『ラズーン』第四部

segakiyui

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3.罠(2)

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 ユーノの帰還を喜んだのは、レスファートやイルファだけではなかった。リディノもまた、ユーノの無事な姿を見るや否や、薄緑の澄んだ瞳から零れる涙を拭おうともせず、ユーノにしがみついてきた。
「…………」
 今は夜半。
 片手をレスファートに預けながら、ユーノはもう片方の手で、そっと頬を撫でる。リディノがしがみついてきた時に触れた濡れた頬や、金の巻き毛の感触が、未だにくすぐったく甘ったるく、肌に残っているような気がする。
(私には、あんなことはできないな)
 微かな苦笑を浮かべて考える。
 肩を震わせて泣く。零れる涙を拭きもせずに誰かにしがみつく。
 それらの仕草は確かに少女に与えられた特権なのだろうが、ユーノにはずっと許されなかった。
 肩を震わせて泣いている間に、セアラやレアナ、ミアナ皇妃を守らなければならなかった。しがみつける腕を探して振り返れば、そこにはいつも誰もいなかった。涙を流す間に剣を覚えなくてはならなかった。
 それはユーノにとって、当たり前のことだった。
 その日々を悔いる気持ちはさらさらない。そうしなければ、ユーノは今ここで、生きてなどいなかった。
(けど…)
 リディノのように、素直に自分の気持ちを晒す少女、それも同い年の少女に出くわすと、無性に自分が哀しくなる時がある。
(きっと)
 きっと、ずっと、こうして生きていくしかないのだろう。
 自分を守ってくれる腕は、一生求めてはいけないのだろう。
 誰かに縋れるなんて、考えてはいけないのだろう。
(すっと、一人だ)
 その想いは、ユーノの心の奥に、決して開くことのないその場所にいつも、淡い色の苦い澱を作る。
(だから、いっそ)
 『正統後継者』として、ラズーンを継いだ方が良いのかも知れない。
「……」
 くうくうと、柔らかな寝息を立てて眠っているレスファートを見つめながら、ユーノは『太皇(スーグ)』のことばを思い返す。

「どういうことですか?」
 緊張した声で、たじろぐことなく、『太皇(スーグ)』を見つめてユーノは尋ねる。
 たとえ、どれほど『太皇(スーグ)』が老人に見えようとも、二百年間も『一人の人間』が生きていられるとは思えない。だが、今、『太皇(スーグ)』が口にしたことばは、今ここに居るこの老人が、『二百年間』『太皇(スーグ)』としてラズーンを治めてきたように聞こえた。
「聞いた通りじゃよ」
 老人は淡々とことばを継いだ。
「わしは、二百年前、この世を治める『太皇(スーグ)』となった」
 静かな声だ。
「もうお前は既に、父母からではなく、この世に産まれる者がいることを知っている」
「はい」
 ユーノは警戒しながら頷いた。
 『氷の双宮』の地下にある、幾つもの透明な筒の中に浮いていた、様々な生き物のことを思い出す。それは大きな衝撃だった。だが、予めユーノに施された『洗礼』が、その衝撃を多少は和らげていてくれた。
「あの中に、色の違う筒があったのを覚えているはずだ」
「ええ…、……っ!」
 再び頷いて、ユーノはぎくりと体を震わせた。
 次に『太皇(スーグ)』が言わんとすることがわかった。
 まさかそんな。
 その思いとともに、ユーノの理解は『太皇(スーグ)』にもすぐに通じたらしく、相手はどこか物憂げに頷き返し、一言一言区切るように続けた。
「そうだ。『太皇(スーグ)』の勤めは、祭りから祭りまで。すなわち、二百年を、己の肉体を新しく生み出しながら治めていくのだよ。体が老いさらばえれば、それまでの記憶を記録し、己の体から細胞を採って再生装置にかける。次の新しい体ができあがった時に、わしは水槽に身を横たえ、眠りにつき………ほんの一瞬後に、新しい体を持って目覚めるのじゃ」……

(新しい体と…古い記憶と…)
 ユーノはことばもなく、『太皇(スーグ)』のことばを聞いていた。
 自分の体を見捨てるというのはどんな気持ちだろう。新しい体が用意されていて、自分は死なないのだとわかっていても、その体が『確かに』自分なのかという不安は、常につきまとうに違いない。
 二百年は決して短い年月ではない。親しい者が次々と死んでいく中、『太皇(スーグ)』だけは己を再生し続けて生きていかねばならない。
 それは何と孤独な時の旅だろう。
(一人、時の谷間を歩き続けるのと、アシャとレアナ姉さまの側に、二人の幸せを見ながら居続けるのと、どっちが辛いだろう?)
 そう思って、くすりとユーノは笑う。
 いつか、アシャの笑顔も、レアナの細く白い二の腕がアシャにかかることも、笑いあう二人にも、胸の痛みを感じなくなる時が来るのだろうか。ただ黙って、二人を守り続けながら、何気なく天空を見上げて微笑できる日が来るのだろうか。
 『太皇(スーグ)』はユーノに考える時間を与えてくれていた。
 ラズーンを発つ時に、ユーノは決めたことを『太皇(スーグ)』に告げればいい。ラズーンには『正統後継者候補』がまだ数人居る。ユーノがセレドに戻ることを選ぶのなら、それでもいい。だが、ラズーンの『太皇(スーグ)』の地位を、その真の意味を理解せずに虎視眈々と狙う者は少なくない。そのために、『正統後継者』は多いに越したことはないし、類まれな剣の才能を持つユーノなら心強い。
 穏やかに説かれて、ユーノは、もう少し待って下さい、と応えるのが精一杯だった。
(アシャは、動乱がおさまれば、セレドに行きたいと願ったと言う)
 『太皇(スーグ)』は驚くユーノに微笑んだ。何か、かけがえのないものを見つけたのじゃろう、と。
(かけがえのないもの)
 聞かずともわかる。
(アシャがセレドに行ってくれるなら、セレドは千人の戦士の守りを得たのと同じ)
 そこにユーノの居る意味はない。
 僅かに微笑む自分の顔が引き攣っているのを感じる。
 そして、ユーノの頭は、再びラズーンか、セレドかの間を巡り始める。
(母さまはどう思うかな)
 いつも美しく優しい母だった。白い腕に抱かれた記憶のなさは、いつもユーノを責め続ける、どうして私には母に抱いてもらった記憶がないのだろう、と。赤ん坊の頃や、まだ幼い時は、確かにユーノは母の手にあったのだろうに、それからの激しい十数年間が、その甘やかな感触を散らせてしまったのかも知れない。
(喜ぶかも知れないな)
 素直に、単純に。我が子が栄えあるラズーンの『正統後継者』になったと知って。そのためにユーノが支払う代償には気づかずに。レアナやセアラと揃いのドレスをユーノに作って、ユーノがそれを着るたびに噛み締める苦さには気づかずに、三人の娘を並べてにこにこ笑ったように。
 愚かなだけだ、無知なだけだ、そう嗤うのは簡単だけど。
(いや……母さまのせいじゃない)
 くすりと寂しく笑う。
(私があまりにも私だっただけだ)
 それは何度繰り返したことばだろう。
 誰のせいでもない。ただ、ユーノがあまりにもユーノであっただけのことだ、と。
 旅の楽師の語った昔話の恐ろしさに眠れなくなり、一人夜じゅう、月を眺めていたのはいつの頃だっただろう。三本しか見つからなかったという珍しい花を見せられ、レアナ、セアラと配られて、ユーノに渡されたそれを母に渡したのはいつだっただろう。宮殿の柱を母に見立て父に見立ててしがみついたのは、幾つの時だっただろう。
(母さまの香水を持ち出したこともあった)
 残っていた僅かな量を空にしてしまい、なかなか手に入らぬものなのにと穏やかに詰られた。それをどうしたのかと言われて、自分の寝床に撒いたと答え、すぐさま洗濯されてしまったのは、もっと哀しかった、傷の痛みにふらついて倒れ込む寝床に、温もりはなくとも母の匂いが欲しかったから。
(慌てて探しに行ったっけ)
 まだ香りが残っているものはないかと捜し求めてうろうろし、父に皇女ともあろう者が情けないと叱られた。
『寝床の温もりを抱えているとは、いつまで赤子のようなことをしておるのか』
 そうではないと弁解するにも、何をどう話せばいいのかわからずに戸惑い、話しようがないと気づいて落ち込み、こぶしを握りしめて俯くしかなかった、その記憶も、今にしてみれば懐かしい。
(考えれば、ずっと一人で生きていけるように、訓練され続けたようなものだな)
 誰にも頼らず、何も期待せず、ただ己の力と才覚のみで生き抜いていく術を見つけようと、ずっと足掻いてきた。
(それが今に続いている…?)
 苦笑して小さく吐息をつく。
 そうだ、一人で生きて行くのには慣れている。だから、たぶん、この先も一人で大丈夫だろう。たとえ『太皇(スーグ)』となっても、何とか生きていけるだろう。
(でも……優しさ、には慣れてない)
 庇われることにも慣れていない。
 だから、アシャの仕草一つに他愛なく心が揺さぶられてしまう。揺れては自分を叱りつける、しっかりしろ、甘えるな、と。
 なのに。
(アシャは、ずっと、優しい)
 いや、ますます、と言うべきか。ユーノの拒否も抵抗も、真綿のように軽くいなして包み込まれていってしまうから、身動きとれなくなってくる。
(だからこうして、馬鹿な堂々巡りになる)
「望みもないのに、さ」
 アシャは言ったのだから、レアナを守ってやりたい、と。一生かけて悔いなく相手、と。きっと今回のセレド行きもレアナに関わること……つまりは、レアナを妻にということなのだろう。
 遥か彼方の大国の王子が、辺境の、それでも心優しく美しい姫に出逢い、気持ちを募らせ、ついに二人が結ばれていく、まるでお伽噺のように。
(私には、決して重なることがない、幸福で美しい、お伽噺)
 眉を寄せ、軽く唇を噛み締める、と、突然ユーノは顔を上げた。
「……誰だ」
 戸口に佇んだ気配に誰何する。
「俺だ」
「イルファ…」
「起きてたか……レスは?」
 扉を開いて入ってきた相手がユーノの片手に目を移す。
「寝てるよ。けど、離してくれない」
「やれやれ」
 イルファは大袈裟に溜め息をついて見せた。
「甘えん坊め」
「いいじゃないか。甘えられる時なんて……そう長くないんだし」
 僅かに翳ってしまった声に、イルファは幸い気づかなかった。
「で、どうだった、あっちは」
「うん……ちょっと、とんでもないことになって」
「とんでもないこと?」
 よいせ、とやや重い動作でイルファが部屋の椅子に腰掛ける。
「ボク、『正統後継者』になるかも知れない」
「は?」
 イルファがぽかんとした顔でこちらを振り向く。いかつい顔が意外な愛嬌をたたえる。
「ちょ……っと、待て」
 裏返りそうな声をかろうじて押さえて、イルファが瞬きして顔を擦った。それから仕切り直したという表情で、
「今お前、何と言った?」
「『正統後継者』」
「せいとう、こうけい、しゃ? とすると、何か、それはその、この、」
「ラズーンの」
「………」
 再びイルファは惚けた顔になった。ユーノの顔を凝視し、窓の外を確かめ、夜だなうんと頷き、再びユーノの顔を眺める。
「ずいぶんと疲れたのだろう、なあ」
「本当だよ」
「今は夜だしな」
 こういう話は明日朝日を浴びてはっきりした時に聞くべきかも知れん、なあ、と無理矢理な笑顔を作って立ち上がるのを見上げて、ユーノは繰り返した。
「本当だ、イルファ」
「……ラズーンの、だな」
「うん」
「……うん? うん、で応じるのかお前は、ええ? ラズーンの、ってことはつまり」
 それを口にすることでユーノの頭をより一層混乱させてしまわないかと訝る顔になったが、思い切ったように息を吐いた。
「つまり、それはアシャと同じ、ゆくゆくは、この統合府を治め、諸国を治め、世界を治める……ふううっ」
 自分の方が一杯一杯になってしまったのだろう、大きく溜め息をついて、思い直したように、隣に置かれているユーノのベッドにどさりと腰を落とした。ぎしいっ、とベッドが悲鳴を上げて大きくたわむのもおかまいなし、頬に片手を当て、肘を膝について屈み込み、ユーノを覗き込む。
「簡単に言うが、これはどえらいことなんだぞ」
「わかってる、けどさ」
 強いて軽く、ユーノは応じた。
「『正統後継者』っていっても、ボク一人じゃない。一応候補、という形らしいよ」
「……それで、か」
 てっきりもう一回、でもなあ、と絡んでくると思ったイルファが、妙に生真面目に眉を寄せて唸る。
「レスが、お前に心を近づけてたんだ」
 はっとして、ユーノは自分の手を握りしめて離さないまま眠っているレスファートに目をやった。
「お前が迷っている、と半泣きになっていたぞ。帰ってくれないかも知れない、と言ってな」
(レス…)
 知っていたのか。ユーノの逡巡を知って、それでこんなにしっかりと、ユーノの手を握ったまま眠っているのか。
「レスが泣くのは見たくない」
 イルファがぼそりと唸った。
「せっかく四人でしてきた旅だ、今更一人欠けるのは嬉しくねえな」
 ぶっきらぼうに続けたことばに温かさを感じ取る。
「イルファ……ありがとう」
「ああ。それより、アシャのことだが」
「うん。それで……しっ!」
 窓の外に気配が動いた。咄嗟にイルファを制し、外を伺う。イルファも動きを止めて目を細め、外の闇を凝視する。そろそろと、イルファが体を浮かせかけたその時、
「危ないっ、イルファっ!」
 がしゃんっ!
 ユーノがイルファを突き飛ばすとほぼ同時に、半開きになっていた窓に激しくぶつかったものが、木枠を砕いて部屋の中に飛び込み、転がる。
「イルファ!」
「おうっ!」
 叫んで、イルファが部屋を飛び出す。
「…ん……どうしたの?」
 目を覚ましたレスファートが、不安そうにユーノの側にすり寄った。
「大丈夫。心配しなくていいよ」
 油断なく辺りに気を配るユーノの耳に、「曲者だあっ!」と叫ぶイルファの声が聞こえる。たちまち屋敷のあちこちに灯がともり、騒然とし始める中で、ユーノはゆっくりと立ち上がって飛び込んできたものに近寄った。
(屋敷の中でも狙われるのか)
「…何?」
 レスファートがユーノの拾い上げたものを、おそるおそる覗き込んでくる。
「石文(いしぶみ)だ。ガデロ特有のものだな」
 灰色の石に細い穴を開け、そこに巻いた手紙を刺し通したもの、静かに手紙を抜き取り文面に目を走らせる。
「っ!」
 音をたててユーノの全身から血の気が引いた。
「ユーノ?」
「……あ、いや、何でもない」
 訝しげに見上げるレスファートの視線を避け、慌てて応じてユーノは手紙を握り込む。それでも、書かれていた内容は、脳裏にくっきりと刻み付けられている。
『セレド第一皇女レアナ姫をお預かりしている』
 手紙はそう始まっていた。
 まさかとか、あり得ないとか、困惑と不安が一気に押し寄せる中で、文面は冷酷にユーノに交渉を持ちかけていた。
『助けたくば、五日後、ガデロのダイン要城まで来られたし』
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