『アシュレイ家の花嫁』

segakiyui

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8.運命の輪

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『回せ、時が止まらぬように』



 長い間、ずいぶんと長い間、マースは暗くて寒い場所を漂っていた。
(今度こそ、死ねたのかもしれない)
 そう思うと、ほっとしたような気持ちと同時に、微かに胸が傷んだ。
『にいさま、とうさま、どこ?』
 暗闇の中で小さな男の子が泣いている。肩で切りそろえた銀色の髪を振り乱し細い肩を震わせて。
(クリス……)
 あれはいつのことだっただろう。確か父親が死んだと聞かされたときのことだったから、もう15年以上前になるか。泣き出してしがみついて、何度も何度もクリスは問うた。
『かあさまもとうさまも、どうしていなくなるの?』
『みんなどうしていなくなるの?』
『ぼくはどうしてここにいるの?』
『どうしてぼくだけずっとここにいるの?』
(僕がいるよ)
 何度も答えては、小さな体を抱き締めた。
(僕がずっと側にいるよ)
 それは成長しても変わらぬ約束、悪夢にうなされ怯えて眠れなくなるクリスが泣きながら部屋に駆け込んでくるたびに、抱きとめて繰り返したことばだったのに。
『いつか、兄さんもいなくなるんだろ』
 昏い色を浮かべて吐き捨てるようになったのはいつからだったのか。
『にいさま………にいさまもいつか死ぬの…? こんな目にあってたら………きっと……いつか……死ぬんだよね………? ぼくを残して……いなくなるんだよね………?』
 初めてマースがラピドリアンに供されたとき、息も絶え絶えのままベッドに捨て置かれた彼を覗き込んだクリスが真っ青になって震えながらつぶやいた、あの時からだったろうか。
『僕を置き去りにしていくんだろ?』
『兄さんはアシュレイだものね。みんなのために居るんだよね?』
『兄さん……僕も………』
 夜の儀式が始まってから数年後、クリスは窓際で暗闇に光る稲妻を見つめながらつぶやいた。
『兄さんがほしいよ………僕にも……兄さんをくれるよね?』
 掠れた声、振り返った瞳の青が冷ややかにマースを射抜く。
 その夜からクリスの責めが始まった。マージのように感情のままに貪るように痛めつけるというよりは、マースの限界を確かめるような、繰り返し繰り返し次第に程度を増していくようなやり方で。
『まだ……大丈夫だよね? まだ………死なないよね? 兄さん…まだ……大丈夫だよね? 兄さんは強いものね……? 声を……聞かせてよ…………』
 不安そうな響き。すがりつくように体にしがみついてくる指先が皮膚を破り肉に食い込み骨を握りしめても、まだ止まらぬ微かな怯えるような震え。嘲笑う声の奥に、激痛に跳ね上がるマースを容赦なく押さえつける力の向こうに、それがあると感じ始めたのはいつからだったろうか。
『どうして……こんなことを我慢してるのさ………どうして逃げないのさ、兄さん』
『嫌だ、逃げるなんて許さない、僕を置いていくなんて………許さない、兄さん!』
 泣きじゃくりながらマースを引き裂いていた夜、クリスは血まみれのマースを抱えたまま朝まで離さなかった。だが……いつの頃からか、クリスの深い所で闇が煮え詰まっていった。
 手の出しようがない、ねじくれた回路に育っていくそれを憎みながら、そこに幻のように肩を震わせて泣き続ける小さなクリスが重なって、マースの気持ちを縛り上げる。
(出口なんか……どこにもない………)
 それでも小さなクリスの泣くさまは愛おしくて大切で、癒してやりたくて守ってやりたくて。
 贄として殉じるつもりだった……だが、マースは彼女に出逢ってしまった。
(僕も、約束を守れなかったな、クリス)
 体が冷たい。いつもなら戻ってくるはずの気力がどこにも見つからない。重くなる胸を抱えてマースは闇に落ちていく。
(きっと……は気づかない)
 光に満ちた鮮やかな少女。
(僕の命は彼女にとって意味がない)
 だからマースは彼女の名前が思い出せない。
(弱いから、約束一つ守れないから、クリスを追い詰めても、彼女のために死ぬこともできないから)
 が。
 ふいに。
 音が響いた。
 微かな微かな、今にも消え去りそうな音。
 忘れることなどない、彼女のために求め、何度も慰めを与えてくれたオルゴールの音。
『どうして、プレゼントなのに、「別れの曲」なんか選んだの?』
 声が、闇に、弾ける。
『大事じゃないから、私は選べたんだ? 道具でよかったから? 金で買ってこれたから?』
 きらきらと、魔を滅する白銀の光を放って。
(いた……い…)
 マースの意識を刺し貫く。
(いたい…よ…………り…)
 まっすぐで眩くて胸抉るほどに鮮やかで。
(体が……心が……いたい………)
 忘れていた苦しみ、無視してきた傷みを思い出させる。それらをなかったことにすることでかろうじて生き延びていた魂を、無理やり正気に戻らせる。
 自分を守る事がどういうことなのかを。
 誇りを、思い起こさせる。
(ああ、そうだ……君の…名前は……)
 血や涙で汚れて乾いていた口が無意識に動く。
「……めり……?」
 つぶやくと、そのことばは信じられないほどの早さと深さで体に沁み通った。どんな呪文より強く、どんな祈りよりはっきりと、マースの内側に銀の波紋を広げていく。
 いきなり視界が戻った。
 暗闇の中、誰かが部屋の隅に背中を向けて立っている、その人影が声にびくりと体を震わせた。オルゴールの音がぷつんと途切れる。細い柔らかな後ろ姿、何度も何度も慕わしく、けれど声をかけられずに竦みながら見守った姿をマースが見間違うわけもない。
(まさか…?)
 体を起こしたかったが動けない。投げ出した手足は鉄の塊のようだ。
(まぼろし…? 夢……か……?)
 声を出せば消えてしまうのだろうか。それならこのまま、また意識を失ってしまうまで、わずかの間でもいいから見ていたい。そう思う一方で、もう幻を見るほどに弱っているのなら、二度と見られないと思っていた彼女の顔を見られるのなら、次の一瞬に消えてしまってもいいと思った。
 渇ききった口にそっと唾を呑み込み、怯えながら呼び掛ける。
「……め……り……?」
 相手が大きく体を震わせて、マースは身を竦めた。揺れて掻き消えてしまうかと不安になった矢先、ようやくそろそろと振り返ってくれる。髪の毛が昼間のブラウスパンツ姿の肩に乱れている。顔色が悪くて表情がかたい。振り返りはしたものの、それ以上身動きせずにこちらを凝視している。
(ああ……やっぱり……夢なんだ……)
 マースな緊張していた体から力を抜いた。たぶん今は真夜中で、彼女がこんな服装をしているわけはない。ましてやマースの部屋にいるわけはない。
 落胆が奮い起こした気力を奪っていく。そのまま意識を失いそうになって、マースは瞬きした。
 次に同じ夢が見られるとは限らない。さらなる修羅場が待っているだけなのだろう。あれほど疲弊し、痛めつけられ、心身ともにもう戻ってこれないと思っていたのに、それでもまだこの世界に縛りつけられる自分の強さにうんざりしながら、気持ちが暗く凝っていく。
(そのうち……僕も………壊れるんだろうな……)
 彼女に言った通りに。自分が傷つけられるのを楽しみにさえできるのかもしれない。
(そうなった方が幸せなのか……? 僕にとっても……クリスにとっても……)
 なまじな正気なぞ持っていなければもっと楽に生きられるのかもしれない。未来永劫屠られて、血膿の中で快楽を拾い上げていけるようになるのかもしれない。
(でも……今は……)
 この幻にでもすがりたい。ぼやけかけた眼を必死に開いてことばを継ぐ。消えないでくれと願いながら。
「君……なのか……?」
 相手は凍りついたようにこちらを見つめて動かない。
 ふいに気づいた。相手は胸にしっかりマースのオルゴールを抱えていて、宝物のように両手で包んでいる。
(君に……渡せたんだ)
 よかった。
 マースは少し笑った。
 夢でもいい、受け取ってくれているんだ。
 よかった。
 体は全く動かなくて、いつもより数段冷えていて、呼吸も苦しい。回復するのにきっといつもの数倍かかるだろう。その前にまた夜が来るのかもしれない。
(次には死ねるかもしれない)
 また少し笑う。
 このまま肉切れになっていく間で見る幻にしては上等だ。何せ、部屋に彼女がいる。しかもマースの贈り物を抱いて、マースを見つめていてくれる。
 この光景だけを覚え込もう。現実には嫌われてて、二度と顔もみたくないと言われてるけど、幻のような命なら幻のような慰めが似合っているのだろう。
 それでもしばらく見つめていると、物足りなくて寂しくなった。
「夢なら……望んでも……いいよね……」
 独りごちる。
「もう少し……近くに来て……」
 無理だろうなと思いつつ、そっとねだってみる。夢や幻は自由にならないことなどわかっている。けれど、あまりにじっと見つめてくれるものだから、髪や唇や耳たぶなどに、できれば、触れたい。
(馬鹿な、ことを)
 幻に触れて幻を確認するだけなのに、気持ちが高ぶる。冷えた手足に血が通ってくる気がする。
 苦笑したマースは、次の瞬間、相手がゆら、と足を踏み出したのにぎょっとした。足下を確かめつつ進むような危うさで、一歩、また一歩と近づいてくるのを、信じられない思いで見る。
「凄いな……こんな…夢は……初めてだ……」
 無意識に笑い声が零れた。
「願いが…叶うなんて……」
 びく、と相手が強ばった顔で立ち止まって、マースはひやりとして口をつぐんだ。
(もう消えてしまう? 途切れてしまう?) 
 体が恐怖で震えた。
(取り残されて、また夜が来るのを待つ? ここで、一人で?)
「も……いい……」
 思わずつぶやいた。
「もう……近づかなくて……いい……」
 消えるぐらいなら、触れられなくていい。失うぐらいなら、得なくていい。
「見てる……だけで……いい……」
 頼むから、と胸の中で呻く。消えないでくれ。過分なことは望まない。また失うぐらいなら、永遠に触れ合わなくていい。そこにいてくれるだけでいいから。
 体の震えが止まらない。ベッドに体を投げ出したままでがたがた震え続けている。
「すまない……間違ってた……僕が……間違ってた」
 攫ってきたのが間違いだった。嫌われるぐらいならば通り過ぎていくままにしておけばよかった。
「頼むから……消えないでくれ……せめて……夜まで……そこに…いてくれ」
 動けるものなら跪きすがって頼み込みたい。けれど動けないから。必死に口で懇願する。
「夜に……なったら……いいから……消えても………いいから……」
 相手が緩やかに首を振った。その大きく見開いた瞳から零れる光にマースの胸が締めつけられる。
「泣かないで……くれ……すまない……僕が……悪かった……」
 体がどんどん冷えていく。意識が遠ざかっていきそうになる。
(望んじゃいけなかったんだ)
 絶望が押し寄せてくる。
「消えても……いい……そんなに嫌なら……望まない……何も……望まない……」
 ゆら、とまた相手の体が揺れて、マースは目を閉じた。せめて消える瞬間を見たくなかった。幻だと思い知らされる現実を押し込めて、胸の中で繰り返す。
 もう二度と。わかった、夢でも幻でも。ああ、きっと、もう二度と。
 今度こそ守るから。
 が、次の瞬間。
「え?」
 軽い足音が響いて、ふいに体を包まれ抱き締められ、思わず目を開いた。
 離れたところにいたはずの相手がオルゴールを放り出し駆け寄ってきていた。『別れの曲』が静まり返っていた空間に鳴り響く。
「……な…に…?」
 温かな体が胸に押しつけられる。柔らかな香りが鼻腔を満たす。
「こんな……夢……あるのか……? 君の……匂いまで……する……?」
 いや、まさか、現実でも、こんなことはありえない。
(だって、二度と、顔も見たくないと)
 ならば、これは何?
 これは、何なんだ?
「幻じゃない」
 温かな濡れた声が耳元に響いて、マースは固まった。
「夢でもない」
 甘い声が繰り返す。
「生きててくれたんだ?」
「め…り…?」
 一瞬抱擁が解かれた。そのまま突き離されるのかと思ったマースの気持ちを読み取ったように、きつい視線で睨みつけてきた芽理が、ふわりと瞳を潤ませる。次々零れ出す涙を頬に押しつけられながら、もう一度そっと深く上半身を抱かれて、温もりと熱さに溶けそうな気がした。
「ずっと、側にいるから」
 にじんだ声が低くきっぱりと宣言する。
「ずっと、側にいて、マースを守ってあげるから」
「め…り……」
「マースがどんなに嫌がっても、離れてやらない」
「僕が……君を……?」
 思わず笑ってしまった。
「拒めるわけが……ない……」
 つぶやいたとたんに、口を塞がれた。不器用で慣れてなくて、でも一所懸命に探ってくる柔らかな唇。身動きできない体にのしかかられているのに、不快でないばかりか、もっと深くまでほしいと思ってしまう。
(体が……なく……なる……)
 芽理に触れられている部分が熱を持ち、柔らかく潤み、境界を失う。マースは引き込まれるように目を閉じた。初めて味わう感覚に意識が根こそぎ奪われる。
(僕が……芽理と……混じっていく………)
 零れた吐息をどう取ったのか、はっとしたように芽理がキスをやめた。小さな音をたてて唇が離れていく。しかもなかなか戻ってこない。じれったくなって目を開くと、ついごく、と唾を呑み込んでしまってマースは怯んだ。自分の体が音をたてて芽理の前に開かれていく、そんな貪欲さに気づいて顔が熱くなる。
 けれど、相手はそれに全く気づかないような真剣な顔でマースを覗き込んでいた。何かに気づいたようにちらちらと周囲に目を配りながら、
「大丈夫?」
「…うん……」
「ひょっとして、まだ動けないの?」
「……ああ……そうか」
 キスに芽理を抱き寄せなかった、それに不審を抱かれたらしい。力を入れようとしたが、腕さえうまく持ち上がらない。
「すまない……まだ……動けない…みたいだ……」
「んー、じゃあ」
 すいと芽理が体を離してどきりとした。触れていたところに入ってくる空気に寒さを感じて身を竦める。
「体、拭いてあげるね」
 小さな声で言って、芽理は一瞬唇を噛み、僅かに赤くなった。
「……え…?」
「ひどいことになってる」
「あ……っ」
 全身の血が一気に引いた。自分が身につけていたのはシャツ一枚だ。いたぶられて意識が朦朧としていたけれど、体を何度か汚したものには覚えがある。血は消えていってくれるけれど、他のものはそのままだ。
「す…すまない」
(ラピドリアンになぶられたままだ……)
 頭の中が真っ赤に染まったように感じた。思わず手元のシーツを引き寄せ、体を隠す。
「大丈夫だ……もう少し時間があれば……自分でできる……」
 軽蔑されたかもしれない、今度は本当に嫌われたかもしれないと思うと声が揺れた。
「だめ」
「だめ?」
 今度は思考が真っ白になってしまった。
「そう、だめ」
 芽理は当然のようにうなずき、繰り返した。
「じっとしてて。今タオル濡らして拭いてあげる」
「いや……だって……待ってくれ」
「待たない」
「は?」
「だってマースは私を拒まないんだよね?」
 マースの驚きをよそに芽理は部屋をうろつき回り、タオルが見つからないと自室から数枚タオルを持ってきた。洗面所で濡らして絞り、戻ってくるとシーツをしっかり握っているマースに一言命じる。
「はい、脱いで」
「め…めり」
「そのままじゃ眠れない。眠れないと回復できない。マ-スが回復できないと………」
 まっすぐに目を据えられてどきりとする。まだ潤んでいる黒い瞳が気弱に緩んだ。
「私が、つらい」
「あ…」
 どきん、と胸が高く鳴った。
(僕が回復できないと……芽理が、つらい、だって……?)
 甘やかなその響きを繰り返して味わう。
 濡れタオルを手にじっと立っている芽理はまるで数年間の時を一気に越えたように大人びて見えた。
「それとも、私に触られるのは、いや?」
「あ…あの…いや……そうじゃなくて」
(触られると……)
 その後に続きそうになったことばに全身が熱を帯びて、マースはなおうろたえた。
「僕は…」
「マースが好きだよ」
 ぽつん、と静かな声が遮った。息を呑むマースを、なおもまっすぐ見据えたまま、
「私はマースが好きなの。だから、失う気、ないの。神様相手に喧嘩売っても、いいぐらいには」
 にこりと笑う、その笑みを裏切って涙が零れた。何でもなかったように、ぐい、とそれを手の甲で横殴りに拭き取って続ける。
「お願い」
「芽理?」
「この後嫌ってもいいから、今だけは、お願い。言うこと、きいて」
(芽理が、僕を、好きだって?)
 空耳かもしれないと思うのに、お願い、と続けられて抵抗する気がなくなった。
(見られて嫌われても……いいか)
 勢いにせよ方便にせよ、芽理はマースを好きだと言ってくれた。
(これが最後かも知れないじゃないか……?)
 マースはのろのろと起こしかけていた体を横たえた。握りしめていたシーツを離す。ほっとした顔で芽理が近づいてきて、そっとシーツを、続いてシャツを開いた。
「ん…ぅ」
 濡れた体が晒されて寒い。乾き始めた部分がひきつれて傷を裂くのに、思わず呻く。目を閉じて力を抜こうとしたが、ひたりと顔にタオルを当てられて思わず目を開く。
「風邪のとき」
 芽理がマースの視線を避けるように拭いている場所を凝視しながら囁いた。
「汗かいてる父さんの体を拭いたことがあるから。うまく拭けるから。母さん、早くに死んだし、そういうこともあったから」
 畳んだタオルを折り直しながら丁寧に顔、首から肩を拭いていってくれる。シャツから抜き出した腕を左右拭き上げられながら、さっぱりと汚れと汗が拭い落とされていく爽快感に、気持ちがほぐれていくのを感じた。傷を心配しているのだろうか、胸や腹は柔らかめに優しく撫で摩られて体の奥に疼くような感覚が広がる。乱れかけた息をごまかして、眉を寄せて吐息を逃がすと不安そうに問いかけられた。
「痛い?」
「いや……気持ち、いい…」
 吐息まじりの自分の声がねだるように聞こえてないかと、少し怯む。
(もっと、触ってほしい…)
「ん、よかった」
 人の体を拭きあげるのは重労働だ。額に汗を滲ませて、顔を上気させ、必死に手を動かしていく芽理の顔を見ていると、切ないような苦しいような気持ちになってくる。煽られ過敏になり続けていた神経は、些細な刺激でまた揺らめいていく。芽理の指先がタオルからずれて肌に触れるたびに、押さえそこねて体が動く。
 また小さく息を吐くと、びくりとしたように芽理が手を止めた。胸に置かれた手の下で自分の鼓動が跳ね上がっていくのがわかる。しばらくマースの様子を見ていたが、またゆっくりと手を動かし始める芽理は、マースの揺らぎには気づいていないみたいだ。
(気づかれたら……どう思われるんだろう)
 クリスの嘲笑が甦る。身体は気持ちを裏切る。不安は身体を煽る。芽理の優しい仕草が甘い愛撫になってマースの中の炎を呼び起こす。
(もっと……強くていいのに……)
 ぼんやり思って顔が熱くなった。
(僕は何を)
 そう思いながら、芽理に触れられる部分を必死に意識で追い掛けている。傷つき疲れた夜の後を浄めていく、その掌の柔らかさに傷が溶けて形をなくす。脇から滑ったタオルが足先からまた拭い上げてきて、煽られる、見えない風に巻き込まれていくように。身体が熱を帯びて内にある炎を吹き上がらせる。
 その炎が、治り損ねていた身体の傷を回復させていくのを感じた。大きな強いエネルギーが死の淵からマースを遠ざけていく。
(ああ……そうか……こうやって……回復、していくんだ……)
 自分では意識していなかったプロセスを確かめるように教えられるように一つ一つ積み上げられて、マ-スは今まで意識を失っている間に繰り返されていた過程を初めて深く理解した。
 自力回復できなくなった身体は誰かの熱を必要とする。与えられて温められて、身体の残り火に光を灯されて、その火が十分に大きくなるまでそっと両手で包まれて守られて。
「んっ…!」
 一瞬ためらったように止まった芽理の手が、決心したように下半身に滑っていって、さすがにマースは我に返った。
(だめだ、これ以上)
 身体の火は、もう皮膚の下まで吹き上がっている。これ以上煽られると制御できない。
「めり…」
 弾みかけた呼吸を整えるのが苦しかった。
「何?」
「そこは……僕ができる……」
「あ……うん……じゃあ……私、背中、拭くね。横向ける?」
 たじろいだように芽理が答えてタオルを渡され、マースはほっとした。そろそろと向きを変えて始末をしている間に芽理が背中を拭いてくれる。ときどき汚れで見えなかった傷をタオルが掠め、身体が跳ねる。
「マース?」
「だい…じょうぶ……!」
 ふわりと背中から抱かれて声を呑んだ。
「痛いときは、痛いって言って。わかんないから。わかんないけど、痛くしたくないの」
 耳元で芽理が囁いた。
「私、マースのこと、わかんないから……けど、もう、痛い思い、させたくないの」
 滲んだ甘酸っぱい声に胸が詰まった。
「うん……わかった……」
 うなずくと、もう一度丁寧に背中と下肢を拭われて、静かに向きを戻された。
「もう、立てたりする?」
「ああ…うん……たぶん…」
「じゃあ、支えるから、こっちの部屋で寝よう?」
 たじろぐまもなく、てきぱきと芽理はマースの揺らめく体を支え起こした。慌ててシーツを掴むのが精一杯、なかば引きずられるように居間を横切り、芽理の部屋へ連れ込まれる。
「それはだめ」
「あ、けれど、あの」
 体に巻きつけていたシーツを奪われかけてマ-スはうろたえた。炎の形があらわになる身体が情けなくて竦みかけると、察したように芽理の部屋の新しいシーツを手渡された。慌てて身体にひきつけると、芽理のベッドに押し込まれ、自分が芽理に用意した上掛けで覆われる。
(芽理の匂い)
 日射しのように温かな香りに、胸を激しく揺さぶられた。思わず目を閉じ、鼻を押しつけ、深く吸い込み陶然とする。誰も眠っていなかったはずなのに、ベッドはほのかに温かい気がした。乾いた清潔なシ-ツに包まれ、強ばって冷えていた手足から力が抜ける。轟く心臓は無理に動いたせいばかりじゃなくて、あまりの幸福感ゆえだ。
(僕は、今、芽理の、ベッドに、いる)
 何度言い聞かせても実感が湧かない。
(二度と顔も見たくないって言われたのに)
 閉ざされた扉が開くとは思えなかったのに、再び芽理と話ができるとは思わなかったのに、ましてや触れてキスできるなんて信じられなかったのに、今マースは芽理のベッドに招かれ横たわっている。
 感覚も思考も追いつかなかった。
(いや、でも、これはたぶん、きっと、僕のベッドが汚れていたせいで)
 男をベッドに誘い込んだつもりではさらさらないのだろう、とマ-スは考え直した。
 芽理はおそらく親切心とか同情とか憐れみとか、そういう、そうだ、人類愛に似たようなものでマースに優しくしてくれているだけで、明日になれば、いや、マースが回復すれば、またいつも通りに距離を置いて接することになるはずだ。
 言い訳のような論理を必死に紡ぎ出す胸の内で、それでもほのかに膨らんで色づいてくるのは痛いほどの期待感で。
(でも、もし、そうじゃなかったとしたら? いや、もし、たとえ、そうでも)
 憐れみでも同情でも、一瞬の気の迷いでもいい、今、自分は芽理が欲しい。回復の余韻なのか、身体の奥に疼く熱が消え去らなくて戸惑う。
「大丈夫?」
 その惑いを蹴散らすように、隣に芽理が滑り込んできて、マースは硬直した。マースの内側に動くものに気づいているのかいないのか、深々と覗き込んできた芽理がひどく優しい声で囁く。
「まだあちこち痛いよね? ひどくなってきているところある?」
 指で髪を撫でてくれる。大切そうに、愛おしそうに。
(夢…みたいだ)
「ない…」
 答える自分の声が甘いのがわかる。
「身体がまだすごく冷たいよ。寒い?」
「…少し」
 目の前で動く桜色の唇に喉が鳴る。
「温めて……ほしいな…」
 声が掠れた。今すぐにでも引き寄せて抱き締めたい。指だけじゃなく、声だけじゃなく、身体全部で芽理の温もりを確かめたい。けれど、もし、これもまた、マ-スの思い込みだったら。それこそリアルな夢だったら。力の限り抱き締めた瞬間に、暗転する舞台の上で一人みっともなく喘いでいるのに気づいてしまったら。
 今でも十分じゃないかとどこかで不安そうにつぶやく声がする。熱が溜まってくる。身体が熱くなる。喉が渇く。芽理の動き一つに煽られていく自分がいて、その自分にまた煽られていく。
 触れたい、もっと、近くに、ほしい。けれど、怖いから、触れてほしい、芽理の方から。
「うん、わかった」
 内側の願いに応じるように細い腕が掛け物の下から伸びてきた。シーツを巻きつけた上からマースの身体を抱えるように身を寄せてくる、芽理の熱がシーツを伝わり流れ込んでくる。
 けれど、その熱はマースを煽るものではなかった。むしろマースの行き場のない熱を抱き取り、そっと温もりに変えて返してくれるようなもの、限りなく静かな、恋人というより子を抱く親のような仕草、その柔らかさと曖昧さに、じれて身悶えしている自分を感じる。
「芽理」
 切なくなって声を上げた。まだ自由に身動きできない自分の身体が恨めしい。
「芽理」
 夢でもいい、幻でもいい、傷の痛みも忘れるぐらいの炎に自分を追い込んで焼いてほしい。
「ここに、いるよ」
 けれど相手は一層静かに声を返してきた。
「ここに、ずっといる」
「芽理」
「マ-スの側に、ずっと、いる」
「ん…」
 ようやく唇を重ねられて、安堵感が広がった。ゆっくりと、内側で跳ね回る熱が穏やかな波になって体中に広がっていく。それはさっきの激しいエネルギーではない別の波、その緩やかなリズムはマ-スの深いところにまで届いていく。重なったときと同じように、そっと優しく離されて、それもまた知らない口づけで。
(いろんな……キスがあるのか……)
 ぼんやりと目を見開くと、覗き込んだ芽理の顔が光を帯びて微笑んだ。
 無言の空間、自分と芽理の呼吸音が、規則正しく夜闇に響く。
 静かな優しい子守り歌。
 鳴っていたはずの『別れの曲』が聴こえない。
(そうか……もう鳴らさなくていいんだ……芽理が受け取ってくれたから…)
 視界が淡く霞み始めた。閉じそうになるまぶたをこらえても、こらえても、夜の窓辺のカーテンのようにするする解けて落ちてくる。
「眠い?」
 遠い声が尋ねる。
「ああ……眠い…」
(とても、眠い)
 マースは深く吐息をついた。自分を抱えるしなやかな腕に全てを手放し眠りについた。

 芽理は夜中に何度も目が覚めた。
 夢の中で繰り返しマースは屠られ傷つけられ血を流す。
 それを芽理は見ているだけだ。
 何もできない。
(何の力も才能もない)
 大人でさえないから、夢の中でいつもマースを守れない。悲鳴を上げて駆け寄る目の前で、血飛沫をあげてマ-スが倒れる。「芽理…」。淡い瞳が紅の涙を流して呼ぶ。
 脂汗を滲ませて跳ね起きかけ、側で少し口を開いて深い寝息をたてているマースに気づいて息を潜める。それを何度も繰り返した。
 マースは一度も起きなかった。
 昨夜。
 あれほどずたずたになっていた身体も、タオルで拭くころにはいつか見たように少しずつ治っていきつつあった。けれど、その治り方がうんと遅かった。止まったように見える部分からもう一度血が流れ出したり、傷が塞がりかけていたのに再びぱくりと口を開いていったりして、凍るような思いを味わった。身体はいつまでも妙に白くて弾力を失っていて、掴んでもそのまま消え失せそうにあやうかった。
(へたってる)
 マースの回復力がひどく衰えている。理由はわからないけれど、これ以上傷つけさせては、本当に回復できないかもしれない、そう感じた。
(いくら必ず治っても、傷つくとき痛いのは、変わらない)
 目を覚まさないまま、マースは何度か怯えた声で芽理を呼んだ。
『めり……いたいよ……』
 痛かったら伝えてほしい、それがそういうふうに実を結んだのか。
 眉を寄せ、微かに呼吸を荒げながら、意識のないままに助けを求めてくる。その手を握り、身体を抱き締め、髪を撫で、頬を寄せる。そうするとマースの身体が冷えきっていることが多かった。かたかたと身体を震わせながら、それでも額に汗を浮かべて、頼りない声で呼んでくる。
『めり……いたい……』
(傷んでるのは、きっと、心だ)
 身体が回復しても、心の傷が回復できない。むしろ見えないだけに、回復できないままに何度も削られ抉り直されて、回復する術さえなくしているのかもしれない。
 見えている身体の傷でさえ、芽理には癒すことができない。ましてや、マースのような大人の、見えない心の傷をどうやって癒せるものなのか、それともそういうものは他人には癒せないものなのか、それさえも芽理にはわからない。
(でも、マースが私を呼ぶんだ)
 何もできないけれど、何も与えられないけれど、めり、と繰り返し求めてくる。
 芽理は差し込む朝日に目を細め、左側に深く眠り込んでいるマースの顔をそっと見下ろした。
 また苦しんでいるのだろうか、息を弾ませて眉をしかめている。濡れた額に黒髪が張りついているのを、そっとタオルで拭ってやりながら取り除いてやると、小さな吐息をついて身体の力が抜けていく。シーツに包まり竦んで縮み上がってる身体を、そっと抱きかかえ、額にキスを落とす。
「めり……いた…い……」
 安心したように訴えてくるのにうなずいて、そっと耳元に囁いてやる。
「大丈夫、ここにいるよ」
「ふ……ぅ」
 顰めた眉が緩み、また深い寝息に変わっていくのに、溜息をついたとき、ノックが響いた。
「おはよう……起きてる、芽理?」
(クリス)
 きゅ、と唇を引き締めた。
「起きてるよ、どうぞ」
「朝からごめんね。ミズノオって人が来てるんだけど、兄さんがいないんだ。もしかして、芽理は知らないかと……」
 ドアを開けて入ってきたクリスが芽理の視線を浴びて立ち止まった。何を感じたのか不安そうにこちらを見返した青の目が、ベッドのマースに落ちて大きく見開かれる。
「兄さん…?」
 芽理は息を吸い込んだ。にっこり、と最大級に笑ってみせる。
「マースはここにいるよ」
「え」
「夕べから一緒にいる。この先ずっと一緒にいることにしたの」
「夕べ……」
 クリスは苦いものを呑み込んだような顔になった。
「たぶん、これが一番良い方法なんだと思ったの。だから、もうクリスは大丈夫だよ?」
「え……あ……ああ……」
「マース、しばらく眠らせてあげて。仕事でうんと疲れてるの。水尾さんには私が会います」
 ベッドに体を起こしたまま、傍らに獅子を従える王族のように相手を見据えた。
「芽理……いいの……? 兄さん、マージや僕…のこと……話したの?」
 クリスが、眠り続けるマースを凝視しながら平坦な声で問うた。
「ううん、まだ」
 芽理はまっすぐクリスを見たまま首を振った。
「これから一杯話すことにしたの。それを聴くために、これからずっと一緒にいることにした」
 自分の声に宣戦布告を響かせる。
「芽理」
 それがはっきり伝わったのか、ぱちん、と内側で何かが弾け飛んだように体を震わせて、クリスがのろのろと芽理を見返してきた。青の瞳に暗く滾る光が揺らめく。
「君って……そんなこと、する気なんだ?」
 仕掛けられていた地雷がいきなり火を吹いた、そんな気配だった。それを十分に感じ取って、芽理は怯みかけた気持ちをぐいと顎を逸らせて支え、睨み返した。
「そんなこと、する気なの」
「兄さんのこと……好きなんだね?」
「うん、好き」
 クリスは険しい顔になった。
「何にも……わかってないくせに」
 唐突に、吐き捨てるような軽蔑がクリスの声に滲んだ。
「兄さんのこと、何にも、わかってないくせに」
(やっぱり、見えなかったものが、いっぱいあるんだ)
 穏やかで優しくて誠実そうに見えたクリスの、この凄まじい怒りはどうだろう。芽理を見下げたこの瞳の冷酷さ、声に漂わせた力持つものの傲慢さ。芽理に親切に振舞いながら、影に回ってマ-スを追い詰め縛りつけていたその落差に、芽理は全く気づかなかったのだ。
 それがマースを追い詰めてあんな目に合わせた。
 ベッドの上で血まみれになって剣で両手を張りつけられて。悲鳴も上げられずに、心が壊れるまで痛めつけられて。誰にもわかってもらえずに。誰にも助けてもらえずに。
 毎夜毎夜、誰かの贄に供されて。
(そうだ、私はずっとわかってない、きっと今だってわかってないことがいっぱいある、だけど)
 もう見ないふりはやめるんだ。
 次に同じことを繰り返したなら、もうマースは戻ってきてくれない。
「何かできるって思ってんの?」
 クリスが冷ややかに続けた。
「君みたいな、子どもがさ」
 芽理は口をつぐんだ。子ども。無力で無能で、何もできない子ども。
 そうだ、芽理は、たぶん、ずっとそうだろう。
(何もできない、それが真実、けれど、でも)
「そうだよ、私は子どもなんだ」
 意外な答えに相手が気を抜かれて黙るのに低い声で続ける。
「子どもだから、ずっといろんなことがわかってなかった。わかってなかったから、大事な人がずたずたになった。けど、子どもでも、間違ったことは繰り返さない」
 クリスの鮮やかできれいな瞳を見据える。
「もう、マ-スを傷つけたりしない」
「できるもんか」
 クリスが苦々しい声でつぶやいた。
「君が僕以上に兄さんをわかるわけがないよ」
 澱んで疲れた色がクリスの顔に広がった。
「誰にだって、僕らの背負ったものの重さなんて、わかるわけがない」
 芽理は唇を引き締めた。息を吸い込み、きっぱりとはっきりとことばを紡ぐ。
「私はわかってないからマースを傷つけた。けど、クリスはわかっててもマースを傷つけるんだ?」
「!」
「マースのことも、周りのことも、みんなみんなわかってて、それでもやっぱり、マースを傷つけることしかしないんだ? どうして?」
 クリスの顔がいつもより数段白くなった。
「な…に……」
「私はマースのことがわからなかった。けど、好きな人を大事にすることは知ってるよ」
 目を細めてゆっくりと尋ねる。
「クリスは、マースが、嫌いなの?」
「……ばかな」
「じゃあ、好きなの?」
 ぐ、とクリスが詰まった。白い顔が青ざめて強ばっていく。
「それとも……」
 芽理は視線を逸らさなかった。
「好きな人を大事にすること、知らないの?」
 クリスが顔を打たれたように口をつぐんだ。芽理を見、マ-スを見、再び芽理に目を戻す。不安が一瞬人形のように整った顔を暗く陰らせた。だが、強いてそれを無視するように、
「……いいかげんにしろ。君一人など、どうにだってできるんだぞ」
 苛立ったクリスの声に、不思議に芽理は怖さを感じなかった。
 目を伏せる。もう一度、傍らに響く微かな寝息を感じ取る。安心しきった柔らかな吐息の繰り返し。波のように穏やかなそのリズムに、そっと心を添わせると体の奥に大きくて豊かな木が育つようだ。
(マ-スが生きていてくれる)
 それ以上に一体何を望むのか。
「脅しても無駄」
 芽理は顔を上げた。ベッドを滑りおり、開かれたドアにまっすぐ進んでいきながら、ぴた、とクリスの前で立ち止まる。
「殺してみろよ、本望だから。少なくとも、自分が無力だから守れないって悩まなくてよくなる。これ以上マ-スが苦しむのを見なくてすむ」
 ぎくりとクリスが体を震わせた。それをゆっくり顔だけ振り向く。
「好きな人が殺されるのを黙って見てるぐらいなら」
 きりきりしているクリスに、殺気を込めて微笑を投げかける。
「怖いものなんかあるわけないよ」
 吐き捨てて、部屋を出た。
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