『ラズーン』第四部

segakiyui

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3.罠(1)

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 その使者がセレド皇宮に姿を見せたのは、ちょうど、遠く離れたラズーンの『氷の双宮』で、ユーノが洗礼から目覚めた日のことだった。
 どこからともなく現れて、馬を蹴立て、相も変わらず守りの薄い城門を走り抜け、ただ一目散に皇宮を目指す騎士の姿は、ようやくセレドの人々の目を惹き、噂はさざ波のように広がった。
 辺境の方で小さな戦があると聞いたことはあっても、特にセレド皇宮の位置する中央区では緊急の使者なぞ、ついぞ見かけることはない。しかもそれが、こともあろうにラズーンよりの使者と知れるに至って、迎えた皇宮はにわかに騒然とした。
「ラズーンよりの?」
「まあ何事でしょう」
 ミアナ皇妃は優しげな面立ちを一瞬にして曇らせ、次のドレスに仕立てようとしていた美しい布を選ぶ手を止めた。セレディス四世は妻と顔を見合わせ、伝令の者に軽く頷き、すぐに行くと答えて席を立った。うろたえた様子でミアナ皇妃が、青ざめた表情でレアナが続く。セアラは最近、昼間は決まってシィグトを伴って外出していることが多く、その時も不在だった。
「母さま、使者とは」
「ええ一体、何事でしょうね」
「もしや、ユーノのことでは…」
 レアナがすぐに脳裏に浮かべたのは、元気よく皇宮を出て行った妹の後ろ姿だ。ひょっとして、ユーノに何かあったのだろうか、そう不安になり唇を噛む。
「ユーノ……、ええ」
 どこかぼんやりと呟いたミアナ皇妃は、まずそれを思いつかなかった自分を恥じるように薄赤くなり、続いて慌てた口調で付け加えた。
「そうね…そうね、あの子のことかも知れないわ。あの子に何かあったのかしら」
 三人が広間に出向くと、そこには既に一人の青年が控えていた。こちらの気配に上げた顔には、ラズーンからの使者に共通した、ある種の洗練された上品さと端正さがある。
「ラズーンよりの火急の御使者、何事でしょうか」
 一応上座につきながらも、セレディス四世は使者に対して丁重に応じる。
「旅装も解かずにお目通りすることをお許し下さい」
 使者は深々と頭を下げた。
「何分にも、セレド皇の御一子のこと、急を要すると思われますので」
「では、ユーノのことですね」
 レアナが思わずと言った口調で問い正す。公的な使者の前で、皇を差し置いての詰問の非礼、だがそれを咎める気配は誰にもない。
「はい」
 使者は大きく頷いた。
「私はラズーンの『太皇(スーグ)』に仕える視察官(オペ)の一人、ジュナ・グラティアスと申します。実は、ユーノ様達ご一行は、予定よりうんと早く旅程を進められ、無事ラズーンに辿り着かれたのですが、長旅でのお疲れが出たのでしょう、ユーノ様はラズーンで病の床につかれました。食べ物、水も碌に口にされることなく寝込まれて早一週間、熱の譫言にひたすらレアナ様の御名を呼び続けておいでです」
「っ!!」
 レアナは顔から音を立てて血の気が引くのを感じた。ミアナ皇妃も顔を強張らせ、何ともいいようのない複雑な顔で凍りついているようだ。
「我が恵み深き『太皇(スーグ)』はユーノ様を哀れまれ、すぐに私を遣わされ、レアナ様をお連れしろとお命じになりました。医術師も手をこまねいている病状では、求めておられる親愛こそが唯一命を救う手立てとなるであろう、と」
「そんなに酷い状態なのか」
 セレディス四世がさすがに険しい表情で確かめる。
「ラズーンには名だたる名医も居ると聞く、それでもユーノを助けられる者がいないというのか」
「今ユーノ様を苦しめているのは、病ではない、と」
「何と」
「温かな、柔らかな、人の想いそのものであると」
 ジュナは逆に問うように、セレディス四世を、ミアナ皇妃を、そしてレアナを鋭く見つめた。
「厳しい旅の果てに求めるものは、成し遂げたことを見守り喜んでくれる身内以上のものがありましょうか」
「うう」
 セレディス四世が唸り、ミアナ皇妃が苦しそうに目を伏せる。反対にレアナはきっと目を見開いて、ジュナの顔を凝視した。
「どうかレアナ様」
 その顔を正面から見返して、ジュナは言い募る。
「すぐに御支度を。そして私とともに、ラズーンまでご同道願います」
「レアナ…」
 不安がるようにミアナ皇妃は傍らの娘を見やる。まるでそこに、もう一人、別の誰かを探すように。セレディス四世はしかめた顔を使者に、そしてゆっくりとレアナに向けた。
「父さま」
 レアナは二人の視線を受け止めて、口を開いた。
「今すぐに参りたいと思います」
「けれどレアナ」
「母さま、覚えておいででしょう」
 まるで引き止めるかのようなミアナ皇妃の声に、レアナは静かに言い返す。
「ユーノにセレドを背負う旅を任せたのは私達です」
 あの背中に全てを負わせた時から、この国を護ったのはユーノです。
「その小さな妹が助けを求めている時に赴かずに、私がこのセレドを統治する資格を得られようとは思いません」
「うむ。まさにその通りだ」
 セレディス四世は深く頷いた。
「すぐに行ってやりなさい」
「はい」
「…頼みましたよ、レアナ」
「わかっております、母さま。では、ジュナ様」
 すらりと立ち上がったレアナに、ジュナは優しく微笑んだ。
「どうぞ、ジュナとお呼び下さい。お支度が整い次第、いつでもお供いたします」
 短く切りそろえた髪の影で、ジュナの瞳が一瞬酷薄な光を過らせたように見えたが、レアナには、ユーノの危機にそんなことは些少なことのように感じられた。
 そして、レアナはこの日、生まれ故郷を後に、初めて巨大で容赦のない世界、ラズーンへ続く世界に旅立った……何が待っているのか、想像することもなく。


「レス!」
 静まり返っていたミダス公の花苑に、イルファのどら声が響く。
「どこにいる?! レス!」
 浅黄の膝下までのチュニックから太い脚を放り出し、幅色の茶色の革ベルトを締めた堂々たる体躯、溢れかえるように咲いているラフレスの花の中に少年のプラチナブロンドの輝きが見えないかときょろきょろ見回しながら歩いていく。
 午後の陽射しは温かだった。ラフレスやライクの薫りが辺りに満ちるのを助けるように、花々に万遍なく光を注いでいる。
「ん? ……あそこか」
 その花弁の波の中に、一瞬、湖に光が跳ねるような輝きを見つけて、イルファはそちらへ大股に歩み寄った。ラフレスの花が所作の荒さに引っ張られ弾かれて、はらはらと花びらを散らす。だがそんなことにはおかまいなしに、散った花弁を踏みしだき、蹴散らして、花の中で膝を抱え込んで踞っているレスファートの側へ近づく。
「ここにいたのか。返事ぐらいしろ」
「…」
 少年はちらりと、イルファの巨体をアクアマリンの目で射抜き、再び考えに没頭するように前方を凝視して身を沈ませた。
「おい、レス」
 やれやれ。
 溜め息まじりにしゃがみ込み、イルファはレスファートの頭に手を載せる。数回、頭ごと揺さぶるように手荒く撫でた。
「何をまた、しょぼくれている」
「……ユーノ、本当に帰ってくる?」
 ようよう小さな細い声が応じた。は、と笑いかけたイルファに、
「笑いごとじゃないの。シンケンなんだ」
 きつい口調で訴える。
「なら、真剣に答えるかな」
 顎をごしごしと擦り、イルファは安心させるように笑って見せた。
「アシャが言ったろ? 何があろうと、ユーノは、一度はここへ帰ってくるって」
「その後は?」
「は?」
 打てば響くようにレスファートの問いが返って来て、イルファは瞬いた。まじまじと、真っ白のチュニックに薄紅の帯という、儚げで綺麗な姿の相手の隣にどっこらせ、と腰を降ろした。
「なあレス、その後って」
「だから、その後は?」
 レスファートは一途な調子で繰り返した。
「ユーノは一度はここに帰ってくる。でも、その後は? ……ユーノ、ぼく達と一緒に、国に……帰ってくれる?」
 語尾が微かに震えた。
 イルファは顔を引き締めた。レスファートが体に溢れようとする不安に耐えようとしているのに気づいたのだ。
「……どうしてそう思うんだ、レス」
 ゆっくりと低い声で問いかける。
「確かにあいつは、ラズーンに招かれてやってきた。たぶん、『太皇(スーグ)』に謁見して…何かを伝えるか伝えられるか…ま、そんなとこだろう。けれど、それで仕事は終わりだ。やることさえ済めば戻るに決まってるじゃないか。仕事が終わったのに、その後、どうしてユーノがここに留まらなきゃならない?」
 肩を竦めてみせる。
「あいつには守るべき家族が居て、大事な祖国がある。ここに留まらなきゃならない理由なんて、どこにもないだろ?」
「……うん…」
 レスファートは不承不承頷いた。が、すぐに、
「でも…変なんだ」
「何が」
「ユーノが変なんだ…」
 頼りない口調で繰り返す。
「なんか…迷ってるみたい……帰ろうか、どうしようか、って」
「おい、レス!」
 思わずイルファを眉を寄せた。
「お前、また、ユーノに心を近づけてるな! あれほど、アシャが、今はユーノに近づくなって言って」
「だって!」
 イルファの大声に負けず劣らず、レスファートはきつい声を張り上げた。
「心配だったんだもん!」
「俺達も心配だぞ、だが」
「それに、止めようがないんだもん!」
 高い声がイルファのことばをぶった切る。真正面からこちらを見返す瞳が、薄い色なだけに固く冷たくぎらぎらと光を反射する。
「どうしてもユーノに引っ張られてく! どうしても、何か、すごく、奥の方で!」
「レス…」
 イルファはぽかんと口を開け、やがて深く溜め息をついて首を振った。
 もし、レスファートがもう少し年上ならば、百年、いや千年に一度の恋ということになるのだろうか。自分の名前を捧げるほどの相手なのだから、そう言えなくもないのだが、レスファートの場合は母親の姿も重ねているから始末が悪い。人生の中で最も大きな意味を持つ二人の女性が、ユーノというたった一人に集約されてしまっているのだから、レスファートが拘るのも無理はないとも言える。
(そのうち、厄介なことにならなきゃいいが)
 さすがのイルファも悩ましい。
 他の娘ならば、彼とてそれほど心配しない。
 たとえば、リディノであるならば、いつかはレスファートも成長する。男として育っていくにつれ、体も変わり欲情も芽生える。自分が何を求めているのか、何が本当に欲しいのかに気づくまで、放っておいてもそれほどの害はない。
 あるいは、レスファートがレクスファの王子、つまり人の心象に過敏なほどに感応力が強い少年でなければ、ユーノであっても問題がなかったかも知れない。
 だが、相手がユーノ、加えてレスファートが感応力に長けているだけに心配だ。
 ユーノは何と言っても、宮殿の中でふんわりと育ってきたレスファートとは生い立ちからして違う。強靭な精神力はどんなに追い詰められても屈することを知らず、気性の激しさは事の渦中に飛び込んでこそ本分となる。
 ユーノだからこそ耐え抜けている試練の数々を、もしレスファートがそのまま感応するようなことがあれば、少年の精神の方が引き裂かれかねない。
 そんな危険性など重々承知しているだろうに、レスファートはユーノに盲目的な想いを寄せており、引く気配さえないのが二重に困ったことだ。
 かと言って、今レスファートをどうやってユーノから引き離すかというと、その妙案もなく。
「……それで」
 イルファはぶっすりと唸った。
「どう思ってるんだ、ユーノは」
 イルファ自身はユーノがここに留まるとは思っていない。なのに、レスファートは彼女がここに留まると確信しているように思える。その理由を知りたかった。
「うん…」
 イルファの問いに、レスファートはゆっくりと瞬きする。何か遠いものを、いやむしろ自分の内側を深く深く覗き込むような顔になる。
「……ひどく迷ってるの……。どちらかを選ばなきゃならない……けど……どちらを選んでもどうにもならない……って。泣きたくなるよ…」
 アクアマリンの瞳が潤む。
「悲しくて……寂しくて……迷ってる…ユーノ…」
 吐息が湿った。
「泣きたいのに……泣かないんだもん……ユーノ……ぼくの方が…セツナイよ」
「せつない、ねえ」
 こんなガキが、切ない、と言うかよ。
 イルファは溜め息を重ねて、唇を噛んで俯いたレスファートを見下ろす、と、ふいに間近に人の気配がした。直前まで感じなかった気配、思わず腰の短剣に手をやって振り返り、イルファは呆気にとられる。
「…お前…」
「やあ、イルファ」
 相手は朗らかで明るい笑みを返してきた。足下に踞る少年に気づき、不審そうに眉を寄せる。
「レス、どうしたの? どっか、擦りむいたのかい?」
「、ユーノ!!」
 白いチュニック、腰に鈍い銀の帯、額に透き通る輪を嵌めたユーノが、飛びついてきたレスファートを受け止め、しっかりと抱き締める。微笑みながら、レスファートの髪に頬ずりし、小さく囁いた。
「どうしたんだい、レス? ん?」
「ユ、ノォ…」
 首にしがみつき、その胸に潜り込もうとするように身を揉んで、レスファートはしばらく強くユーノに抱きついていた。それからようやく満足したように、顔を上げ、体を離して、ユーノを見上げた。
「大丈夫だった? ねえ、何してたの? もう、ユーノ、帰ってこないかと思ってた」
 帰ってこない、のことばを聞いた瞬間、僅かにユーノは眉をひそめたが、すぐに悪戯っぽい笑みを広げて片目をつぶる。
「でも帰ってきただろ? また、後で話してあげるよ。……それより、もうお昼だよ? お腹空いてない、レス?」
「すいてる!」
 さっきまでべそをかいていたのを忘れたように、レスファートは喜々としてユーノの手を引っ張り、屋敷の方へ歩き出す。
「現金な奴だな、俺だと『いらない』で、ユーノだと『すいてる』か?」
「ふふっ」
 イルファの呆れ声にも、レスファートは上機嫌で先に立って歩いていく。手を引っ張られながら、ユーノは生真面目な顔をイルファに向けた。
「アシャが『狩人の山』(オムニド)に行ったんだって?」
「ああ、あんまり気楽な所じゃなさそうだぜ」
「そう、らしいね」
 ユーノが厳しい表情になる。
「そっちは?」
「後で話すよ。アシャのことも聞きたいし」
「わかった」
「早くぅ!」
 苛立たしげに急き立てるレスファートに苦笑しつつ、ユーノはイルファに頷いてみせた。
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