『ラズーン』第四部

segakiyui

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5.ダイン要城(2)

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 地下道の闇は不思議な騒がしさで満ちていた。静けさが生み出す幻聴なのか、遠くの方からざわめきが押し寄せて来ては、どこへともなく引いていく。とっぷりと密度濃い闇の中、ユーノとリヒャルティの手灯は、如何にも頼りなく心細い光を浮かび上がらせていた。
「こっちだ」
 リヒャルティの声は発したと同時に、光があることでより深くなった前後の闇に吸い込まれ、反響もなく消えて行く。
「土壁だね」
「ああ。遥か太古に造られた道らしいぜ。要所要所は石壁になっているらしいけど、間は土のまんま。だから、その間を縫って、枝道が山ほどあるんだってさ。オレは、兄貴の地図を覚えてるからわかるけど、まあ、普通の人間にゃ無理…」
「しっ」
 ユーノに遮られ、リヒャルティは口を噤んだ。そのままじっとユーノを見守る。が、周囲に満ちているのは、沈黙がもたらす、件の不思議な気配だけだ。
「何だ?」
「うん…」
 ユーノは少し眉をひそめた。
「人の足音がした気がしたんだけど」
「足音?」
 イルファが訝しげに、通り抜けてきた狭苦しい土のアーチの向こうを覗き見る。バルカが前方を透かし見ながら、
「俺には聞こえなかったが…」
「ぼくも聞いていない………足音ですか、ユーノ」
 ギャティが確認する。
「うん…」
 繰り返し尋ねられると、ユーノも確信がなくなってくる。気配を殺すようなヒタヒタとした足音が、さっきは確かに背後から迫ってくるように思えたのに。
「大丈夫だよ、ユーノ。さっきも言った通り、この地下道においそれと入ってくる物好きもいないさ。並の人間が入れば、一日で迷って五日で餓死する。もっとも『道』について、独特な感覚を持っている人間……視察官(オペ)なら別だが」
 リヒャルティが明るく言い放って歩き出す。
「その視察官(オペ)に…」
 はぐれまいと付いていきながら、ユーノは皮肉な口調になった。
「裏切り者がいるとしたら…?」
「な…、」
「!」
 言いかけたリヒャルティが途中でことばを切った。同時にバルカ、ギャティがリヒャルティと同じ方向を振り返る。気の早いイルファが剣の鯉口を切る。
「どうやら……お前の耳は確からしいぜ、ユーノ」
 リヒャルティが凄んだ声で言いながら、手灯を地面に置いた。手を伸ばしたギャティが手灯を持ち上げる。と、続けた一動作で背後の気配へと投げつけた。
「は、あっ!!」
 間髪入れず、剣を抜いたリヒャルティとバルカが襲いかかる。どれほど手練の者と言えど、狭い地下道の中、突然のめくらましに続く攻撃に、無事には済むまいと思われた次の瞬間、投げた手灯の明かりに光の筋が闇を走った。掃いた光の源は、凝った造りの金の柄。
(視察官(オペ)!)
 ユーノは息を呑み、剣を握る。
 ジャキッ! ガッ! ビッ…ン!!
「くっ」
 剣と剣の触れ合う音に、ユーノも剣を抜き放とうとした瞬間、聞き覚えのある声が闇の中から響いた。
「『金羽根』は短気だと聞いていたが、噂通りだな」
「あ…」
(まさか)
 呟いたことばが声にならない。誰よりも聞きたかった、だがまさか、こんな所で聞けるとは思っていなかった人の声……ユーノの胸に切ない苦しさが砕ける。
「、アシャ・ラズーン!」
 ギャティが頓狂な声を上げ、壁に突き立った短剣の刃に吊られた手灯と、それに照らされた女性と見まごうほどの優しげな顔立ちを見比べた。どれほど優男に見えても、あの瞬間に、しかもこの狭い隧道の中で、投げつけられた手灯を短剣で壁に射止め、リヒャルティの剣を躱して手首を握って自由を奪い、バルカの剣をも叩き落とすという荒技は、ちょっとやそっと名を知られた程度の武人にできることではない。加えて、アシャの手には灯一つなく、それはこちらのちらつく光一つでリヒャルティ達の動きを読み取ったことを雄弁に語っていた。
「アシャ…どうしてここに…」
 掠れた声が響いた。誰のものかと思えば、それが他ならぬ自分の唇から漏れたものだと知って、ユーノは少なからず動揺する。
(しっかりしろ。知られてしまうぞ、私がどんな気持ちか)
 心の中で叱咤して、アシャを見つめる。
 そうだ、知られてしまう、今どれほどの安堵が体を包んでいるのかを。
 アシャはユーノの驚いた顔に、にやりと不敵な笑みを返してきた。
「いや、『狩人の山』(オムニド)から帰ると、お前がガデロへ向かったということだろう? レアナ救出に腕がいるかと思って駆けつけてきたんだ」
(レアナ、救出に…)
 ずきりとユーノの胸の奥が疼いた。
(そうか……レアナ姉さまの、ため、か)
「そう…」
 強いてにっこり笑ってみせる。
「助かっちゃうな。でも、足手まといにならないでよね」
 かろうじて返せた憎まれ口が、滲まなかっただけでも褒めてほしい。
「あのな…」
 やれやれといった表情のアシャが呆れた声を出す。と、
「リヒャルティ?」
 いつもなら、先頭に立って混ぜっ返すはずのリヒャルティが、妙な顔でアシャを見ているのに、ユーノは首を傾げた。
「あ?」
 夢から醒めたような顔でリヒャルティが瞬く。
「何だよ、アシャがどうかしたの?」
「どうかもしますよ!」
 ギャティが言い返す。
「噂には聞いていたけど、こんな派手な剣だとは思わなかった」
 バルカがくすくす笑う。だが、リヒャルティは依然どこか腑に落ちないという顔で、アシャを見ている。
「何だ」
「いや…そのさ…」
 アシャの声に、リヒャルティはもぞもぞと身動きし、鼻のあたりを擦った。
「気のせいだろ……何か血の匂いがした気が…」
「アシャ!」
 リヒャルティのことばの後ろ半分は、イルファの大音声に消されてはっきり聞こえなかった。
「な、何だ?」
「俺は淋しかった!」
「あ…」
 はっきりきっぱり、自信をもって言い切るイルファに、アシャが倒れそうになる。バルカとギャティが複雑な顔で互いを見つめ、リヒャルティが引き攣った。ユーノは、まただ、と言う顔で額を押さえて壁に向く。
「そ……それがどうしたって?」
 アシャが笑みを強張らせて問いかける。
「どうしたもこうしたもないだろう。一度は妻にしようとまで想っていた相手が、単身、危険な所へ行ってたんだ。心配するのは当たり前だ」
「妻ぁ?」
「アシャ、あなた見かけだけじゃなくて中身も…」
「違う、違う、違うーっ!」
 ぎょっとしたように見るバルカ達に、アシャは苦り切って弁解する。
「あれは誤解で」
「誤解でも何でもよかったんだ、俺は」
 再びきっぱりとイルファが言い切り、アシャが絶句した。
「何だよ? 冗談だろ? だってアシャは男だろ? 妻にはなれんだろ?」
 と、これは、どうやらただ一人状況が呑み込めていないらしいリヒャルティの声だ。
「あーらら、我らがリヒャルティ、さすがにそういうとこは年齢が足りませんね」
「は?」
「そ。世の中にはいろんな趣味の奴がいるってことです」
「…ぷっ」
 リヒャルティをからかうバルカ達のやりとりを黙って聞いていたものの、ユーノはついに吹いた。隠れ忍び、真剣な作戦の最中なのに、いきなり緊張を切られたせいか笑いが止まらない。く、とアシャの口からも苦笑が漏れた。
「そうだな。今に始まったことじゃないか」
「そうとも」
 イルファは両刃の剣を差し上げる。
「俺の忠誠は、このリボンが証明している」
「どういうことです」
「つまりだな」
 リボンがなぜ剣に結ばれているのかを、イルファが滔々とバルカ達に講釈し始めるのを背中に、歩き出したアシャにユーノは肩を並べた。
「……本当にびっくりした。この地下道じゃ、慣れてない分こっちが不利だ。私が囮になって突っ込むかと覚悟したよ」
「そこまで考えたのか、あの瞬間に」
 アシャが溜め息まじりに応じる。
「相変わらず鋭いな」
「だって、相手が視察官(オペ)だったら、五分五分にしか持ち込めない」
 答えて、肩の奥に痛みが走った気がして、思わず口を噤む。
 アシャが優しい労るような気配を満たして覗き込んできた。
「元気そうだな」
 低い声に響く安堵に、ユーノもほっとする。
「ま、ね」
 軽く頷いて、アシャを見上げる。薄暗がりの中、背後とユーノの手灯の明かりに、端整な顔立ちが浮かび上がり、金の光が面輪を縁取る。まるで神々を描いた絵のようだ、と思った。
「アシャの方は? 大丈夫だった? 『狩人の山』(オムニド)はどうだった?」
 ここでこうして居るということは、それほど厳しい状況ではなかったのかもしれない。使者として、うまく役目を果たしたのかもしれない。だとしたら、この先の戦いが随分楽になる……。
「……その話は後にしよう」
 なぜか、それまで笑っていた顔を翳らせて、アシャは首を振った。考え込んでいるような色が瞳に澱む。
(アシャ?)
 アシャが口を噤むのは、自分に関わるラズーンの何かであることが多い。けれど、今はユーノだって、旅立った時のように無知な小娘ではないし、アシャもそれを知っているはずだ。アシャが口を噤まなくてはならない理由などないはずだ。
 不安な想いに問い正したくなったけれど、はっきりと拒まれた今はそれ以上尋ねるわけにもいかず、ユーノも眉を寄せて口を閉じた。
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