『ラズーン』第四部

segakiyui

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4.緋のリヒャルティ(3)

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「これはこれは…」
 淡い緑がかった透明感のある石を使った館の私室で、濃い紫の長衣に上着を羽織っただけの軽装で出迎えたセシ公は、待っていたユーノ達を認めると微かに笑った。まだ年若い、『銀羽根』のシャイラとそれほども離れていないだろう年格好、端正な顔立ち、銀色に近い金の長髪、右目の上に垂らした髪の奥から艶やかな茶色の瞳が笑うと、明らかに男性なのにどこか艶めいた、独特の妖しさが漂う。
「騒がしいと思ったら、こういうことか」
 微笑を深めて椅子に腰掛け、肘掛けに右肘をついて顎を支える。どこか冷ややかに弟に声をかける。
「ずいぶんと派手な遊び方をしたらしいな、リヒャルティ」
 遠回しに、お前が止められなかったのかと咎めているような口調でもある。
「見かけと全然違うんだぜ、兄貴、このユーノっての」
 くい、と顎でユーノを指し示し、リヒャルティはふて腐れた表情で唸った。
「もう少しで殺られるところだったんだ」
 決してを手を抜いてたわけじゃないって。
 肩を竦めてリヒャルティは目で語る。
「申し訳ありません、セシ公」
 ユーノは熱くなる頬で深々と頭を下げた。
 もちろん、今夜のことはどう考えたってユーノが不躾で失礼だ。リヒャルティの備えを責められる謂れは全くない。むしろ、突然の侵入者に対して一歩も引かずにすぐに応戦できた、『金羽根』をこそ褒めるべきだ。リヒャルティの糾弾が続くようなら、とにかく悪いのは自分なのだと繰り返し訴えようと考える。
「こんな夜中に突然お訪ねして。急を要する事だったので、『金羽根』の方に理解って頂く暇がなかったんです」
「構わないよ。どうせ、リヒャルティの方が先に手を出したんだろう」
 セシ公はちらりとリヒャルティを眺めた。
「だが、それを腕尽くで黙らせたとなると、なかなかの遣い手だな」
 声は軽いが瞳は笑っていない。だが、その空気を読まない男がここに一人居た。
「ま、そりゃな」
 イルファが自慢げに、にかりと歯を見せる。
「何せ、アシャ直々に剣を習ってた奴だしな。野戦部隊(シーガリオン)にいたこともあるし」
「え?」「野戦部隊(シーガリオン)?」
 異口同音に問いかけるような顔でセシ公とリヒャルティが自分を見るのに、ユーノは思わずイルファを窘めた。
「イルファ、それは」
「いいじゃないか。これから手を貸してもらわなきゃならないんだ。それに遅かれ早かれわかることだろ」
 なぜ俺に文句を言われるんだ? 
 そういう顔でイルファが瞬きする。
「それは…そうだけど」
「ふうん、アシャに、な…。それに野戦部隊(シーガリオン)……」
 セシ公は目を細めた。
「そういえば、一人他所者で名を上げた人間の話を聞いたことがある。確か、『星の剣士』(ニスフェル)…」
「っ」
 ラズーンへ入ってから、野戦部隊(シーガリオン)と同行していたと聞いても、その名前をユーノを結びつける者はいなかったのに、セシ公は易々と見破った。
「『星の剣士』(ニスフェル)?!」
 リヒャルティが素っ頓狂な声を上げる。
「『星の剣士』(ニスフェル)って、あの、『星の剣士』(ニスフェル)?! 本当かよ!」
「えっ、あ、うん」
 相手の興奮に戸惑いながら、ユーノはおずおずと頷く。
「ちぇーっ! オレがかなうわけねえ、勝てるわけねえじゃねえかあっ、『星の剣士』(ニスフェル)相手じゃ!」
 リヒャルティはきりきりしながら癖のある金髪をかきむしる。
「まあ、そう嘆くな、リヒャルティ。それより」
 セシ公は薄ら笑いを浮かべて、半裸姿の弟を促した。
「さっさと着替えてこい。そこで覗いている女どもがうるさくてかなわん」
「ん?」
「きゃあっ」
 きょとんとしたリヒャルティが振り返ると、戸口のあたりにこっそりと集まっていたらしい女官達が、真っ赤になって慌てて走り去っていく。
「真夜中だ、あんまり刺激的な格好をするな」
「じゃあ、昼ならいいのか?」
 と、わかっているのかわかっていないのか、リヒャルティは滑らかな背中を反らせて髪をかきあげ、戸口を見やる。セシ公が軽く溜め息を重ねる。
「それに、女性の前だぞ、少しは慎め」
「女? もう逃げたろ? どこに残ってる?」
 きょろきょろ周囲を見回し、セシ公の視線を追ってユーノに辿り着く。
「へ? おい……まさかっ」
 引き攣った顔になったせいで、美少年が一気に間抜けに見える。ユーノは仕方なしに苦笑いを返した。
「いやだってそんなカッコ」
「まさかとは何だ。わかったら早く行け」
 ぴしりとセシ公が遮って命じる。
「あ、あ、うん、あの、えーと、すまん、な?」
 慌て気味にユーノに向かって片手を上げ、急いで部屋を出るリヒャルティを見送ったセシ公は、小さく吐息をつくとさらさらと髪を揺らせて振り返った。
「どうも無作法な奴ですまない、ユーナ・セレディス」
「!」
 またどきりとして目を見張ると、相手は薄く微笑んで続ける。
「本名を? そういう顔だな?」
 ユーノの驚きを楽しむように、くすくすと笑う。
「私は別名、ラズーンの情報屋とも呼ばれている。事の真偽はもちろん、些細な噂も世界の一大事も、ラズーンまで届く情報はまず私の耳に入る……だが」
 す、っと、刷毛ではいたようにセシ公の表情が変わった。長衣の肩に乱れた髪を軽く払い、隠されがちの右目でユーノを射る。
「さすがの私も、今夜の訪問の理由はわからない。アシャほどの男が直接手に掛け育て上げ、かの野戦部隊(シーガリオン)のシートスが、他所者にも関わらず額帯(ネクト)を贈ることを許した人間が、『金羽根』に連絡を取ることもなく、こんな夜半に分領地の境を越える、その理由が。……話してもらえるのだろうね?」
 それまでの、どちらかというとなよやかに見えた気配が一変した。容赦のない、隙のない、鋭く尖った牙を向ける獣の顔、穏やかな口調だけにぞくりとする。
 ユーノは思わず背筋を正して向き合い、しっかりと頷いた。
「はい、是非お聴き下さい」


 ジジッ。
 灯皿が微かな音をたてた。ゆうらり、ゆうらり、と揺らめく炎にじっと目を据えていたセシ公が、ゆっくりユーノに目を戻す。
「すると……ガデロのダイン要城に姉君が囚われていると?」
「はい」
 きゅっとユーノは唇を噛み締めた。
「期限は五日……既に…」
 窓の外には白々とした光が漂い始めている。
「二日は過ぎました。後三日以内に辿り着けなければ、姉の命はありません」
「セレドのレアナ姫…」
 それが癖らしく、少し眼を細めて、セシ公は煙るような色を淡い茶色の瞳に浮かべた。
「美しい女性とのことだが…」
「ええ」
 ユーノは唇の両端を軽く上げた。
「アシャが心奪われるほどに」
「…それで…」
 セシ公はためらうように問いかけてくる。
「そのために、たった二人でダイン要城へ?」
「他に動ける者がいません」
 声が虚ろにならないように、注意しながらユーノは答えた。
 慣れているはずだ、そうだろ? 傷は後で舐めればいい。今は痛みを忘れておくんだ。でないと、『本当に』痛みさえ感じない世界に引き込まれてしまう。二度とアシャの顔も見られなくなってしまう。
「だから、私とイルファが動いたんです」
「わかった」
 セシ公は、肘を突いた手の甲を優美に曲げて片頬に添え、軽く眼を伏せた。
「力を貸そう。地下道への入り口もすぐにわかる。だが、明日だ」
「っ、どうして?!」 
 思わずユーノは椅子から立ち上がった。
「体力が保たない」
 セシ公は淡々と突き放す。
「そんな!」
「ダイン要城を甘く見ないことだな。既にあなたは二日近く不眠不休、おまけにあのバカと一戦交えている」
 きらりと光を放って、セシ公の瞳がユーノを射抜いた。
「なるほど、あいつは短気でおっちょこちょいだが、伊達に『金羽根』の長を名乗っているわけではない。並の視察官(オペ)なら、あいつ一人で十分相手できる」
 弟の前では決して見せないだろう、どこか誇らしげな気配、唇を軽く歪めて続ける。
「そのリヒャルティを、いくらアシャに剣の手ほどきを受けていたからといって、女のあなたが腕尽くで黙らせたとなると、これはあなたの方も並の疲れ方ではないはず………。そんな女性を放り出すわけにはいかないな、私の性分としては」
「だけど!」
 口に出し切れぬ苛立たしさに歯噛みしながら、ユーノは言い返す。
「そうしている間に、姉さまが…!」
「だからと言って、私の協力なしに、あなたが三日以内にダイン要城へ行けるわけもない」
「っ…」
「だーめだぜ、ユーノ」
 イルファが両手を差し上げる。
「生っちろい面のわりにゃ、そう簡単に教えてくれそうにない」
「……わかり、ました」
 ユーノは溜め息をついて、腰を落とした。
「夜が明け、私達が動けるまで、少し休まれるがいい」
 セシ公は淡く微笑して、つい、と戸口の方を見た。
「リヒャルティ! そこにいるのはわかってるぞ」
「ちっ…」
 軽い舌打ちをして、戸口の影からリヒャルティが再び姿を現した。鈍い青の短衣に着替えた姿は、皇族と言っても通るほどだったが、不敵な表情は紛れもなく戦士のものだ。
「客人を部屋に案内しておけ。私は明日のための人間を集める」
「了解……あ、兄貴」
 セシ公の命令に、リヒャルティはひょいと振り向いた。
「その中にオレも入れておいてくれよな?」
「『金羽根』の長のくせして」
「いいじゃないか。オレ、ユーノが気に入ったんだ」
 にこり、と邪気のない笑みをユーノに向ける。
「女にしちゃ、いい腕だし、飾らないとこもいい。頬の傷…」
 戸口を出ようとするユーノを振り返り、すっと顔を近づけた。ほぼ同じぐらいの背をいいことに、舌を軽く、ユーノの頬に擦らせる。
「!」
「悪かったな」
 片目で笑って歩き出す。
「レスが怒るぜえ」
 イルファの呆れ声に、ユーノは引き攣りながら先に立つリヒャルティを見つめた。


 ダイン要城は黒々とした夜にその身を潜ませている。
 人の気配はしない。
 灯が一つだけ微かに、奥まった一室にともっているのが、妙に眩くユーノの目を射た。
(姉さまはあそこに居る)
 ごくり、とユーノは唾を呑み込んだ。滑らせた手に慣れた剣の手触り、吹き抜けた風は近くの沼沢地の生臭さを含んで、体に重い。
(よし!)
 ユーノはそっと、隠れていた茂みから走り出した。掘に渡した橋に見張りの姿はない。イルファ達が起こした騒ぎに引き寄せられているのだ。
 影が移り進むように橋を渡り切ったユーノは、ひた、と城門横の小さな潜り戸の近くに身を寄せた。そろそろと片手をずらせていきながら力を加える。ぎぃっ…と微かなきしみ音に、体中の神経が張りつめる。
 敵はまだ気づいていない。
 僅かに開いた隙間に静かに体を押し入れた。気配を殺して、城門奥の広場を見回す。
 隅に篝火が赤々と燃え上がっている、その側にも人影はない。
 にっと笑って奥へ向かって走り出そうとしたユーノは、ふいに視界の端に過ったものに体を硬直させた。
 篝火のちらつく光の中、それは、まるで人形のように、壁に突き立てられた鉄棒から吊り下げられている。俯いた横顔は、赤っぽい光の中でもそれとわかるほど蒼白い。
(誰…?)
 そろそろと覗き込んだユーノの目に、見慣れた柔らかそうな栗色の髪が映る。そして、それに囲まれた優しい顔立ちは…。
「姉さま!」
 体中の血がどこかの虚空に吸い込まれる。視界が暗くなる。よろめく足を踏みしめて、ユーノはその人影に近寄った。震える手、触れた体の冷たさに頭の中心が空白になる。
「ど…うして……姉さま……私が……来る前に……?」
 呟くことばが遠くの闇に谺する。
「姉さま…」
 答えないのは、死の酷さに口を噤んだため…。
「姉さま!」
 返ってくるのは、ユーノの悲鳴だけ。
「姉さまーっ!!」 
 絶叫してしがみつくユーノの手に、ぬめりが伝い落ちる。
(ね・え・さ・まーっ!!)
「あ…う!」
 びくんと体を震わせて、ユーノは目を開けた。溜まっていた熱いものが目元を再び滲ませて零れ落ちる。
「夢…か…」
 呟いて、のろのろと目元を擦った。
 外から差し込む陽はかなり高くなったものだろう、くっきりとした輪郭を持つ影を、部屋の隅々に刻みつけている。
「は…ぁ…」
 深い息を吐いて、ユーノは手の甲を額に当てた。冷や汗でべったりと濡れそぼっているのは額だけではなかった。緊張で強張っている体も、ぐっしょりと重い汗に包まれている。
 しばらくじっと目を閉じ、胸の鼓動がおさまるのを待っていたユーノは、やがて静かに目を開けた。
(冗談じゃない)
 体を起こし、両手で顔を覆い、粘りつく汗を拭い、髪を後ろへかきあげる。
(そんなことにさせるもんか)
 ぎりっ、と奥歯が鳴った。
「ユーノ!」
 いきなり、激しい音を立てて扉が開かれた。そちらへ顔を振り向けると、イルファが不審そうな顔で突っ立っている。
「どうした? 何か呻き声が聞こえたぞ」
「あ…あ、ごめん」
 噛み締めた顎を無理に開け、強いてにこりと笑ってみせる。
「ちょっと嫌な夢を見たから」
「それならいいが。セシ公が呼んでるぜ、出かけてもいいかって」
「わかった」
 上掛けをはね除けた。どす黒く濁る想いを振り切るように、首を振って立ち上がる。
「行くよ」
 握りしめた剣がいやに冷たく固かった。


「ダイン要城はラズーン領とガデロ領の境近くになる」
 瀟洒な造りに不似合いな重厚な雰囲気の部屋で、セシ公は机の上に地図を広げた。さらさらと音をたてて流れ落ちた髪を、優しげな仕草でかきあげる。
 部屋の壁には所狭しと各方面の地図がかかっていた。それらの地図にはどれも様々な色や形の徴がつけられ、幾本もの線が引かれている。中央に置かれた机は人の背を越えそうな地図でも楽に広げ切ることができ、書き込みを予想してか途切れることない一枚石で作られている。部屋の隅にはユーノが見たことのない、だが、明らかに武具の一種と思われるものが立てかけられ、積み上げてある。何かの工夫を凝らそうとしたのだろう、縄や金具を取りつけたり組み合わせたりしてあるものもある。
 この部屋はおそらくは作戦会議室として使われているのだ、平和が続いているこの今も。セシ公が自分で卑下するように、単なる情報屋ではないのは明らか、実戦込みの戦略家であることをまざまざと感じさせる。
「三重の掘に三重の壁が侵入者を阻み」
 セシ公は説明しながら、女のように白く細い指先で、ダイン要城の回りを三度、円を描くようになぞった。
「兵は各守りの壁に最低二十名、門には同様に最低十五名、つまりは守りの数だけでも百名以上」
 ごっくん、とイルファが大きな音をたてて唾を呑んだ。
「城内には選りすぐりの兵士が巡士として控え、その数三十五名以上、城主の私室は中央に配置され、そこに辿り着くためには複雑に組まれた回廊を渡っていかなくてはならない。私室の前には控え室があり、ここにも守り二十名余…」
「はぁ」
 リヒャルテイが改めて溜め息をついた。
「いつ見てもすげえな」
「その通り」
「最低限の兵の数だけでも、倒すべき相手は百五十名以上の城…」
「囚われているとすりゃあ、たぶん、私室だな」
「おそらくは」
「どうする、ユーノ」
 セシ公とリヒャルティは同時にユーノを見つめた。
「正面から行っても死ぬだけだぜ」
「セシ公」
 ユーノは食い入るようにダイン要城を見ながら、低く問いかけた。
「地下道はどうなっています?」
「やる気かよ!」
 リヒャルティが大人しげな見かけに合わぬ台詞を吐く。
「無茶な野郎……おっと、お前は女だっけな」
 ふ、と微かな笑みを浮かべて、今度は真正面からセシ公を見据える。
「セシ公、地下道の入り口はどこに開いています?」
「それがさ、ダイン要代の外なんだよな」
 口惜しそうに呟くリヒャルティを振り向かず、
「違う」
「え?」
 ぴしりと遮ったユーノは、一言半句ゆるがせにすまいとするようにことばを続ける。
「ダイン要城のどこに、地下道の入り口はあります?」
「おい、ユーノ、無理言うな」
 イルファが、お前が焦るのは珍しいな、と割って入る。
「いくら四大公の一人だからって、そうそう、こっちの都合で、地下道の入り口をあっちやったりこっちやったりできるかよ」
「……どうです?」
 が、ユーノは動じることもなく、セシ公を凝視している。セシ公も黙ってユーノを見つめ返す。しばらくの沈黙の後、唐突にセシ公が問いかけた。
「どうしてだ?」
「あなたは、甘い人間じゃなさそうだ」
 ユーノは少し目を伏せ、力を抜いた。直感は告げている、相手のことばの裏にあるものを。だがそれをあからさまにしてくれるかどうかは別問題だ。本心を知りたいのなら、こちらが警戒に竦み、身を構えていては得られるものも得られなくなる。
「ラズーンの情報屋だと言われた。事の真偽はもちろん、些細な噂も、世界の一大事も、まずは私の耳に入る、と」
 ゆっくりとセシ公の口調をまねる。
「それに、私を一目で『星の剣士』(ニスフェル)と見抜かれた………そのあなたが、今ラズーンが迎えようとしている動乱をご存知ないはずはない。なのに、あなたが動かれないのは、今『どちら』に動くにしても、勝算がないからだ」
 きらりと光った目がユーノを捉えた。猛禽類を思わせる酷薄な光だ。
「世界の存亡に関してさえ、そこまで慎重なあなたが、私の、今回の無謀とも言えるダイン要城攻めを、ああも易々と認め、協力して下さるということは……少なからぬ勝算がこちらにあるはず……」
 に、とユーノは唇を笑ませた。
「違いましたか?」
「……」
 再びの沈黙が降りた。
 外には陽が満ち、窓にもたれているリヒャルティの金の巻き毛を輝かせ、部屋に光を飛び散らせている。部屋の中では年若い二人の剣士が、己の目を信じて相手を牽制し合っている。
「……姉君は捕まっている」
 先に口を開いたのはセシ公の方だった。
「一刻の時も惜しいだろうに、よくそこまで落ち着けたものだ」
「惜しいからこそ」
 ユーノは一瞬歯を食いしばり、静かに口を開いた。
「万に一つの可能性も捨てたくない」
 噛み切るような激しさで吐く。
 ほうっ、とセシ公が溜め息をつき、微かに首を振った。その口許に楽しげな笑みが広がるのを、ユーノは見逃しはしなかった。
「私の負けのようだな。たいしたお方だ」
 にっこりと鮮やかに笑って見せる。
「それだけの胆力があるのなら、事は成功するだろう。実は、地下道はダイン要城の外に開いているのが最後の口なのだが、その先がないこともないのだ」
「へえ?」
 リヒャルティが体を起こした。
「オレも初耳だぜ、兄貴」
「だろうな」
 びっくりした弟の声に、セシ公は冷ややかに応じた。
「お前のようなバカに教えて、要らぬ騒ぎを起こす気はなかったからな」
「ひでえの、それが実の弟に対するやり方か?」
 ふて腐れるリヒャルティにはとりあわず、
「ずっと使っていなかったので、今も使えるかどうかはっきりしていないが、地下道の最後の入り口近くに隠し戸があって、そこからダイン要城の中へ入ることができるのだ」
「どこまで?」
「うまくいけば、城主の私室まで」
 ほっと息を吐くユーノに、セシ公は付け加えた。
「私室から城主が脱出するために作られた地下道のこと、外から入るのは用意ではないはずだ。もっとも…」
 誰を思い出したのか、懐かしげな笑みを浮かべる。
「特異な方向感覚を持つ視察官(オペ)なら別だが」
(けれど、アシャはいない)
 ユーノは唇を噛んだ。
(どっちにしても、結局は一人でやらなきゃならないことだ)
 気持ちの拠り所を求めて、無言で剣の柄に指を触れた。


 日にちは少し遡る。
 『運命(リマイン)』とギヌアに囲まれた『狩人の山』(オムニド)のアシャは、今や絶体絶命の危機にあった。
「殺れっ!」
 ギヌアの声と同時に、弓に矢を番えていた『運命(リマイン)』が手を離した。はっとして腕を十字に交差させ、矢を防いだアシャの腕と言わず腿と言わず、刻み目をつけた鏃が削ぎ取っていく。
「!!」
 苦痛に唇を噛み締めながらも、アシャはその一瞬、相手側にできた隙を見逃さなかった。雪を蹴ってとんぼを切り、雪煙で煙幕を張ると同時に、背後の『運命(リマイン)』に襲い掛かる。狙った一撃が違わず相手の肋骨を砕く鈍い音がしたが、相手は衝撃によろめくだけで致命傷には至らない。そこを、重ねた蹴りで相手を昏倒させて剣を奪い、アシャはギヌアに対峙した。
「ふ……ふふっ」
 強張っていたギヌアの唇の両端が吊り上がる。例えようもない不気味な笑いを漏らし、次の瞬間ぴたりと止めた。
「よかろう……アシャ。ここで葬ってくれるわ!!」
 拾い上げていたアシャの短剣を、こちらの胸元めがけて投げつけてくる。アシャがそれを跳ね飛ばすわけにはいかないのを知っての行動だった。
 ザシュッ…。
「くっ」
 異様な音とともに雪の上に鮮血が散る。歯を食いしばったアシャの目に、雪崩を打って襲い掛かる『運命(リマイン)』の姿が飛び込んでくる。奪い取った『運命(リマイン)』の剣を捨てる間も惜しく、左胸の端と腕をかなり深く抉った短剣を引き抜く。
 重い音をたてて吹き出ていく血が雪を汚すのをそのままに、アシャは短剣を振りかざし、打ちかかった『運命(リマイン)』の黒剣に相対した。右からの剣を逸らし、左からの突きを弾く。足下から競り上がる切っ先に飛び退り、頭上から叩き降ろされた剣を受け止める。汗に濡れそぼった髪が張りついた額の下、『運命(リマイン)』の目を見返す。
 バチッ!!
「ぎゃ!」
 空気が破裂したような音が、アシャの短剣と『運命(リマイン)』の黒剣の合わせ目から聞こえた。同時に、魂消るような叫びを上げて『運命(リマイン)』が剣から手を離す。
 が、既に遅過ぎた。腕を抱えて仰け反る『運命(リマイン)』の手首から先が、だらだらと粘液質の流れとなって溶け崩れていく。
「ええい、何をしている!」
 一瞬たじろいで攻撃を緩めた『運命(リマイン)』にギヌアの叱咤が飛んだ。
「アシャとて神ではない! いつまでも保たぬわ! 討て討て、討ってしまえっ!!」
 煽られて勢いづいた『運命(リマイン)』が再び飛びかかる。と、突然動きを止めたアシャの、剣を持っていない方、負傷した左腕が緩やかに広げられた。
 はっとしたギヌアが叫ぶ。
「まずい! 退けっ!」
「遅いっ!」
 迸るような叫びがアシャの唇を衝いた。腕が広げられるに従って、散った鮮血が空に紅の弧を描く。次の瞬間、その弧に含まれた空間が真白く白熱した。
「ぎゃあっ!!」「ぐあっ!」「げああっ!」
 飛びかかった五人が空中でびくんと引き攣り、瞬時にして炭化、溶解し、雪の上に黒い流れとなって雪崩落ちた。熱と余波を受けて、やはり六、七人が倒れて呻く。しばらくもがくうちに、これもどろどろと溶けていくところを見ると、まだ完全に『運命(リマイン)』と同化していなかったらしい。
「え、ええいくそ! 覚えていろ!」
 形勢不利と見たギヌアが身を翻し遁走するのを、アシャはぼんやりと見た。追ってとどめを刺す、それさえも考えつかないほどの疲労感、視界からギヌアが消えるとほぼ同時によろめいた体を、木にもたれて支える。だが、それで保てずに、幹の傾きに添って、アシャはずるずると滑り落ちた。真紅に染まった左手と脇腹から滴り続ける血があたりの雪を淡いピンクに染めている。あちらこちらに転がった『運命(リマイン)』の成れの果てが立ちのぼらせる腐臭が鼻をつく。
「ふ…ぅ…」
 溜め息を一つついて、アシャはのろのろと汗で濡れた髪をかきあげた。左手が重い。この出血量ならそれほど大きな血管は傷つけていないはずだが、それにしては止血が遅い。傷を受けた直後の無茶で、深部組織が傷ついたか。
 救急用の薬を探った。とにかく痛みを止め、多少の無茶は押してラズーンに戻らなくてはならない。ユーノに仕掛けられた企みを何とか食い止めなくてはならない、今ここで倒れている暇はない。
「く…」
 雪に埋もれた体が冷えてなお重みを増す。傷を庇って体を起こそうとしたが空しく、アシャの意識は急速に闇に呑まれていった。
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