『ラズーン』第四部

segakiyui

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1.カザドの胎動(1)

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 日差しは燦々と降り注いでいる。
 一年中穏やかな気候を保つ小国、セレドの皇宮の中庭にも、その金の光は惜しみなく降って、あたりの何もかもを見る者の目を痛くしそうな眩さに照り輝かせている。鮮やかな緑、澄んで高い空へ、今しも鳴き鳥(メール)がついと飛び立っていった。
「ふ…」
 その姿を、窓辺近くに引き寄せた椅子に座って目で追ったレアナは、微かな溜め息をついて、再び中庭へと視線を戻した。
『だって…』
 耳元に、記憶の中からユーノの声が聞こえて来る。
『だって、姉さま…』
 レアナは思い出すともなく、そのことばにまつわる思い出の中へ入り込んでいく。

「ユーノ!」
「だって、姉さま…」
 レアナにあっさり背中を向け、あっという間にどこかへ駆け出していきそうな妹は、呼び止めるとちょっとむくれたように、部屋から飛び出したところで振り返った。
「前から言ってるじゃない。私、そういうピラピラしたのって嫌いなんだから」
 如何にも不服そうに唇を尖らせる。
「でも、ユーノ」
 レアナは手にしたドレスに目を落とし、再びユーノを見返した。
「あなただってセレドの第二皇女なのよ。そんな、いつまでも子どものようなことを言ってないで、ちゃんと正装してお客様をお迎えしなきゃ…」
「客って、カザドの奴らじゃないか」
 眩い日差しを浴びるユーノの目が、ぎらっと猛々しい光を宿した。
「姉さまに変な色目を使いに来てる奴らに、媚びる気なんかないよ」
 冷ややかな侮蔑のことば、怒りを含ませて舌鋒は鋭い。
「ユーノ!」
 レアナは少し声を厳しくして窘めた。
「どんな人であれ、セレドに使者として来られた以上は客です」
「…わかった。出ればいいんだろ、出れば」
 ぐ、と詰まった顔になったユーノは不承不承頷いた。それでも納得しかねているのだろう、膨れ顔で横を向き、テラスにもたれる。
(いつからかしら)
 このすぐ下の妹が、こんなふうに荒々しく振舞うようになったのは?
 レアナは困惑しながら近づいた。
「ユーノ、あなた、変わったわね」
「え?」
 ぎくっとしたようにユーノが振り返る。相手の黒い瞳が何か怯えたような色をたたえている。
(ユーノ?)
 レアナは不審を抱いた。
「変わったって……何が?」
「……時折、ひどくぴりぴりしている時があるわ」
「…」
 口を噤んだユーノの顔に、複雑な色が過ったように見えた。怒りとも戸惑いとも、切なささえも内包したような『それ』が何か確かめたくて、レアナはことばを重ねる。
「前はそこまで、カザドを嫌っていなかったでしょう?」
「……」
 横を向いたままのユーノは応えない。けれどもその目は、どれほど望んでも得られない何かを思い返しているように、ふいに虚ろに光を失う。
(これは何だろう)
 もし役者がこのような仕草をするなら、レアナはそこに『絶望』を表現しているととるだろう。けれど、ユーノが、セレドの第二皇女が、レアナの妹が、そんなものを内に抱えるなんて、想像もできない。
 自分の不安を押し殺そうとして、レアナは続ける。
「カザドの人間全てが、カザディノのように欲望しか持たないわけじゃないわ」
「でも、姉さま! …っ」
 とっさに振り返って叫び、自分を凝視しているレアナの視線にたじろいだように、ユーノは再び口を噤んだ。
「何?」
 尋ね返すレアナを見つめるユーノの顔が奇妙に強張っている。表情という表情がするりと抜け落ちてしまったようだ。少女というには険しい顔立ちが、世にも寂しげなものになった次の一瞬、ふいにユーノは笑った。
「何でもないよ」
「え?」
「何でもないって」
 にこりと笑う、けれどその笑みはまるで人形のようだ。
「ユーノ?」
 レアナは妹の心を占めている、不安とも哀しみとも恐れともつかぬものを感じ取った。少し眉をひそめる、そんな不安定なものをどうしてユーノが抱えているのか、ますますわからなくなって。
 それに気づいたように、ユーノがにっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「とにかく、私は、そういうのに興味ないの。姉さまの心配するようなことじゃないよ」
「そう…でも」
(あなたぐらいの年頃、私はどれほど綺麗なものを手にするかに夢中になったものだけど)
 そのことばをかろうじて呑み込んで、レアナはそれでもユーノの目から影が消えないのが気になって、そっとユーノの肩に手を置いた。
「ユーノ……何か心配事があるなら、私に話してちょうだいね」
「……」
「私達、姉妹でしょう?」
「……姉、さま…」
 のろのろとユーノは顔を上げた。今まで光を受けていなかった瞳がわずかに明るんで、濡れているように見えた。が、それを悟られるのを恐れたように、ユーノはすぐに顔を伏せ、とん、と軽く頭だけをレアナの胸にもたせかけた。左手はテラスに、右手は後ろへ回したままだ。
「ユーノ?」
「……何でもないよ……姉さまが心配することじゃないから」
「ユーノ…?」 
 何かひどく頼りなくて、思わず抱き締めようとしたレアナの腕を擦り抜け、ユーノは片目をつぶってみせた。
「じゃ、ね。父さま達にはうまく言っといて!」
「ユーノ!…きゃっ」
 振り向くレアナの目の前で、ユーノはテラスから身を躍らせた。慌てて駆け寄るレアナの目の前、レノに跨がり、鋭い掛け声をかけて走り去って行く姿があった。
「ユーノ…」
 一陣の風がユーノを追い、見送るレアナの髪を乱れさせた。

(もう、あの子が皇宮を出て一年近くなるのね)
 レアナは再び、眩く光る中庭の緑に意識を戻した。
 皇宮の中の活気は、ユーノ一人で保っていたようなもの、レアナは最近そう思う。彼女がセレドを出てから、心なしか、皇宮のそこここに妙に不安を呼び起こすような影の気配を感じるようになった。
(国境でも諍いがあったと聞く)
 皇宮の周囲を、これまで見たこともない怪しげな風体のものがうろついていたという噂も聞かれる。
(何かが変わってきているのかしら。でも…何が?)
 セレドは小国とはいえ、二百年の長き世に渡って平和を保ってきた。小さな戦がなくもなかったが、大抵は皇宮まで届くことのない国の端の戦、それらもこの頃はもう、昔語りの中のみにある、物語の一つと思われつつあった。
 だが、ユーノが国を出てから、それらの昔語りはふいに生き生きとした精彩を帯びて甦りつつあるように思われる。
 そして、その昔語りの宿す暗い影は、かつてユーノの目に読み取った影と、どこか似ているように思えて仕方がない。
(今頃、どうしているのかしら、あの子…)
 レアナの想いは、またもや愛しい妹、ユーノのことに戻った。
 セアラの勝ち気さとも、単なる強がりとも違う、揺らぐことのない強さ。
 それは実は密かにレアナの憧れでもあった。
(いつも強くて、激しくて、明るくて、決断力があって)
 そのどれも自分にはないもの、だからといって妬ましさなど微塵もない。それどころか、ユーノが自分の妹であることは、レアナにとって誇りだ。
(頑張り過ぎて体を壊してやしないかしら。突っ走って危険な目にあってやしないかしら)
 時に眠れぬ夜には、レアナは床に跪き、ラズーンの神に敬虔な祈りを捧げた。
 ラズーン。
 それは何と遥かな、そして不可思議な威圧感を持つ存在だろう。
 世界の果てにあり、性を持たぬ神々が住まい、この広大な世界をあまねく支配する統合府、ラズーン。
 昔語りの創世の詩が、今もなお息づく伝説の都、ラズーン。
「昔、戦ありけり…」
 レアナは柔らかい声で暗誦し始めた。
「大いなる戦なり
 天と地は揺れ
 悲しみに人々は伏し
 世は闇の支配するところとなりけり

 一つの星現れぬ
 それこそ救いの星
 白く輝くラズーンの神の星なり

 かくして
 世は再び人の営みを始め
 闇は光に仕えけり……」


「セアラ様!」
 皇宮を少し離れた、緑深い森の近くに立って、じっと足下を見つめていた少女は、背後からの声に振り返った。
 姉君のレアナ様によく似ているが勝ち気そうに見える目、いささか傲慢にも感じる強い意志力を感じさせる口許、生まれながらの皇族とはまさしくセアラ様のこと、とは口さがない民草の噂だ。それを十分に知っているし、負担とも思わない。皇族であることの第一義は優しさ柔らかさではなく、危機の時に判断を怯まないことだと常々思っている。
 今しも、その危機が、足下に広がっているのにセアラは表情を険しくする。
「セアラ様!」
「シィグト」
 再び呼ばれてようやく顔を上げ、馬を駆り立てて追ってきた、今年十八になったばかりの相手に少し笑みを浮かべた。少年はセアラの側近くまで馬を進め、飛び降りて膝を突いた。余程急いでやってきたのだろう、僅かに肩を上下させている。
「ここにおられましたか」
「何の用?」
「いえ…急にお姿が見えなくなったというので、皇妃さまがご心配なされて」
「母さまらしいわね」
 くす、とセアラは小さく笑い声を漏らした。
「ユーノ姉さまなら、わざわざ探させたりはしなかったのに」
「ユーノ様は剣の腕もおありになるし、それにあなたは何と言っても一番お小さい姫君ですし…」
「シィグト」
「はい?」
「あんたって、子どもね」
「…」
 セアラはちらっと横目を遣って、むっとした表情になるシィグトを見た。
「女の子のことなんて、ちっともわかってないのよ。そうよ……ユーノ姉さまがどんな想いで…」
 その後は口を噤んで、セアラは目を遠く彷徨わせた。
「言わせて頂きますが、セアラ様」
 シィグトはやや皮肉っぽい口調で続けた。
「ユーノ様は、親衛隊の誰よりも腕がおたちでしたし、事実、我らの誰一人としてあの方に勝てた試しはなかったのですよ。巷では、ユーノ様は剣と戦の女神の守りを受けておいでだと噂されておりましたし、今、名高き『星の剣士』(ニスフェル)とて、あの方に勝てるかどうか…」
「だからね」
 セアラはまたもや、くすりと大人びた笑いを漏らした。
「あんたは子どもだって言うのよ、シィグト。ほんとにわかってないんだから」
「さらに、失礼を承知で言わせて頂きますが! 私はあなたより年上です!」
「たった、数歳、ね」
 セアラは一言でシィグトの口を塞いだ。
「それより、これを見てごらんなさい、シィグト」
「え?」
 シィグトはセアラの指差したものを見つめ、はっとしたように顔を強張らせた。それは間違いなく何者かの夜営の跡、燃え残りの木に灰を被せ、繰り返し踏みつけるやり方は、カザドの風習の一つ、樹霊の復活を防ぐ呪だ。
「カザドの…」
「そうね」
 セアラは顔をくるりと皇宮の方に向けた。夜営跡からはもう間近、石造りながら、温かそうに陽を浴び、華美ではなくてむしろ素朴な建物は、細やかに手入れが行き届いており、その内に住む人々への尊敬と愛情が伝わってくる。
「皇宮を目の前に、どうしてカザドがこんなところで夜営をする必要があったのかしらね」
 セアラは目を細めた。着ている淡い色のドレスには不似合いな、猛々しい顔をしているのだろうと思いながら、ぼそりと呟く。
「襲うのでもなく、訪ねるのでもなく」
「考えすぎではないのですか?」
 シィグトは温和な表情で首を傾げた。
「考え過ぎ? 冗談はよしてよ、シィグト」
 軽蔑を響かせて、セアラは応じる。
「カザドが私達を『見守る』ために夜営をし、その上にプガロを連れて来たって言うの?」
「プガロ?!」
 ぎょっとした顔でシィグトがセアラを見返す。
 無言でセアラは焚き火跡近くの地面を指差した。
 そこには三本の指と爪がある足跡が入り乱れている。どうやら六本が一組らしく、不思議な紋様を灰の上に残していた。
「……確かに…太古生物のプガロのようですが…」
「噛まれれば、毒素が体に入り、全身が腐敗する…」
 ぞくりとしてセアラは口を噤み、すぐに怯えた自分を叱咤するように早口で続けた。
「プガロを連れて来て、何もせずに帰ったのはどうしてだと思う、シィグト」
「…まさか!」
 シィグトはやっとカザドの意図に思い当たったようだ。
「皇族の方々を狙って」
「それ以外に何があるって言うの」
 セアラは軽く肩を竦めた。
「なのに、そうしていない……こっちの方が妙よ」
 唇を引き締め、じっと夜営の跡を見つめる。
「嫌な予感がするわ」
「……」
 ことばもなくセアラの視線を追ったシィグトの目の前で、一際強い風が吹き寄せ、夜営の灰を散らしていった。


 カザドの夜営の灰を散らせた風は、急ぎ足に国境までやってきていた。
 セレドは盆地型の地形になっており、レクスファの方向に草原となって開いているものの、その他の国とは、ほとんど丘と呼んでもいいような低い山を境として接している。
 風は行き場を失ったようにくるくると舞い、やがて緑豊かな低い丘と丘の間の道を歩く眼光鋭い男達を見つけ、その体へ吹き下ろしていった。
 男達は年中穏やかに暖かいセレドには不似合いな、黒いフードつきのマントを羽織っていた。四、五人の小集団、旅人にしては互いに話す様子もなく、黙々と道行きをこなしていく。風に翻るマントの下は、黒光りする金属の片々を繋ぎあわせた鎖帷子、知っている者が見れば、すぐにそれとわかるカザドの兵装だ。
 男達は、影のような忍びやかさで歩み続け、やがてセレドとカザドの国境にたどり着いた。
 一人の男が歩を止め、今しがた抜けて来た道を、遥か後方となったセレド皇宮を振り返る。促されたわけでもないのに、残りの兵も同じように背後をのっそりと振り返った。
「美しい国だな」
 始めに振り返った男が低く呟いた。くくっ、くっくっく、と回りの男達の唇から押し殺した笑い声が漏れる。
「なあに」
 一人が錆び付いた武器が擦れあうような声音で応じた。
「すぐに廃墟と化すさ、我らの支配を受けぬ限りは、な」
 男の目は、ことばの鋭さとは裏腹にどんよりと濁っている。見ようによっては、既に死を迎えた者の目と見えないこともない。視察官(オペ)ならば、その背後に禍々しい暗闇、『運命(リマイン)』の気配を読み取って身構えただろう。
「違いない」
 くつくつと、呟いた男が喉の奥で嗤った。
「さあ、急がねばな」
 他の一人がふわりとマントを翻す。
「少々愚かであろうとも、主は主、カザディノが待っているぞ」
「……」
 残りの者は無言で向きを変え、再び沈黙したまま歩き始めた。
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