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6.女教皇
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『守護を我が花冠とす』
これは本当だろうか。
クリスと一緒に屋敷を出て行く芽理の姿を窓辺から見送りながら、マースは口元をこぶしで押さえたまま立ち竦んでいる。
顔が熱い。体が微かに震えている。
けれどいつものように恐怖や不安からではなくて、歓喜からだ。朝食も昼食も摂っていないのに胸がいっぱいになっていて、何も喉を通りそうにない。何度も何度も、さっきの芽理の様子を思い出し、違うふうに考え直そうとしても、思いはそこへ戻っていく。
(芽理はマージに嫉妬している?)
まさか。
芽理はマースを嫌っている。愛してなどいない。不快がっている。
だから、マージに嫉妬することなど、ありえない。
そう思いはするのに。
『……へええええ……そうなんだ、大事だから、マージは選べなかったんだ?』
最初は、唇を尖らせ、目を挑戦的にきらめかせながら言い返した芽理が、なぜいきなりマージの名前を出したのかわからなかった。
マースはオルゴールを抱えて眠り込んでしまっていた。てっきり芽理にあれこれ見られたとそればかりを考えていて、何とか言い逃れようとしていた。
加えて、プレゼントのオルゴールに『別れの曲』を選んだ理由を、まさか贈るばずだった当人から聞かれるとは思っていなかった。いざ聞かれてみると、なぜ自分を選んだのかと芽理自身に誠意を問い正された気がした。
遠い異国で、いろいろな不自由の中、婚約者にも優しくされなくて、芽理にとっては気持ちが落ち込むばかりの日々だろうに、それでもしっかりと顔を上げて尋ねてくる姿は胸詰まるほど鮮やかで。
(もう少し、話していたかった)
甘やかな会話ではないけれど、そして相手のことばはマースへの糾弾に他ならなかったけれど、それでもゲストルームに来てからほとんど芽理と話せなかったから、走り出していく鼓動を押さえるだけで手一杯、気がつけば、誰にも話さなかった胸の裡をぽろぽろと話し出していた。
目の前に、唇を結んでこちらを睨みつけている顔、黒い瞳が濡れているようにきらきら光っていて、水尾に連れ回してもらっていた日々を、偶然出逢った近所に住むという少女の姿を、懐かしく愛しく思い出していた。
(君はあの時も僕の視線をまっすぐに受け止めた)
どこにいても目を引く容姿だ。日本では特に。視線を向ければ目を逸らされる、水尾と並べば好奇の視線が張りついてくる。振り返れば得体の知れない獣に出くわしたようにそそくさと姿を消そうとする人々の中で、芽理は真正面から物珍しげにマースを見つめた。
(今でも覚えてる……あの時の身が竦むような感じ)
身動きできなくて、呼吸まで奪われた気がして、体中が熱くなった。どこかへ行く途中だったのか、平然と自転車を漕いで去るのをただただ茫然と見た。
あれは誰だ、と聞いた自分の声が情けないほど上ずっていた。頼むから教えてくれ、そう続けると、水尾は眉をしかめ一言「落っこちたか」。きょとんとするマースににやにやした相手が祝杯を上げようと誘った。「お前が初めて女の名前を聞いたからな」。
そう言われても、自分が芽理の瞳を一瞬しか引き止められなかったのが悔しくて、もっとかっこいい男だったらよかったとつぶやき、水尾に軽く殴られた。
選ぶなら彼女。
けれど、そんな夢は帰国するとすぐに幻だとわかった。幻どころか、自分が心を注ぐ相手を見つけてしまったことが悪夢なのだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
次世代を得るために花嫁を選べ。
命じられた瞬間に芽理を思い出してしまったのは、生きていて一番残酷な瞬間だった。
そして、芽理が妻になるかもしれないという喜びと不安に揺れたマースを、クリスは見逃しはしなかった。
紫陽学園の経営破綻は少し調べればわかった。多額の借金は膨れ上がる一方で、始めは支援していたらしい企業も手を引きつつあった。
借金を全て引き受けてあげれば、芽理はきっと喜ぶよ。
囁いたクリスの手に、どうして乗ってしまったのか。
(資金援助だけのつもりだったのに)
クリスは状況を確認しに行くべきだと言った。芽理に会えるかもしれないよ、とそそのかした。
水尾にときどき送ってもらっていた芽理の画像は、あまりうまく撮れていなかった。不満を伝えると水尾は「俺にストーカーになれってか?」と反撃してきた。その代わり、一回だけだぞ、と芽理が水尾の携帯に伝言した声を送ってもらって、なお気持ちが募ってしまった。
会えるかもしれない。声が直接聞けるかもしれない。
ならばそれだけでいい。
出向いた日本で出逢った芽理は、数年たっただけで信じられないほど華やかになっていた。強くてきららかだっただけの瞳が潤いを帯びてまばゆかった。唇の色が柔らかく鮮やかだった。素直な笑みが人目を引き付けた。何よりも、少女を越えて女性に近づきつつある姿は、きっとすぐに周囲の男の知るところとなるとわかった。
けれど今は、咲き始めた見事な花の所在を知っているのはマースだけだ。この機会を逃せば、この花はきっと他の男に手折られてしまう。
密かにプレゼントを用意していた。自分で『めり』の名前を彫り込んだオルゴール、人生を通り過ぎていった異国の男が居たと覚えていてくれるだけでいいと思っていた。
(だめだった)
そんなことでは耐えられなかった。他の男、と考えた途端に凍るような怒りが襲った。芽理は誰も選んでいないのに、自分は永久に選ばれないことがわかった瞬間、攫うことしか考えなかった。
芽理がマースに気持ちを向けてくれることなどあり得なかった。マースがマースであるかぎり、あってはならないことだった。
(だから、あのオルゴールに気持ちを封じ込めて)
けれど、あの時きっと、芽理はオルゴールだけではなく、マースの気持ちも開いてしまっていたのだろう。
『じゃあ、どうしてその人を選ばなかったの』
問われて、自分の気持ちを告げてもいいと許された気がした。
(芽理に伝えてもいいんだと、思ってしまった)
胸が詰まって、何から伝えればいいのかわからなくなって、ようやく一言気持ちを告げた。
ところがそれは思ってもみなかったことばになって返ってきて。
『……へええええ……そうなんだ、大事だから、マージは選べなかったんだ?』
次第に顔を赤くしてきつい声になってくる芽理は怒っているとしか思えなかった。なぜ芽理が怒っているのか、何がまずかったのか必死に考えていたマースの脳裏に過ったのは、マースとマージが寝ていると芽理は考えていることだ。
自分の婚約者が他の女と密会している、だからプライドを傷つけられて怒っている、それにオルゴールの名前が読み取れなかったと言っていたから、Mで始まる名前は芽理じゃなくてマージだと考えたんじゃないかと気がついた。
『大事じゃないから、私は選べたんだ? 道具でよかったから? 金で買ってこれたから?』
ところが、マースに激しくきりきりした声で畳み掛けるように芽理が言い放ったとたん、別の感覚がマースを襲った。
(どうして芽理は怒ってる?)
形だけの婚約者、そういうことへの怒りならば、とっくに吐き出しているはずだ。部屋を移ったときにでもなじられ怒りをぶつけられているだろう。
けれど、今芽理は自分がマースに大事にされていない、と怒っている。 どうでもいい、むしろ不快で嫌ってるなら、相手が自分を大事にしてくれないなどということで苛立ったりはしない。これ幸いと距離を取って離れていくだけだ。
なのに、芽理は怒っている。マースが選んだのがマージであることを。オルゴールを贈ろうとした相手が自分ではないことを。マースが気持ちを向けている相手が自分でないことを。
(それってつまり……?)
ふいに体を襲った幸福感にマースはたじろいだ。
(芽理は僕の気持ちを気にしてる? マージに嫉妬してる? 芽理は……僕を……好いてくれている?)
全身があっという間に熱くなってことばを失ってしまった。望むことさえできなかっただけに、唐突に差し出されたそれは衝撃的で、夢を見ているのではないかと焦ってことばを探した。
(ひょっとして……うまく伝えられれば、君は僕を愛してくれる?)
けれどあまりにうろたえていて、マースはことばを重ねられなかった。芽理を納得させられなかった。
芽理はマースが自分を道具扱いしてるとののしり部屋に籠ってしまい、あげくのはてに、クリスとどこかへ出かけてしまった。
(でも……)
部屋の隅の棚をそっと振り返る。
そこにはオルゴールが置かれている。
芽理が出した手紙を入れたオルゴール。
(ひょっとしたら)
オルゴールの名前を見せて、どうしてこのオルゴールを持っているのか、どうしてその名前が芽理なのかを話した上で、手紙は本当は出してあげたかったのだけど、クリスに遮られて出せなかったから大切に保管していたこと、中身を見てしまったのはとてもすまないことだけど、できれば許してほしいこと……手紙を保管していたのは、それしか芽理からは何も受け取れないと思っていたからだと、少しずつきちんと伝えたら。
(芽理は……僕を愛してくれる……?)
いや、愛してくれなくても、少なくとも、マースの運命を理解してくれる、かもしれない。
(芽理なら)
強くて優しい彼女なら、ひょっとしたら、マースの運命を打ち明けても、恋人にはなれなくても、友人にはなってくれるかもしれない。
(話してみようか)
ごくりと唾を呑んだ。
(芽理が……帰ってきたら)
ぱらりと汗に濡れていた前髪が落ちる。
軽蔑されるかもしれない。薄気味悪がられるかもしれない。恐れられ遠ざけられるかもしれない。せっかく傾いた気持ちも失ってしまうかも知れない。
(でも……僕だってもう……限界だ)
マースは苦く笑って、窓の外を見つめたまま、そっと自分の体を抱いた。
「芽理?」
「うん?」
「考え込んでるね?」
クリスに話し掛けられて、芽理は我に返った。
開け放った車窓からの風は夜気を含んでひやりとしている。それと察したのか、クリスが窓をさり気なく閉めてくれる。
「ミズノオ、だっけ? 兄さんの友達だって言ってた、彼と会ってからずっと考え込んでるみたいだけど」
「うん……」
芽理は中途半端にうなずきながら、窓の外を流れる古い町並みにぼんやり目を向けた。
「何だか……わけ、わかんなくなってきちゃって」
「……ふうん? 何が?」
クリスは滑らかなハンドル捌きでそれほど広くない道をスムーズに抜けていく。街の中には点々と温かそうなオレンジ色の光が灯り、それが点る場所での団欒を思わせる。
「ん……マースのこと」
「兄さん?」
車はゆっくりと市街を離れて郊外のアシュレイ家に向かっていく。
「ん……」
尋ねられた返事もそこそこに芽理は再び物思いの中に戻った。
「こっちこそ、どうして、って聞きたいとこですよ」
図書館の片隅にあるカフェテリアに入り、白い丸テーブルについて、芽理は早速水尾に問い返した。
「どうしてこんなところにいるんですか?」
「俺が民俗学やってたのは覚えてる?」
「あ、はい」
水尾は不精髭がまばらに伸びた顔でにこにこ笑った。
「大学から院に進んでね、今はフィールドワークというやつ。興味のある分野を見つけたもんで、ずっとそれを追っかけてんだけどね……それもマースがらみだが」
「マース?」
「うん。もともとマースが日本に留学してたときに、大学の方で面倒みてたらしいんだ。あいつ、ここも出来がよくってかなりスキップしたみたいだけど」
水尾は頭を突きながら苦笑いした。
「うちの教授がバルディアの祭りを調べてる最中で、まあ、その引き換え条件にあいつの留学先を引き受けたらしい。それでお目付役と言うか、世話役と言うか、まあ歳も近いしってことで、俺が相手をすることになってさ、それがマースとの関わり始め」
コーヒーカップを傾けて香りを楽しみ、続ける。
「見栄えがよくて頭もいいなんて反則だろ? しかも純情でいいやつだなんて、神様ってのはほんと不公平だよな?」
「純情で……いいやつ……?」
芽理は思わず顔をしかめてしまった。
「どのあたりが」
「え、だってさ、今頃珍しいだろ、顔見ただけで硬直するほど好きな女に、声一つかけられないやつなんて」
「マースのことですか?」
芽理の口調がよほど不快そうだったのだろう、水尾は驚いたような顔になったが、何か事情があると察したらしい。
「ということは、マースのことはもうよく知ってるんだな? で、どうやってあいつは君を手に入れたんだ?」
「お金で買われたんです」
「おいおい……穏やかじゃないな」
「だって……ほんとのことだもん」
「……一体、何がどうなってるのか、話してくれ、さっぱりわからん」
不審がる水尾に仕方なしに芽理は始めから話し始めた。自分でもよほど溜まっていたのだろう、それほど事細かに話すつもりはなかったのだけれど、気がつくと、夜の密会のことまで話してしまったのは、周囲に日本語がわからない気安さからだったかもしれない。
「……で、マースは、マージって人と夜こそこそ会ってて……それ、隣の部屋だったりして……」
言いながらどんどん情けなく悲しくなってくる。自分がどれほど頑張っても、きっとマースにあんなふうに、優しそうに愛しそうに話してもらえる相手になりはしないのだ、そう改めて思い知らされた気がしてきて、オルゴールについて話すころには視界が潤み砕けて零れ落ちてしまっていた。
「……そんなふうに言わなくてもいいじゃないですか……? 私は、そりゃ、ガキだから仕方ないだろうけど、そんなふうに……言われたら……ガキだって傷つきますもん……っ」
しゃくりあげそうになって慌てて口を閉じた。
「……うーむ」
ところがてっきり同情してくれると思ってた水尾は、妙に険しい顔で唸ったまま、じっとカップを眺めている。
「……そりゃ……妙だな」
「でしょ? あんまり……」
「や、そうじゃなくて」
水尾はがしがしがし、と頭を掻きむしった。話そうかどうしようかとしばらく迷っていたようだが、やがて気持ちを決めたらしく、
「マースはそんなことするやつじゃないよ」
「どうしてそんなことわかるんですか」
頭から否定されて芽理はむっとした。
「俺はさ……うーん、ほんとは誰にも見せるなって言われたけど、そんなふうに思われてるんじゃ、あんまりあいつが可哀想だよな」
水尾は鞄の中からノートパソコンを取り出した。テーブルに乗せて開き、メール画面を立ち上げる。
「俺はあいつが君にどれだけ惚れてるか、どれだけ君を大切にしてるか、よくわかってるから……ほら、見てみろよ」
「え……?」
芽理は画面にずらっと並んだメールタイトルを見て目を見開いた。どのタイトルも『芽理』になっているばかりか、一番古いのは二年前の春、それから二週間から三週間置きにメールが来ている。
「あいつが君を初めて見たのは、その一年前、かな。君と一度家の前で会っているけど、覚えてないかな」
(三年も前に、マースは私のことを知ってた……)
三年前というと、芽理は十三、中等部へ進級したぐらいのころだったのではないだろうか。
「自転車に乗ってどこかに行くときだったみたいで、こっちを見たけど、すぐに走ってったから、覚えてないかもしれないな。けどマースにしてみれば雷に打たれたみたいなもんだったんだろ、君の名前をしつこく聞くし、おやこれはと思ってたら、毎日君のことばかり話すし。あげくに帰国しても、君の写真を送れだの、声を聞かせろだの、そんなことしてたらストーカーだ、って言っても聞きゃしない。あ、そうだ、一つでも読めばよくわかるよ」
水尾はにやにやしながらメールを開けてみせたが、そこにはバルディア語で書かれているらしい文章が並んでいる。
「あの……?」
「あ、そっか、君は読めないのか。うーん、や、困ったな……」
「水尾さんは読めるんでしょう?」
「……あのな」
芽理のことばに相手は引きつった笑みを浮かべた。
「口に出して読めるような代物じゃないんだぞ? そんなことするぐらいなら、大通りでハムレット演った方がいいぐらいだ……けどまあ、読まなきゃわからんよなあ? うーん、仕方ないか、ちょっとだけだぞ?」
覚悟を決めて諦めたようにコーヒーで喉を潤すと、早口のつぶやきで言った。
「僕の芽理は元気だろうか。困ったり悲しんだりしていないだろうか。笑って楽しく過ごしているだろうか。最近学園の経営状態が思わしくないと聞いて心配している。彼女が困っていたらすぐに知らせてほしい。経済援助ならすぐに応じるし、必要なものはすぐに届けさせる。ただ僕のことは知らせないでくれ。僕は彼女がこの地球に生きててくれるだけでいい。同じ空気を吸ってるだけでいい。ただまた新しい写真を送ってほしい。もっとうまく写真を撮ってくれ。僕の芽理はもっと可愛い…………まだ続くが、もっと甘いやつが延々と続くから省略させてもらう」
疲れた顔で読み上げるのを中止した。
「こんな調子で毎月メールが来るんだぞ? 受け取る負担なんて頭にないんだよ」
「僕の……芽理……?」
「ああ、それな」
芽理が繰り返すと、水尾はなおうんざりした顔になった。
「マースが使う君の名前にはそういう『前置詞』がつくもんらしいぞ。今のところ、単体で名前が書かれてきたのはなかったがな」
(僕の……芽理)
芽理は改めてメールタイトルを一つずつ眺めた。
(こんなに前から、こんなにずっと)
自分に気持ちを寄せていてくれたなんて。
「何にも……言わないから」
「うん……それなんだが」
水尾は眉をしかめた。
「あれほど自分のことを知らせるなって言ってきてたのに、どうしていきなりこういうことになってるのかが、よくわからんなあ。それに俺の方にも、夏の始めぐらいだったかな、日本へ行くとメールをよこしたきり、音信不通になったから。まあ、それもあって、ちょうど『祭』が近いから仕事をかねて様子を見に来たんだが、予想以上に入れないしなあ」
「入れない?」
「うん。バルディアの『闇と光の祭』はアシュレイ家が中心になって行なわれる地方性の強いものでね、たぶん、紗王伝説の系列になるもんだと思うんだが、外国人は参加できないんだ。三年前の取材だって、前夜祭みたいな宴会でお茶を濁されただけだったから、教授も今度こそまともなワークをしてこいって送りだしてくれたんだが」
「紗王伝説、ですか?」
芽理の問いに、水尾はうなずいた。
「紲王伝説、あるいは緘王伝説ともいう。北欧のノエガ伝説、キノルン・パーソ、南米のチャリオ伝説、マクーガデノス伝説、アイリアとシェロルの話、東南アジアのシートとイルハラ伝説、チベットのベツト僧とケブンの話、ネイティブ・アメリカンの白い馬が黒い馬に殺される話、そして、日本の紗王伝説、中国の紲王伝説。考えようによってはイエス・キリストの処刑と復活の話もそうとれるかもしれないな」
水尾は考え込んだ顔で続けた。
「これが妙な伝説でね。まず、名前からしておかしいんだが。紲王、緘王ということば自体がね。紲というのは罪人なんかを牢につなぐことを指す。同じく緘は閉じ込めるの意で、口を塞ぐ、封じ縛る、封をする、などの意味も持っている。対して、王、という組み合わせはあまりにも妙な名前だとは思わないか?」
芽理はうなずいたが、どちらかというと、今はマースがずっと前から芽理を知っていたにも関わらず、それを知らせないまま、しかも自分に冷たく振舞っていたということの方が気になった。
(どうして……?)
もし、マースが水尾の言う通り、芽理のことをずっと見守り大切に思っていてくれたのなら、どうして資金援助と引き換えなどいう条件で彼女を望んだのか。
それに。
(マージ)
夜中に彼女がマースの部屋に来ていたのは紛れもない事実で、それをどう考えていいのかがわからない。
そんなこんなを考えていて、水尾の話から気が逸れていたときにクリスがカフェテリアにいる芽理達を見つけてくれて、そのまま水尾とは別れたのだ。
「どうも気になるな……何かあったら、ここへ連絡をくれ」
こっそり握らされたメルアドと電話番号は今芽理のバッグの奥深くにしまわれている。
「兄さんのことが……どうしたの?」
「うん……何だか……」
戸惑い口ごもる。けれど、何年も前からずっと芽理のことを気にかけていてくれたのだという事実をあからさまに見せられて、胸がどこか甘く切なくゆるんでくる。
「マース……ずっと……私のこと……気にしててくれたみたいで……」
つぶやくと、ふわあっと体が柔らかく溶けていくような気がした。
遠い国から何度も何度も芽理を想ってのメールが日本に届く。遠い国で何度も何度もマースは芽理を想ってメールを送る。
(それを始めから知っていたら)
芽理だって喧嘩腰にはならなかった。
(そういえば……)
ガウンだって、夕食のデザートのことだって、確かに芽理に対するマ-スのアシュレイ家での対応は冷ややかでそっけなかったけれど、それもひょっとしたら芽理には見えなかった、そしてマ-スが芽理に話せなかった、何か別の理由があったのかもしれない。
(私だって、マースは私を愛さないって思い込んでたから)
その思い込みの枠の中でマ-スのことばや振る舞いを推し量っていた。
でも、それならどうして形だけでいいなんて言ったのだろう。愛はなくていいと言ったのだろう。
(やっぱり訳がわからない)
「聞いてみよう……かなあ」
「え? 兄さんに?」
「うん……もう一回、始めから」
幸いに居間は共通だし、夕食後ならマースも時間がとれるかもしれない。あのオルゴールのことは多少はわかったけれど、水尾に託したメールのことを聞いたら、マースも何か話してくれるかもしれない。
(やり直してみようかな。嫌なやつだと決めつけないで)
水晶のように淡い瞳が笑み綻ぶのを見たい。優しい声で芽理の名前を呼ぶのが聞きたい。何よりも、マ-スが芽理のことをずっと案じて想っていてくれた、その気持ちの深さを受け取りたい。
(そうしたら)
この異国で見知らぬ世界でも、二人寄り添って生きていけるかもしれない。
(マ-スと二人で)
とくとくと小さな鼓動が胸が疼き出す。
「芽理」
ふいにいつもと違ったクリスの低い声が響いて、芽理は舞い上がった気持ちのまま、相手に視線を戻した。
「なあに?」
「兄さんに何を聞くつもりなのか知らないけれど……兄さんは……」
クリスは珍しく暗い表情になって急に車を止めた。きょとんとする芽理にもう少しで辿り着くアシュレイ家の明かりを見つめたまま、
「本当のことは話してくれないかもしれない……話さないかもしれないよ?」
「……どうして?」
「だって……誰だって……」
クリスは口ごもり眉を寄せた。
「人に聞かれて困ることは話さないだろう?」
「どういうことなの?」
「僕は兄さんが大好きだし、兄さんの幸せになるなら……どんなことも平気だけど……」
「クリス……?」
相手はハンドルに顔を臥せるように俯いた。
「ほんとは……今日芽理を連れ出したのも、芽理なら話せばわかってくれるかもしれないって思ったから……」
「何のこと?」
「……兄さんが……夜、何をしてるか……知ってる……?」
クリスがしばらくためらった後、掠れた声でつぶやいて、芽理はぎくりとした。とっさに答えられなくて、顔を背け、正面を向いてアシュレイ家の門扉を凝視した。
「人が出入りしてるの……気づいてる、よね?」
「……うん」
体が竦み強ばっていく。クリスが何を言おうとしているのかを聞きたいような聞きたくないような緊張で喉が渇いていく。
「ずっと口止めされてたんだ……けど、芽理を見てたら……我慢できないよ、もう」
「……マージが来てるのは、知ってる」
クリスのほのめかしに苛立って、芽理はまっすぐ前を向いたまま答えた。せっかく甘くなった胸の内が不安に波立っていく。
「そう……でも……」
クリスがもっと微かな囁くような声になった。
「昨日は『僕』だったんだよ?」
「え……?」
(昨日は、僕?)
思いもつかなかったことばに思考がついていかずに、芽理は胸の中でそのことばを繰り返しながらクリスを振り向いた。クリスがちらりとこちらへ視線を投げてきて、自嘲するように弱々しい笑みを浮かべてみせる。
「驚いた……? 気持ち悪い……? だけど……僕は兄さんには逆らえないんだ……アシュレイ家の当主だから……嫌だけど……来いって言われたら……行くしかなくて……」
すうっと恥じるような赤みがクリスの頬にのぼってきて、唐突にその意味を理解する。
「あ……」
「芽理に聞こえるぞって言われたら、我慢するしかなくて…………でも……ほんとは嫌だ、嫌なんだけど」
耐えかねたように視線を逸らせて唇を噛み俯くクリスから、慌てて顔を背けて正面を向く。
(待ってよ、それって)
「マースが」
干涸びた喉から必死に声を絞り出す。
「クリスも」
びくっ、とクリスが体を震わせて、芽理は口をつぐんだ。跳ね上がっていく心臓の音がうるさい。
(マースが、クリスも)
さっきまで体に漂っていた温かなものがあっという間に砕けていく。
「痛くて……苦しくて……ときどき声が……出てしまって……でも……芽理の部屋のドアも開けられたりするから……僕は……たぶん誘われる僕が悪いんだろうけど……でも……そのときはもう……」
涙に滲んでいるようなクリスの声に全身が熱くなって居たたまれなくなってくる。
(だから、ドアが開いていた? だから、人の声が聞こえてた?)
「……わかった」
芽理は唇を噛んだ。
「もう、それ以上、言わなくていい」
「芽理……僕を嫌わないで?」
「うん、嫌わない……だって……クリスが悪いんじゃないよ、きっと」
くすん、と洟をすするような音を響かせてクリスが顔を上げ、再び車を動かし始めた。
夕食にはまだ時間があった。
「今日はありがと、クリス」
御礼を言いながらも相手の顔が見られない。頭の中では夜を渡ってきた妙に生暖かい空気と奇妙な気配、クリスの告白がぐるぐる渦を巻いている。
「私、気にしていないから、また図書館連れてってね」
「うん、ありがとう、芽理」
手を掬われぐっと握りしめられて、思わずクリスを見上げた。目許が僅かに赤いものの、それでも痛々しげな笑みを浮かべて、クリスが続ける。
「芽理に話せてよかったよ。一人で抱えてるの……辛くってさ」
「うん……わかるよ」
ぎごちなく笑い返しながら、道具扱いされているクリスと自分が重なって苦しくなる。
「でも、もう大丈夫だからね。また……おかしなことされそうだったら、叫んじゃったらいいよ。そしたら、私が飛び込んであげるから」
「そんな……でもうれしいよ、芽理、ずいぶん気が楽になった……あれ、部屋へ戻るの?」
「うん、ちょっと汗をかいたから着替えてくるね」
「うん、じゃ、後でね」
どこか幼く微笑んで手を振り、車を片付けにいくクリスを背中に、次第に足を速めながらマ-スの居間に向かう。
(やっぱり、マ-スが悪いんだ)
マージだけではなく、クリスまで自分の欲望を満たす道具にしているなんて。
(弟なのに……水尾さん、やっぱりだまされてるんだ)
メールなんかことばなんか、いくらでも操れる、ごまかせる。それらにうまく振り回されて、マ-スの本質を見誤っているのは水尾の方ではないのか。
(だって……あんなことで、クリスが嘘をつけるはずがない)
女にとっても気持ちに添わないことは苦痛だけれど、その気のない男にとって屈辱的なこと、だろうから。
とにかく、マ-スの趣味はどうであれ、芽理のことを脅しの道具にまで使われるのには我慢ができない。芽理がマ-スの知らないと思ってることをよく知っているのだと思い知らせて、そうだ、最低でもクリスからは手を引かせよう。
ノックもせずに居間のドアを開け放つ。
「マ-ス、ちょっと話が……」
声をかけて気がついた。部屋には誰もいないし、続きの寝室にも気配がない。
「いない、のか」
どうしよう、とりあえず夕食を食べてからにしようか、その前に、服を着替えると言ったのだから、それはしておかなくてはと思い直してドアを閉めたとたん、芽理は隅の棚のオルゴールに気づいた。
(あの、名前……)
今なら開けてこっそり読み取れるかもしれない。
もう一度周囲を見回し、誰も来る気配がないのを確かめて、そろそろと近づき、オルゴールを取り上げる。
本当にこじんまりとした小さな箱だ。けれどよほど丁寧に扱われているのだろう、角は艶が出て、埃一つついていない。
(そういえば、手紙も入ってた……)
芽理にはメールだったけど、手紙を送るような相手がいたのだろうか。それとも、それはやっぱりマージとの手紙だったのか。
指先が震えていた。唾を呑み込み、そっと開く。金属板が弾かれて澄んだ音を紡ぎ出す。蓋を大きく開いて、そこに刻まれている文字を今度こそ読み取ろうと目を近付けたとたん、
「芽理……?」
「!」
誰もいないと思っていた、しかも芽理の寝室から声が響いてぎょっとした。顔を上げると、境のドアを開けて立っているマ-スが芽理の手にあるオルゴールに気づいて顔色を変える。
「芽理! それは……!」
「あっ」
急いで棚に戻そうとした手元が狂って、オルゴールが転がり落ちた。『別れの曲』に合わせて中の封筒を吐き出しながら転がっていくのを、走り寄ってきたマ-スが慌てて拾い上げる。とっさに芽理は散らばった手紙を拾い上げてマ-スに渡そうとして……固まった。
「これ……」
「あ」
背後でぱたりとオルゴールの蓋を閉じて安堵したらしいマ-スが、手紙を差し出そうとして振り返った芽理の前で凍りつく。
「これ……私の出した手紙……だよね?」
拾い上げた手紙は6通。出したはずの手紙が全てそこにある。しかも封が切られているのに気づいて、芽理はざわざわとしたものが体の中に立ち上がってくるのを感じた。
「芽理……」
「返事……来るはずが、なかったんだ?」
見上げると、マ-スはオルゴールを抱えたまま強ばった表情でこちらを見つめている。
「みんな、マ-スが盗ってたんだ?」
(みんなみんな嘘だった?)
その嘘に見事にだまされて芽理は一瞬なりとマ-スに同情し魅かれた。それがたとえようもなく悔しくて、まぶたに熱いものがにじんできた。
「芽理……僕は」
「人の手紙盗み読みして……返事ずっと待ってたの、笑って見てたんだ?」
「そんな……」
不安定な仕草で首を振る相手を立ち上がって睨みつける。
「やっぱり水尾さん、だまされてるんだ」
「水尾? 水尾に会ったのか?」
ぎくりとした顔になって問い返してくる相手に吐き捨てる。
「会ったよ、けれど、それがどうしたの? また別のお芝居がばれるのが怖いわけ?」
「別の、お芝居……?」
マ-スが薄い色の目を不安そうに揺らせた。
(だまされない、もうだまされない)
「クリスにも聞いたよ、夜、何してるのか」
「……夜、だって……?」
それは明らかに痛いことばだったらしく、目に見えてマ-スの顔色が青ざめた。
「マージを抱いて、クリスも……無理に言うこと聞かせてるんだって」
「!」
マ-スが驚いたように目を見開いた。
「クリス、言ってた、凄く嫌なんだけど、兄さんは当主だから逆らえないって。泣いてたんだから。どうしてそんなひどいことするの? どうしてそんなひどいことできるの? 実の弟なのに?」
「クリス、が……」
「我慢の限界だってあるんだからね! クリス、マ-スのこと大事にしてるけど、でも、我慢しきれなくて打ち明けてくれたんだから! 人の心なんて持ってないマ-スにはわかんないんでしょう! 大切な手紙盗んで隠すような人には、人の気持ちの傷みなんてわかんないんでしょう!」
なぜ自分が泣き出しているのかわからないまま、芽理は一息に言い放った。
マ-スはその罵倒を聞きながら、次第にぼんやりとした表情になっていった。見開いていた瞳が光と奥行きを失う。どちらかというと困惑しているような曖昧な顔、そのままつぶやくように尋ね返した。
「僕が……クリスを抱いてるって……? 無理に言うことを聞かせて……おもちゃにしてるって……君はそう思ってるんだね?」
「違うの?」
「……そう、なんだ。そう、なのか。そう、なってるのか」
ほう、と唐突にマ-スは溜息をついた。ゆっくりと肩を落とし、微かに笑う。
「じゃあ……そう、なんだろう、な……」
つぶやいて虚ろな顔でそっと自分の髪に触れた。それがこの場になっても見かけを整えることだけ気にしているように見えて、芽理はなおさら苛立った。
「そうなんだろうって……そんな言い方……!」
ふわりと急にマ-スの視線が泳いで芽理はぎょっとした。まるで何か懐かしい思い出を探すような遠い視線で窓の外を見る。微笑が少し深まって……唐突に全ての表情が消えた。閉じられた瞳が切なそうに潤んだように見えたのは一瞬、振り返れば痛烈なほど醒めた視線を芽理に向けた。
するすると近寄ってきたマ-スが怯む間もなく、芽理の手から手紙の束を奪い取り、当然のようにオルゴールにおさめるのを呆気にとられて見る。
「ちょ……返してよ!」
「どうして?」
一転してきっぱりとした動作でマ-スは振り返った。感情の一切読めない瞳で芽理を見返し、落ち着いた声で淡々と、
「これは出したけれども戻ってきた。だから僕が受け取った。僕が受け取ったから僕のものだ、もう君のものじゃない」
その整った顔に奇妙な薄笑いが浮かんだ。冷ややかに事実を述べる口調で、
「人のものを黙って開いたんだからおあいこだね。じゃあそういうことで」
「マ-ス!」
「ああ、それから」
マ-スは自分の寝室へオルゴールを持ち去ろうとしたように向きを変えたが、思いついたように背中を向けたまま、
「境のドアに鍵をつけたよ。夜中の物音が不愉快ならば鍵をかけて眠りたまえ。朝まで何にも邪魔されずに安眠できる。僕もその方が安心だ」
「ひどい!」
芽理は叫んだ。頭が過熱してどう言えばいいのかもうわからなかった。
「どうしてそんなひどいことやって平気なの! わかんないよ!」
「……そうだね、僕もわからないよ。きっと壊れてるんだろう」
声が揺らめいたのは一瞬だった。すぐに静かな平坦なことばが背中越しに戻ってきた。
「そんなひどいことをする人間なんて……そんなマ-スなんて……二度と話したくない、顔も見たくないから!」
言った瞬間に言い過ぎたとわかった。けれど、それにもマ-スは動じた様子はなかった。
「わかった」
冷ややかな声が今度はわずかに掠れて届いた。
「二度と会わずに済むよう……努力する」
「マ-ス!」
部屋を出て行くマ-スを呼んだ芽理の声は静かに閉められた境のドアに遮られた。
やがて、かちり、と鍵のかかる小さな音がした。
これは本当だろうか。
クリスと一緒に屋敷を出て行く芽理の姿を窓辺から見送りながら、マースは口元をこぶしで押さえたまま立ち竦んでいる。
顔が熱い。体が微かに震えている。
けれどいつものように恐怖や不安からではなくて、歓喜からだ。朝食も昼食も摂っていないのに胸がいっぱいになっていて、何も喉を通りそうにない。何度も何度も、さっきの芽理の様子を思い出し、違うふうに考え直そうとしても、思いはそこへ戻っていく。
(芽理はマージに嫉妬している?)
まさか。
芽理はマースを嫌っている。愛してなどいない。不快がっている。
だから、マージに嫉妬することなど、ありえない。
そう思いはするのに。
『……へええええ……そうなんだ、大事だから、マージは選べなかったんだ?』
最初は、唇を尖らせ、目を挑戦的にきらめかせながら言い返した芽理が、なぜいきなりマージの名前を出したのかわからなかった。
マースはオルゴールを抱えて眠り込んでしまっていた。てっきり芽理にあれこれ見られたとそればかりを考えていて、何とか言い逃れようとしていた。
加えて、プレゼントのオルゴールに『別れの曲』を選んだ理由を、まさか贈るばずだった当人から聞かれるとは思っていなかった。いざ聞かれてみると、なぜ自分を選んだのかと芽理自身に誠意を問い正された気がした。
遠い異国で、いろいろな不自由の中、婚約者にも優しくされなくて、芽理にとっては気持ちが落ち込むばかりの日々だろうに、それでもしっかりと顔を上げて尋ねてくる姿は胸詰まるほど鮮やかで。
(もう少し、話していたかった)
甘やかな会話ではないけれど、そして相手のことばはマースへの糾弾に他ならなかったけれど、それでもゲストルームに来てからほとんど芽理と話せなかったから、走り出していく鼓動を押さえるだけで手一杯、気がつけば、誰にも話さなかった胸の裡をぽろぽろと話し出していた。
目の前に、唇を結んでこちらを睨みつけている顔、黒い瞳が濡れているようにきらきら光っていて、水尾に連れ回してもらっていた日々を、偶然出逢った近所に住むという少女の姿を、懐かしく愛しく思い出していた。
(君はあの時も僕の視線をまっすぐに受け止めた)
どこにいても目を引く容姿だ。日本では特に。視線を向ければ目を逸らされる、水尾と並べば好奇の視線が張りついてくる。振り返れば得体の知れない獣に出くわしたようにそそくさと姿を消そうとする人々の中で、芽理は真正面から物珍しげにマースを見つめた。
(今でも覚えてる……あの時の身が竦むような感じ)
身動きできなくて、呼吸まで奪われた気がして、体中が熱くなった。どこかへ行く途中だったのか、平然と自転車を漕いで去るのをただただ茫然と見た。
あれは誰だ、と聞いた自分の声が情けないほど上ずっていた。頼むから教えてくれ、そう続けると、水尾は眉をしかめ一言「落っこちたか」。きょとんとするマースににやにやした相手が祝杯を上げようと誘った。「お前が初めて女の名前を聞いたからな」。
そう言われても、自分が芽理の瞳を一瞬しか引き止められなかったのが悔しくて、もっとかっこいい男だったらよかったとつぶやき、水尾に軽く殴られた。
選ぶなら彼女。
けれど、そんな夢は帰国するとすぐに幻だとわかった。幻どころか、自分が心を注ぐ相手を見つけてしまったことが悪夢なのだと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
次世代を得るために花嫁を選べ。
命じられた瞬間に芽理を思い出してしまったのは、生きていて一番残酷な瞬間だった。
そして、芽理が妻になるかもしれないという喜びと不安に揺れたマースを、クリスは見逃しはしなかった。
紫陽学園の経営破綻は少し調べればわかった。多額の借金は膨れ上がる一方で、始めは支援していたらしい企業も手を引きつつあった。
借金を全て引き受けてあげれば、芽理はきっと喜ぶよ。
囁いたクリスの手に、どうして乗ってしまったのか。
(資金援助だけのつもりだったのに)
クリスは状況を確認しに行くべきだと言った。芽理に会えるかもしれないよ、とそそのかした。
水尾にときどき送ってもらっていた芽理の画像は、あまりうまく撮れていなかった。不満を伝えると水尾は「俺にストーカーになれってか?」と反撃してきた。その代わり、一回だけだぞ、と芽理が水尾の携帯に伝言した声を送ってもらって、なお気持ちが募ってしまった。
会えるかもしれない。声が直接聞けるかもしれない。
ならばそれだけでいい。
出向いた日本で出逢った芽理は、数年たっただけで信じられないほど華やかになっていた。強くてきららかだっただけの瞳が潤いを帯びてまばゆかった。唇の色が柔らかく鮮やかだった。素直な笑みが人目を引き付けた。何よりも、少女を越えて女性に近づきつつある姿は、きっとすぐに周囲の男の知るところとなるとわかった。
けれど今は、咲き始めた見事な花の所在を知っているのはマースだけだ。この機会を逃せば、この花はきっと他の男に手折られてしまう。
密かにプレゼントを用意していた。自分で『めり』の名前を彫り込んだオルゴール、人生を通り過ぎていった異国の男が居たと覚えていてくれるだけでいいと思っていた。
(だめだった)
そんなことでは耐えられなかった。他の男、と考えた途端に凍るような怒りが襲った。芽理は誰も選んでいないのに、自分は永久に選ばれないことがわかった瞬間、攫うことしか考えなかった。
芽理がマースに気持ちを向けてくれることなどあり得なかった。マースがマースであるかぎり、あってはならないことだった。
(だから、あのオルゴールに気持ちを封じ込めて)
けれど、あの時きっと、芽理はオルゴールだけではなく、マースの気持ちも開いてしまっていたのだろう。
『じゃあ、どうしてその人を選ばなかったの』
問われて、自分の気持ちを告げてもいいと許された気がした。
(芽理に伝えてもいいんだと、思ってしまった)
胸が詰まって、何から伝えればいいのかわからなくなって、ようやく一言気持ちを告げた。
ところがそれは思ってもみなかったことばになって返ってきて。
『……へええええ……そうなんだ、大事だから、マージは選べなかったんだ?』
次第に顔を赤くしてきつい声になってくる芽理は怒っているとしか思えなかった。なぜ芽理が怒っているのか、何がまずかったのか必死に考えていたマースの脳裏に過ったのは、マースとマージが寝ていると芽理は考えていることだ。
自分の婚約者が他の女と密会している、だからプライドを傷つけられて怒っている、それにオルゴールの名前が読み取れなかったと言っていたから、Mで始まる名前は芽理じゃなくてマージだと考えたんじゃないかと気がついた。
『大事じゃないから、私は選べたんだ? 道具でよかったから? 金で買ってこれたから?』
ところが、マースに激しくきりきりした声で畳み掛けるように芽理が言い放ったとたん、別の感覚がマースを襲った。
(どうして芽理は怒ってる?)
形だけの婚約者、そういうことへの怒りならば、とっくに吐き出しているはずだ。部屋を移ったときにでもなじられ怒りをぶつけられているだろう。
けれど、今芽理は自分がマースに大事にされていない、と怒っている。 どうでもいい、むしろ不快で嫌ってるなら、相手が自分を大事にしてくれないなどということで苛立ったりはしない。これ幸いと距離を取って離れていくだけだ。
なのに、芽理は怒っている。マースが選んだのがマージであることを。オルゴールを贈ろうとした相手が自分ではないことを。マースが気持ちを向けている相手が自分でないことを。
(それってつまり……?)
ふいに体を襲った幸福感にマースはたじろいだ。
(芽理は僕の気持ちを気にしてる? マージに嫉妬してる? 芽理は……僕を……好いてくれている?)
全身があっという間に熱くなってことばを失ってしまった。望むことさえできなかっただけに、唐突に差し出されたそれは衝撃的で、夢を見ているのではないかと焦ってことばを探した。
(ひょっとして……うまく伝えられれば、君は僕を愛してくれる?)
けれどあまりにうろたえていて、マースはことばを重ねられなかった。芽理を納得させられなかった。
芽理はマースが自分を道具扱いしてるとののしり部屋に籠ってしまい、あげくのはてに、クリスとどこかへ出かけてしまった。
(でも……)
部屋の隅の棚をそっと振り返る。
そこにはオルゴールが置かれている。
芽理が出した手紙を入れたオルゴール。
(ひょっとしたら)
オルゴールの名前を見せて、どうしてこのオルゴールを持っているのか、どうしてその名前が芽理なのかを話した上で、手紙は本当は出してあげたかったのだけど、クリスに遮られて出せなかったから大切に保管していたこと、中身を見てしまったのはとてもすまないことだけど、できれば許してほしいこと……手紙を保管していたのは、それしか芽理からは何も受け取れないと思っていたからだと、少しずつきちんと伝えたら。
(芽理は……僕を愛してくれる……?)
いや、愛してくれなくても、少なくとも、マースの運命を理解してくれる、かもしれない。
(芽理なら)
強くて優しい彼女なら、ひょっとしたら、マースの運命を打ち明けても、恋人にはなれなくても、友人にはなってくれるかもしれない。
(話してみようか)
ごくりと唾を呑んだ。
(芽理が……帰ってきたら)
ぱらりと汗に濡れていた前髪が落ちる。
軽蔑されるかもしれない。薄気味悪がられるかもしれない。恐れられ遠ざけられるかもしれない。せっかく傾いた気持ちも失ってしまうかも知れない。
(でも……僕だってもう……限界だ)
マースは苦く笑って、窓の外を見つめたまま、そっと自分の体を抱いた。
「芽理?」
「うん?」
「考え込んでるね?」
クリスに話し掛けられて、芽理は我に返った。
開け放った車窓からの風は夜気を含んでひやりとしている。それと察したのか、クリスが窓をさり気なく閉めてくれる。
「ミズノオ、だっけ? 兄さんの友達だって言ってた、彼と会ってからずっと考え込んでるみたいだけど」
「うん……」
芽理は中途半端にうなずきながら、窓の外を流れる古い町並みにぼんやり目を向けた。
「何だか……わけ、わかんなくなってきちゃって」
「……ふうん? 何が?」
クリスは滑らかなハンドル捌きでそれほど広くない道をスムーズに抜けていく。街の中には点々と温かそうなオレンジ色の光が灯り、それが点る場所での団欒を思わせる。
「ん……マースのこと」
「兄さん?」
車はゆっくりと市街を離れて郊外のアシュレイ家に向かっていく。
「ん……」
尋ねられた返事もそこそこに芽理は再び物思いの中に戻った。
「こっちこそ、どうして、って聞きたいとこですよ」
図書館の片隅にあるカフェテリアに入り、白い丸テーブルについて、芽理は早速水尾に問い返した。
「どうしてこんなところにいるんですか?」
「俺が民俗学やってたのは覚えてる?」
「あ、はい」
水尾は不精髭がまばらに伸びた顔でにこにこ笑った。
「大学から院に進んでね、今はフィールドワークというやつ。興味のある分野を見つけたもんで、ずっとそれを追っかけてんだけどね……それもマースがらみだが」
「マース?」
「うん。もともとマースが日本に留学してたときに、大学の方で面倒みてたらしいんだ。あいつ、ここも出来がよくってかなりスキップしたみたいだけど」
水尾は頭を突きながら苦笑いした。
「うちの教授がバルディアの祭りを調べてる最中で、まあ、その引き換え条件にあいつの留学先を引き受けたらしい。それでお目付役と言うか、世話役と言うか、まあ歳も近いしってことで、俺が相手をすることになってさ、それがマースとの関わり始め」
コーヒーカップを傾けて香りを楽しみ、続ける。
「見栄えがよくて頭もいいなんて反則だろ? しかも純情でいいやつだなんて、神様ってのはほんと不公平だよな?」
「純情で……いいやつ……?」
芽理は思わず顔をしかめてしまった。
「どのあたりが」
「え、だってさ、今頃珍しいだろ、顔見ただけで硬直するほど好きな女に、声一つかけられないやつなんて」
「マースのことですか?」
芽理の口調がよほど不快そうだったのだろう、水尾は驚いたような顔になったが、何か事情があると察したらしい。
「ということは、マースのことはもうよく知ってるんだな? で、どうやってあいつは君を手に入れたんだ?」
「お金で買われたんです」
「おいおい……穏やかじゃないな」
「だって……ほんとのことだもん」
「……一体、何がどうなってるのか、話してくれ、さっぱりわからん」
不審がる水尾に仕方なしに芽理は始めから話し始めた。自分でもよほど溜まっていたのだろう、それほど事細かに話すつもりはなかったのだけれど、気がつくと、夜の密会のことまで話してしまったのは、周囲に日本語がわからない気安さからだったかもしれない。
「……で、マースは、マージって人と夜こそこそ会ってて……それ、隣の部屋だったりして……」
言いながらどんどん情けなく悲しくなってくる。自分がどれほど頑張っても、きっとマースにあんなふうに、優しそうに愛しそうに話してもらえる相手になりはしないのだ、そう改めて思い知らされた気がしてきて、オルゴールについて話すころには視界が潤み砕けて零れ落ちてしまっていた。
「……そんなふうに言わなくてもいいじゃないですか……? 私は、そりゃ、ガキだから仕方ないだろうけど、そんなふうに……言われたら……ガキだって傷つきますもん……っ」
しゃくりあげそうになって慌てて口を閉じた。
「……うーむ」
ところがてっきり同情してくれると思ってた水尾は、妙に険しい顔で唸ったまま、じっとカップを眺めている。
「……そりゃ……妙だな」
「でしょ? あんまり……」
「や、そうじゃなくて」
水尾はがしがしがし、と頭を掻きむしった。話そうかどうしようかとしばらく迷っていたようだが、やがて気持ちを決めたらしく、
「マースはそんなことするやつじゃないよ」
「どうしてそんなことわかるんですか」
頭から否定されて芽理はむっとした。
「俺はさ……うーん、ほんとは誰にも見せるなって言われたけど、そんなふうに思われてるんじゃ、あんまりあいつが可哀想だよな」
水尾は鞄の中からノートパソコンを取り出した。テーブルに乗せて開き、メール画面を立ち上げる。
「俺はあいつが君にどれだけ惚れてるか、どれだけ君を大切にしてるか、よくわかってるから……ほら、見てみろよ」
「え……?」
芽理は画面にずらっと並んだメールタイトルを見て目を見開いた。どのタイトルも『芽理』になっているばかりか、一番古いのは二年前の春、それから二週間から三週間置きにメールが来ている。
「あいつが君を初めて見たのは、その一年前、かな。君と一度家の前で会っているけど、覚えてないかな」
(三年も前に、マースは私のことを知ってた……)
三年前というと、芽理は十三、中等部へ進級したぐらいのころだったのではないだろうか。
「自転車に乗ってどこかに行くときだったみたいで、こっちを見たけど、すぐに走ってったから、覚えてないかもしれないな。けどマースにしてみれば雷に打たれたみたいなもんだったんだろ、君の名前をしつこく聞くし、おやこれはと思ってたら、毎日君のことばかり話すし。あげくに帰国しても、君の写真を送れだの、声を聞かせろだの、そんなことしてたらストーカーだ、って言っても聞きゃしない。あ、そうだ、一つでも読めばよくわかるよ」
水尾はにやにやしながらメールを開けてみせたが、そこにはバルディア語で書かれているらしい文章が並んでいる。
「あの……?」
「あ、そっか、君は読めないのか。うーん、や、困ったな……」
「水尾さんは読めるんでしょう?」
「……あのな」
芽理のことばに相手は引きつった笑みを浮かべた。
「口に出して読めるような代物じゃないんだぞ? そんなことするぐらいなら、大通りでハムレット演った方がいいぐらいだ……けどまあ、読まなきゃわからんよなあ? うーん、仕方ないか、ちょっとだけだぞ?」
覚悟を決めて諦めたようにコーヒーで喉を潤すと、早口のつぶやきで言った。
「僕の芽理は元気だろうか。困ったり悲しんだりしていないだろうか。笑って楽しく過ごしているだろうか。最近学園の経営状態が思わしくないと聞いて心配している。彼女が困っていたらすぐに知らせてほしい。経済援助ならすぐに応じるし、必要なものはすぐに届けさせる。ただ僕のことは知らせないでくれ。僕は彼女がこの地球に生きててくれるだけでいい。同じ空気を吸ってるだけでいい。ただまた新しい写真を送ってほしい。もっとうまく写真を撮ってくれ。僕の芽理はもっと可愛い…………まだ続くが、もっと甘いやつが延々と続くから省略させてもらう」
疲れた顔で読み上げるのを中止した。
「こんな調子で毎月メールが来るんだぞ? 受け取る負担なんて頭にないんだよ」
「僕の……芽理……?」
「ああ、それな」
芽理が繰り返すと、水尾はなおうんざりした顔になった。
「マースが使う君の名前にはそういう『前置詞』がつくもんらしいぞ。今のところ、単体で名前が書かれてきたのはなかったがな」
(僕の……芽理)
芽理は改めてメールタイトルを一つずつ眺めた。
(こんなに前から、こんなにずっと)
自分に気持ちを寄せていてくれたなんて。
「何にも……言わないから」
「うん……それなんだが」
水尾は眉をしかめた。
「あれほど自分のことを知らせるなって言ってきてたのに、どうしていきなりこういうことになってるのかが、よくわからんなあ。それに俺の方にも、夏の始めぐらいだったかな、日本へ行くとメールをよこしたきり、音信不通になったから。まあ、それもあって、ちょうど『祭』が近いから仕事をかねて様子を見に来たんだが、予想以上に入れないしなあ」
「入れない?」
「うん。バルディアの『闇と光の祭』はアシュレイ家が中心になって行なわれる地方性の強いものでね、たぶん、紗王伝説の系列になるもんだと思うんだが、外国人は参加できないんだ。三年前の取材だって、前夜祭みたいな宴会でお茶を濁されただけだったから、教授も今度こそまともなワークをしてこいって送りだしてくれたんだが」
「紗王伝説、ですか?」
芽理の問いに、水尾はうなずいた。
「紲王伝説、あるいは緘王伝説ともいう。北欧のノエガ伝説、キノルン・パーソ、南米のチャリオ伝説、マクーガデノス伝説、アイリアとシェロルの話、東南アジアのシートとイルハラ伝説、チベットのベツト僧とケブンの話、ネイティブ・アメリカンの白い馬が黒い馬に殺される話、そして、日本の紗王伝説、中国の紲王伝説。考えようによってはイエス・キリストの処刑と復活の話もそうとれるかもしれないな」
水尾は考え込んだ顔で続けた。
「これが妙な伝説でね。まず、名前からしておかしいんだが。紲王、緘王ということば自体がね。紲というのは罪人なんかを牢につなぐことを指す。同じく緘は閉じ込めるの意で、口を塞ぐ、封じ縛る、封をする、などの意味も持っている。対して、王、という組み合わせはあまりにも妙な名前だとは思わないか?」
芽理はうなずいたが、どちらかというと、今はマースがずっと前から芽理を知っていたにも関わらず、それを知らせないまま、しかも自分に冷たく振舞っていたということの方が気になった。
(どうして……?)
もし、マースが水尾の言う通り、芽理のことをずっと見守り大切に思っていてくれたのなら、どうして資金援助と引き換えなどいう条件で彼女を望んだのか。
それに。
(マージ)
夜中に彼女がマースの部屋に来ていたのは紛れもない事実で、それをどう考えていいのかがわからない。
そんなこんなを考えていて、水尾の話から気が逸れていたときにクリスがカフェテリアにいる芽理達を見つけてくれて、そのまま水尾とは別れたのだ。
「どうも気になるな……何かあったら、ここへ連絡をくれ」
こっそり握らされたメルアドと電話番号は今芽理のバッグの奥深くにしまわれている。
「兄さんのことが……どうしたの?」
「うん……何だか……」
戸惑い口ごもる。けれど、何年も前からずっと芽理のことを気にかけていてくれたのだという事実をあからさまに見せられて、胸がどこか甘く切なくゆるんでくる。
「マース……ずっと……私のこと……気にしててくれたみたいで……」
つぶやくと、ふわあっと体が柔らかく溶けていくような気がした。
遠い国から何度も何度も芽理を想ってのメールが日本に届く。遠い国で何度も何度もマースは芽理を想ってメールを送る。
(それを始めから知っていたら)
芽理だって喧嘩腰にはならなかった。
(そういえば……)
ガウンだって、夕食のデザートのことだって、確かに芽理に対するマ-スのアシュレイ家での対応は冷ややかでそっけなかったけれど、それもひょっとしたら芽理には見えなかった、そしてマ-スが芽理に話せなかった、何か別の理由があったのかもしれない。
(私だって、マースは私を愛さないって思い込んでたから)
その思い込みの枠の中でマ-スのことばや振る舞いを推し量っていた。
でも、それならどうして形だけでいいなんて言ったのだろう。愛はなくていいと言ったのだろう。
(やっぱり訳がわからない)
「聞いてみよう……かなあ」
「え? 兄さんに?」
「うん……もう一回、始めから」
幸いに居間は共通だし、夕食後ならマースも時間がとれるかもしれない。あのオルゴールのことは多少はわかったけれど、水尾に託したメールのことを聞いたら、マースも何か話してくれるかもしれない。
(やり直してみようかな。嫌なやつだと決めつけないで)
水晶のように淡い瞳が笑み綻ぶのを見たい。優しい声で芽理の名前を呼ぶのが聞きたい。何よりも、マ-スが芽理のことをずっと案じて想っていてくれた、その気持ちの深さを受け取りたい。
(そうしたら)
この異国で見知らぬ世界でも、二人寄り添って生きていけるかもしれない。
(マ-スと二人で)
とくとくと小さな鼓動が胸が疼き出す。
「芽理」
ふいにいつもと違ったクリスの低い声が響いて、芽理は舞い上がった気持ちのまま、相手に視線を戻した。
「なあに?」
「兄さんに何を聞くつもりなのか知らないけれど……兄さんは……」
クリスは珍しく暗い表情になって急に車を止めた。きょとんとする芽理にもう少しで辿り着くアシュレイ家の明かりを見つめたまま、
「本当のことは話してくれないかもしれない……話さないかもしれないよ?」
「……どうして?」
「だって……誰だって……」
クリスは口ごもり眉を寄せた。
「人に聞かれて困ることは話さないだろう?」
「どういうことなの?」
「僕は兄さんが大好きだし、兄さんの幸せになるなら……どんなことも平気だけど……」
「クリス……?」
相手はハンドルに顔を臥せるように俯いた。
「ほんとは……今日芽理を連れ出したのも、芽理なら話せばわかってくれるかもしれないって思ったから……」
「何のこと?」
「……兄さんが……夜、何をしてるか……知ってる……?」
クリスがしばらくためらった後、掠れた声でつぶやいて、芽理はぎくりとした。とっさに答えられなくて、顔を背け、正面を向いてアシュレイ家の門扉を凝視した。
「人が出入りしてるの……気づいてる、よね?」
「……うん」
体が竦み強ばっていく。クリスが何を言おうとしているのかを聞きたいような聞きたくないような緊張で喉が渇いていく。
「ずっと口止めされてたんだ……けど、芽理を見てたら……我慢できないよ、もう」
「……マージが来てるのは、知ってる」
クリスのほのめかしに苛立って、芽理はまっすぐ前を向いたまま答えた。せっかく甘くなった胸の内が不安に波立っていく。
「そう……でも……」
クリスがもっと微かな囁くような声になった。
「昨日は『僕』だったんだよ?」
「え……?」
(昨日は、僕?)
思いもつかなかったことばに思考がついていかずに、芽理は胸の中でそのことばを繰り返しながらクリスを振り向いた。クリスがちらりとこちらへ視線を投げてきて、自嘲するように弱々しい笑みを浮かべてみせる。
「驚いた……? 気持ち悪い……? だけど……僕は兄さんには逆らえないんだ……アシュレイ家の当主だから……嫌だけど……来いって言われたら……行くしかなくて……」
すうっと恥じるような赤みがクリスの頬にのぼってきて、唐突にその意味を理解する。
「あ……」
「芽理に聞こえるぞって言われたら、我慢するしかなくて…………でも……ほんとは嫌だ、嫌なんだけど」
耐えかねたように視線を逸らせて唇を噛み俯くクリスから、慌てて顔を背けて正面を向く。
(待ってよ、それって)
「マースが」
干涸びた喉から必死に声を絞り出す。
「クリスも」
びくっ、とクリスが体を震わせて、芽理は口をつぐんだ。跳ね上がっていく心臓の音がうるさい。
(マースが、クリスも)
さっきまで体に漂っていた温かなものがあっという間に砕けていく。
「痛くて……苦しくて……ときどき声が……出てしまって……でも……芽理の部屋のドアも開けられたりするから……僕は……たぶん誘われる僕が悪いんだろうけど……でも……そのときはもう……」
涙に滲んでいるようなクリスの声に全身が熱くなって居たたまれなくなってくる。
(だから、ドアが開いていた? だから、人の声が聞こえてた?)
「……わかった」
芽理は唇を噛んだ。
「もう、それ以上、言わなくていい」
「芽理……僕を嫌わないで?」
「うん、嫌わない……だって……クリスが悪いんじゃないよ、きっと」
くすん、と洟をすするような音を響かせてクリスが顔を上げ、再び車を動かし始めた。
夕食にはまだ時間があった。
「今日はありがと、クリス」
御礼を言いながらも相手の顔が見られない。頭の中では夜を渡ってきた妙に生暖かい空気と奇妙な気配、クリスの告白がぐるぐる渦を巻いている。
「私、気にしていないから、また図書館連れてってね」
「うん、ありがとう、芽理」
手を掬われぐっと握りしめられて、思わずクリスを見上げた。目許が僅かに赤いものの、それでも痛々しげな笑みを浮かべて、クリスが続ける。
「芽理に話せてよかったよ。一人で抱えてるの……辛くってさ」
「うん……わかるよ」
ぎごちなく笑い返しながら、道具扱いされているクリスと自分が重なって苦しくなる。
「でも、もう大丈夫だからね。また……おかしなことされそうだったら、叫んじゃったらいいよ。そしたら、私が飛び込んであげるから」
「そんな……でもうれしいよ、芽理、ずいぶん気が楽になった……あれ、部屋へ戻るの?」
「うん、ちょっと汗をかいたから着替えてくるね」
「うん、じゃ、後でね」
どこか幼く微笑んで手を振り、車を片付けにいくクリスを背中に、次第に足を速めながらマ-スの居間に向かう。
(やっぱり、マ-スが悪いんだ)
マージだけではなく、クリスまで自分の欲望を満たす道具にしているなんて。
(弟なのに……水尾さん、やっぱりだまされてるんだ)
メールなんかことばなんか、いくらでも操れる、ごまかせる。それらにうまく振り回されて、マ-スの本質を見誤っているのは水尾の方ではないのか。
(だって……あんなことで、クリスが嘘をつけるはずがない)
女にとっても気持ちに添わないことは苦痛だけれど、その気のない男にとって屈辱的なこと、だろうから。
とにかく、マ-スの趣味はどうであれ、芽理のことを脅しの道具にまで使われるのには我慢ができない。芽理がマ-スの知らないと思ってることをよく知っているのだと思い知らせて、そうだ、最低でもクリスからは手を引かせよう。
ノックもせずに居間のドアを開け放つ。
「マ-ス、ちょっと話が……」
声をかけて気がついた。部屋には誰もいないし、続きの寝室にも気配がない。
「いない、のか」
どうしよう、とりあえず夕食を食べてからにしようか、その前に、服を着替えると言ったのだから、それはしておかなくてはと思い直してドアを閉めたとたん、芽理は隅の棚のオルゴールに気づいた。
(あの、名前……)
今なら開けてこっそり読み取れるかもしれない。
もう一度周囲を見回し、誰も来る気配がないのを確かめて、そろそろと近づき、オルゴールを取り上げる。
本当にこじんまりとした小さな箱だ。けれどよほど丁寧に扱われているのだろう、角は艶が出て、埃一つついていない。
(そういえば、手紙も入ってた……)
芽理にはメールだったけど、手紙を送るような相手がいたのだろうか。それとも、それはやっぱりマージとの手紙だったのか。
指先が震えていた。唾を呑み込み、そっと開く。金属板が弾かれて澄んだ音を紡ぎ出す。蓋を大きく開いて、そこに刻まれている文字を今度こそ読み取ろうと目を近付けたとたん、
「芽理……?」
「!」
誰もいないと思っていた、しかも芽理の寝室から声が響いてぎょっとした。顔を上げると、境のドアを開けて立っているマ-スが芽理の手にあるオルゴールに気づいて顔色を変える。
「芽理! それは……!」
「あっ」
急いで棚に戻そうとした手元が狂って、オルゴールが転がり落ちた。『別れの曲』に合わせて中の封筒を吐き出しながら転がっていくのを、走り寄ってきたマ-スが慌てて拾い上げる。とっさに芽理は散らばった手紙を拾い上げてマ-スに渡そうとして……固まった。
「これ……」
「あ」
背後でぱたりとオルゴールの蓋を閉じて安堵したらしいマ-スが、手紙を差し出そうとして振り返った芽理の前で凍りつく。
「これ……私の出した手紙……だよね?」
拾い上げた手紙は6通。出したはずの手紙が全てそこにある。しかも封が切られているのに気づいて、芽理はざわざわとしたものが体の中に立ち上がってくるのを感じた。
「芽理……」
「返事……来るはずが、なかったんだ?」
見上げると、マ-スはオルゴールを抱えたまま強ばった表情でこちらを見つめている。
「みんな、マ-スが盗ってたんだ?」
(みんなみんな嘘だった?)
その嘘に見事にだまされて芽理は一瞬なりとマ-スに同情し魅かれた。それがたとえようもなく悔しくて、まぶたに熱いものがにじんできた。
「芽理……僕は」
「人の手紙盗み読みして……返事ずっと待ってたの、笑って見てたんだ?」
「そんな……」
不安定な仕草で首を振る相手を立ち上がって睨みつける。
「やっぱり水尾さん、だまされてるんだ」
「水尾? 水尾に会ったのか?」
ぎくりとした顔になって問い返してくる相手に吐き捨てる。
「会ったよ、けれど、それがどうしたの? また別のお芝居がばれるのが怖いわけ?」
「別の、お芝居……?」
マ-スが薄い色の目を不安そうに揺らせた。
(だまされない、もうだまされない)
「クリスにも聞いたよ、夜、何してるのか」
「……夜、だって……?」
それは明らかに痛いことばだったらしく、目に見えてマ-スの顔色が青ざめた。
「マージを抱いて、クリスも……無理に言うこと聞かせてるんだって」
「!」
マ-スが驚いたように目を見開いた。
「クリス、言ってた、凄く嫌なんだけど、兄さんは当主だから逆らえないって。泣いてたんだから。どうしてそんなひどいことするの? どうしてそんなひどいことできるの? 実の弟なのに?」
「クリス、が……」
「我慢の限界だってあるんだからね! クリス、マ-スのこと大事にしてるけど、でも、我慢しきれなくて打ち明けてくれたんだから! 人の心なんて持ってないマ-スにはわかんないんでしょう! 大切な手紙盗んで隠すような人には、人の気持ちの傷みなんてわかんないんでしょう!」
なぜ自分が泣き出しているのかわからないまま、芽理は一息に言い放った。
マ-スはその罵倒を聞きながら、次第にぼんやりとした表情になっていった。見開いていた瞳が光と奥行きを失う。どちらかというと困惑しているような曖昧な顔、そのままつぶやくように尋ね返した。
「僕が……クリスを抱いてるって……? 無理に言うことを聞かせて……おもちゃにしてるって……君はそう思ってるんだね?」
「違うの?」
「……そう、なんだ。そう、なのか。そう、なってるのか」
ほう、と唐突にマ-スは溜息をついた。ゆっくりと肩を落とし、微かに笑う。
「じゃあ……そう、なんだろう、な……」
つぶやいて虚ろな顔でそっと自分の髪に触れた。それがこの場になっても見かけを整えることだけ気にしているように見えて、芽理はなおさら苛立った。
「そうなんだろうって……そんな言い方……!」
ふわりと急にマ-スの視線が泳いで芽理はぎょっとした。まるで何か懐かしい思い出を探すような遠い視線で窓の外を見る。微笑が少し深まって……唐突に全ての表情が消えた。閉じられた瞳が切なそうに潤んだように見えたのは一瞬、振り返れば痛烈なほど醒めた視線を芽理に向けた。
するすると近寄ってきたマ-スが怯む間もなく、芽理の手から手紙の束を奪い取り、当然のようにオルゴールにおさめるのを呆気にとられて見る。
「ちょ……返してよ!」
「どうして?」
一転してきっぱりとした動作でマ-スは振り返った。感情の一切読めない瞳で芽理を見返し、落ち着いた声で淡々と、
「これは出したけれども戻ってきた。だから僕が受け取った。僕が受け取ったから僕のものだ、もう君のものじゃない」
その整った顔に奇妙な薄笑いが浮かんだ。冷ややかに事実を述べる口調で、
「人のものを黙って開いたんだからおあいこだね。じゃあそういうことで」
「マ-ス!」
「ああ、それから」
マ-スは自分の寝室へオルゴールを持ち去ろうとしたように向きを変えたが、思いついたように背中を向けたまま、
「境のドアに鍵をつけたよ。夜中の物音が不愉快ならば鍵をかけて眠りたまえ。朝まで何にも邪魔されずに安眠できる。僕もその方が安心だ」
「ひどい!」
芽理は叫んだ。頭が過熱してどう言えばいいのかもうわからなかった。
「どうしてそんなひどいことやって平気なの! わかんないよ!」
「……そうだね、僕もわからないよ。きっと壊れてるんだろう」
声が揺らめいたのは一瞬だった。すぐに静かな平坦なことばが背中越しに戻ってきた。
「そんなひどいことをする人間なんて……そんなマ-スなんて……二度と話したくない、顔も見たくないから!」
言った瞬間に言い過ぎたとわかった。けれど、それにもマ-スは動じた様子はなかった。
「わかった」
冷ややかな声が今度はわずかに掠れて届いた。
「二度と会わずに済むよう……努力する」
「マ-ス!」
部屋を出て行くマ-スを呼んだ芽理の声は静かに閉められた境のドアに遮られた。
やがて、かちり、と鍵のかかる小さな音がした。
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