
闇の底を密かに渡ってくるような柔らかな声がした。
(芽理……)
いつから起きていたのか、どこから起きていたのか。血が流れ過ぎて耳鳴りのする頭に、その声の温かさだけがしみ通ってくる。
芽理はしばらく返事を待っていた様子だが、まもなく部屋に引っ込んだらしく、やがてドアが閉まる音がした。どうやら間一髪だったようだ。
(芽理が……僕を呼んでくれた)
半開きになっていたドアを自ら開いてくれ、しかもマースを探してくれた。
無意識に唇が綻んだ。
(君は……いつも本当に……優しい)
思った瞬間に張り詰めていた気持ちが弛んだ。
意識があっさりと闇に奪われ、マースはドアに沿って崩れ落ちた。
眠れていない。
これでもう三日はちゃんと眠れていない。
芽理は寝室のベッドに座り込んで、眩しい朝の光を喧嘩を売られたように睨みつけた。
マースの部屋のゲストルームで休みだしてから、ただでさえ浅い眠りがなお一層浅くなって、昨夜はとうとう起き出して境のドアまで開けて覗いてしまった。
(声がした気がしたんだ)
この部屋に初めて入ったときに出迎えた、マースの珍しく緊張した白い表情を思い出す。境のドアを開けなくていいだろう、と確認すると無言でただただうなずいた。
(それは……そうだよね?)
恋人との密会を形だけの婚約者に知られたいものなどいない。けれど、それはまだ少しでもマースが芽理のことを気にしてくれているからだとついつい思ってしまう自分の情けなさが悔しい。
それから夜になると憂鬱になる。
マージが来るのか、マースが忍び出ていくのかと、無意識に聞き耳をたててしまう。
いつの間にか戻されていた室内履きを脱ぎ捨ててベッドに潜り込み、気にしないようにしようと固く目を閉じるのだけど、いつもなら布団の中で自分の呼吸を聞いているうちに訪れてくる眠りは気配さえ見せず、やがては全身の神経をドアの外、居間の方へ向けている。
実際なぜだか、毎夜わずかに境のドアが開いていることがあって、立て付けでも悪いのか、あるいはマースがこっそりと覗いているのかとしばらくたぬき寝入りで様子を見たこともあったのだが、一度などは妙に荒々しい呼吸や声を密かに耐えているような呻きが聞こえた気がして、慌てて布団に潜って眠ってしまった。
朝になれば大抵ドアは閉まっていたし、すると昨夜のは思い過ごしか、それとも自分の妄想だったかと思うと、改めてマースに聞くわけにもいかない。
(でも……昨夜は……)
無理に目を閉じ羊を753匹まで数えて眠ってしまった後、いきなり誰かに呼ばれた気がして目が覚めた。深閑と静まり返った屋敷には、『祭』のために集まってきたという多くの客人がいるとは思えないほど静かだったけれど、微かに微かに何かの気配が漂ってくるような気がした。
(漂ってくる? ううん、あれは……)
空間を見えない鞭が打つような。生々しくて気持ち悪い温かな風が吹き込んでくるような。
思い出してしまうと、ぞく、と思わず身体が竦んでベッドの上に足を上げ、膝を抱えて丸くなる。
(まるで)
地獄の蓋が開いてるような。
何も起こっているような気はしない、けれど遠くでぱたんとマースの部屋のドアが閉まる音がして、それに思わず起き上がってしまっていた。
(一瞬、同じことになってるんじゃないかと)
マース自身が幻だといい、夢だといったあの血に塗れた光景が再現されているようで。
そんなことはない、そんな酷いことが起こってるはずがないと言い聞かせても、何だかあの夜のように儚い声で呼ばれてるような気がして、とうとうベッドを降り、やっぱり薄く開いていたドアを見つけた。ためらったけれど引き開けて、居間を覗き込んでみれば、そこはしんと何も動くもののない、家具が置かれてるばかりの空間で。
「マース……?」
呼び掛けてみても当然のように応えはない。深く重い溜息をついて、自分の馬鹿さ加減に呆れながらベッドに戻ったけれど、結局それから碌に眠れなかった。
寝不足でいい加減疲れ切っていたし、朝食を済ませたら一眠りしようとダイニングに向かえば、珍しくマースの姿がなかった。
「兄さん? 何だか仕事が立て込んでるんだって……部屋で摂るって。ごめんね、芽理。兄さんにはちゃんと言っておくよ、大事な婚約者と会える貴重な時間を仕事に使わないでって」
「あ、あの、うん、いいの、別に」
慌てて食事を済ませて逃げるように部屋に戻ってきたものの、マースが来なかったことに拗ねてるように取られたかなと、今はかなり後悔している。
(マース……いるのかな)
ちら、と芽理は居間の方を見遣った。
そちらの部屋は静かだけれど、人の気配は確かにしている。とすると、昨夜のおかしな気配は芽理の気のせいで、マースが朝食に来なかったのは本当に仕事が忙しいのだろう。
目を閉じて、そっとマースの気配を探す。
デスクについているのだろうか。それとも一休みしているところだろうか。
ぼんやり想像してみていると、ふいに小さな音が響いた。ぎょっとして目を開けたのは、それが余りにも違和感のある音だったからだ。
オルゴール。
ころころと金属の板を爪が弾く澄んだ音がクラッシックのような曲を奏でている。
(聴いたことがある……えーっと)
授業でいつか習った……そうだ、ショパンの『別れの曲』だ。
マースとロマンチックなオルゴールなんてずいぶん妙だ、マージにでももらったのだろうか、と暗くなりながら考えて異変に気づく。
オルゴールが鳴りやまない。
芽理はドアを凝視した。
まだ止まらない。
マースは仕事をしているのに、どうしてオルゴールなどを鳴らしているのだろう。
そう思った時には身体が動いていた。ベッドを滑り降り室内履きを突っかけて、そっとドアに忍び寄る。
オルゴールは鳴り続けていて、止まる気配さえない。
ごくんと唾を呑み込んで、そっと境のドアを開けた。
日がいっぱいに差し込んでいるデスクにはマースの姿はない。どこで鳴っているのか、鳴り続けているオルゴールも見当たらない。
「マー……」
呼び掛けながら部屋を巡りかけて、芽理は途中でことばを呑んだ。
日射しの当たらないソファの背にもたれ掛かってマースが眠っている。よほど疲れ切っているのだろう、長い睫を閉じた顔に小さく口を開いたまま、穏やかに寝息を立てている。黒々とした髪が凝った刺繍の背もたれに広がり、いつもながら乱れたところなど見たことのないスーツ姿で無心に眠り込んでいるのだ。
その膝に小さな木製のオルゴールが開かれていた。
マースにもこの屋敷にもひどく不似合いな素朴な彫りが施されていて、開いた箱の中には手紙が何通か入っているようだ。片方の手でオルゴールを支え、もう片方の手には封筒を、どちらも見ているうちに眠り込んだらしい主の手からぼちぼち滑り落ちていきそうだ。
(誰からの手紙なんだろう)
本当は人のものなのだから、覗き見てはいけないのだろうけど、余りにも大切そうにしまわれているものだから、そしてまた、あのマースがこんなふうに手紙を保管しているなどと思いもしなかったものだから、その送り主がふいに知りたくなってしまった。
(いい、よね? 私は一応マースの妻、なんだし)
いつでも身を翻せるように、そっと背中から覗き込もうとした矢先、微かにマースが身じろぎした。
「ん……」
「!」
思わず身を引いたが、相手は目覚める気配もない。一瞬震えて持ち上がりかけたまぶたが諦めたように深く閉ざされる。同時に苦しそうに眉がひそめられた。
(何か辛い夢を見てるのかな……)
仕事仕事で忙しかったのだろう、と考えて、夜も夜だしと思いついてしまい、芽理は暗くなった。
(放っとけばいいんだ、楽しくやってるんだから)
胸の中で響いた言い訳に後押しされるように、今度は大胆に体を乗り出して、オルゴールを覗き込む。と、そのオルゴールの蓋にどう見ても素人仕事で後から彫り込まれた、不器用な文字があるのに気づいた。
「?」
どこかで見たような文字、だけどまっすぐすぎる直線とぎこちない曲線で彫り込まれたそれは、木目に紛れ込みそうになっていて、うまく読み取れない。始めの文字はどうやらアルファベットのMのようだ。
(M……マージ……?)
どきりとしてちゃんと綴りを読み取ろうとしたとたん、ふ、とマースの眼が開いた。日射しを浴びてきらりとした光を弾き、すぐに眩そうに伏せられ……次の一瞬、何を見たのか突然気づいたように、マースは叫びを上げて跳ね起きた。
「芽理!」
「わ」
とっさに後じさりした芽理から逃げるように離れたマースがうろたえた顔でオルゴールを抱え込む。芽理の視線に気づいて、慌てて手にしていた手紙をオルゴールの中に押し込み蓋を閉めた。鳴り続けていた『別れの曲』がぷつんと断ち切られたように途絶え、奇妙な沈黙が満ちる。
静寂を破ったのは芽理の方だった。
「そのオルゴール、マースのなの?」
「あ、あ、いや、うん、ああ、その、そうだが」
うっすらとマースが赤くなった。神経質な口調でことばを続ける。
「何か、見たのか? いや、いつからそこに居た?」
「さっきから。オルゴールが鳴り出したのに止まらないから、どうしたのかなと思って……仕事をしてるって聞いてたし」
「あ、ああ、少し、疲れてたから、それで、一休み、してたんだ」
普段のマースからは考えられないほどしどろもどろな口調で答えると、慌ただしい動作で隅の棚の上にオルゴールを戻した。芽理に背中を向けたまま、
「……何か……見たのか?」
「手紙のこと? うん、あ、でも」
誤解されてはかなわないと芽理は急いでことばを継いだ。
「宛名は見てないし、差出人も見てない……ただ、マースがそんなところに手紙を入れておくっていうのがイメージと違ったし」
(何言ってるんだろ、私)
考えてみれば長い間直接話していない。ましてや二人きりの部屋で話したことなどほとんどない。もっと話すべきことがあるような気がするのに見つからない。
「あの……そのオルゴール、誰かへのプレゼント?」
思いつくままに口にしたことばは、マースに衝撃を与えてしまったらしい。激しい勢いで振り返ったマースが食い入るような険しい目でこちらを見つめた。
「どうして……?」
「だって、蓋に名前、みたいなのが彫ってあったから……うまく読めなかったけど」
芽理がそう答えると、相手は露骨にほっとした顔になった。
「ああ……そうだ、な」
「『別れの曲』だったよね?」
「君でも知っているのか」
マースがようやく本来の皮肉な調子に声を響かせて、芽理も少し気が楽になった。
「学校で習ったから」
「君の父親は損をしなかったというわけだな」
「どうして?」
「え?」
「どうして、プレゼントなのに、『別れの曲』なんか選んだの?」
芽理の問いかけに、初めてマースが動揺した顔になった。不安そうに芽理とオルゴールを見比べる。その幼い仕草がスーツ姿のビジネスマン然とした容姿にますます不似合いで、芽理はつい微笑んだ。
その笑みを見とがめたのか、マースが動きを止めた。じっと芽理を凝視する。不自然なほど長い沈黙にそろそろ芽理が耐えられなくなってきたころ、低い掠れた声が何かの台詞を棒読みするようにつぶやいた。
「あれは……僕が愛した娘のために買った」
「愛した?」
あまりと言えばあまりな言い種に、芽理はむかっとした。きつい声で繰り返す。
「へええ、愛した娘には『別れの曲』を贈るんだ、バルディアでは」
その『愛した娘』に自分が入っていないことが悲しくて、精一杯の罵倒を続ける。
ゆら、とマースの体が揺れたように見えた。見開いていた瞳が感情を失い光を失う。
「……贈って……別れる、つもりだったから」
自分がしゃべっているという意識がないのか、漂うような動作でオルゴールの棚を振り返り、のろのろと芽理に向き直り、唐突にぼんやりとした笑みを浮かべた。
「勝ち気で……だけど可愛くて……かばってやりたくて……でも強くて……優しくて」
笑みが蕩けるように甘く広がる。細められた瞳がきらきらと日を跳ねている。
「もし、誰かを選ぶなら、その娘だと決めていた…………僕は、忘れていた……僕はマース・アシュレイで、それ以外ではなくて……でも、その時はそんなことは気づかなかった」
その声の甘さ、笑みの豊かさ、それら全てを胸引き裂かれるような思いで芽理は受け取った。
(なんて、幸せそうに)
なんて誇らしげに話すんだろう、その娘のことを。まるで唯一無二、自分が仕える王女のように。
マースはどこかうっとりとした顔で芽理の方を向いている。これまでも、いやきっとこの先も芽理には向けられることがないだろう微笑に、芽理は吹き上がってくる苦しい気持ちを必死に堪えた。だが、芽理の箍を外すように、マースがもっと柔らかな声でことばを重ねた。
「気づかないほど……夢中だった……けど僕は彼女にふさわしくないから……オルゴールを贈って離れていこうと……でも…………無理だった、みたいだ」
「!」
(マージのことだ)
確信して芽理は唇を噛んだ。
(聞かなきゃよかった)
零れそうになった涙を息を呑んでやり過ごし、相手を睨みつける。
「じゃあ、どうしてその人を選ばなかったの」
(私じゃなくて。どうして本当に好きなマージを選ばなかったの)
聞いたところで、たとえ、その理由がわかってもどうなるものでもない。芽理は形を保つための道具である現実に変わりはない。惨めになるのはわかっていたが、聞かずにおられなかった。
マースが笑みを引っ込める。まるで意識が霞んでいるように、茫洋とした目でオルゴールを振り返り、再び芽理に視線を戻した。ためらい口ごもる、その頬にまた薄紅が広がっていく。
やがて、囁くような小さな声で、マースはつぶやいた。
「大事、だったから」
そのはにかんだ気配に芽理の気持ちがぶつりと切れた。
「……へええええ……そうなんだ、大事だから、マージは選べなかったんだ?」
力いっぱい皮肉りながら、知ってるんだよと嘲りながら、マースの顔にことばを叩きつける。
「大事じゃないから、私は選べたんだ? 道具でよかったから? 金で買ってこれたから?」
言い募りながら情けなさと恥ずかしさ悔しさがごっちゃになってわけがわからなくなってきた。
「……え? マージ?」
ふいにマースが凍りついたような表情になって瞬きした。今の今まで自分が何をしゃべっていたのかわからなかったというような顔、それがやがて焦りと驚きに変わっていく。
「……っ」
口元を片手で覆いながら目を逸らせる、不安そうに何度も支えを求めるようにオルゴールに視線を泳がせる。その目に含まれた安心に芽理の気持ちがよりささくれだっていく。
「そんなつもりで言ったわけじゃ……君を道具だなんて思ったことなんて……」
「思ったことはなくても!」
マースの半端な弁解をきりきりした声で芽理は切り捨てた。
「そんなふうに扱ってるよ!」
「あ」
ひく、とマースがことばを呑み込んだのをきっかけに芽理は向きを変えた。立ち竦む相手を振り返りもせずにさっさと隣室へ引き上げ、境のドアを思いきり音をたてて閉じる。そのまま、溢れて来た涙を抱え込むようにベッドに転がり込んだ。
(ひどいよ、ひどいよ、マース、ひどい)
マージの方が大切だなんてわかっている。今さら言われなくても重々承知している。けれど、それをあんなふうに、芽理には見せたことのない優しい笑顔で教えなくてもいいはずだ。
形だけでも、そうだ形だけでも、愛してるふりだけでも、そうやってごまかしていてくれても……。
(……よくない)
思わず首を振った。
(そんなの嫌だ)
これは偽ものなのだ、幻なのだと言い聞かせて暮すなんてどうやって耐えられるだろう。マースの愛してるのは自分ではないとわかりながら、どうして自分が大切にされていると思い込めるだろう。
(そんなの……無理だ)
「芽理?」
境のドアをノックする音が響いた。珍しく戸惑うように不安定な声が呼び掛ける。
「芽理?」
答えられない。答える術が、答えることばが見つからない。自分がマースには全く不必要なのだということを呑み込むだけで今は精一杯だ。
「芽理、君を傷つけるつもりはなかったんだ……僕は……ただ……」
ことばが後を続けかねたように途絶える。
(そうだ、わかってる、わかってる!)
最初からそういう『約束』だったのだ。愛はない、気持ちはないと言われていたのだ。
(わかってるから、もう言わないでよ!)
耳を塞ぎ目を閉じて、芽理はベッドに深く体を埋めた。
結構長い間泣いていたように思ったが、疲れてしまってベッドからはい出してみれば、時計は昼近くになっただけだった。
(結局、この程度なんだ)
ごしごしと目許を擦りながら起き上がると空腹を感じた。部屋の隅の洗面所で顔を洗い、気を取り直して境のドアを開けてみれば、もちろんもうマースの姿はない。
(泣いてても、私のことなんか気にならないんだ)
マージならば一晩中でも抱き寄せて慰めるんだろう、そう思うと辛くなったが、重い溜息をついて体に溜まったものを吐き出してみれば、妙に虚ろな感覚が残っているだけ、死にたくなるほど辛いわけでもなかった。
のそのそと足を引きずるように昼食を摂りにダイニングに向かう。今はクリスの明るい笑顔や楽しい話題が欲しかった。おいしいものを食べて、空っぽの胃なりと満たしたかった。
昼食は幸いに芽理の好きなものばかりだった。
おまけにクリスが「街の図書館に出かけてみる?」と誘ってくれてほっとした。
「でも……私、バルディアのことばとか読めないし」
「外国のものあるし……ああ、それにインターネットも接続できるよ? 久しぶりに日本のこととか知りたくない?」
「ネット……ああ、そっか」
家でも豪三が仕事用だからとめったにパソコンに触らせてはくれなかったけれど、友達の家や学校などでは扱ったことがあるし、やり方も知っている。
「行きたい……連れてってくれる? あ、マースに怒られる?」
「いいよ」
クリスはウィンクした。
「兄さんだって芽理がそんな顔してるなら、ほっとくなって言うと思うよ?」
「そんな顔?」
「泣いてたみたいな顔」
「あ、は」
じんわりとクリスの優しさが身にしみて、芽理は新しくにじみそうになった涙を慌てて飲み下した。
昼食後クリスの運転する車で街外れの図書館に出かけた。クリスがあれこれ手続きしてくれて、パソコンを開いて覗き込み、そこに見なれた漢字とひらがな文字を見つけて、思わず歓声を上げてしまった。
「どうする? もう少し見てる? 僕は向こうに用事があるけど……一人で大丈夫?」
「あ……うん」
「帰るときに迎えにくるよ。そんなに喜ぶなら、また連れてきてあげる」
「ありがとう、クリス」
軽く手を振って離れていくクリスを見送り、手始めに検索をかけようとして、手元のバッグを落としてしまう。それを隣にいた席の男性がすぐに手を伸ばして拾ってくれた。
「あ」
(ありがとう、ってどう言うんだっけ)
口ごもってそれでも手を差し出した芽理だったが、相手はバッグをなかなか渡してくれない。ばかりか、
「紫陽くん?」
唐突に懐かしい名前を呼ばれて芽理はぎょっとした。改めて相手の顔をまじまじと見る。白いセーターに紺のジーンズ、髭面にはなっているけれど、確かにそれは前に近所に居た大学生、水尾集だ。
「水尾さん?」
半信半疑で問い返すと、相手は変わらぬ無邪気な笑みを返してきて、
「やあ、なんだ、マースのやつ、とうとう君を呼び寄せたのか」
「え……え? ……マースって……水尾さん、知ってるんですか?」
訳が分からなくなって重ねて尋ねると、水尾はひどく奇妙な顔をして周囲を見回し、心底不思議そうな声で付け足した。
「知ってるか? 知ってるかどころか、君をマースに紹介したのは俺だけど……じゃあ、あいつは一緒じゃないのか? ならどうしてこんなところに居るんだ、紫陽くん」
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