『ラズーン』第四部

segakiyui

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4.緋のリヒャルティ(2)

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 夜から昼、そして夜。
 ほんの僅かな休憩と食事を覗いて、ユーノ達はほとんど駆け通しに駆けて、ようやくセシ公分領地に入る。
「だけどな」
 蹄の音の合間にイルファの声が響いて、ユーノは少し速度を緩めてそちらを見た。
「ラズーンてな、でかい割にあんまり兵隊がいねえな」
「そうだね」
「この分領地の境にしても、見張りらしい見張りは一人もいなかったろ? いいのかねえ、こんなことで」
「ラズーンへ入るまでに検問があるからね」
 ユーノはラズーンの外側をぐるりと取り巻く白亜の外壁を思い浮かべた。
「じゃ、『何かの手違い』で入っちまったら、どこ行こうと勝手ってことか?」
「うん…」
 ユーノの頭に、ラズーンの外壁の中に居ても狙われる事実が甦る。入ってしまえば……誰がその人間を疑うのだろう。まず誰も疑わない。誰もが『太皇(スーグ)』に敬意を抱き、この統合府の支え手であろうとする者だと思われる。
(今まで平和な治世が続いていたせいか)
 そう思ったとたん、ユーノは自分が人としてひどく汚れているような気がした。右肩の傷痕が痛みもないのに、疼く気がする。
(あの時は……さすがに、もうこれまでだと思ったな)
 今まで何度も死にかけて来たが、あそこまで、死の黒い冠を間近に見たのは初めてだった。
 それは想像したほど冷たくはなかった。だが、想像していたよりも遥かに強い虚無感、血を流し続けたせいもあったのだろうか、生命の灯が一瞬毎に揺らいでいくのをどうしようもできずに見つめている無力感が体の中に詰まって、血の流れを止めていくようで。そのまま自分が形のない何ものかへと崩れていくような気がした。
「…ん?」
「どうやら」
「おでましみたいだね」
 いつの間にか、ユーノ達の蹄の音に重なって、別方向から大地を蹴りつける音が響いていた。
(右…三騎……左…二騎)
 月光は今夜も明るい。一瞬隠れた月が雲間から顔を出すと、総勢五騎がユーノ達の回りをひたりと囲んでいる。
 だが、それは何と奇妙な一団だっただろう。一人を残して、燃え上がるような金の鎧兜に身を固め、あまつさえ、その下はまさに紅蓮の炎の衣、夜襲の出で立ちにしてはあまりにも派手すぎる。そのうえ、その四人の手には獲物一つもなく、ただ黙々とユーノ達を取り囲んでくる馬の扱い方で、かろうじて騎士らしいとわかる程度だ。
(一体、何者だ?)
 ちらりとイルファを見ると、相手も同じような訝しげな表情で見返してきた。
(仕掛けてくるわけでもない……かといって、見逃すわけでもない……それに)
 ユーノは、残った一人、ちょうど行く手を遮るように馬を疾らせている人間に目をやった。
 おそらくは、このような状況では、他の何よりも異様に見えるだろう。
 相手が跨がっているのは黒馬、闇夜さえ浅く見えそうな深い黒に、他の四人と同様に真紅の衣を纏っているのが鮮やかに映える。だが、より鮮やかに目を射るのは、その衣の下から見え隠れするすらりと伸びた白い素足で、すね当てもなく晒したその白さが眩いほどだ。獲物一つ、防具一つ身につけず、足と同じく真っ白な二の腕を見せて、馬を駆り続けている。
「女か?!」
「違う」
 イルファの問いを、ユーノは言下に否定した。
(女なら、あそこまで無防備に体は晒さない)
 傷つくのを避けることはもちろん、最終的に武器に使うならなおさら、体は無傷で残しておこうとするものだ。
(でも男にしては、意図がわからない)
 肌を晒して何を挑発しようというのか。
 鋭い目で、先頭の人間を凝視していたユーノは、ふと耳に響いた音にはっとした。ズボッ、というぬめりのある低い音。気づいたとしても、意味を考えるまでもないほどの微かな音、だが、戦いで鍛え抜かれた勘が警告音を鳴らす。
「イルファ!」
 叫ぶと同時に手綱を引き、ヒストの歩みを止める。いきなり制止をかけられて猛ったヒストが棒立ちになって荒々しく嘶くのにも屈せず、ユーノは首を振った。
「だめだ!!」
「うぉうっ?!」
 ユーノの叫びにただならぬものを感じたのか、やはり手綱を引き絞ったイルファが野太い声で喚いた。軽量のユーノでかろうじて残った衝撃に耐えられず、慣性に引きずられて馬の背から滑り落ちる。同時に、ようよう後ろ足で保たせていた釣り合いを崩した馬が、横倒しに倒れ込む。
 どぶっ…。
(やっぱり)
 はああっ、と深い息を吐きながらヒストをようやく御したユーノは目を細める。
「な、なんだあっ?!  この辺一帯、ドブ泥じゃねえか!」
 転げ落ちたイルファが苛立たしげに吠える。
 いつの間にか二人の包囲を解いていた騎士達が、前方に居た騎士が馬首をこちらに向けて立ち止まっている場所へゆっくりと集まっていく。それを目で追ったユーノは警戒に逆立つ神経を宥めながら、ひたりと相手を凝視した。
「そうだ」
 正面に居る人間が、紅のフードの下からぽつりと答える。妙に甘やかな、男とも女ともつかぬ声音だ。下半分だけ見えている顔の、淡色の唇がにやりと不敵な笑みを浮かべてことばを継いだ。
「見かけによらず勘がいいんだな。もう少しで底なし沼行きだったのにさ」
「何者だ?」
「セシ公領地の守り、『金羽根』の長」
「!」
「我が守りを侵すものは…」
 ぱさりと跳ね上げられたフードの下から輝くような金髪が現れた。色白の顔は少女のようにあどけなく、笑み綻んだ唇は特別な果実の艶を思わせる。衣の色を映したような、ほとんど赤に近い茶色の瞳がぎらりと光ってユーノを射る。
「緋のリヒャルティがお相手する!」
 言うや否や、まるで中空を翔るように黒馬がユーノ目指して駆け寄ってきた。いつの間にか左手に握られた短剣が、蒼い月光を跳ねてますます青白い光を放つ。
「ま…」
「問答無用!」
 年の頃、まだ十四、五歳か。小柄な体に凍りつくような殺気を漲らせて襲いかかってくるリヒャルティに、剣を抜き合わせるのが精一杯だった。
「いい腕だな」
 相手の薄く笑った唇からピンクの舌が出て、上唇を舐める。
「『運命(リマイン)』にしとくには惜しい」
「『運命(リマイン)』だあ?!」
 どぶ泥から何とか立ち上がったイルファが、呆れ果てた声を上げる。
「とんでもねえぜ……おうっと!」
 反論しかけて、飛びかかってきた男の剣を避ける。
「おいユーノ! どうすりゃいい?!」
「どうすりゃって!」
 ぎりっ、と歯に滲みるような苦い音をたててきしむ剣を支えながら、ユーノは困惑した。まさか、のっけから『金羽根』とあたることになるとは思わなかった。かと言って、これからセシ公の協力を得に行こうとしているのに、『金羽根』を倒してしまうわけにもいかない、が。
「話してわかる相手じゃなさそうだ!」
「じゃ、殺れってのか?!」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる」
 リヒャルテイがきらびやかな外見に不似合いなドスのきいた声で唸った。
「おらおら行くぜ!」
「つっ!」
 キン、と鋭い音をたてて跳ね上げられた剣が頬を掠め、思わず片目をつぶる。
(冗談じゃない、ほんとに殺られそうだ)
 強く舌打ちして、改めて剣を構え直しながら叫ぶ。
「聞けよ、リヒャルティ!」
「先にその口を閉じてやるか!」
「く、そっ」
 身を引いて距離を取り、瞬時小さく息を吐く。少々荒っぽいが、この際仕方がない。感覚を研ぐ、意識を沈める、呼吸を調整する。緩やかに剣を動かす、円を描くように、腕と手で空間を幾つもの塊に区切る、すぐにそれを崩してかき回し、滑らかに並び替えていく。アシャ直伝の視察官(オペ)の剣法だ。
(相手の動きの規則性を読み取る……無意識に撒き散らされる防御の動きと攻撃に移る動きの違いを見分ける……そして、その全てを遮る…)
 カッ……カン! カン!
「んっ?!」
 今までかなりきわどくユーノの懐に突っ込めていた剣が、突然ことごとく受け止められ始めてリヒャルティがぎくりとした顔になった。
(次に、相手の空間を読む……どこまでをどのように支配したがっているのか……どこから手放してもいいと考えているのか……そこに何が隠されているのか…)
 アシャの声がユーノの耳元で響いている。攻撃を受け止めながら、囁かれる声に従ってリヒャルティの剣を追う目が、次第次第にある一点に吸いつけられていく。
(見えるはずだ……防御でも……攻撃でも……なぜか絶対に支配されない空間がある……道筋と言ってもいい)
 脳裏で甦る、鮮やかなアシャの笑顔と、翻るしなやかな指先、細身の腕が信じられない角度から一気に競り上がってくる衝撃、それはまるで目の前まで浸している闇の中から突然飛び出す蝶のよう、驚きに目を見張った瞬間に視界を覆われる攻撃、見惚れたとたん全てが終わっている。
 そうだ、視察官(オペ)の剣は全ての空間を満たすように構築されている。だが、普通の剣は、その本人には見えない死角が必ずある。目の前に迫る敵に立ち向かおうとして剣を抜き放った瞬間に地面から突き上げられる槍のように。ここからの攻撃はあり得ない、そう自分で密かに決めつけている盲点、それが『限界』というものなのだ。
 今ユーノはリヒャルティの剣の『限界』を見つけ出そうとしている。
(見えた!)
 閃く短剣の軌跡、その無数に重なる攻撃の中に、木の葉一枚ほどの微かな空間がぽかりと開いている。
「そこだ!」
「えっっ」
 はっとしたリヒャルティが、それでも咄嗟に剣を持ち直した時には遅かった。剣から吸いつけられていくように馬の背から離れたユーノが飛びかかり、見えた僅かな隙を貫いて相手の首筋に刃を突き立てようとする。
「く!」
 リヒャルティもただ者ではなかった。振り放せないと見るや、体を捻って自ら馬から滑り落ち、迫った剣を置き去ろうとする。
 だが、ユーノの剣はリヒャルティの首から離れなかった。狙いすませたように泥の中に転げ落ちたリヒャルティを追い、そのまま泥を跳ね上げつつ転がって逃げようとするのを一瞬で封じる。さすがにぎょっとしたのだろう、残りの四人が、イルファへの剣を凍てつかせて振り返る。
「う」
 泥を離れ、乾いた地面に仰向けになったリヒャルティが、顔を歪めてユーノを見上げる。首には長剣、腹には短剣を突きつけられて、逃れようがないと観念したのだろう、青ざめた顔で、それでも瞳の殺気だけは消そうとせず、吐き捨てる。
「殺れよ。オレは未来永劫、てめえらに属する気はねえからな」
「ふう」
 ユーノは息を吐いた。きょとんとした相手に笑いかける。
「やっと話を聞いてくれる気になったね?」
「は?」
 リヒャルティがぽかんと口を開ける。
「いい腕だけど、言わせてもらえるなら短気すぎる。『金羽根』の長だと言ったね? 私はセレドのユーノ、セシ公の所へ連れていってもらえないかな。ミダス公の手紙を持っているんだ」
「…じゃ……お前……」
「頼むよ、リヒャルティ」
 できるだけ穏やかに頼んでみる。と、見る見る相手が真っ赤になった。
「お前…お前なあっ!」
 しまった、これはもう一戦か、と緊張したユーノは、続いたことばに慌てた。
「剣を突きつけたまま、そういう頼み事すんなっ!!」
「え、あ、ごめんっ!」
 とりあえずまともに話ができそうならば、確かに剣は不要だろう。急いで狙いを逸らせると、ユーノの体を乱暴に押しやって、リヒャルティはけほけほと咳き込んだ。
「ごめん、そういうつもりはなかったんだ」
「何が、そういう、つもりはなかった、だっ」
 咳き込みながら首と肩を回し、泥塗れになった衣に舌打ちして、くるりと脱ぎ捨ててしまう。下は腰布一枚の半裸、泥で汚れているからそれほど目立たないものの、夜闇に冴えた色で浮かび上がる裸身を恥じた様子もない。あちこちを適当に拭った衣を馬の背中に乗せたかと思うと、喉に手をあててじろりとユーノをねめつけた。
「ったく、どういう剣法使いやがる。暗殺剣法か? 万に一つも逃すつもりなかったな? 物騒な奴だ」
 襲いかかってきたのはそっちだろう、とさすがにこれは突っ込めない。事実、アシャから教え込まれたのは敵を壊滅させるつもりの剣なのだから。そして、ユーノに必要なのは、まさに万に一つも敵を逃がさない剣、そうでなければ、とっくの昔に彼女自身が消されてしまっているのだから。
(でもそれは)
 きっと『物騒』で恐ろしい剣なのだろう、平和な世界からすれば。
「誰に習ったんだ? なんであんな剣を使ってる」
「……基本は、視察官(オペ)の剣だけど…」
「視察官(オペ)?」
 聞きとがめてリヒャルティが振り返る。訝しげに潜めた眉、煌めく瞳が改めて不審を満たす。
「お前……一体、何者だ?」
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