6 / 7
6.欺く恋
しおりを挟む
一瞬、三人はそれぞれに音の方向を探った。
『瞳』の力に翻弄されていたすすむがふわりと塔の中で回り、ゆらゆら水底に沈むように下の方に降りてくる。
それに気づいて、鹿子は『炎』と『瞳』の間を駆け抜け、光の塔に身を寄せた。
「すすむ……すすむ……大丈夫?」
心配は隠す余裕がなくて声に溢れた。
光の網の向こう、覗き込む鹿子に向かって、崩れるように座り込んでいたすすむが両手を支えにして這い寄ってくる。
いつかの夜の『炎』と『瞳』のように、光を挟んで、鹿子とすすむは向かい合った。
「鹿子……」
いつものすすむとは全く違った深い響きの声が鹿子を呼んだ。
「大丈夫か? 何もされなかったか? ……何も思い出さなかったな?」
大丈夫、と答えかけて、鹿子は気づいた。すすむの目を見つめ返し、ゆっくりと尋ねる。
「思い出さなかった、って……すすむ、あたしが小さい頃の記憶がないってこと、どうして知ってるの?」
すう、とすすむの顔が青ざめた。唇を噛む、その仕草が小刻みに震えている。
どぅん。
また、遠くで音がして、部屋が揺れた。
「『瞳』!」
「ああ」
『炎』に命じられるまでもなく、『瞳』は手を振って、周囲の壁に細工を施したらしい。
見る見る透き通っていく壁に、四方の光景が浮かんだ。
思わずそちらを見た鹿子の口から、小さな叫びが上がる。
それもそのはず、壁に映し出された風景は、鹿子のよく知っている場所でありながらそうではない、奇妙なものに覆われつつあったのだ。
駅の方、商店街が並ぶ通りに大きく立ち上がったあの夜の恐竜。すすむのマンション近くの道路を縦断していく巨大な蛇の影。鹿子の家からさほど離れていない幼稚園の園庭にはぬらぬらと皮膚を光らせた爬虫類が横たわり、いつも出かけるスーパーの入口から恐ろしく太い植物の蔓のようなものがはみ出している。
そして、それら全ては、まるでこの洋館の場所を知っているかのように、画面の中をじわりじわりと近づいてきつつあった。
それはもう、霧のようにぼやけていない。むしろ、近づくにつれ、はっきりとした輪郭とそれに見合った質量や存在感を加えていく。
「どうする気だ、VAKU」
『瞳』が冷ややかな声で尋ねた。
「これほど『記憶』を実体化させては、お前も無事には済まないはずだ。お前には放出口がない。俺達を葬れても、これだけの『記憶』をお前が処理できるのか」
『瞳』のことばに、すすむが青い顔をより一層青くして項垂れた。何かを悩むように、唇を噛んだまま黙っている。
「確かに俺達は、あの中の数体を消せるだろう。だが、そこまでだ。『記憶』はどんどん漏れて来ている。お前に『記憶』を制する力はない。遠からず、この世界は破滅する」
「VAKU……」
『炎』が静かな声で割って入った。
「もう、無理だ。このままで世界を保てないのはわかっているはず……放出口を手放した時から、こうなることはわかっていたはずだ。なのに、なぜ、手放した」
すすむはなおも無言だ。
画面の中では声こそ聞こえないが、一連の化け物の出現にパニックが起きつつあった。あちらこちらで事故が起こり、逃げ惑う人々が立ちすくむ人々を蹴散らし踏みつけていく。駅の方に火の手が上がり、幼稚園では周囲の建物が園に向かって崩れ落ちた。
「VAKU……」
『炎』は絞るような、傷みを堪えた声音で言った。
「わたしはこれから『記憶』を処理しに出る。『瞳』が言ったように、数体は抑えられる。だが、そこまでだ。それ以上の崩壊は食い止められない。ただ一つの方法を除いては」
「方法があるの?」「嫌だ」
『炎』の訴えに鹿子とすすむのことばが重なった。
お互いに息を呑み、視線を合わせる。
先に逸らせたのは、すすむの方だった。
「何とかする方法があるの? それを知ってるの、すすむ」
鹿子の問いに、すすむは目を上げた。初めて見る、泣き出しそうな目の色だった。
「方法はある……VAKUが放出口を取り戻す事だ」
『炎』が最後の止めをさすように言い放ち、くるりと鹿子達に背中を向けた。
「『瞳』、行こう。もう塔は不要だ」
『瞳』が戸口へ向かう『炎』に従う。
彼らの姿が扉の向こうへ消えるや否や、鹿子とすすむを隔てていた光の網も消えた。ゆらりと危なっかしく揺れたすすむの体を支えて、鹿子はもう一度尋ねた。
「放出口を取り戻すって?」
「……嫌だ」
食い縛った歯の間から、すすむは声を絞り出した。歪めた顔を両手で覆う。
「世界なんか滅びてもいい」
「でも、すすむ!」
鹿子はまだ壁に映され続けている光景を見渡した。
『炎』と『瞳』の姿はすぐにわかった。駅の構内で破壊の限りを尽くしている恐竜達に近寄っていく。
『瞳』の姿が空に舞った。後を追うように『炎』が舞う。二人の影が重なってまばゆい光が画面を圧する。
数瞬で消えた光の中から『瞳』が出て来た、が、左手と右足がない。鹿子がそれを確認する間もなく、別の画面に二人が躍った。
一体『記憶』が消えるごとに、『瞳』の体が失われていった。それを見ながら、次の『記憶』に挑む『炎』の顔が切なく哀しく歪んでいく。
けれども二人は攻撃をやめない。
「すすむ……すすむ……」
鹿子はたまらなくなってきた。
『炎』がつぶやいたあの夜のことば、『瞳』が自分の主であると言ったあのことばに込められた、誇らしげな深い想いが胸に広がる。
大切な相手を傷つけていく、そうしていくしかできない『炎』も、『瞳』の体と一緒に自分を失っていくのが見えた。なのに、『記憶』は一向に減らない、ばかりか、ますます数を増していくようだ。
「すすむ……」
目を閉じ、固く口を結んで、すすむは何かに耐えている。
そのすすむを、必死に覗き込んで、鹿子は訴えた。
「お願い、お願いだから、もし『炎』が言ったように、あたしの中から放出口を取り戻せるなら、そうして。あたしが何かできるなら、何でもするから」
「鹿子……」
すすむが目を開いた。
鹿子を見つめる、その目の暗さが痛いほどだった。
「鹿子……ぼくは……ぼくが……畜生!」
吐くように叫ぶすすむの横顔に、女に囲まれにやついている影はなかった。
か、と画面の一つが今までより明るく激しい光に満ちた。
そちらを振り返った鹿子の目に、『記憶』の蛇に呑まれるように、光の中に溶けていく『炎』と『瞳』の姿が映った。より強い一閃、そして、不意に周囲の壁は光景を失った。
「『炎』………『瞳』……」
それが何を示すのか、気づいて鹿子は呻いた。思わず知らず、責めるようにすすむを振り返る。
その視線を受け止めたすすむは、三度、今度はかなり近くで音が響き、建物が揺れるのに、一瞬目を閉じた。
「鹿子を……殺したくないな」
ぽつりと零れたすすむの声に、いつもの能天気さが戻っていた。
目を開いたすすむは、限りなく優しい声で鹿子に囁きかけた。
「放出口を取り戻す……でも、その時、鹿子はある事を思い出すはずだ。どんな事を思い出しても、いいかい、ぼくが、今まで、ここに居たことを覚えていてね」
「何の…」
尋ね返したかのこの唇に、すすむは慌ただしく唇を重ねた。
まるで、それが何かの呪文でもあったかのように、鹿子はすぐに意識を失った。
暗闇に鹿子は一人立っている。
(真っ暗だあ……)
呟いた声がどことも知れぬ闇に吸い込まれていく。
(やだなあ、気持ち悪いなあ……)
軽く胸を抱いて、自分が浴衣を着ているのに気が付いた。
白地に朝顔が赤や青の花を開いている。くるくる巻いた蔓が鮮やかな緑で描かれていた。
自分の姿に気が付くと、周囲に明かりが灯った。
赤やオレンジの提灯、広場の真ん中には踊りの中心として舞台が設えられ、そこに白いライトが当たっている。そこを少し離れて囲むように、綿菓子やりんご飴などの屋台が出ていた。
(お祭りだあ……夏祭り)
鹿子は、はしゃいで走り出した。
行き交う人々は思い思いの面を被っている。狐の面、おかめの面。提灯の光に面が揺れて、ざわめきが波になる。
ふと、迷子になった、と感じた。
母親と一緒に来たのに、自分一人ではしゃいで、母親とはぐれてしまったのだ。
慌てて周囲を見回して声を上げる。
(お母さん! お母さん!)
きょろきょろうろうろどれぐらい走ったのだろう、ようやく、屋台の端の方、向き合って立つ父母を見つけた。
ほっとして駆け寄っていくと、はっとしたように母が駆け寄り、鹿子を抱き締めた。
(探したの? ごめんね)
謝る鹿子に母は首を振った。鹿子の手を引き、にぎやかな祭りから少し離れた草むらへ歩いていく。
(あれ、お父さんは?)
さっきまでいたね、と言いかけて、鹿子は母に強く手を握られた。無言でぐいぐい自分を引っ張る相手に、少し怖くなって呼びかける。
(お母さん? お母さん……お母さんってば!)
くるっ、と母が振り返った。顔にいつの間にか狐の面を掛けている。
ふざけてないで、と笑いかけた鹿子を、母はいきなり暗がりへ押し倒した。驚く間もあらばこそ、どんと首に両手を置かれ、そのまま強く締められる。
(お……かあ……)
もがいて手を振り、引っ掛かった指先が母の顔の狐の面をはねた。
ぽとりと落ちた面の後ろは般若、ごうごうと逆巻く水音が響く耳元で泣くような声が訴えた。
「お父さんが帰らないのは、お前が懐かないせいだ!」
閃光のように、全ての理解が鹿子の心を走った。
その頃、父はあまり家に帰って来なかった。また、帰って来てもにこりともしない父に、鹿子はどうにもなじめなかった。三歳頃から父親を疎み出し、六歳頃には他人のような気持ちで接していた。
だが、母は父を愛していた。仕事にのめり込む父が家によりつかないことを悩み、それを鹿子のせいだと考えた。
疲れ切り、悩み抜いた母は気分転換に鹿子を祭りに連れていき、そこでよその女と笑い興じている父を見たのだ。
この子さえいなければ。
母はそう思ったのだ。
(あたしが……いなければ……いい?)
重い絶望が、首を締めている手よりも強く、鹿子の胸を押し潰した。伸ばした手が何も掴まず落ちてくるのを、どこか遠く、人ごとのように感じ始めた時、幼い声が耳に届いた。
「どうしたの、おばちゃん」
はっとした鹿子の母が体を起こし、鹿子の首に置いた手を緩める。それでもすぐに呼吸が再開できず、彼女は倒れたまま、本能的な喘ぎを繰り返した。
その時。
鹿子は肉体的なものと精神的なもの、両方の生死を彷徨っていた。
自分は不要な存在なのだ。
幼い心にそれだけははっきりと理解できた。
必死に空気を求める体を心が無理に押さえ込む、もう、生きる必要はないのだ、と。
その呟きを、声の主は聞いたようだった。
次の瞬間、鹿子は強く抱きかかえられていた。小さな手、小さな体全身で包まれて、鹿子は静かな囁きを聞いた。
「違う……キミはいらない人間じゃない。忘れて……忘れるんだ。これはつまらない『記憶』だよ」
だが、鹿子は死へと近づきながら反論した。
母に殺されかけたのだ、どうして忘れていられよう、と。自分を産んだ人に拒否されたことをどうして忘れてしまえるのだ、と。
声はその鹿子の悲鳴をしっかり受け止めた。やはり静かな調子で、
「じゃあ、ぼくが魔法をかけてしまおう……キミはこのことを忘れてしまう………『記憶』が蘇ることもない……ぼくがその『記憶』を食べてしまったから……ぼくはね……」
声がくすりと低く笑った。
「バク……だからね」
(バク……ばく……VAKU!)
不意に鹿子は我に返った。
再び暗闇に一人、立っている。
(あたし………?)
鹿子は蘇った『記憶』を抱えて立ちすくんだ。
鹿子は母親に殺されかけたのだった。父親に疎まれていたのだった。
その事実を突きつけられ、鹿子は自分の中の何かが、あの時のように再び危うくなっていくのを感じた。
(あたし……生きていちゃいけなかったの?)
あの声は、すすむ、だったのだ。
あの夜、そう、おそらくあの夏祭り、すすむはたまたま通りかかったのだろう。
六歳の彼は、既に自分のVAKUとしての力に気づいていた。
女が子どもの首を絞めている、その光景にたじろぐことがなかったのも、いろいろな『記憶』を吸い込んでいたせいかも知れない。
ただ、あの時、すすむは、それまでの傍観者でいる立場を捨てて、なぜか鹿子を助けたのだ。
すすむは鹿子の『記憶』を封じた。封じるために自分の放出口を与え、鹿子の『記憶』をもっと穏やかで平凡なものとすり替えた。
鹿子は目を閉じた。
光景がゆっくり巡る。
女達に囲まれるすすむ。
浮気性で、そのくせ鹿子から離れないすすむ。離れないのではなく、離れられなかったのだ。
鹿子との接触を失えば、自分も世界も崩壊する。
かと言って、鹿子から放出口を取り戻せば、今ほど覚悟を決めていなかった頃の彼女なら、これほどのショックに耐え切れず、その時点で狂っていたかも知れない。
(あたしの……ため…? あたしがすすむを追い詰めてた? あたしがすすむを……苦しめてたんだ……ずっと昔に……お母さんを苦しめたみたいに……)
鹿子の心が二重の罪悪感に呻いた。
光の中を走る『炎』の姿が蘇る。
自分を全うすることで、大切な人を殺していく。
そういう星の下に産まれた存在が確かにある……強いて言えば、今の鹿子だ。鹿子が何も知らずにのんびり暮らしていた裏で、すすむは人知れず苦しんでいたのかも知れない、浮気男、と罵倒されながら。
青い、青いすすむの顔が脳裏に浮かんだ。苦しそうな、辛そうな顔。
放出口を取り戻したことで、すすむは別の意味で苦しむかも知れない。鹿子を見捨てたと苦しむかも知れない。鹿子が居ても居なくても、すすむは苦しんでしまう。
(なら……本当に……いない方がいいのかも……知れない…なあ)
鹿子は悲しく笑った。
本当なら、六歳のあの夜に尽きていた命だったのだ。
何もかもを諦めようとした鹿子の心に、その時、一つの声が響いた。
『放出口を取り戻す……でも、その時、鹿子はある事を思い出すはずだ。どんな事を思い出しても、いいかい、ぼくが、今まで、ここに居たことを覚えていてね』
すすむの声。優しく、限りなく優しく囁かれた声。
突然、鹿子の体一杯に、違う『記憶』が溢れた。
悪夢を溜めながら、どうしてすすむは放出口を取り戻さなかったのか。
ーー『世界なんて滅びてもいい』ーー
あの『記憶』の破壊が始まった時、すすむはなぜ、鹿子から放出口を取り戻すことを渋ったのか。
ーー『嫌だ』ーー
そもそも、なぜ、放出口を与えたりしたのか、死にかけている少女一人に。
鹿子、と遠い所ですすむが呼んだ気がした。
行くな、鹿子、と。
なぜ、助けたか、わからない?
なぜ、あえて『記憶』を溜めることを選んだのか、本当にわからないのか、鹿子……。
鹿子は微かに心を震わせた。
(信じて…いい……?)
どこへともなく問いかける。
(あんたが……待ってるって……あたしが……帰るのを……)
鹿子は目を閉じ、息を詰めた。体の中に『記憶』を抱きかかえる。
(そうだ、もう一つ、方法がある。あたしが生きていて、それでもすすむを苦しめない方法……あたしがこの『記憶』を、自分で処理してしまばいいんだ。そう……これは、あたしの、もの)
傷みと苦しみに満ちた六歳の『記憶』。しっかり抱いて、それでも揺らぐことなく、未来を見て、今も捨てないで。
鹿子は大きく息を吸った。
心の中で宣言する。
(もう、大丈夫。あれは、六歳の時。もう乗り越えられる)
鹿子……。
遠い声が、また、呼んだ。
(今、行く)
鹿子は水の表面に昇る泡のように、闇の中を明るい方へ浮き上がっていった。
『瞳』の力に翻弄されていたすすむがふわりと塔の中で回り、ゆらゆら水底に沈むように下の方に降りてくる。
それに気づいて、鹿子は『炎』と『瞳』の間を駆け抜け、光の塔に身を寄せた。
「すすむ……すすむ……大丈夫?」
心配は隠す余裕がなくて声に溢れた。
光の網の向こう、覗き込む鹿子に向かって、崩れるように座り込んでいたすすむが両手を支えにして這い寄ってくる。
いつかの夜の『炎』と『瞳』のように、光を挟んで、鹿子とすすむは向かい合った。
「鹿子……」
いつものすすむとは全く違った深い響きの声が鹿子を呼んだ。
「大丈夫か? 何もされなかったか? ……何も思い出さなかったな?」
大丈夫、と答えかけて、鹿子は気づいた。すすむの目を見つめ返し、ゆっくりと尋ねる。
「思い出さなかった、って……すすむ、あたしが小さい頃の記憶がないってこと、どうして知ってるの?」
すう、とすすむの顔が青ざめた。唇を噛む、その仕草が小刻みに震えている。
どぅん。
また、遠くで音がして、部屋が揺れた。
「『瞳』!」
「ああ」
『炎』に命じられるまでもなく、『瞳』は手を振って、周囲の壁に細工を施したらしい。
見る見る透き通っていく壁に、四方の光景が浮かんだ。
思わずそちらを見た鹿子の口から、小さな叫びが上がる。
それもそのはず、壁に映し出された風景は、鹿子のよく知っている場所でありながらそうではない、奇妙なものに覆われつつあったのだ。
駅の方、商店街が並ぶ通りに大きく立ち上がったあの夜の恐竜。すすむのマンション近くの道路を縦断していく巨大な蛇の影。鹿子の家からさほど離れていない幼稚園の園庭にはぬらぬらと皮膚を光らせた爬虫類が横たわり、いつも出かけるスーパーの入口から恐ろしく太い植物の蔓のようなものがはみ出している。
そして、それら全ては、まるでこの洋館の場所を知っているかのように、画面の中をじわりじわりと近づいてきつつあった。
それはもう、霧のようにぼやけていない。むしろ、近づくにつれ、はっきりとした輪郭とそれに見合った質量や存在感を加えていく。
「どうする気だ、VAKU」
『瞳』が冷ややかな声で尋ねた。
「これほど『記憶』を実体化させては、お前も無事には済まないはずだ。お前には放出口がない。俺達を葬れても、これだけの『記憶』をお前が処理できるのか」
『瞳』のことばに、すすむが青い顔をより一層青くして項垂れた。何かを悩むように、唇を噛んだまま黙っている。
「確かに俺達は、あの中の数体を消せるだろう。だが、そこまでだ。『記憶』はどんどん漏れて来ている。お前に『記憶』を制する力はない。遠からず、この世界は破滅する」
「VAKU……」
『炎』が静かな声で割って入った。
「もう、無理だ。このままで世界を保てないのはわかっているはず……放出口を手放した時から、こうなることはわかっていたはずだ。なのに、なぜ、手放した」
すすむはなおも無言だ。
画面の中では声こそ聞こえないが、一連の化け物の出現にパニックが起きつつあった。あちらこちらで事故が起こり、逃げ惑う人々が立ちすくむ人々を蹴散らし踏みつけていく。駅の方に火の手が上がり、幼稚園では周囲の建物が園に向かって崩れ落ちた。
「VAKU……」
『炎』は絞るような、傷みを堪えた声音で言った。
「わたしはこれから『記憶』を処理しに出る。『瞳』が言ったように、数体は抑えられる。だが、そこまでだ。それ以上の崩壊は食い止められない。ただ一つの方法を除いては」
「方法があるの?」「嫌だ」
『炎』の訴えに鹿子とすすむのことばが重なった。
お互いに息を呑み、視線を合わせる。
先に逸らせたのは、すすむの方だった。
「何とかする方法があるの? それを知ってるの、すすむ」
鹿子の問いに、すすむは目を上げた。初めて見る、泣き出しそうな目の色だった。
「方法はある……VAKUが放出口を取り戻す事だ」
『炎』が最後の止めをさすように言い放ち、くるりと鹿子達に背中を向けた。
「『瞳』、行こう。もう塔は不要だ」
『瞳』が戸口へ向かう『炎』に従う。
彼らの姿が扉の向こうへ消えるや否や、鹿子とすすむを隔てていた光の網も消えた。ゆらりと危なっかしく揺れたすすむの体を支えて、鹿子はもう一度尋ねた。
「放出口を取り戻すって?」
「……嫌だ」
食い縛った歯の間から、すすむは声を絞り出した。歪めた顔を両手で覆う。
「世界なんか滅びてもいい」
「でも、すすむ!」
鹿子はまだ壁に映され続けている光景を見渡した。
『炎』と『瞳』の姿はすぐにわかった。駅の構内で破壊の限りを尽くしている恐竜達に近寄っていく。
『瞳』の姿が空に舞った。後を追うように『炎』が舞う。二人の影が重なってまばゆい光が画面を圧する。
数瞬で消えた光の中から『瞳』が出て来た、が、左手と右足がない。鹿子がそれを確認する間もなく、別の画面に二人が躍った。
一体『記憶』が消えるごとに、『瞳』の体が失われていった。それを見ながら、次の『記憶』に挑む『炎』の顔が切なく哀しく歪んでいく。
けれども二人は攻撃をやめない。
「すすむ……すすむ……」
鹿子はたまらなくなってきた。
『炎』がつぶやいたあの夜のことば、『瞳』が自分の主であると言ったあのことばに込められた、誇らしげな深い想いが胸に広がる。
大切な相手を傷つけていく、そうしていくしかできない『炎』も、『瞳』の体と一緒に自分を失っていくのが見えた。なのに、『記憶』は一向に減らない、ばかりか、ますます数を増していくようだ。
「すすむ……」
目を閉じ、固く口を結んで、すすむは何かに耐えている。
そのすすむを、必死に覗き込んで、鹿子は訴えた。
「お願い、お願いだから、もし『炎』が言ったように、あたしの中から放出口を取り戻せるなら、そうして。あたしが何かできるなら、何でもするから」
「鹿子……」
すすむが目を開いた。
鹿子を見つめる、その目の暗さが痛いほどだった。
「鹿子……ぼくは……ぼくが……畜生!」
吐くように叫ぶすすむの横顔に、女に囲まれにやついている影はなかった。
か、と画面の一つが今までより明るく激しい光に満ちた。
そちらを振り返った鹿子の目に、『記憶』の蛇に呑まれるように、光の中に溶けていく『炎』と『瞳』の姿が映った。より強い一閃、そして、不意に周囲の壁は光景を失った。
「『炎』………『瞳』……」
それが何を示すのか、気づいて鹿子は呻いた。思わず知らず、責めるようにすすむを振り返る。
その視線を受け止めたすすむは、三度、今度はかなり近くで音が響き、建物が揺れるのに、一瞬目を閉じた。
「鹿子を……殺したくないな」
ぽつりと零れたすすむの声に、いつもの能天気さが戻っていた。
目を開いたすすむは、限りなく優しい声で鹿子に囁きかけた。
「放出口を取り戻す……でも、その時、鹿子はある事を思い出すはずだ。どんな事を思い出しても、いいかい、ぼくが、今まで、ここに居たことを覚えていてね」
「何の…」
尋ね返したかのこの唇に、すすむは慌ただしく唇を重ねた。
まるで、それが何かの呪文でもあったかのように、鹿子はすぐに意識を失った。
暗闇に鹿子は一人立っている。
(真っ暗だあ……)
呟いた声がどことも知れぬ闇に吸い込まれていく。
(やだなあ、気持ち悪いなあ……)
軽く胸を抱いて、自分が浴衣を着ているのに気が付いた。
白地に朝顔が赤や青の花を開いている。くるくる巻いた蔓が鮮やかな緑で描かれていた。
自分の姿に気が付くと、周囲に明かりが灯った。
赤やオレンジの提灯、広場の真ん中には踊りの中心として舞台が設えられ、そこに白いライトが当たっている。そこを少し離れて囲むように、綿菓子やりんご飴などの屋台が出ていた。
(お祭りだあ……夏祭り)
鹿子は、はしゃいで走り出した。
行き交う人々は思い思いの面を被っている。狐の面、おかめの面。提灯の光に面が揺れて、ざわめきが波になる。
ふと、迷子になった、と感じた。
母親と一緒に来たのに、自分一人ではしゃいで、母親とはぐれてしまったのだ。
慌てて周囲を見回して声を上げる。
(お母さん! お母さん!)
きょろきょろうろうろどれぐらい走ったのだろう、ようやく、屋台の端の方、向き合って立つ父母を見つけた。
ほっとして駆け寄っていくと、はっとしたように母が駆け寄り、鹿子を抱き締めた。
(探したの? ごめんね)
謝る鹿子に母は首を振った。鹿子の手を引き、にぎやかな祭りから少し離れた草むらへ歩いていく。
(あれ、お父さんは?)
さっきまでいたね、と言いかけて、鹿子は母に強く手を握られた。無言でぐいぐい自分を引っ張る相手に、少し怖くなって呼びかける。
(お母さん? お母さん……お母さんってば!)
くるっ、と母が振り返った。顔にいつの間にか狐の面を掛けている。
ふざけてないで、と笑いかけた鹿子を、母はいきなり暗がりへ押し倒した。驚く間もあらばこそ、どんと首に両手を置かれ、そのまま強く締められる。
(お……かあ……)
もがいて手を振り、引っ掛かった指先が母の顔の狐の面をはねた。
ぽとりと落ちた面の後ろは般若、ごうごうと逆巻く水音が響く耳元で泣くような声が訴えた。
「お父さんが帰らないのは、お前が懐かないせいだ!」
閃光のように、全ての理解が鹿子の心を走った。
その頃、父はあまり家に帰って来なかった。また、帰って来てもにこりともしない父に、鹿子はどうにもなじめなかった。三歳頃から父親を疎み出し、六歳頃には他人のような気持ちで接していた。
だが、母は父を愛していた。仕事にのめり込む父が家によりつかないことを悩み、それを鹿子のせいだと考えた。
疲れ切り、悩み抜いた母は気分転換に鹿子を祭りに連れていき、そこでよその女と笑い興じている父を見たのだ。
この子さえいなければ。
母はそう思ったのだ。
(あたしが……いなければ……いい?)
重い絶望が、首を締めている手よりも強く、鹿子の胸を押し潰した。伸ばした手が何も掴まず落ちてくるのを、どこか遠く、人ごとのように感じ始めた時、幼い声が耳に届いた。
「どうしたの、おばちゃん」
はっとした鹿子の母が体を起こし、鹿子の首に置いた手を緩める。それでもすぐに呼吸が再開できず、彼女は倒れたまま、本能的な喘ぎを繰り返した。
その時。
鹿子は肉体的なものと精神的なもの、両方の生死を彷徨っていた。
自分は不要な存在なのだ。
幼い心にそれだけははっきりと理解できた。
必死に空気を求める体を心が無理に押さえ込む、もう、生きる必要はないのだ、と。
その呟きを、声の主は聞いたようだった。
次の瞬間、鹿子は強く抱きかかえられていた。小さな手、小さな体全身で包まれて、鹿子は静かな囁きを聞いた。
「違う……キミはいらない人間じゃない。忘れて……忘れるんだ。これはつまらない『記憶』だよ」
だが、鹿子は死へと近づきながら反論した。
母に殺されかけたのだ、どうして忘れていられよう、と。自分を産んだ人に拒否されたことをどうして忘れてしまえるのだ、と。
声はその鹿子の悲鳴をしっかり受け止めた。やはり静かな調子で、
「じゃあ、ぼくが魔法をかけてしまおう……キミはこのことを忘れてしまう………『記憶』が蘇ることもない……ぼくがその『記憶』を食べてしまったから……ぼくはね……」
声がくすりと低く笑った。
「バク……だからね」
(バク……ばく……VAKU!)
不意に鹿子は我に返った。
再び暗闇に一人、立っている。
(あたし………?)
鹿子は蘇った『記憶』を抱えて立ちすくんだ。
鹿子は母親に殺されかけたのだった。父親に疎まれていたのだった。
その事実を突きつけられ、鹿子は自分の中の何かが、あの時のように再び危うくなっていくのを感じた。
(あたし……生きていちゃいけなかったの?)
あの声は、すすむ、だったのだ。
あの夜、そう、おそらくあの夏祭り、すすむはたまたま通りかかったのだろう。
六歳の彼は、既に自分のVAKUとしての力に気づいていた。
女が子どもの首を絞めている、その光景にたじろぐことがなかったのも、いろいろな『記憶』を吸い込んでいたせいかも知れない。
ただ、あの時、すすむは、それまでの傍観者でいる立場を捨てて、なぜか鹿子を助けたのだ。
すすむは鹿子の『記憶』を封じた。封じるために自分の放出口を与え、鹿子の『記憶』をもっと穏やかで平凡なものとすり替えた。
鹿子は目を閉じた。
光景がゆっくり巡る。
女達に囲まれるすすむ。
浮気性で、そのくせ鹿子から離れないすすむ。離れないのではなく、離れられなかったのだ。
鹿子との接触を失えば、自分も世界も崩壊する。
かと言って、鹿子から放出口を取り戻せば、今ほど覚悟を決めていなかった頃の彼女なら、これほどのショックに耐え切れず、その時点で狂っていたかも知れない。
(あたしの……ため…? あたしがすすむを追い詰めてた? あたしがすすむを……苦しめてたんだ……ずっと昔に……お母さんを苦しめたみたいに……)
鹿子の心が二重の罪悪感に呻いた。
光の中を走る『炎』の姿が蘇る。
自分を全うすることで、大切な人を殺していく。
そういう星の下に産まれた存在が確かにある……強いて言えば、今の鹿子だ。鹿子が何も知らずにのんびり暮らしていた裏で、すすむは人知れず苦しんでいたのかも知れない、浮気男、と罵倒されながら。
青い、青いすすむの顔が脳裏に浮かんだ。苦しそうな、辛そうな顔。
放出口を取り戻したことで、すすむは別の意味で苦しむかも知れない。鹿子を見捨てたと苦しむかも知れない。鹿子が居ても居なくても、すすむは苦しんでしまう。
(なら……本当に……いない方がいいのかも……知れない…なあ)
鹿子は悲しく笑った。
本当なら、六歳のあの夜に尽きていた命だったのだ。
何もかもを諦めようとした鹿子の心に、その時、一つの声が響いた。
『放出口を取り戻す……でも、その時、鹿子はある事を思い出すはずだ。どんな事を思い出しても、いいかい、ぼくが、今まで、ここに居たことを覚えていてね』
すすむの声。優しく、限りなく優しく囁かれた声。
突然、鹿子の体一杯に、違う『記憶』が溢れた。
悪夢を溜めながら、どうしてすすむは放出口を取り戻さなかったのか。
ーー『世界なんて滅びてもいい』ーー
あの『記憶』の破壊が始まった時、すすむはなぜ、鹿子から放出口を取り戻すことを渋ったのか。
ーー『嫌だ』ーー
そもそも、なぜ、放出口を与えたりしたのか、死にかけている少女一人に。
鹿子、と遠い所ですすむが呼んだ気がした。
行くな、鹿子、と。
なぜ、助けたか、わからない?
なぜ、あえて『記憶』を溜めることを選んだのか、本当にわからないのか、鹿子……。
鹿子は微かに心を震わせた。
(信じて…いい……?)
どこへともなく問いかける。
(あんたが……待ってるって……あたしが……帰るのを……)
鹿子は目を閉じ、息を詰めた。体の中に『記憶』を抱きかかえる。
(そうだ、もう一つ、方法がある。あたしが生きていて、それでもすすむを苦しめない方法……あたしがこの『記憶』を、自分で処理してしまばいいんだ。そう……これは、あたしの、もの)
傷みと苦しみに満ちた六歳の『記憶』。しっかり抱いて、それでも揺らぐことなく、未来を見て、今も捨てないで。
鹿子は大きく息を吸った。
心の中で宣言する。
(もう、大丈夫。あれは、六歳の時。もう乗り越えられる)
鹿子……。
遠い声が、また、呼んだ。
(今、行く)
鹿子は水の表面に昇る泡のように、闇の中を明るい方へ浮き上がっていった。
0
あなたにおすすめの小説
雪嶺後宮と、狼王の花嫁
由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。
巫女として献上された少女セツナは、
封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。
人と妖、政と信仰の狭間で、
彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。
雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません
由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。
「感情は不要。契約が終われば離縁だ」
そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。
やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。
契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。
後宮薬師は名を持たない
由香
キャラ文芸
後宮で怪異を診る薬師・玉玲は、母が禁薬により処刑された過去を持つ。
帝と皇子に迫る“鬼”の気配、母の遺した禁薬、鬼神の青年・玄曜との出会い。
救いと犠牲の狭間で、玉玲は母が選ばなかった選択を重ねていく。
後宮が燃え、名を失ってもなお――
彼女は薬師として、人として、生きる道を選ぶ。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる