『ラズーン』第四部

segakiyui

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1.カザドの胎動(2)

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「あ…」
 掠れた声が呻いて、垂れ幕に囲まれた寝床で、白く伸びた指先が掛け物を掴んだ。引き千切るように握りしめ、身悶えして引き寄せる。噛んだ唇には紅が滲み、背けた頬は両方とも異様に赤かった。零れ落ちた涙が次々と、殴られ続けた頬を伝って、体の下の幾重にも派手な織りを重ねた布にしみ込んでいく。
 まだ大人になりきっていない少女だ。悲鳴を噛み殺しながら、加えられている暴力に必死に耐えている。が、突然、小さな声を上げ、かっと見開いた目で虚空を睨み、全身を大きく痙攣させた。足掻くようにもがくように、空中へ差し上げた手が空しく闇を掻き、それもすぐに力尽きてぱたりと落ちる。
「ちっ」
 鈍い舌打ちが少女の上から響き、ごそごそと人が動くがした。
「もう効いたのか」
 苦々しげに唸りながら、薄絹の垂れ幕を払いのけて寝床から出てきたのは、五十前後のでっぷりと太った男だ。幾重にも肉が重なった顎、女性のように垂れた乳房、ゆさゆさと揺れるほど贅肉のついた手足。裸の体をじっとりと汗に光らせ、突き出た腹も重そうに数歩進むと、ゆっくりと豪奢な寝床を振り返る。
 少女の目はもう何も見ていなかった。うっすらと膜がかかったような虚ろな瞳には、死者の持つけだるげな色が満ちている。柔らかく開き、かつて数々の詩を歌って聞かせた唇は、苦痛に噛み切って流した血と、今しも体内に巡った恐ろしい毒素のために吐いた血で、鮮やかな真紅に染まっている。
「ふん」
 男はその光景に微かに笑んだが、すぐに苛々した落ち着かない声を張り上げた。
「ルソン! デム・ルソン!」
 傍若無人な遠慮のない呼び立てに、寝静まっていた城内が慌ただしい物音を甦らせた。遠くの部屋からばたばたと人が走ってくる気配がする。
 寝床から離れた男は、裸の肩から緑地に朱と紫の鳥を散らした部屋着を羽織った。黒く光る金属で出来た椅子に腰掛け、目の前の小テーブルに載っている、華奢な水晶細工のグラスを見つめる。キャサランに特注して造らせた逸品、そのグラスの底には、薄紅の液体がほんの少し、血が滲んだような色を見せて残っている。
 駆けつけて来た足音が部屋の前に立ち止まり、しばらくためらうのを、男は野太い、嗄れた声で促した。
「入れ、デム・ルソン」
「は、はい…」
 扉の向こうで、か細いおどおどした声が応じた。所狭しと黒光りする金属の帯を打ち付けた頑丈な木製の扉が、ぎしっ、ぎしっ、ときしんで開いていく。よほど重いのだろう、のろのろとようやく開いた扉の隙間から、やせこけた蒼白い顔の男が、足音もたてまいとするかのように滑り込んできた、が。
「ひ」
 きょろきょろと部屋を見回し、ほのかにちらつく灯火の光で、寝床の上で息絶えている少女を見つけ、息を引いて立ちすくむ。
「そう驚くことはない」
 でっぷり太った男、カザドの君主、カザディノは、にやにやといやらしい笑みを広げた。
「お前がしたことだ」
「わ、私は…」
 ルソンは細い両手の指を組み合わせ、がたがた震え始めながら口ごもった。
「私は…っ」
「あの薬はよく効いたぞ、デム・ルソン」
 ゆったりと椅子にもたれて舌なめずりをしながら、カザディノは続けた。
「だが、効き過ぎた。これから興が乗ろうという時に死なれては、せっかくの趣向も台無し……そうは思わんか」
「王よ…」
 ルソンはまじまじと、自分の主である男を見返した。
 これは本当に人なのだろうか。それとも、人の皮を被った異形の何か、そう考えた方が気持ちが楽になるのではないか、そう迷う。
 確かに、昔から色好みの主君ではあった。名のある美人、部下の妻や姉妹はもとより、近隣の少年少女を攫ってこさせては夜伽の相手を務めさせ、あげくに隣国セレドの美姫レアナをうまく言いくるめて手に入れようとまでした主だった。
 もっとも、その時はセレドの第二皇女ーー本当は『第一皇子』なのだろうと噂があったがーーユーナ・セレディスに見事にしてやられて、狙いは果たせなかったのだが。
(しかし)
 ルソンは強張った表情の裏で考える。
(それにしても、最近の我が君の様子はおかしすぎる)
 今夜も、年端もゆかぬ少女を夜伽の相手にすると言い放ったばかりか、その娘に毒を飲ませよと命じた。それも、すぐ効く毒ではなく、じわじわと四肢の先から効いていき、死に至るまで長い時間を要するものをと所望された。
 ルソンは医術師だ。医術師の誓いとして、そんなことはできないと一度は断ったのだが、構わぬ、それならお前が娘の代わりに毒をあおって死んでみせろと言われ、仕方なしに遅効性の毒を差し出した。
 それが、事もあろうに、酒に混ぜて少女に飲ませ、死に至るまで体を弄ぶなどという獣にも劣る残虐非道な振舞いに使われるとは、夢にも思わなかった。
「ルソン」
「はい」
「あの毒は、まだ効き目を遅らせることはできるか」
「はい、只今の二倍ぐらいまでなら、おそらく…は………っ!」
 素直に応じたルソンは、突然そのことばの意味に気がついて息を呑んだ。ぞおっと、無数の細かな虫が一気に体を駆け上がるような悪寒に体を震わせる。虫が走った後が、見えない毒を撒かれたように固まり冷えて、寒くなった。
「わ…、わが、君…っ」
 そんな風に呼んでいていいのだろうか、この男を。
「何をうろたえておる?」
 ルソンの悲鳴じみた声に、カザディノは冷然と応える。
「もしやそれは!」
「察しがいいの」
 カザディノは脂でてらてらとした顔に薄笑みを浮かべる。
 太古生物がもし笑ったとしたら、こんな表情をしていたのではないかと思えるような、不気味な笑みだ。
「次の夜伽には、もう少し楽しませてもらわねば」
「で…」
「うむ?」
「で、きません…っ」
 ルソンはがたがた震える体全身で拒否を示した。血の気が引いた顔を必死に振る。
「医術師としての誓いが」
「ラズーンへの誓いなど、打ち捨ててしまえ」
「っ!」
 君主のあまりにも大胆なことばに、ルソンは声を失った。
 この世の全てをあまねく統治するラズーンに対して、何たる暴言。ラズーンに比べれば、いくら君主であるとは言え、カザディノは地方の小国の王に過ぎないのだ。
「わ、我が君っ」
 しかもラズーンは鋭い『目』と痛烈な『牙』を持っている。世界に散ったそれらの感覚器は、ラズーンという司令塔に情報を集め、造反に対しては躊躇ない制裁を加えることは、仮にも一国を治める主であるなら当然呑み込んでいるはずの知識だ。
「そんなことを口にされてはっ」
「何が悪い」
 カザディノは、かかか、と高らかに嗤った。その声はあまりにも唐突で、怪鳥のような叫びに聞こえた。真夜中の居城、寝床には苦しみ悶えた屍体、豪奢な衣服が煌めくのも、悪夢の飾りのようにしか見えない。
「ラズーンはもう滅びるのだ」
 喜色をたたえて、カザディノはゆらゆらと立ち上がった。
「我らの天下だ、わしと『運命(リマイン)』のな!」
 小鼻の張った脂ぎった顔に、禍々しい笑みが広がった。見えないものを追うように室内を見渡し、やがて恭しく何かを受け取り頭に押し頂く仕草、同時に部屋の闇よりどす黒く濁った何かがカザディノの体を取り巻いて、側の明かりさえ薄暗く見える。
「わ、私は…っ」
 扉を開いて逃げ出したい。だがどれほど逃げてもすぐに追われるだろう。ルソンの前任者は国境まで何とか逃げたものの、そこで手足の先から少しずつ切り落とされて息絶えたと聞く。なぜ彼が逃げたのか、今ならルソンはよくわかる。きっとこうした、国の表では明らかにされない非道な振舞いに耐えかねたのだ。
 床の上の少女、黒い霧で覆われたようなカザディノ、何度も何度も見比べてついに、何も考えられなくなって、ルソンは目を閉じ、激しく首を振った。
「無理です、我が君! 私はそういう男ではない、放逐なさって下さい、城下へ追い、最下層で働けと命じて下さい!」
「ルソン、お前の腕は知っておる」
「だめだ、だめだ我が君、私は医術師としてラズーンに学び、ラズーンに誓い……!」
 きらっと背後で光ったものをルソンは見ることはなかった。たとえ見ても、何もできなかっただろう、飛び離れた首からでは。
 どんっ、ごろごろごろ。
 転がり落ちた丸いものは、どす黒い染みを吐き出しながら、高価な敷物を汚していった。
「おい」
 カザディノは眉をしかめ、ルソンの背後の男達に唸る。
「この敷物は特注品だ。場所を考えて欲しいものだな」
「それは悪かった」
 ルソン、いや、かつてルソンだった首のない胴体の後ろから、黒マントの男は全く悪かったと思っていないような口調で応じた。
「とにかくそれらを片付けてくれ。それから話を聞こう」
 カザディノは、うっとうしそうに転がる二つの屍体に向けて丸い指を振る。その横柄な口調に腹を立てた様子もなく、男達のうちの数人がすっと二手に分かれ、寝床の上の少女と寝具、ルソンの首と胴体、汚れた敷物を片付けていった。残った二人がそれを見送り、その後、カザディノに向き直る。
「それで、どうだった?」
「静かなものだ」
 ルソンの首を刎ねた男は淡々とことばを継いだ。
「人々は豊かに富み、穏やかに平和に暮らしている。丸一日、皇宮の回りをうろついたというのに、兵は平和に慣れ切っていて、我らの存在を気にも止めん」
「あの国は元々そういう国なのだ」
 毒酒の入っていた水晶のグラスを弄びながら、カザディノは貪欲な微笑に唇を歪ませた。
「小国ながら国内は落ち着き、この二百年というものの、ただ平和と繁栄の道を歩いて来た……わしが手を伸ばすまでは、な」
「手を伸ばしてからでも、ではないのかな?」
 自負の塊のようなカザディノの話し振りを男は嘲笑った。
「あれは全て、あのくそ忌々しい小娘のせいだ」
 カザディノは苦々しい口調で唸った。
「あの小娘一人に、どれほど多くの部下が殺られていることか」
「……」
 男は、カザディノの罵倒に苦笑した。部下の命の心配ではないことは誰もが承知、カザディノが悔しがっているのは、たかだか十七、八の『小娘』に自分の力が及ばないという事実だ。
「こちらは次々と腕利きの者を繰り出すのに、レアナどころか皇宮を襲うこともままならん。何もかもあの小娘のせいだ。わしの行く先々に、ふてぶてしい笑いを浮かべながら立ち塞がり、決して引き下がりおらん。あいつにはきっと、戦の女神の守りがあるに違いない」
「神など」
 男はふっと笑みを消して口を挟んだ。
「この世に存在せぬ。この世を継ぐのは始めも終わりも、我ら『運命(リマイン)』のみだ」
「待て……わしを忘れてもらっては困る」
 カザディノはこずるく笑った。
「『運命(リマイン)』が世を制圧した暁には、わしにもそれ相応の地位を与えるという約束だぞ」
「忘れてはおらん」
 男はちかりと瞳を光らせた。
「しかし、そんな小娘に何年も押さえられているような男では、こちらも待遇を考えなくてはなるまい」
「わかっておる!」
 カザディノはむっとして席を立った。手にした水晶のグラスを窓枠に叩きつける。カシャンッ、と鋭い音がして グラスは粉々に砕け落ちた。
 割れたグラスを見つめるカザディノの脳裏には、飲まされた苦杯の数々が甦る。
 ユーノが十二歳の頃。初めてレアナを手に入れようと夜襲をかけた。だが、ユーノ始め皇達の抵抗めざましく、ゼランを使ってユーノを封じ、かろうじて撤退に成功した。
 あの夜から、昼となく夜となくセレドの皇宮を襲っていると言うのに、あの小娘は、まるで眠ることがないと言われるラズーンの『目』のように皇宮を守り、カザド兵を一人で撃退してきた。命からがら戻って来た部下は、悲鳴に嗄れた声で報告したものだ、あの剣捌きは女子どものものではない、と。
『あれは、名のある武人のもの、それも天性の才を備えた者のみが見分けられる隙を突いてくるのです! ……逃げられない……逃げられないんだ!』
 それだけ訴えて事切れた部下の目は、驚きと恐怖に見開かれたままだった。
(まったく、ゼランの奴めが)
 カザディノは心の中で、既にアシャにとどめを刺された男、ユーノのかつての剣の教師、実はセレドを裏切ってカザドに組していた男を鞭打った。
(もっと早く、そんな才能など潰しておけばよいものを)
 いくらでも手はあっただろう。訓練を装って、剣を揮うには致命的な傷を負わせるとか、戦うことの恐怖を繰り返し刷り込むとか。
「ちっ……無能なものばかりが」
 どうにもできただろう、たかが小娘一人なのだから、なのに。
(あの小娘だけは、ただ殺すだけでは飽き足らん)
 カザディノはにんまりと笑み綻んだ。ユーノにかかされた恥とかけさせられた手間に苛立つ時、カザディノはユーノを捕まえたときのことを思って心を慰めて来た。
(剣で一刺しに貫くなぞは許さん)
 じっくりと、全ての恨みを込めて、その死の瞬間を味あわせてやる……。
 カザディノは脳裏に、ユーノの四肢を引き千切るさまを思い描いてほくそ笑んだ。
「カザディノ王」
 辛抱強く、カザディノが妄想から醒めるのを待っていたらしい男がついに待ちかねたのだろう、呼びかけて来た。
「ギヌア様のご命令に従うのは、今しかないが?」
「う…あ、ああ」
 我に返って、カザディノは大きく頷いた。
「セレドは無防備だ。加えて、姉のレアナは妹思いだ、今も」
「それに」
 初めて、男の無表情な顔に楽しげな笑みが滲んだ。
「我らが宿敵アシャは、今、ギヌア様の手で『狩人の山』(オムニド)に引き寄せられている。動けるのはラズーンに居るユーノしかいない」
「しかし、ユーノが動くか?」
 カザディノは不審気に眉を寄せた。人と人の繋がりや温かみなどを信じないカザディノにして見れば、これほど露骨に罠だとわかるような話にユーノが乗ってくるとは思えなかった。
「あの娘は乗ってくる」
 男は瞳をぎらつかせた。
「そういう娘だと、ギヌア様もおっしゃっていた」
「ふむ…」
「誰だ!」
 ふ、と扉の外の気配を感じ取ったのだろう、男が振り返って誰何した。もう一人が扉に走り寄りながら剣を引き抜き、開け放つと同時に相手に剣を突きつける。
「…これはけっこうなお出迎えだ」
 扉の外、今しも部屋に入ろうとしていたらしい男は、上品な仕草で肩を竦めて見せた。両手を上げて、剣を突きつけている男、カザディノに向き合っている男、カザディノと順々に深緑の目を動かしていく。短く切りそろえた金髪は、カザディノの、趣味がいいとはお世辞にも言えない重苦しい部屋の中で、妙に眩く輝いた。
「ジュナ」
 カザディノは吐息をついた。
「そろそろ出番だと思ったんだが」
 ジュナと呼ばれた年若い男は、カザディノを見返した。
「その通りだ、ジュナ」
 『運命(リマイン)』に体を明け渡した男が、命令口調で続けた。
「今こそ出番だ。セータの二の舞は踏むな」
「言われなくてもわかっている」
 ジュナは目を細め、腰にある金の装飾的な短剣に触れた。
「相手は『氷のアシャ』だ。なまじなことで逃げられる相手ではない。殺るか、殺られるか……それをセータはわかってなかったのさ」
「そのことばに偽りがないように願いたいものだな」
「何度もユーノを仕留め損なっているお前らとは違う」
 ジュナは挑戦的に言い放った。
「まあ、アシャが気づいて戻って来た時には、ユーノは既に冥界の住人となっているだろうさ」
 くるりと背中を向けようとする相手に、カザディノは慌てて声をかける。
「待て!」
 うんざりした顔で振り返るジュナに、カザディノはやや控えめに訴えた。
「ユーノは殺すな。殺さず、連れて来て欲しい」
「何?」
「恨みがあってな」
「ふん」
 ジュナは唇の片端を上げて笑った。
「いい趣味とは思えんが、良かろう。ギヌア様が良いとおっしゃれば、死骸か、死ぬ寸前に持って来てやろう。……なぜか、ギヌア様も生きたままをお望みでな」
「……」
 ギヌア相手では分が悪い。仕方なしにカザディノは頷き、部屋を出ていくジュナを見送った。
 
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