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7.塔
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『全ては終わった、ああ終わった』
「……っは」
鋭い痛みが下半身から背中を貫くように駆け上がってきて、気がついた。
「マース」
マージが薄笑いを浮かべながらマースの身体の上に乗っている。両頬を包む手の尖った爪から血の臭いが濃厚に漂ってきて鼻をつく。
「今夜は……の名前を呼ばないのね?」
マージはにたりと笑みほころびながら言った。誰かの名前を言ったようだが、マースにはうまく聞き取れない。血を流し過ぎたせいか、がんがんと鳴り続けている頭の中で、ことばはほとんど意味を為さない。
「マース」
「っ……っ」
再び強く下半身に爪をたてられ失いかけた意識を引き戻される。勝手に跳ね上がった身体にマージがまた満足そうに笑みを深めているのをぼんやりと見上げる。何度も気を失って何度も引き戻されて、マージの鋭い爪で裂かれた上半身の刺激ではもう目を覚まさないと気づいたのか、今度は繰り返し下半身を傷つけられているけれど、それさえも悲鳴を堪えきれなかったのは最初だけで、今はかなり痛みも感覚も遠くて鈍い。
「耐えているあなたはきれいだわ、とても……でも、もっと声を上げてもいいのよ……あなたの声が聞きたいわ」
「……っっっ……!!」
強く握られねじきられかけて意識が吹き飛ぶ。でも声は出ない。逆らう気なんてとうになくて、思いっきり口を開いたのに、喉の奥に酸っぱい何かが詰まっていて声にならない。
そのままマースはまた気を失った。
朝食後、そっと境のドアを開けて、隣の居間を覗き込み、芽理はがっかりした。
(マース……いない)
この数日、マースを見かけていない。正確に言うと、あの夜の夕食からマースはダイニングに一切姿を見せなくなった。それどころか、居間に入ることもないのか、唐突にこうして部屋を覗いてみてもマースを見つけることができない。
(言い過ぎたから……謝りたいのに)
あの日は絶対に芽理が言い過ぎた。
あまりにもクリスの告白がショックで、その後見つけたオルゴールに隠されていた手紙が、それらについて弁解もしようとしなかったマースの態度が辛くて、ことばをとめられなかった。
けれど、考えてみれば、どういう事情があったのか、マースからは一切話を聞いていない。
(クリスのことも……マージのことも)
唇を噛んで俯いて部屋に戻る。
『二度と会わずに済むよう……努力する』
背中から聞こえた冷たい声。
(本当に、二度と会わない気、なのかな)
のろのろとベッドに腰を落とした。
本当は、わかっている。
怖がっているのは芽理の方だ。マースの口から決定的なことば、芽理はただの飾り物の人形にしか過ぎず、本当に愛しているのはマージで、彼女と一緒に暮したいために芽理を日本から連れてきた、そう聞かされたくなくて、正面からマースにぶつかれないでいる。
(逃げてるのは私…………だいたい、おかしいよね)
まず、水尾のことがある。
マースがどう言おうと、水尾はマースが芽理を三年も前から心配し想い続けてきたと言っていた。水尾が芽理をだます理由など思いつかない。
第一、あのパソコンにあったメールのタイトルは確かに『芽理』になっていた。マースが繰り返し『芽理』というタイトルのメールを日本へ送り続けていたのは間違いない。
もう一つ気になることがある。
それはクリスやマージの態度だ。
マージが芽理に優しいのは相変わらずだが、それも芽理がマースの表面上の妻という役割を果たすために連れてこられたということを知ってのことだとしたら、あの優しさは始めから夫の愛を受けられないと定められてる人形への憐れみなのだろうか。そうだとしたら、今までそれをちらとも見せなかったマージというのも、かなり裏表のある人間だということになる。
それになおわからないのはクリスだ。
もし、クリスが無理にマースの欲望を処理するために夜中呼びつけられているとしたら、それこそ、今までの兄への親しげな態度というのは何だろう。いくら身内で尊敬していて当主だから逆らえないにしても、いや、そういう状態ならなおさら、力で自分を好き勝手に扱う相手に嫌悪感が先に立たないだろうか。憎しみがわかないだろうか。ましてや、ああやって芽理の目の前で泣くほど追いつめられているのに、どうしてあの後も、まるで何もなかったように平然とマースのことを話したりできるのだろう。
それから、マースには夢だと否定されたけれど、マースが切り裂かれてベッドに蹲り震えていた、あの夜のことを芽理は忘れていない。霧のように立ち上って消える血や、みるみる回復していく傷も。
(もし、あれが本当なら)
夜中に起こっていることがクリスが話したみたいに、芽理が疑ったみたいに、マースの欲望を満たす情事でないとしたら。
(どれだけ怪我をしても傷を受けても、翌朝には消えている、誰も気づかない)
マースを傷つけた本人とマース以外には。
芽理はもう一度境のドアを見た。
あれからずっと芽理はドアに鍵をかけている。マースの部屋にはやはり人の出入りする気配がある。
けれど前みたいに押し殺した呻きや悲鳴じみた声が聞こえることはない。ねっとりした妙な気配は感じるけれど、なぜかその熱は次第次第に弱まり薄まっていくような気がする。
(それが……怖い)
何か取り返しのつかないことをしているのではないだろうか。
何かとんでもない間違いを見逃しているのではないだろうか。
マースの姿がふっつりと視界から消えた後、そんな思いがどんどん膨れ上がっていく。
(もう……マースに会えない、ような)
ぶるっと芽理は頭を振って、ベッドから降りた。
あまりうろうろしてクリスやマージに不審がられるのは抵抗があった。あれほどマースに怒っていたのに、あれほどマースを不快がっていたのに、探し回っているなんて思われるのは癪だった。
(でも)
不安が募る。どす黒く心を胸を押し潰してくる。
芽理は部屋を出た。
アシュレイ家は広くて、芽理の知らない場所もまだいっぱいある。
(馬鹿なこと、してる、そんなのわかってる)
知らない部屋を一つ一つ回ってみる。知らない廊下を、知らないテラスを、迷いそうになりながら、『祭』に集まってきているらしいアシュレイ家ゆかりの人々の好奇の目に負けそうになりながら、歩き回っている。
どこを探してもマースはいない。
(昼はどこかへ行ってるのかもしれない)
仕事をしていて、屋敷にいないのかもしれない。けれど探さずにはいられない。脳裏に何度も、にじむように広がった、頼りなげなマースの淡い微笑が過る。
(もう……どこにも……いない、とか)
ぞくりとして思わず廊下の端で立ち止まってしまった。
その思いは自分でも思ってもみなかったほど衝撃的で体が竦んだ。と、そのとき、突然側の壁が動いて芽理はぎょっとした。
「お……」
壁だと思っていたのは実はドアで、中から銀髪をオールバックにまとめた背の高い紳士が出てきて芽理にぶつかり、覗き込んだ。
「あ、ごめんなさい」
思わず芽理が謝ると、相手は顎の張ったがっしりした顔に柔らかな微笑みを浮かべてうなずき、
「めり?」
「あ、はい」
「……ラピドリアン・ネ・フィ・アシュレイ」
驚く芽理に自分の胸をゆっくり指差し、名前のようなものをつぶやいて頭を下げる。
「あ、ああ、こ、こんにちは、あの、紫陽芽理です」
芽理も慌てて頭を下げた。相手はまたにっこりと魅力的な笑みを浮かべると、早口で何かを尋ねた。
「え、あ、あの、ごめんなさい、わからないんですけど」
「…………マース……?」
「え、はい、あの、マースを探してるんですけど」
かろうじて聞き取れた相手のことばの中のマースということばにほっとして答えると、どう伝わったのか、ラピドリアンと名乗った男はゆっくりと少し先にある一画を指差して見せた。
「マース……」
「あ、ひょっとしてあそこにいるんですか?」
「マース」
繰り返して指差すラピドリアンに芽理はぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、行ってみます」
これ以上何か聞かれてはたまらないと急いでその場を立ち去る。離れ際にちょっと後ろを振り返ると、ラピドリアンは奇妙な嬉しそうな笑みで見送っている。慌ててまた頭を下げて、まっすぐに指差された場所に向かって気がついた。
(サンルームだ)
そこは庭園の中に丸く張り出した区画だった。廊下とはガラスと小さな扉で仕切られていて、明るい日射しがいっぱいに差し込む部屋の中にソファやテーブルが置かれている。
「こんなところあったんだ……!」
(マース)
その庭園に面した窓近くのソファにマースが寝そべっていた。珍しく薄いピンクの模様シャツにスラックス、長い手足をくったりと投げ出してどうやら眠っているようだ。片手は下にずり落ちていて、乱れた髪が目許までかかっている。
(マース居た……)
よかった、と芽理が胸をなで下ろした途端、庭から声が響いてマースが身じろぎした。
「兄さん!」
鋭いクリスの声だ。
「兄さんっ!」
苛立った厳しい声、芽理が聞いたこともない響きだ。呼ばわりながら、庭園側の扉を開けて入ってくるクリスは、とっさに廊下の影に身をひそめた芽理には気づかなかったらしい。ソファに寝そべっていたマースの腕を掴み、激しい勢いで引き起こした。
「っく」
びくっ、とマースが苦痛を浮かべて一瞬仰け反り、芽理はぎょっとした。それよりもっと驚いたのは、それに気づかなかったはずがないのに、なおもクリスがねじ上げるようにマースの腕を引き上げたことだ。
「なにさ?」
冷ややかな声でクリスが吐き捨てた。
「傷が回復してないってアピール?」
「……」
マースが弱々しく首を振る。
「そんなことで逃げられるって思ってるの?」
「う……あっ」
クリスがもう片方の手でマースの肩を掴み上げて芽理は息を呑んだ。体を震わせたマースがはっきりと苦悶を浮かべて眉をしかめ、引きずり上げられるように立ち上がる。
「いい加減にしろよ。今さら抵抗するつもり?」
クリスが冷えきった声で続けた。
「今夜はラピドリアン伯父さんが待ってる……逃げられるなんて、思うなよ?」
(ラピドリアン?)
芽理は慌ててさっきの部屋を振り返った。背の高い紳士はもういない。
(ラピドリアンが、待ってる?)
不安に胸がどきどきしてきた。
(それって……それって……本当は……)
「!」
サンルームに目を戻して芽理は再び強い不安に襲われた。
マースの姿がない。クリスもいない。サンルームの扉は外に開いていて、そこから出て行ってしまったらしい。慌てて部屋に飛び込んでみたが、もうどこへ行ったのか、庭園のどこにも姿が見えない。
(どうしよう……)
マースの手がかりを求めてソファを振り返り、芽理は目を見開いてしゃがみ込んだ。
「マー……ス」
ソファは布張り、サンルーム用なのか淡い水色地、そこに点々と紅の花びらが散っている模様だとばかり思っていた。だが、それはちょうどマースの横になっていたところを象るように散り広がっている血の跡だった。ソファの下、マースの片手が垂れ下がっていたところの床にもべっとりとした血溜まりが残っている。
「血……マース……怪我してるんだ……」
間髪入れずに、あの夜、ベッドで自分の身体を抱き締めて震えていたマースの姿が甦った。
「どう……しよう」
(私が……間違ってた……?)
「あっ……」
マースが着ていたシャツもピンクの模様シャツではないとふいに気がついた。あれは、白いシャツが止まり切らない血で汚れていたのだ。
芽理は竦んだ。
(どうしよう……どうしたらいい)
震え出した体を抱き締めかけ、芽理はもう一つのことに気づいて、なお大きく目を見開いた。
「血が……消える……」
ソファに滲んだ血の跡が少しずつ少しずつ薄くなっていく。はっとして見下ろした床の血溜まりからも、霧のように細かな粒子となって立ち上っていきながら、どんどん空中に消えていく。
それはあの夜、確かに芽理が見た光景で。
それは何が真実なのかをはっきり物語っている。
誰が目を塞がれていたのか、誰が目を塞いでいたのかも。
「マース……」
芽理は歯を食いしばった。
「クリスから聞いたぞ。傷が回復しないんだってな?」
いつの間に夜が来たのか、マースには覚えがなかった。昼と夜の境がよくわからない。というか、自分が今どこにいるのか、何をしているのか、どんどんあやふやになってきている。
覗き込んでいるのはラピドリアン、『祭』の長を担うものだ。がっしりとした顎、艶のある銀のオールバック、鮮やかで目を射るほど鋭い青の瞳は表情とは裏腹に笑っていない。
「何も食べていないんだってな。いかんな、そんなことでは『祭』までもたないじゃないか」
太くてしっかりした指先がマースの頬をゆっくりとなで下ろし、唐突に顎を掴み上げた。唇に重ねるように寄せてきた口で低くゆっくりと囁きかける。
「当主としてあるまじき振るまいだ」
「……っぁ」
開かれたシャツの下に滑り込んだ手はマージのつけた傷を握り込んだ。指先をめり込ませてきながらなで下ろされて身体が強ばり声が漏れる。
「なぜ回復しない? 前はちゃんと治ってたはずだが?」
回復、と荒い息を繰り返しながらぼんやりマースは考える。
回復してどうなるのだろう。何があるのだろう。
(もう二度と)
あれは誰の声だったのだろう。
(もう二度と)
そうだ、もう二度と。
「……っ………くふ……っ」
ばき、と右脇腹で鈍い音が響いた。ラピドリアンの指先が握り込んだ肋骨を砕いたのだ。激痛が身体を走る、けれどそれも一瞬、朦朧としてくる意識はすぐに感覚を封じ込めていく。
「マース、……に会ったぞ」
ラピドリアンは誰かの名前をつぶやいた。だがはっきり聞こえない。たぶん、呼吸が荒くなってきて、その音で聞こえないんだろう。はあ、はあ、はあ。耳についてうるさい音だ。ぜろぜろと喉で、身体の奥の方で鈍い響きがこだまする。肋骨が肺に刺さったのだろうか、痛みは鈍くなってきたが胸が焼けつくように苦しい。必死に吸い込む空気が薄い。
「いい娘じゃないか。立派な子を産みそうだ」
(誰が……?)
誰のことを話しているんだろう。マースには覚えがない。
けれど。
(もう二度と)
どうしてこの声を思い出すんだろう。この声を聞くと喉が甘酸っぱいもので満たされて声が出なくなる。視界が熱くなって悲しくもないのに涙が零れ落ちる。
(もう二度と)
そうだ、もう二度と会えない。誰に?
(会えない)
ならどうして生き延びる必要がある? でも誰に?
(思い出せない)
痛みに感覚を閉ざしていると、記憶もどんどんあやふやになる。自分の中身を自分で食い尽くしていくのだろうか、裂かれ抉られ切り刻まれて、それと一緒に自分自身も細切れになっているのかもしれない。何も感じないと決めたはずなのに、なぜか涙だけが零れ続けて止まらない。
(もう二度と)
「マース、……を呼ばないのか?」
またラピドリアンが誰かの名前を言った。
「隣の部屋にいる、聞こえれば来てくれるかもしれないぞ?」
誰がいるって? どこにいるって?
(どこにもいない)
もう二度と。そう言った。もう二度と、顔も見たくない、と。だからマースは会わない。
(ないものねだりだ)
始めから間違っていたのだ。全てがどうしようもなく間違いだったのだ。あるはずのないものを求め、手に入るはずのないものを望んだ。
「呼べないのだな、マース、なら」
ラピドリアンが両手を放した。身体はぐずぐずと重い。このままベッドに溶け崩れていきそうだ。昼間だってそうだった。クリスに引きずり起こされても、その指の間からばらばらに千切れて落ちていきそうな気がした。
(簡単なことだったんだな)
マースは微かに笑った。
(死ぬのなんて)
身体は死ななくても、心が死ぬことはできるのだ。感覚を切り離し、その場から逃げ去り、灰色の世界に自分を封じ込めてしまえば、痛みもうんと楽ですむ。そうしている間に、世界は時間を紡いでくれる。
けれど、不思議なことに血が止まらなくなった。身体が回復しなくなった。
簡単なことだったのだ。マースがその必要がないと思えばよかっただけだったのだ。マースは生きている必要がない、と。
(こんなに簡単に叶えられたんだ)
あれほど望んでいたのに、もっと早くに叶えてやるべきだった。
(もう二度と)
大丈夫だ、今度こそ。今度こそ、叶えてあげられる。大切な、大切な、僕の。
(僕の……?)
名前がわからない。誰だっけ?
うっすらと意識が戻りかけた矢先、ラピドリアンが片手をねじ上げてマースは眉をしかめた。もう片手もまとめて頭上に伸ばされる。手首を一まとめに押さえ付けられ、ラピドリアンが何かを高々と振り上げる。きらきら光る刺々しい輝きがぼんやり見上げた視界を過って頭上の両手に振り降ろされる。
「……っあああああああっっっ!!」
衝撃に身体が跳ね上がった。喉を突き破って悲鳴が迸る。
どん、とベッドが揺れるのと同時に両手が砕けた。視界が暗転し、けれどすぐに続いた強烈な痛みに意識を引きずり戻される。両手をベッドに縫いつけた剣にゆっくりと力が加わりねじられていく。
「あっ……あああっ……」
全身を激しい震えが襲って止まらない。痙攣する身体をラピドリアンが撫で摩っていく。次の目標を定めるように、骨や筋肉の震えを確かめるように、強ばり冷えていく皮膚を引き裂くように、吹き出た汗を捻り込むように指先を傷に這わせながら。
感覚が煽られ、過敏に尖らされ、限界を越えて引きずり出され、そしてみるみる削り取られていく。鋭敏になりすぎた神経はささやかな刺激で感じ過ぎてぼろぼろに崩れ落ちていく。波が何度も押し寄せ、マースの内側を抉り取りながら引いていく。
(こわ……れる……)
開いた口から空気が奪われる。視界から光が奪われる。身体から血が、感覚が、命が搾り取られていく。頂点に達し、その頂点を越え、次の頂点に達し、またその頂点を越え……開かれていく身体が受け止める刺激は果てがない。
(もう……)
だが、長くは続かない。呼吸が持たない。意識が途切れ出す。跳ねていた身体から今度は力が奪われていく。熱が奪われていく。動かせなくなる。動けなくなる。
(たす……け)
でも、誰が?
(もう、二度と)
閃光のようにことばが浮かぶ。闇に沈む心に青白い炎に包まれて。
そうだ、あれは断罪の徴。
おまえにはその資格はない。
「……を呼びたまえ、マース」
(もう二度と)
唇が歪んだ。涙が吹き零れた。笑う。愚かな自分を。救いなぞあるはずがなかったのに。笑う。誰に助けを求めたのか。笑う。笑う。笑う。
けれど襲ったのは胸を破るほど痛切な恋しさで。
炎に封印された名前。
「さあ、早く」
「ひ……っぅ」
(もう二度と)
息を引くと、次はもう吐き出せなかった。
歪み滲んでいた視界から今までのどれより熱い涙が零れ落ちた。
呼びたかったただ一つの名前を、マースは最後まで思い出せなかった。
「……っあああああああっっっ!!」
「っ!」
声が聞こえた瞬間、芽理はベッドから跳ね起きた。眠ってなどいない。昼間サンルームで消える血を見てから、眠る気なんて毛頭なかった。夕方、できることを考え考え考え抜いて、ようやく居間のパソコンから水尾にメールを打った。
それからずっとマースが部屋に戻るのを、昼の服装のまま、ベッドで息を凝らして待っていた。もし何か芽理にできるとしたら、その時しかない、そう思っていた。
何ができるのかなんてわからなかったけれど。
ベッドから滑りおりる。部屋を横切り、境のドアを開け放つ。その間も切れ切れの悲鳴が続く。
「あっ……あああっ……」
(マース!)
万が一、と考えなかったわけではない。ひょっとして、これもあるいはマージとの逢瀬なのか、その中に飛び込んで惨めな思いをするんじゃないかと。
けれど、夜闇を裂いて響いてきた悲鳴は、とてもそんな甘やかなものではなかった。身悶えして絞り出す絶叫、それが何によってもたらされたのかを考えまいとしながら、居間を走り抜け、マースの部屋のドアを押し開く。
「マー……っ……」
だが、飛び込んだ部屋、まるで見せつけるように明かりが灯されている中に広がった光景は、予想を越えて凄惨だった。
一瞬目を閉じ顔を背けても、まぶたにくっきりと焼きつけられる地獄絵図。
ベッドに小振りの剣で両手を頭上に縫い止められたマース、脱がされかけたシャツの下もぬらぬら光るほどに血まみれになっているばかりか、垂れ下がった裸の足からつるつるとなおも鮮血が床に滴っている姿。
「く、そおっ!」
自分を怒鳴りつけるように叫んで振り向き、周囲をにらみつければ、今しも出てこようとしているのか立ち去ろうとしているのか、あの壁が波打つように蠢く中に人影があった。
「出てけーっ!」
手近のサイドボードにあったものを次々と壁へ投げつけながら、今にもがくがくと崩れそうな足でベッドのマースに走りより、背中に庇って壁をなおも睨みつける。
どれほどそうやっていただろう、波打っていた壁がゆっくりとその動きを止めて静まり、もうぴくりとも動かなくなってようやく芽理はおそるおそる振り返った。
「……」
声が出なかった。
マースはぼんやりと虚ろな瞳を見開いている。少し開いた口元は朱に塗れて、噛み千切りかけたのか唇の端が深くえぐれている。汗と涙と血に塗れた顔に黒髪がべっとり張りついている。
すうっと血の気が一気に引いて、蹲りそうになったのをようやく堪える。
のろのろと視線を上げると、血で汚れた両腕がねじ上げられ、掌二つを重ねて貫かれているのが飛び込んできた。ぐちゃぐちゃになった傷が単純に刺されたのではないことを教えて、吐きそうになる。
考えが停止してしまった。
「マース」
芽理は無意識に呼び掛けた。自分でも思わぬほどの平坦な声だ。
「だいじょうぶ?」
(大丈夫なわけ、ないじゃん)
尋ねた瞬間に自分の馬鹿さに気持ち悪くなり、また吐きそうになる。
(私、おかしい)
どこかがぶっ飛んでしまっている。
「待ってて」
ごくんと無理やりに上がってきたものを飲み下した。近づいてベッドに片膝を乗せ、そっと剣に手を伸ばす。
触れた瞬間に身体に電流が走った気がした。握りしめた柄がべっとりと血に塗れていて、ぬるついて滑ったのを必死に握り直し、その動作でよりマースを傷つけなかったかとそれを心配した。
「今抜いてあげるから。そのままじゃ動けないもんね?」
(何言ってるんだ)
動ける動けないという段階じゃない、そんなことは十分わかっているのに、頭のどこかが麻痺してしまっているらしく、今はマースを張付けている剣を抜くことしか思いつかない。
「ん……しょっと」
握ってまっすぐに引っ張ったが、剣は動かない。ベッドからは抜けたのかずる、とマースの身体が滑ってこちらに寄ってきたけれど、剣はなおも両掌を重ねて貫き止めている。よく見ると、薄ぼんやりとした霧が掌の傷からも立ち上っていて、それが緩やかに剣にも巻き付いていくようだ。
(再生……してるんだ)
どこか焦点の合わない感覚で気がついて、いささかほっとした。身体に視線をやると、他の傷にもゆっくりと霧が渦巻いている。シャツ一枚の身体の無数の傷に這い回る蛇のようにも見えるその霧が蠢くのをぼんやり見ていた芽理は、その意味を悟った。
(剣……抜けなくなる……?)
そのとたんに自分がすべきことに気がついて、今度こそ叩きつけられるようなショックを味わった。
剣を巻き込んで身体が再生してしまってから、剣を抜くことなんてできるのだろうか。それぐらいなら今引き抜いてしまわなくてはならないのではないだろうか。
「やだ……そんなの……」
無意識に首を振って後じさりした。その芽理にまるで救いを求めるように、血まみれのシーツを滑り落ちてマースの身体がなおも寄り掛かる。このままではベッドから落ちるととっさに伸ばして受け止めた手に、マースの身体が触れて、芽理は息が止まった。
(冷たい)
「マース……?」
マースの瞳は中途半端に見開かれたままだ。透明に見えるほど淡い目は部屋の照明を跳ねて濡れているけれど、そこに光が宿っていない。
「マース?」
ぎゅ、と相手の腕を握った。傷でいっぱいの、触ることさえ新たな痛みを与えそうな腕、けれど、その腕が弾力を失っていて冷ややかに固い。
「まさか……どうして? マース? マース!」
呼んでみたが反応はなかった。震える手を口元にかざすが空気の動きがない。今さらながらに振り返れば胸は上下していないし、当てた手に胸の鼓動が戻ってこない。
「やだ……やだ、マース!」
思わず身体を揺さぶって、揺れた拍子に両手が動き、剣が揺らいで肉を裂いた。ぬめるように血が溢れ、それが剣を押し出したのか、ぬるりと鮮血に塗れてマースの掌から剣が抜け落ち床に転がる。それと一緒にくたりとこっちに倒れた顔に、瞳に溜まって流れ損ねていたのか、涙が一筋二筋、血に汚れたマースの頬を伝い落ちた。
身動き一つしない虚ろで優しい端整な顔に、血の涙が流されていく。
それはまるで、いつかテレビで見た、ピエタのマリアに抱かれたキリストのようで。
もう何も拒まない人。
もう何も届かない世界に連れ去られてしまった人。
その瞬間。
ぱしり、と何かが芽理の中で砕けた。
(私が、殺した)
巨大な光がまっすぐに頭上から注いで芽理を二つに裂いていく。
(私が、殺したんだ)
自分のプライドや体裁やこだわりや、そんなこんなの下らない言い訳にかまけて、何が本当に起こっているのかを見極めようともしなかった。
これが、その結末。
「マース……」
初めて会ったときの冷ややかな視線が甦った。それを裏切るような儚い微笑。手紙を支えて問いかける瞳が揺れる。
『ああ……そう、なんだ』。
「……痛かった……よねえ」
淡い色の瞳が焦点を彷徨わせながらこちらを捉えて、頼りなく微笑む。『……ごめ……ん……また……死ねな……かった』。
「ずっと……傷つけて……ばっかりだったね?」
夢だと言い放たれて、それを信じた、自分の不安を見たくないばかりに。『境のドアに鍵をつけたよ。夜中の物音が不愉快ならば鍵をかけて眠りたまえ。朝まで何にも邪魔されずに安眠できる。僕もその方が安心だ』。
誰の何にとって安心だったのか。
「ごめん……」
芽理はつぶやいた。頬を伝っていく涙をそのままに、静かにマースに屈み込む。両手を投げ出したままだったのを、そっと引き降ろしてやり、身体を丸ごと抱き締め、頭を胸に抱き寄せる。
「うんと……痛かったよねえ……?」
身体の血はそれでも緩やかに赤黒い霧になって消えつつあったけれど、その身体にもうマースがいなくなっているのは明白で。冷えて強ばり、それでも抵抗一つなく芽理の胸に抱き込まれる身体が悲しいほどに虚ろな塊になっていくのが痛いほどにしみ通ってくる。
「ごめん……ごめんね」
唇を髪に触れてキスする。頬に滑らせキスする。涙で濡れた目許にキスし、まぶたをそっと閉じさせる。口にマースの血の味が入り込み、唇と舌をじりじりと焼く。
あの夜のことが本当なら。
どれほど繰り返しマースはこんな夜を過ごしてきたのだろう。マージとの逢瀬だと思い込んでた夜は、クリスが自分が犠牲者だと言った夜は、本当はひたすらマースが屠られるだけの夜だったのか。
(いったい……どうして? こんなひどいこと……ずっと、どうして?)
そんな日々に耐え続けられるわけがない。ましてや、自分を理解してくれるはずの身内に裏切られ拒まれ傷つけられて、人がまともでいられるはずがない。
人を愛するなんて、できるはずがない。
マースの凍りついた冷ややかな瞳。
それは誰にも何も期待しない絶望の瞳の色だ。
「でも……お願いだから」
芽理はマースの身体を深く抱き締めたままつぶやいた。
「もう一度だけ……戻ってきてよ」
とたんに新しい涙が溢れてことばが喉に詰まる。
そんなことを望むのは、マースにとっては苦痛以外の何ものでもないのかもしれない。このまま逝かせてやったほうが、ずっと優しいことなのかもしれない。
「でも……」
必要なのだ。大切なのだ。失いたくないのだ。
(今度はもう……こんな目に合わせないから)
信じられないからと目を背けないから。見るべきものを見るようにするから。聞いたことを忘れたふりなんかしないから。
「もう一度呼んでよ、芽理って」
それでもマースは動かない。胸の鼓動も浅い吐息さえも戻らない。
(私が、何にもできないから?)
マースがこの世に戻っても、芽理は何ができるだろう。あの壁に吸い込まれた怪しい人影に対しても、ラピドリアンとかいう男に対しても、マースを守ることさえできない。
クリスもマージも信用できない。誰にも助けを求められない。
腕の中で冷えて遠ざかる命を抱き締めているだけの自分。
「……くっ」
悔し涙がこぼれ落ちる。
(マース……!!)
唇を噛み締めて胸の中で叫んだその瞬間、ふいに何か弾けるような音がした。びくっとして音の方向を確かめると、さっき人影が吸い込まれていった壁のあたりで小さな音が鳴っている。
(また誰か来た?)
芽理は全身を緊張させて体を起こした。ぐったりとしているマースの身体をそっと上掛けに包み直して寝かせ、背中に庇って壁をにらみつける。
(これ以上、傷つけさせない)
たとえマースは居なくなっていても、それでもこれ以上この身体を傷つけさせるつもりはない。
だが、いつまでたっても壁は波打たず、誰かが部屋に入り込んでくる気配はない。
やがて芽理はその音に聞き覚えがあるのに気がついた。
『別れの曲』。
マースが大切な娘のために買い求めたというオルゴールの曲だ。
「あ……」
さっき無我夢中で手に触れたものを次々投げてしまったけれど、そのときにひょっとしたらあのオルゴールも投げてしまったのかもしれない。
芽理は慌ててベッドを降りた。自分がなおもマースの大切にしているものを壊してしまうかもしれないということに、たとえようもなく怖さを感じた。
壁際に駆け寄り、そこにやはり転がっているオルゴールを拾い上げる。中から手紙が零れ散っていたけれど、今はもうそんなものはどうでもよかった。
「よかった……壊れてない……」
素朴なオルゴールは幸いに造りは頑丈だったらしい。掛けがねのはしっこが少し捩じれていて、そのせいで半端にひっかかっていたのがさっき開いたのだろう。曲はきちんと鳴り続けているし、ねじも回る。
繰り返し鳴る優しい音色。
一つ一つ音を置く、行き場のない心を受け止めていくように。
オルゴールを抱えて眠り込んでいたマースを思い出す。
こんな夜をしのいで生きて、ようやく迎えた朝に慰めと憩いを求めて耳を傾けたのか。
また巡り来る夜の恐怖を一時なりと忘れようとしていたのか。
『あれは……僕が愛した娘のために買った』
ためらいがちな柔らかな声。
『勝ち気で……だけど可愛くて……かばってやりたくて……でも強くて……優しくて』
どれほどその娘を愛していただろう。
『もし、誰かを選ぶなら、その娘だと決めていた…………僕は、忘れていた……僕はマース・アシュレイで、それ以外ではなくて……でも、その時はそんなことは気づかなかった』
マース・アシュレイで。
それはこういう運命をさしていたのかもしれない。だからこそ、
『……贈って……別れる、つもりだったから』
『気づかないほど……夢中だった……けど僕は彼女にふさわしくないから……オルゴールを贈って離れていこうと……でも…………無理だった、みたいだ』
甘くとろけるような微笑を今胸が引き裂かれる想いで思い出す。
(そうか、マースが必要だったの、私、じゃないんだ……)
だから、マースはもう帰ってこないことを選んだ。
芽理がどれほど呼んでも、マースが望んだのは芽理ではなかったから、芽理ではマースを引き止められないのだ。ましてや、芽理はマースに優しくなかった。ずっと疑い傷つけてばかりいた。
(そんなところへ、戻りたくなんか、ないよね?)
張っていた気持ちが弛んで解けて崩れ落ちていった。ぼろぼろと別の涙が溢れた。全てがつながりよくわかったような気がした。
(当然だよね?)
芽理はマースを失うのだ。自分の気持ちにも真実にも向き合うことをしなかった、それは当然の罰なのだ。
水尾に求めた助けはたぶん空振りに終わるのだろう。ひょっとすると芽理は、一生ここで暮すことになるのかもしれない。クリスやマージに疑いを抱きながら、いなくなってしまったマースの思い出に眠れない夜を過ごしながら。
(でも、それだって、自分が招いたことなんだ)
大事な人を助けられなかった、その代償なら一生かけて払ってみせよう。
唇を結んでそう思った。
(そうだ、これ、マースの側で鳴らしてあげよう)
大切な思い出なのだし、せめてそれぐらいのことならば今の芽理にもできる。
繰り返しねじを巻いて、マースが寂しくないように。
(一晩中でも鳴らしてあげよう)
少しでもマースが慰められるなら。
(マースの大事な人と逝かせてあげよう)
涙ぐみながら、それでも自分ができることを見つけて芽理はほっとした。オルゴールを抱えてベッドに戻ろうとし、何気なく改めて蓋に刻まれた名前を読み取る。
「え……?」
(こ……れ……?)
「……めり……?」
いきなり後ろから殴りつけられたような気がした。くるくる回る視界に、一瞬自分が声に出してつぶやいてしまったのかと思った。手にしていたオルゴールを落としそうになり、必死に胸元に抱え込む。その耳に、掠れた淡い声がもう一度、
「……め……り……?」
背中から芽理を呼んだ。
振り返る。自分が震えているのがわかる。身体が熱くなって視界が滲む。
「君……なのか……?」
ベッドの中で、まだあちこちに血の汚れをこびりつかせたままの顔に、不安そうな怯えた表情を浮かべ、透明な瞳を見開いてマースがこちらを見つめていた。
「……っは」
鋭い痛みが下半身から背中を貫くように駆け上がってきて、気がついた。
「マース」
マージが薄笑いを浮かべながらマースの身体の上に乗っている。両頬を包む手の尖った爪から血の臭いが濃厚に漂ってきて鼻をつく。
「今夜は……の名前を呼ばないのね?」
マージはにたりと笑みほころびながら言った。誰かの名前を言ったようだが、マースにはうまく聞き取れない。血を流し過ぎたせいか、がんがんと鳴り続けている頭の中で、ことばはほとんど意味を為さない。
「マース」
「っ……っ」
再び強く下半身に爪をたてられ失いかけた意識を引き戻される。勝手に跳ね上がった身体にマージがまた満足そうに笑みを深めているのをぼんやりと見上げる。何度も気を失って何度も引き戻されて、マージの鋭い爪で裂かれた上半身の刺激ではもう目を覚まさないと気づいたのか、今度は繰り返し下半身を傷つけられているけれど、それさえも悲鳴を堪えきれなかったのは最初だけで、今はかなり痛みも感覚も遠くて鈍い。
「耐えているあなたはきれいだわ、とても……でも、もっと声を上げてもいいのよ……あなたの声が聞きたいわ」
「……っっっ……!!」
強く握られねじきられかけて意識が吹き飛ぶ。でも声は出ない。逆らう気なんてとうになくて、思いっきり口を開いたのに、喉の奥に酸っぱい何かが詰まっていて声にならない。
そのままマースはまた気を失った。
朝食後、そっと境のドアを開けて、隣の居間を覗き込み、芽理はがっかりした。
(マース……いない)
この数日、マースを見かけていない。正確に言うと、あの夜の夕食からマースはダイニングに一切姿を見せなくなった。それどころか、居間に入ることもないのか、唐突にこうして部屋を覗いてみてもマースを見つけることができない。
(言い過ぎたから……謝りたいのに)
あの日は絶対に芽理が言い過ぎた。
あまりにもクリスの告白がショックで、その後見つけたオルゴールに隠されていた手紙が、それらについて弁解もしようとしなかったマースの態度が辛くて、ことばをとめられなかった。
けれど、考えてみれば、どういう事情があったのか、マースからは一切話を聞いていない。
(クリスのことも……マージのことも)
唇を噛んで俯いて部屋に戻る。
『二度と会わずに済むよう……努力する』
背中から聞こえた冷たい声。
(本当に、二度と会わない気、なのかな)
のろのろとベッドに腰を落とした。
本当は、わかっている。
怖がっているのは芽理の方だ。マースの口から決定的なことば、芽理はただの飾り物の人形にしか過ぎず、本当に愛しているのはマージで、彼女と一緒に暮したいために芽理を日本から連れてきた、そう聞かされたくなくて、正面からマースにぶつかれないでいる。
(逃げてるのは私…………だいたい、おかしいよね)
まず、水尾のことがある。
マースがどう言おうと、水尾はマースが芽理を三年も前から心配し想い続けてきたと言っていた。水尾が芽理をだます理由など思いつかない。
第一、あのパソコンにあったメールのタイトルは確かに『芽理』になっていた。マースが繰り返し『芽理』というタイトルのメールを日本へ送り続けていたのは間違いない。
もう一つ気になることがある。
それはクリスやマージの態度だ。
マージが芽理に優しいのは相変わらずだが、それも芽理がマースの表面上の妻という役割を果たすために連れてこられたということを知ってのことだとしたら、あの優しさは始めから夫の愛を受けられないと定められてる人形への憐れみなのだろうか。そうだとしたら、今までそれをちらとも見せなかったマージというのも、かなり裏表のある人間だということになる。
それになおわからないのはクリスだ。
もし、クリスが無理にマースの欲望を処理するために夜中呼びつけられているとしたら、それこそ、今までの兄への親しげな態度というのは何だろう。いくら身内で尊敬していて当主だから逆らえないにしても、いや、そういう状態ならなおさら、力で自分を好き勝手に扱う相手に嫌悪感が先に立たないだろうか。憎しみがわかないだろうか。ましてや、ああやって芽理の目の前で泣くほど追いつめられているのに、どうしてあの後も、まるで何もなかったように平然とマースのことを話したりできるのだろう。
それから、マースには夢だと否定されたけれど、マースが切り裂かれてベッドに蹲り震えていた、あの夜のことを芽理は忘れていない。霧のように立ち上って消える血や、みるみる回復していく傷も。
(もし、あれが本当なら)
夜中に起こっていることがクリスが話したみたいに、芽理が疑ったみたいに、マースの欲望を満たす情事でないとしたら。
(どれだけ怪我をしても傷を受けても、翌朝には消えている、誰も気づかない)
マースを傷つけた本人とマース以外には。
芽理はもう一度境のドアを見た。
あれからずっと芽理はドアに鍵をかけている。マースの部屋にはやはり人の出入りする気配がある。
けれど前みたいに押し殺した呻きや悲鳴じみた声が聞こえることはない。ねっとりした妙な気配は感じるけれど、なぜかその熱は次第次第に弱まり薄まっていくような気がする。
(それが……怖い)
何か取り返しのつかないことをしているのではないだろうか。
何かとんでもない間違いを見逃しているのではないだろうか。
マースの姿がふっつりと視界から消えた後、そんな思いがどんどん膨れ上がっていく。
(もう……マースに会えない、ような)
ぶるっと芽理は頭を振って、ベッドから降りた。
あまりうろうろしてクリスやマージに不審がられるのは抵抗があった。あれほどマースに怒っていたのに、あれほどマースを不快がっていたのに、探し回っているなんて思われるのは癪だった。
(でも)
不安が募る。どす黒く心を胸を押し潰してくる。
芽理は部屋を出た。
アシュレイ家は広くて、芽理の知らない場所もまだいっぱいある。
(馬鹿なこと、してる、そんなのわかってる)
知らない部屋を一つ一つ回ってみる。知らない廊下を、知らないテラスを、迷いそうになりながら、『祭』に集まってきているらしいアシュレイ家ゆかりの人々の好奇の目に負けそうになりながら、歩き回っている。
どこを探してもマースはいない。
(昼はどこかへ行ってるのかもしれない)
仕事をしていて、屋敷にいないのかもしれない。けれど探さずにはいられない。脳裏に何度も、にじむように広がった、頼りなげなマースの淡い微笑が過る。
(もう……どこにも……いない、とか)
ぞくりとして思わず廊下の端で立ち止まってしまった。
その思いは自分でも思ってもみなかったほど衝撃的で体が竦んだ。と、そのとき、突然側の壁が動いて芽理はぎょっとした。
「お……」
壁だと思っていたのは実はドアで、中から銀髪をオールバックにまとめた背の高い紳士が出てきて芽理にぶつかり、覗き込んだ。
「あ、ごめんなさい」
思わず芽理が謝ると、相手は顎の張ったがっしりした顔に柔らかな微笑みを浮かべてうなずき、
「めり?」
「あ、はい」
「……ラピドリアン・ネ・フィ・アシュレイ」
驚く芽理に自分の胸をゆっくり指差し、名前のようなものをつぶやいて頭を下げる。
「あ、ああ、こ、こんにちは、あの、紫陽芽理です」
芽理も慌てて頭を下げた。相手はまたにっこりと魅力的な笑みを浮かべると、早口で何かを尋ねた。
「え、あ、あの、ごめんなさい、わからないんですけど」
「…………マース……?」
「え、はい、あの、マースを探してるんですけど」
かろうじて聞き取れた相手のことばの中のマースということばにほっとして答えると、どう伝わったのか、ラピドリアンと名乗った男はゆっくりと少し先にある一画を指差して見せた。
「マース……」
「あ、ひょっとしてあそこにいるんですか?」
「マース」
繰り返して指差すラピドリアンに芽理はぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、行ってみます」
これ以上何か聞かれてはたまらないと急いでその場を立ち去る。離れ際にちょっと後ろを振り返ると、ラピドリアンは奇妙な嬉しそうな笑みで見送っている。慌ててまた頭を下げて、まっすぐに指差された場所に向かって気がついた。
(サンルームだ)
そこは庭園の中に丸く張り出した区画だった。廊下とはガラスと小さな扉で仕切られていて、明るい日射しがいっぱいに差し込む部屋の中にソファやテーブルが置かれている。
「こんなところあったんだ……!」
(マース)
その庭園に面した窓近くのソファにマースが寝そべっていた。珍しく薄いピンクの模様シャツにスラックス、長い手足をくったりと投げ出してどうやら眠っているようだ。片手は下にずり落ちていて、乱れた髪が目許までかかっている。
(マース居た……)
よかった、と芽理が胸をなで下ろした途端、庭から声が響いてマースが身じろぎした。
「兄さん!」
鋭いクリスの声だ。
「兄さんっ!」
苛立った厳しい声、芽理が聞いたこともない響きだ。呼ばわりながら、庭園側の扉を開けて入ってくるクリスは、とっさに廊下の影に身をひそめた芽理には気づかなかったらしい。ソファに寝そべっていたマースの腕を掴み、激しい勢いで引き起こした。
「っく」
びくっ、とマースが苦痛を浮かべて一瞬仰け反り、芽理はぎょっとした。それよりもっと驚いたのは、それに気づかなかったはずがないのに、なおもクリスがねじ上げるようにマースの腕を引き上げたことだ。
「なにさ?」
冷ややかな声でクリスが吐き捨てた。
「傷が回復してないってアピール?」
「……」
マースが弱々しく首を振る。
「そんなことで逃げられるって思ってるの?」
「う……あっ」
クリスがもう片方の手でマースの肩を掴み上げて芽理は息を呑んだ。体を震わせたマースがはっきりと苦悶を浮かべて眉をしかめ、引きずり上げられるように立ち上がる。
「いい加減にしろよ。今さら抵抗するつもり?」
クリスが冷えきった声で続けた。
「今夜はラピドリアン伯父さんが待ってる……逃げられるなんて、思うなよ?」
(ラピドリアン?)
芽理は慌ててさっきの部屋を振り返った。背の高い紳士はもういない。
(ラピドリアンが、待ってる?)
不安に胸がどきどきしてきた。
(それって……それって……本当は……)
「!」
サンルームに目を戻して芽理は再び強い不安に襲われた。
マースの姿がない。クリスもいない。サンルームの扉は外に開いていて、そこから出て行ってしまったらしい。慌てて部屋に飛び込んでみたが、もうどこへ行ったのか、庭園のどこにも姿が見えない。
(どうしよう……)
マースの手がかりを求めてソファを振り返り、芽理は目を見開いてしゃがみ込んだ。
「マー……ス」
ソファは布張り、サンルーム用なのか淡い水色地、そこに点々と紅の花びらが散っている模様だとばかり思っていた。だが、それはちょうどマースの横になっていたところを象るように散り広がっている血の跡だった。ソファの下、マースの片手が垂れ下がっていたところの床にもべっとりとした血溜まりが残っている。
「血……マース……怪我してるんだ……」
間髪入れずに、あの夜、ベッドで自分の身体を抱き締めて震えていたマースの姿が甦った。
「どう……しよう」
(私が……間違ってた……?)
「あっ……」
マースが着ていたシャツもピンクの模様シャツではないとふいに気がついた。あれは、白いシャツが止まり切らない血で汚れていたのだ。
芽理は竦んだ。
(どうしよう……どうしたらいい)
震え出した体を抱き締めかけ、芽理はもう一つのことに気づいて、なお大きく目を見開いた。
「血が……消える……」
ソファに滲んだ血の跡が少しずつ少しずつ薄くなっていく。はっとして見下ろした床の血溜まりからも、霧のように細かな粒子となって立ち上っていきながら、どんどん空中に消えていく。
それはあの夜、確かに芽理が見た光景で。
それは何が真実なのかをはっきり物語っている。
誰が目を塞がれていたのか、誰が目を塞いでいたのかも。
「マース……」
芽理は歯を食いしばった。
「クリスから聞いたぞ。傷が回復しないんだってな?」
いつの間に夜が来たのか、マースには覚えがなかった。昼と夜の境がよくわからない。というか、自分が今どこにいるのか、何をしているのか、どんどんあやふやになってきている。
覗き込んでいるのはラピドリアン、『祭』の長を担うものだ。がっしりとした顎、艶のある銀のオールバック、鮮やかで目を射るほど鋭い青の瞳は表情とは裏腹に笑っていない。
「何も食べていないんだってな。いかんな、そんなことでは『祭』までもたないじゃないか」
太くてしっかりした指先がマースの頬をゆっくりとなで下ろし、唐突に顎を掴み上げた。唇に重ねるように寄せてきた口で低くゆっくりと囁きかける。
「当主としてあるまじき振るまいだ」
「……っぁ」
開かれたシャツの下に滑り込んだ手はマージのつけた傷を握り込んだ。指先をめり込ませてきながらなで下ろされて身体が強ばり声が漏れる。
「なぜ回復しない? 前はちゃんと治ってたはずだが?」
回復、と荒い息を繰り返しながらぼんやりマースは考える。
回復してどうなるのだろう。何があるのだろう。
(もう二度と)
あれは誰の声だったのだろう。
(もう二度と)
そうだ、もう二度と。
「……っ………くふ……っ」
ばき、と右脇腹で鈍い音が響いた。ラピドリアンの指先が握り込んだ肋骨を砕いたのだ。激痛が身体を走る、けれどそれも一瞬、朦朧としてくる意識はすぐに感覚を封じ込めていく。
「マース、……に会ったぞ」
ラピドリアンは誰かの名前をつぶやいた。だがはっきり聞こえない。たぶん、呼吸が荒くなってきて、その音で聞こえないんだろう。はあ、はあ、はあ。耳についてうるさい音だ。ぜろぜろと喉で、身体の奥の方で鈍い響きがこだまする。肋骨が肺に刺さったのだろうか、痛みは鈍くなってきたが胸が焼けつくように苦しい。必死に吸い込む空気が薄い。
「いい娘じゃないか。立派な子を産みそうだ」
(誰が……?)
誰のことを話しているんだろう。マースには覚えがない。
けれど。
(もう二度と)
どうしてこの声を思い出すんだろう。この声を聞くと喉が甘酸っぱいもので満たされて声が出なくなる。視界が熱くなって悲しくもないのに涙が零れ落ちる。
(もう二度と)
そうだ、もう二度と会えない。誰に?
(会えない)
ならどうして生き延びる必要がある? でも誰に?
(思い出せない)
痛みに感覚を閉ざしていると、記憶もどんどんあやふやになる。自分の中身を自分で食い尽くしていくのだろうか、裂かれ抉られ切り刻まれて、それと一緒に自分自身も細切れになっているのかもしれない。何も感じないと決めたはずなのに、なぜか涙だけが零れ続けて止まらない。
(もう二度と)
「マース、……を呼ばないのか?」
またラピドリアンが誰かの名前を言った。
「隣の部屋にいる、聞こえれば来てくれるかもしれないぞ?」
誰がいるって? どこにいるって?
(どこにもいない)
もう二度と。そう言った。もう二度と、顔も見たくない、と。だからマースは会わない。
(ないものねだりだ)
始めから間違っていたのだ。全てがどうしようもなく間違いだったのだ。あるはずのないものを求め、手に入るはずのないものを望んだ。
「呼べないのだな、マース、なら」
ラピドリアンが両手を放した。身体はぐずぐずと重い。このままベッドに溶け崩れていきそうだ。昼間だってそうだった。クリスに引きずり起こされても、その指の間からばらばらに千切れて落ちていきそうな気がした。
(簡単なことだったんだな)
マースは微かに笑った。
(死ぬのなんて)
身体は死ななくても、心が死ぬことはできるのだ。感覚を切り離し、その場から逃げ去り、灰色の世界に自分を封じ込めてしまえば、痛みもうんと楽ですむ。そうしている間に、世界は時間を紡いでくれる。
けれど、不思議なことに血が止まらなくなった。身体が回復しなくなった。
簡単なことだったのだ。マースがその必要がないと思えばよかっただけだったのだ。マースは生きている必要がない、と。
(こんなに簡単に叶えられたんだ)
あれほど望んでいたのに、もっと早くに叶えてやるべきだった。
(もう二度と)
大丈夫だ、今度こそ。今度こそ、叶えてあげられる。大切な、大切な、僕の。
(僕の……?)
名前がわからない。誰だっけ?
うっすらと意識が戻りかけた矢先、ラピドリアンが片手をねじ上げてマースは眉をしかめた。もう片手もまとめて頭上に伸ばされる。手首を一まとめに押さえ付けられ、ラピドリアンが何かを高々と振り上げる。きらきら光る刺々しい輝きがぼんやり見上げた視界を過って頭上の両手に振り降ろされる。
「……っあああああああっっっ!!」
衝撃に身体が跳ね上がった。喉を突き破って悲鳴が迸る。
どん、とベッドが揺れるのと同時に両手が砕けた。視界が暗転し、けれどすぐに続いた強烈な痛みに意識を引きずり戻される。両手をベッドに縫いつけた剣にゆっくりと力が加わりねじられていく。
「あっ……あああっ……」
全身を激しい震えが襲って止まらない。痙攣する身体をラピドリアンが撫で摩っていく。次の目標を定めるように、骨や筋肉の震えを確かめるように、強ばり冷えていく皮膚を引き裂くように、吹き出た汗を捻り込むように指先を傷に這わせながら。
感覚が煽られ、過敏に尖らされ、限界を越えて引きずり出され、そしてみるみる削り取られていく。鋭敏になりすぎた神経はささやかな刺激で感じ過ぎてぼろぼろに崩れ落ちていく。波が何度も押し寄せ、マースの内側を抉り取りながら引いていく。
(こわ……れる……)
開いた口から空気が奪われる。視界から光が奪われる。身体から血が、感覚が、命が搾り取られていく。頂点に達し、その頂点を越え、次の頂点に達し、またその頂点を越え……開かれていく身体が受け止める刺激は果てがない。
(もう……)
だが、長くは続かない。呼吸が持たない。意識が途切れ出す。跳ねていた身体から今度は力が奪われていく。熱が奪われていく。動かせなくなる。動けなくなる。
(たす……け)
でも、誰が?
(もう、二度と)
閃光のようにことばが浮かぶ。闇に沈む心に青白い炎に包まれて。
そうだ、あれは断罪の徴。
おまえにはその資格はない。
「……を呼びたまえ、マース」
(もう二度と)
唇が歪んだ。涙が吹き零れた。笑う。愚かな自分を。救いなぞあるはずがなかったのに。笑う。誰に助けを求めたのか。笑う。笑う。笑う。
けれど襲ったのは胸を破るほど痛切な恋しさで。
炎に封印された名前。
「さあ、早く」
「ひ……っぅ」
(もう二度と)
息を引くと、次はもう吐き出せなかった。
歪み滲んでいた視界から今までのどれより熱い涙が零れ落ちた。
呼びたかったただ一つの名前を、マースは最後まで思い出せなかった。
「……っあああああああっっっ!!」
「っ!」
声が聞こえた瞬間、芽理はベッドから跳ね起きた。眠ってなどいない。昼間サンルームで消える血を見てから、眠る気なんて毛頭なかった。夕方、できることを考え考え考え抜いて、ようやく居間のパソコンから水尾にメールを打った。
それからずっとマースが部屋に戻るのを、昼の服装のまま、ベッドで息を凝らして待っていた。もし何か芽理にできるとしたら、その時しかない、そう思っていた。
何ができるのかなんてわからなかったけれど。
ベッドから滑りおりる。部屋を横切り、境のドアを開け放つ。その間も切れ切れの悲鳴が続く。
「あっ……あああっ……」
(マース!)
万が一、と考えなかったわけではない。ひょっとして、これもあるいはマージとの逢瀬なのか、その中に飛び込んで惨めな思いをするんじゃないかと。
けれど、夜闇を裂いて響いてきた悲鳴は、とてもそんな甘やかなものではなかった。身悶えして絞り出す絶叫、それが何によってもたらされたのかを考えまいとしながら、居間を走り抜け、マースの部屋のドアを押し開く。
「マー……っ……」
だが、飛び込んだ部屋、まるで見せつけるように明かりが灯されている中に広がった光景は、予想を越えて凄惨だった。
一瞬目を閉じ顔を背けても、まぶたにくっきりと焼きつけられる地獄絵図。
ベッドに小振りの剣で両手を頭上に縫い止められたマース、脱がされかけたシャツの下もぬらぬら光るほどに血まみれになっているばかりか、垂れ下がった裸の足からつるつるとなおも鮮血が床に滴っている姿。
「く、そおっ!」
自分を怒鳴りつけるように叫んで振り向き、周囲をにらみつければ、今しも出てこようとしているのか立ち去ろうとしているのか、あの壁が波打つように蠢く中に人影があった。
「出てけーっ!」
手近のサイドボードにあったものを次々と壁へ投げつけながら、今にもがくがくと崩れそうな足でベッドのマースに走りより、背中に庇って壁をなおも睨みつける。
どれほどそうやっていただろう、波打っていた壁がゆっくりとその動きを止めて静まり、もうぴくりとも動かなくなってようやく芽理はおそるおそる振り返った。
「……」
声が出なかった。
マースはぼんやりと虚ろな瞳を見開いている。少し開いた口元は朱に塗れて、噛み千切りかけたのか唇の端が深くえぐれている。汗と涙と血に塗れた顔に黒髪がべっとり張りついている。
すうっと血の気が一気に引いて、蹲りそうになったのをようやく堪える。
のろのろと視線を上げると、血で汚れた両腕がねじ上げられ、掌二つを重ねて貫かれているのが飛び込んできた。ぐちゃぐちゃになった傷が単純に刺されたのではないことを教えて、吐きそうになる。
考えが停止してしまった。
「マース」
芽理は無意識に呼び掛けた。自分でも思わぬほどの平坦な声だ。
「だいじょうぶ?」
(大丈夫なわけ、ないじゃん)
尋ねた瞬間に自分の馬鹿さに気持ち悪くなり、また吐きそうになる。
(私、おかしい)
どこかがぶっ飛んでしまっている。
「待ってて」
ごくんと無理やりに上がってきたものを飲み下した。近づいてベッドに片膝を乗せ、そっと剣に手を伸ばす。
触れた瞬間に身体に電流が走った気がした。握りしめた柄がべっとりと血に塗れていて、ぬるついて滑ったのを必死に握り直し、その動作でよりマースを傷つけなかったかとそれを心配した。
「今抜いてあげるから。そのままじゃ動けないもんね?」
(何言ってるんだ)
動ける動けないという段階じゃない、そんなことは十分わかっているのに、頭のどこかが麻痺してしまっているらしく、今はマースを張付けている剣を抜くことしか思いつかない。
「ん……しょっと」
握ってまっすぐに引っ張ったが、剣は動かない。ベッドからは抜けたのかずる、とマースの身体が滑ってこちらに寄ってきたけれど、剣はなおも両掌を重ねて貫き止めている。よく見ると、薄ぼんやりとした霧が掌の傷からも立ち上っていて、それが緩やかに剣にも巻き付いていくようだ。
(再生……してるんだ)
どこか焦点の合わない感覚で気がついて、いささかほっとした。身体に視線をやると、他の傷にもゆっくりと霧が渦巻いている。シャツ一枚の身体の無数の傷に這い回る蛇のようにも見えるその霧が蠢くのをぼんやり見ていた芽理は、その意味を悟った。
(剣……抜けなくなる……?)
そのとたんに自分がすべきことに気がついて、今度こそ叩きつけられるようなショックを味わった。
剣を巻き込んで身体が再生してしまってから、剣を抜くことなんてできるのだろうか。それぐらいなら今引き抜いてしまわなくてはならないのではないだろうか。
「やだ……そんなの……」
無意識に首を振って後じさりした。その芽理にまるで救いを求めるように、血まみれのシーツを滑り落ちてマースの身体がなおも寄り掛かる。このままではベッドから落ちるととっさに伸ばして受け止めた手に、マースの身体が触れて、芽理は息が止まった。
(冷たい)
「マース……?」
マースの瞳は中途半端に見開かれたままだ。透明に見えるほど淡い目は部屋の照明を跳ねて濡れているけれど、そこに光が宿っていない。
「マース?」
ぎゅ、と相手の腕を握った。傷でいっぱいの、触ることさえ新たな痛みを与えそうな腕、けれど、その腕が弾力を失っていて冷ややかに固い。
「まさか……どうして? マース? マース!」
呼んでみたが反応はなかった。震える手を口元にかざすが空気の動きがない。今さらながらに振り返れば胸は上下していないし、当てた手に胸の鼓動が戻ってこない。
「やだ……やだ、マース!」
思わず身体を揺さぶって、揺れた拍子に両手が動き、剣が揺らいで肉を裂いた。ぬめるように血が溢れ、それが剣を押し出したのか、ぬるりと鮮血に塗れてマースの掌から剣が抜け落ち床に転がる。それと一緒にくたりとこっちに倒れた顔に、瞳に溜まって流れ損ねていたのか、涙が一筋二筋、血に汚れたマースの頬を伝い落ちた。
身動き一つしない虚ろで優しい端整な顔に、血の涙が流されていく。
それはまるで、いつかテレビで見た、ピエタのマリアに抱かれたキリストのようで。
もう何も拒まない人。
もう何も届かない世界に連れ去られてしまった人。
その瞬間。
ぱしり、と何かが芽理の中で砕けた。
(私が、殺した)
巨大な光がまっすぐに頭上から注いで芽理を二つに裂いていく。
(私が、殺したんだ)
自分のプライドや体裁やこだわりや、そんなこんなの下らない言い訳にかまけて、何が本当に起こっているのかを見極めようともしなかった。
これが、その結末。
「マース……」
初めて会ったときの冷ややかな視線が甦った。それを裏切るような儚い微笑。手紙を支えて問いかける瞳が揺れる。
『ああ……そう、なんだ』。
「……痛かった……よねえ」
淡い色の瞳が焦点を彷徨わせながらこちらを捉えて、頼りなく微笑む。『……ごめ……ん……また……死ねな……かった』。
「ずっと……傷つけて……ばっかりだったね?」
夢だと言い放たれて、それを信じた、自分の不安を見たくないばかりに。『境のドアに鍵をつけたよ。夜中の物音が不愉快ならば鍵をかけて眠りたまえ。朝まで何にも邪魔されずに安眠できる。僕もその方が安心だ』。
誰の何にとって安心だったのか。
「ごめん……」
芽理はつぶやいた。頬を伝っていく涙をそのままに、静かにマースに屈み込む。両手を投げ出したままだったのを、そっと引き降ろしてやり、身体を丸ごと抱き締め、頭を胸に抱き寄せる。
「うんと……痛かったよねえ……?」
身体の血はそれでも緩やかに赤黒い霧になって消えつつあったけれど、その身体にもうマースがいなくなっているのは明白で。冷えて強ばり、それでも抵抗一つなく芽理の胸に抱き込まれる身体が悲しいほどに虚ろな塊になっていくのが痛いほどにしみ通ってくる。
「ごめん……ごめんね」
唇を髪に触れてキスする。頬に滑らせキスする。涙で濡れた目許にキスし、まぶたをそっと閉じさせる。口にマースの血の味が入り込み、唇と舌をじりじりと焼く。
あの夜のことが本当なら。
どれほど繰り返しマースはこんな夜を過ごしてきたのだろう。マージとの逢瀬だと思い込んでた夜は、クリスが自分が犠牲者だと言った夜は、本当はひたすらマースが屠られるだけの夜だったのか。
(いったい……どうして? こんなひどいこと……ずっと、どうして?)
そんな日々に耐え続けられるわけがない。ましてや、自分を理解してくれるはずの身内に裏切られ拒まれ傷つけられて、人がまともでいられるはずがない。
人を愛するなんて、できるはずがない。
マースの凍りついた冷ややかな瞳。
それは誰にも何も期待しない絶望の瞳の色だ。
「でも……お願いだから」
芽理はマースの身体を深く抱き締めたままつぶやいた。
「もう一度だけ……戻ってきてよ」
とたんに新しい涙が溢れてことばが喉に詰まる。
そんなことを望むのは、マースにとっては苦痛以外の何ものでもないのかもしれない。このまま逝かせてやったほうが、ずっと優しいことなのかもしれない。
「でも……」
必要なのだ。大切なのだ。失いたくないのだ。
(今度はもう……こんな目に合わせないから)
信じられないからと目を背けないから。見るべきものを見るようにするから。聞いたことを忘れたふりなんかしないから。
「もう一度呼んでよ、芽理って」
それでもマースは動かない。胸の鼓動も浅い吐息さえも戻らない。
(私が、何にもできないから?)
マースがこの世に戻っても、芽理は何ができるだろう。あの壁に吸い込まれた怪しい人影に対しても、ラピドリアンとかいう男に対しても、マースを守ることさえできない。
クリスもマージも信用できない。誰にも助けを求められない。
腕の中で冷えて遠ざかる命を抱き締めているだけの自分。
「……くっ」
悔し涙がこぼれ落ちる。
(マース……!!)
唇を噛み締めて胸の中で叫んだその瞬間、ふいに何か弾けるような音がした。びくっとして音の方向を確かめると、さっき人影が吸い込まれていった壁のあたりで小さな音が鳴っている。
(また誰か来た?)
芽理は全身を緊張させて体を起こした。ぐったりとしているマースの身体をそっと上掛けに包み直して寝かせ、背中に庇って壁をにらみつける。
(これ以上、傷つけさせない)
たとえマースは居なくなっていても、それでもこれ以上この身体を傷つけさせるつもりはない。
だが、いつまでたっても壁は波打たず、誰かが部屋に入り込んでくる気配はない。
やがて芽理はその音に聞き覚えがあるのに気がついた。
『別れの曲』。
マースが大切な娘のために買い求めたというオルゴールの曲だ。
「あ……」
さっき無我夢中で手に触れたものを次々投げてしまったけれど、そのときにひょっとしたらあのオルゴールも投げてしまったのかもしれない。
芽理は慌ててベッドを降りた。自分がなおもマースの大切にしているものを壊してしまうかもしれないということに、たとえようもなく怖さを感じた。
壁際に駆け寄り、そこにやはり転がっているオルゴールを拾い上げる。中から手紙が零れ散っていたけれど、今はもうそんなものはどうでもよかった。
「よかった……壊れてない……」
素朴なオルゴールは幸いに造りは頑丈だったらしい。掛けがねのはしっこが少し捩じれていて、そのせいで半端にひっかかっていたのがさっき開いたのだろう。曲はきちんと鳴り続けているし、ねじも回る。
繰り返し鳴る優しい音色。
一つ一つ音を置く、行き場のない心を受け止めていくように。
オルゴールを抱えて眠り込んでいたマースを思い出す。
こんな夜をしのいで生きて、ようやく迎えた朝に慰めと憩いを求めて耳を傾けたのか。
また巡り来る夜の恐怖を一時なりと忘れようとしていたのか。
『あれは……僕が愛した娘のために買った』
ためらいがちな柔らかな声。
『勝ち気で……だけど可愛くて……かばってやりたくて……でも強くて……優しくて』
どれほどその娘を愛していただろう。
『もし、誰かを選ぶなら、その娘だと決めていた…………僕は、忘れていた……僕はマース・アシュレイで、それ以外ではなくて……でも、その時はそんなことは気づかなかった』
マース・アシュレイで。
それはこういう運命をさしていたのかもしれない。だからこそ、
『……贈って……別れる、つもりだったから』
『気づかないほど……夢中だった……けど僕は彼女にふさわしくないから……オルゴールを贈って離れていこうと……でも…………無理だった、みたいだ』
甘くとろけるような微笑を今胸が引き裂かれる想いで思い出す。
(そうか、マースが必要だったの、私、じゃないんだ……)
だから、マースはもう帰ってこないことを選んだ。
芽理がどれほど呼んでも、マースが望んだのは芽理ではなかったから、芽理ではマースを引き止められないのだ。ましてや、芽理はマースに優しくなかった。ずっと疑い傷つけてばかりいた。
(そんなところへ、戻りたくなんか、ないよね?)
張っていた気持ちが弛んで解けて崩れ落ちていった。ぼろぼろと別の涙が溢れた。全てがつながりよくわかったような気がした。
(当然だよね?)
芽理はマースを失うのだ。自分の気持ちにも真実にも向き合うことをしなかった、それは当然の罰なのだ。
水尾に求めた助けはたぶん空振りに終わるのだろう。ひょっとすると芽理は、一生ここで暮すことになるのかもしれない。クリスやマージに疑いを抱きながら、いなくなってしまったマースの思い出に眠れない夜を過ごしながら。
(でも、それだって、自分が招いたことなんだ)
大事な人を助けられなかった、その代償なら一生かけて払ってみせよう。
唇を結んでそう思った。
(そうだ、これ、マースの側で鳴らしてあげよう)
大切な思い出なのだし、せめてそれぐらいのことならば今の芽理にもできる。
繰り返しねじを巻いて、マースが寂しくないように。
(一晩中でも鳴らしてあげよう)
少しでもマースが慰められるなら。
(マースの大事な人と逝かせてあげよう)
涙ぐみながら、それでも自分ができることを見つけて芽理はほっとした。オルゴールを抱えてベッドに戻ろうとし、何気なく改めて蓋に刻まれた名前を読み取る。
「え……?」
(こ……れ……?)
「……めり……?」
いきなり後ろから殴りつけられたような気がした。くるくる回る視界に、一瞬自分が声に出してつぶやいてしまったのかと思った。手にしていたオルゴールを落としそうになり、必死に胸元に抱え込む。その耳に、掠れた淡い声がもう一度、
「……め……り……?」
背中から芽理を呼んだ。
振り返る。自分が震えているのがわかる。身体が熱くなって視界が滲む。
「君……なのか……?」
ベッドの中で、まだあちこちに血の汚れをこびりつかせたままの顔に、不安そうな怯えた表情を浮かべ、透明な瞳を見開いてマースがこちらを見つめていた。
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