『ラズーン』第四部

segakiyui

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2.『狩人の山』(オムニド)(1)

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 どこの国の昔語りをする老人でも、ふと口を噤んで話さぬことがある。
 まるで、その話をすることで、禍々しい影を呼び込んでしまうと言いたげに話しかけた口を閉ざし、そこから先はいくら可愛い子ども達がせがもうとも、決して続けようとはしない話が。不吉な象徴(しるし)があたりに現れていないかと周囲を確かめ、幸いにも自分の語りが魔の耳に入らなかったことを知ってほっと胸を撫で下ろし、口にすべきではない物語を思い出してしまった自分を戒める……それほどまでして伝えられるのを防がれながら、なお幾世代もの人々の胸に受け継がれていく言い伝えというものが。
 『狩人の山』(オムニド)についての話は、そのような話の一つだ、と誰もが言うだろう。


「オムニド?」
 『氷の双宮』の中の建物の一つの窓から、じっと外の白亜の建物群を眺めていたユーノは、『太皇(スーグ)』の声に振り返った。
「……アシャはそこへ行ったのですか?」
 まっすぐに問う。
「そうじゃ……狩人の山とも呼ばれておる」
 『太皇(スーグ)』は、白髪と長い白い髭の中から、静かな声で応じた。
 二人が居るのはこじんまりとした清楚な一室だった。
 『氷の双宮』にある建物の常、白い石で組み合わされ形づくられた床、壁は見事な浮き彫りで飾られ、眩いほど白い織物、淡い水色の濃淡の壁掛けが配置されている。部屋には広い窓一つ、白いベッド一つ。部屋の隅には、寛ぐためだろう、敷物を重ねて背もたれを置いた一画がある。
 そこは、ラズーンの『洗礼』から目覚めたユーノが与えられた一室だった。
 『太皇(スーグ)』は隅の背もたれのあたりに座して、穏やかな目でユーノを見返した。
「一人、で…」
 呟いたユーノの出で立ちは白い少年用のチュニック、額には正統後継者候補が、その教育を受けていることを示す『聖なる輪(リーソン)』をはめている。蒼みがかった透明な輪で、陽光が差し込むと乱反射して、きらきらと眩い光を放つ。
「……」
 無意識にそれに指を触れ、ユーノは思い出すともなく、三日前、『洗礼』の後の眠りから目覚めたときの事を思い出していた。

「ふ…」
 目を開ける。
 とたんに激しい動揺と興奮が体中を駆け巡り、こらえようのない熱さが手足の先まで満ちて、ユーノは唇を噛み、身悶えした。
「あ…あ…」
 心の中が焼き焦がされる。心の奥底に秘めていたこと全てが白日の炎天下に晒され、影を地に刻むまでに照らし出されているような感覚、右肩の傷を抉り直された時よりももっと激しい、もっと捉えどころのない熾烈な痛み。
 心が開放され切っていて、魂を憩わせる空間が剥ぎ取られる。外界の全てが心の中に容赦なく踏み込んで来て、それと同時に今まで抱き締めていた全てのものが奪い去られていく。
 熱いものが続けさまに頬を伝わり、胃を絞り上げて湧き上がる。
「うぐっ…」
 吐こうとしても吐くことが出来ず、胸の中で燃え続けるものを押さえつけるように胸を抱いて、ユーノはもがき続けた。
「、!」
 荒い息をつきながら、滲み、流れ落ちる涙と汗とに塗れていたユーノは、唐突に額にあてられた手にびくっと体を震わせた。
「あ………あ……」
 まるで、それが熱を取り去っていくかのように、みるみる体が冷えて来た。中心で燃えていた苦痛も次第に次第におさまっていく。
 乱れる息を整えることも思いつかず、茫然とその手の持ち主を探したユーノの目は、白髪と白い髭で囲まれた柔和な目に出くわした。
「ゆっくり呼吸をしなさい」
「……『太皇(スーグ)』…」
「ゆっくり吸って……吐いて……もう一度……」
 『太皇(スーグ)』の声にユーノはそうっと息を吐き、よりひそやかに息を吸った。ゆっくりと、ゆっくりと………。自然と目が閉じ、安らかな気持ちになってくる。
「いきなりは無理じゃ。ここは凄まじいほどの力の集積地なのだ。すぐに制御することができたのは、アシャだけだ」
 静かに『太皇(スーグ)』の声が諭した。同時に、額にひんやりとしたものが当たる感触があった。
 薄目を開けたユーノが見上げると、それは不思議な蒼味がかった透明な輪で、ぴったりと吸いつくように額にはまると、体を襲っていた苦痛や熱っぽさが嘘のように消えていった。
「はあっ…」
 大きく深い息を吐いて、ベッドの上で体を伸ばす。心地よさに意識が薄れかけた次の瞬間、自分がどこにいるのかを思い出して、ユーノは勢いよく跳ね起きた。
「『太皇(スーグ)』、私は! ……あつっ…」
 稲妻のような痺れが額の輪から走って、頭の中へ躍り込む。目を閉じ、眉をしかめて、ユーノは頭を押さえた。
「急に心を開放してはいかん」
 『太皇(スーグ)』が温和な口調で窘める。
「お前の心は、今、余りにも無防備なのじゃ。ラズーンの『洗礼』を受け、なおかつ、『正統後継者』となるための知識も手に入れたのだからな」
「え…?」
 ユーノはぎょっとして必死に目を開け、『太皇(スーグ)』を見つめた。相手の静かな声に、今までのことが次々と思い出されてくる。
 ラズーン…伝説を生む地…泉(ラズーン)……枯れかけた聖なる泉…『銀の王族』……視察官(オペ)……そして、正統後継者のみが知る、ラズーン存続の真の意味……二百年祭の持つ重い運命(さだめ)。仕組まれたというには、あまりにも遠大な、種(しゅ)の未来への賭け。
「では…」
 一言呟いて、ユーノはことばを失った。
 どこからともなく入って来るひやりとした空気の流れに、頬に流れた涙の跡が冷たく乾いていく。片手を上げて、手の甲で頬を拭いながら、心の奥深くにあった淡い色彩のものが砕け散るのを感じた。拭ったばかりの頬に、そんなつもりなどないのに、再び次々と涙が流れ落ちる。
「来なさい」
 無言でそれを見つめていた『太皇(スーグ)』は唐突に命じると、くるりと背を向けた。はっとして、ユーノは白いベッドを滑り降り、白亜の床に裸足を置いた。
「!」
 先ほど額から走ってきたような衝撃が、今度は爪先から駆け上がってきた。とっさに息を詰め、それを堪えたユーノは、数歩先を歩む『太皇(スーグ)』に遅れまいと、もう片方の足を急いで踏み出す。
「う…っ」
 床に両足を付くと、この建物が力の集積地であるということが体で理解出来る。途轍もない力が足を伝わり、体の細胞全てを振動させて、頭の天辺に向けて走り上がっていくの。髪の毛が、いや皮膚の産毛一本一本が細かな震えに立ち上がっていきそうだ。
(ここは……双宮の中……でも、以前来た時は、こんな感じは受けなかった)
「……『銀の王族』を呼び入れる時には、ここの力を一時的に封じ込めるのじゃ。それに、『銀の王族』にはその苦痛を味合わせることがないように、催眠状態になってもらうのだ」
 ユーノの想いを読み取ったように、『太皇(スーグ)』は応じた。肩越しに投げかけられた瞳は、優しい中に冷たく厳しい光があった。
「じゃが、お前は、今違う一歩を踏み出そうとしている。わしはここの力を封じておらん。『聖なる輪(リーソン)』のせいで、少しは楽なはずだ……自分の力で付いて来なさい」
 声は厳然とした響きを持っていた。
(リーソン…)
 ユーノは手を上げ、額の輪に触れた。ぴりりっ、と指先に痛みが走り、慌てて指を離す。続いてもう一度、ゆっくり、指先に力を込めて輪に触れた。
「………」
 今度は痛みは来なかった。代わりに吸いついてくるような奇妙な親和力を持った感触が、ユーノの指先に広がった。どこか冷たい、それでいて、何の抵抗もなく指先の細胞に溶け込んでくるような感覚。
 いや、逆かも知れない。
 ユーノはぼんやりと思った。
(指先から、この輪の中へ溶け込んでいく)
 そして限りなく、ユーノの中の何かは循環を繰り返していく………人の世に紡がれる生と死のように。
 ユーノはきゅ、と唇を噛み、輪から手を離して顔を上げた。待っている『太皇(スーグ)』のもとへ、一歩また一歩と歩み始める。足先の痛みに似た力の波動は、一歩ごと繰り返しユーノの体に波紋のように広がった。
 魚みたいだ。
(なに…?)
 陸へ上がった最初の魚だ。
 唐突にそんな想いが湧き上がる。それは知識や経験の中からというより、本能の遥か遠い闇の中からにじみ出て、ユーノの心を不思議な感動で満たした。
「来なさい、ユーノ。我がラズーンの『正統後継者』となるものよ」
 『太皇(スーグ)』の声が強く重く、ユーノの鼓膜を震わせた……。

 あれから三日。
 ユーノはこの建物の一室を与えられ、『太皇(スーグ)』から『正統後継者』として知っておくべき幾つかのことについて、教えを受けていた。
(私が『正統後継者』になる…)
 この世の全てをあまねく治める統合府ラズーン、その頂点の長たる『太皇(スーグ)』、そして、その地位を継ぎ、次代の『太皇(スーグ)』となるべき『正統後継者』。
「わしは、既に長く余を治めた」
 ユーノの迷いを見抜いたように、『太皇(スーグ)』は低い声で続けた。
「およそ、『二百年』の長きに渡って、な」
「え…?」
 ぎょっとして振り返るユーノを、『太皇(スーグ)』は落ち着いた目で見つめ返した。
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