『ラズーン』第四部

segakiyui

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7.『泉の狩人』(オーミノ)(3)

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「セシ公」
「うむ?」
 ユーノの呼びかけに、椅子に座って両手の指を組み、じっと、机の上に載せられた銀色の輪を見つめていたセシ公は、ちらりとこちらへ視線を流した。紫の長衣の下は素肌、無造作にはだけた胸元に、銀の輪から反射した陽光が踊っている。白髪と見えそうなほど淡い金髪が首筋に絡みついて乱れ、嘲るような笑みを浮かべた唇に独特の妖しさがあった。
「御用だと聞きましたが」
「…」 
 目を動かすだけの促しに、ユーノはセシ公の前の席に腰を降ろした。再び相手の視線が落ちた銀色の輪を見て、相手の顔に目を戻す。
「これは?」
「ご存知ではないようだな」
「はい」
「これは『泉の狩人(オーミノ)』の『使者の輪』だ」
「『使者の輪』?」
 改めて、机の上を見つめた。
 ちょうど人の手首を飾るぐらいの大きさの輪だ。八本の細い銀の輪が組み合わさっているが、一本一本は繋がっておらず、それぞれ別々に動くようになっている。正真正銘の銀とは言えないかもしれない。だがちゃらちゃらと明るい光ではなく奥底からじっくりと光を跳ね返すような輝きは、純銀のものと見比べても見劣りはしないだろう。惜しむらくは、そのうちの四本が鉛色に変化しくすんでおり、ところどころ斑に銀色の輝きは残っているものの、意匠としては不気味な印象になってしまっている。
「かなりの細工物ですね」
 ユーノは率直な感想を述べた。これだけの細さの輪を、これほど丁寧に複雑に組み合わせ、しかも一本一本の輪には継ぎ目が見当たらない。まさか金属の塊をここまで削り出したとも思えないが、巧緻を極めている。
「この四本が惜しいけれど」
「そう…私達は既に八日、失ってしまった」
「…え?」
 セシ公のことばを聞き違えたかと、ユーノは瞬きした。
「この一本の輪が二日、全部で十六日間、それが私達に与えられた時間だった」
 セシ公がそっと変色している輪を撫でる。
「だは、そのうちの八日を失ってしまった、そういう意味だ」
 きらりと光って自分を見返してくる瞳に、ユーノは真顔になった。
「どういうことですか」
「アシャは半死半生で『泉の狩人(オーミノ)』と接触した」
「それは私も聞きました」
「だがそれは、不十分な会見だったに違いない。普通なら、誇り高い一族である『泉の狩人(オーミノ)』が、そんな不手際を許すはずがない。使者は屠られ、彼らの贄となっていたはずだ……たとえ、アシャであろうとも」
 ぞくり、とユーノは身を竦めた。
「だが、いくら『泉の狩人(オーミノ)』とはいえ、真の勇士に対しては敬意を払うものだ。その使者がどうしても遣いを果たせなかった場合、そして彼らが、その使者を、確かに彼らが待つに価すると認めた場合のみ、この『使者の輪』を託し、その与えた期間内にもう一度使者のやり直しをすることを命じる時がある。輪は一本で二日、アシャは八本、つまり十六日の時間を与えられたのだろうな。だが、それが果たせなかった時は…」
「その時は?」
「アシャを改めて屠りに来るか、信義を守るにふさわしくない相手であるとして、『泉の狩人(オーミノ)』がラズーンを見限り、『運命(リマイン)』につくか」
「しかし…」
 ユーノは思い出して確認する。
「『泉の狩人(オーミノ)』は『太皇(スーグ)』には従うのでしょう? ならばなぜ『運命(リマイン)』に?」
「……『泉の狩人(オーミノ)』は『太皇(スーグ)』に従う、のだよ、ユーノ殿」
 微かな苦笑がセシ公の唇に漂った。
「ラズーンに、ではない。むしろ」
 世界が滅びても『太皇(スーグ)』さえ無事なら全く構わないと考えている連中なのだ。
「そこには『太皇(スーグ)』の意志はない。『太皇(スーグ)』が自らを殺すような決断をするならば、彼らは『太皇(スーグ)』を拘束するかもしれないな」
「…そんな」
 それでは『泉の狩人(オーミノ)』とは一体何のためにいるのか、そう考えてユーノははっとする。
「……なるほど……泉の、狩人、か…」
 『人の世』を保つためのものではない。泉の中心を守るためにのみ存在するものなのだ。世界が滅びようと『太皇(スーグ)』とそれを保つ仕組みさえ無事ならば、人の種は存続する。今のこの世界が壊れようとなくなろうと、人の種さえ存続すれば、新たな世界新たな仕組みが生まれ出すだろう、そう考えるものなのだ。
 ラズーンの仕組みから言えば、それは至極自然なことだ。基本的には、泉を管理するものである『太皇(スーグ)』のみが、唯一必要な存在となる。『太皇(スーグ)』が再生し続けるのなら、本来、『正統後継者』は意味がない。それは元々『人の世』に関わる存在なのだ。
 それなのに、ラズーンにおいても『正統後継者』が選ばれるのは、『事故』があった時の代替え品だということだろう。再生を繰り返すための、体質や他の何かの適合条件があるのかも知れない。それらに適合しそうな者を数名選び、表向きの政務を教え込み、やがて隠されている泉の管理について学ばせる。『太皇(スーグ)』に万が一の『事故』があった場合に備え、ある時点から『正統後継者』の体も準備されるのかも知れない。
(だから…か)
 『正統後継者』であるはずのアシャがラズーンを離れることができたわけが、初めてわかった気がした。他の諸国の王族ならば、『正統後継者』が国を離れることは大変なことだ。国の存続に関わることだ。
 だが、アシャがたとえ諸国で果てようとも、ラズーンには大きな影響はない。彼は『その候補』の一人にしか過ぎないからだ。
(だから…アシャは)
 『正統後継者』ということばが周囲に与える印象を知っていた。国の礎となる者として敬愛を受けているという意味があることを意識していた。そして、ラズーンの『それ』が全く意味が違うことも理解していた。敬愛とはほど遠い現実と、それでも『正統後継者』と呼ぶ人々が抱く羨望をも。
 ユーノの頭に、溢れるような笑顔を向けてくる人々の姿が甦る。
 ラズーンへ入った時、アシャを迎えたあの熱狂。
 あれは確かにアシャに向けられていたものだ、アシャの才能や美貌や人格や、つまりはアシャの存在に向けられていたものだろう。
 だが、アシャはそうとっていたかどうか。
 誰も知らないところで世界を安定させるために、数百年の時間を死と再生を繰り返しつつ過ごす、いわばある種の人身御供を見送る人々の安堵の声でしかなかったのではないか。
(…ああ……)
 ラズーンを飛び出したアシャ。諸国遍歴を繰り返すアシャ。ラズーンへ戻りたがらなかったアシャ。
(私……)
 詰まる胸に唇を噛む。
(アシャを……連れ戻しちゃった、のか……)
 世界存続の贄として、歓喜と熱狂の手で捧げられる祭壇に、ユーノはアシャを追い込んだだけだったのではないか。
(わかる)
 それならわかる。自分の美貌にも才能にも周囲の好意にもどこか無関心な意味が。慣れているからというだけじゃない、そんなこと、何の意味もなかったからだ。
(どれだけ綺麗だと言われたって、才能があると言われたって、どんなにあがいてももがいても、先にあるのはあの『氷の双宮』だ)
 いずれは封じ込められ、世界を再生させる装置をずっと監視し続ける日々しか残らない。誰かとどんなに深い絆を結んだところで、やがて全ては奪われ失われていくのがわかっている、時間の中に、世界の闇に。
(……そんなところに……連れ戻しちゃった…)
 アシャはわかっていただろうか。わかっていて、それでもユーノに付き合ってくれたのだろうか。
 二度とここには戻らない、そう覚悟していたのは、ユーノではなく、本当はアシャの方ではなかったのか。
 アシャの胸に巻かれていた包帯。あれはダイン要城での傷だけではなく、ユーノに付き従うことでアシャが支払った心の傷みでもあったのではないか。
 そして今、『泉の狩人(オーミノ)』に向かおうとしているのは、その『正統後継者』としての役目に他ならない。
(だめだ)
 ユーノはゆっくりと瞬きして、滲みそうになった視界を追い払った。
(これ以上、アシャを傷つけるわけにはいかない)
 既に十分巻き込んだし、十分助けてもらった。それにむしろ、今後のことを考えれば、『正統後継者』の責務を支払うのは、アシャではなくてユーノだろう。
(……あれ?)
 だが、そこでユーノは再び疑問に突き当たる。
 アシャは『第一正統後継者』なのだ。
 もし、今の考えでいくなら、アシャであろうとギヌアであろうと、最後は適合の問題なのだから、別に順位は関係がないだろう。いよいよと言うときに初めて、誰が『次』として準備されるかが決まるはずではないのか。
(なのに……どうして、アシャは『第一』なんだろう…?)
「ユーノ殿?」
「…セシ公」
 呼びかけられて思考を中断した。
「その使者はアシャでなくてはいけないんですか?」
「……それを聞いてどうされる?」
 机に肘をつき、ゆっくりと細い指を組み合わせたセシ公が、その向こうから鋭い目でユーノを凝視する。
「…気づいてるくせに」
 思わずくすりと笑ってしまった。相手の目に浮かんだ、らしくもない心配そうな色に、微笑んだまま目を伏せる。
「あんな状態のアシャを行かせられると思いますか? ……彼には、今までずいぶん助けてもらったんだ」
(そうだ、本当に)
 ユーノが知らなくて気づいていなかった、たくさんの部分で。
「だから、今度は私が役に立つ番なんです」
「『だから』、一人で?」
 セシ公がにこりともせず詰めてくる。
 ユーノは黙って笑みを深めて応じ、立ち上がって壁に貼られて地図に向き合った。一番大きく広範囲なものをに指を伸ばす。
 古びた黄色地の布に彩色を施したその地図は、中央より少し上にラズーンの『氷の双宮』を描き、その上方に聖なる『狩人の山』(オムニド)、下方に四大公の分領地を始めとするラズーン支配下(ロダ)を配してあった。セレドは遠過ぎて、この縮尺では地図におさまらなかったのだろう、懐かしい祖国の名はそこにはなかった。
「セレドはこのあたりかな」
 指先を地図の外、薄緑色の貴石の上に滑らせて小さな丸を描き、そこからまっすぐ線を引き、『氷の双宮』までなぞる。
「……短い旅ではなかったはずだ」
 セシ公が低く呟いた。
「その間、あなたはアシャとずっと一緒だった」
 どこか惑いを秘めて柔らかな声音だ。
「短い旅じゃなかった」
 同じように低く応じた。
「長い旅だった……それでも」
(アシャはレアナ姉さまを呼びました、セシ公)
 切なく苦く広がった傷みを瞬時に振り切り、ことばを継ぐ。
「それでも、私にとっては何より幸福な旅だったんです、セシ公」
 肩越しに視線を投げる。こちらを貫くように見つめるセシ公の瞳をたじろぐことなく見つめ返す。
「ここまで来たからには、無事にセレドへ帰りたいものですからね」
 にやりと笑って片目をつぶった。深い憂いがセシ公の左目を覆い、相手は優雅な仕草で髪を払う。
「その後は?」
「え?」
「セレドへ帰ってからは、どうするんだ?」
 胸の奥へまっすぐに突っ込んでくるような問いに、答えを失う。
「……まだ…考えていません」
 ユーノは再び地図に目を戻した。
「セレドは遠いですからね………まずは無事に帰ること……もし、生きて帰れたら……そうだな…」
 『正統後継者』の話をまだ公にしていいのかどうかわからなかった。そっと笑ってみせる。
「また、旅に出るのもいいかもしれない」
「もう一度、ラズーンに来る気はないか?」
「?」
 きょとんとして振り返る。情報通のセシ公は、もう何か悟っているのだろうか。
「困ったことに」
 セシ公は机に肘をついたまま、まるで子どもがするように、右手の指先で髪の一房を摘んで捻りながら続けた。
「あなたを知るごとに、もっとあなたを知りたいという気持ちになってね」
 意味を量りかねている、そうユーノの表情から察したのだろう。苦笑を添えて、甘い声音で付け足した。
「リヒャルティが恋敵というのは役不足だが」
「…セシ公…」
 呆然とするユーノの目の前で、組まれた銀の輪が一本、かしゃり、と崩れ落ちた。


 夜は重苦しく更けていっている。灯皿にはもうあまり油が残っていないのだろう、頼りなげに揺れる炎は、時々ジジッと小さな音をたてて細くなり太くなりして、部屋の隅々に澱む影を怪しく滲ませている。
 カ…シャ……シャ…。
「…っ」
 指を伸ばし、枕元の台に置かれた銀色の輪に触れたアシャは、それが互いに触れ合って掠れた音をたてるのにひやりとした。ベッドに上半身を伏せて寝息をたてているレアナを見やる。
 だが、つきっきりで看病してくれていたレアナは、さすがに疲れてしまったのだろう、熟睡しており、身動き一つしない。仄かに開いた唇は花のように淡い色、紡ぐ吐息の甘さは美姫として名高い彼女にふさわしく、人の心を悩ませる。
(無防備というか無邪気というか…)
 いくら怪我人とは言え、一国の姫が男の部屋で一人っきりで眠り込むとは。
 苦笑まじりに半身起こし、レアナの寝顔を優しく見つめる。
(やっぱり姉妹だな。ユーノに似ている……あの目元とか…唇とか)
 だが、ユーノなら、アシャが起きる寸前の気配で飛び起きているだろう。
(そして、次の瞬間、俺は喉に剣の切っ先を当てられているというわけだ)
 それこそ、僅かな反撃の隙さえ見いだせないような状態で。
(俺にさえ……心を許していない…)
 傷とは違う、もっと深くの胸の中がずきずきと痛む。やるせなさに溜め息が出る。
(いつまであいつを追い続ければいいんだ)
 追えば追うほど、ユーノは遠くへ遠くへ走り去っていってしまうような気がする。やっと捕まえて抱き締めたかと思えば、この手から幻のように擦り抜けていってしまう、昔話にある永遠の乙女のように。
(そうなのかも知れない)
 半裸の体を起こしたまま、ぼんやりする。
(あいつは結局誰にも捕まらないのかも知れない。捕まえようとすればするほど、俺の側から離れて行ってしまうのかも知れない……だが)
 カシャ。
「!」
 ふいに銀の輪がずれ落ちて音をたて、我に返った。八本の輪のうち、既に四本、加えて五本目の半ばまで鉛色に変色しているのを凝視する。
(だが、今それを悩んでいる時間はない)
 『泉の狩人(オーミノ)』と約束した期限は後七日、宙道(シノイ)を片端から開いていったとしても、狩人の山(オムニド)に入るまでに二日、『泉の狩人(オーミノ)』達に出会うまでに三、四日。ぎりぎりの日程の上にこの傷では、体力と気力の勝負になる。
『そうまでして、その娘の側に戻りたいのか』
 アシャの頭の中にラフィンニの戸惑ったような声が甦った。
 使者のやり直しを命じるラフィンニに、その前にどうしても行かなくてはならない場所がある、とアシャが懇願した時の返答だ。
『そなたが自分の状態がわからぬほど愚かとは思えぬ。むしろ、医術師としても名高いアシャが、どうしてそこまで無茶をする?』
(ただ一人の娘のために)
 嘲られるのを承知で応えたアシャに、ラフィンニはなぜか一瞬、空ろな眼窩の奥で笑みを浮かべたようだった。
『よかろう。そなたも当たり前の男だったのは残念だが、悪くもあるまい』
 ミネルバに似た皮肉っぽい口調で応じたラフィンニは、シズミィを道案内とさせ、わずか二日で狩人の山(オムニド)を下らせた。
(そうまでして駆けつけてきたって言うのに、相手は相も変わらず冷たいとくる)
「あつっ…」
 レアナが眠っているのと反対側からベッドを滑り降りかけ、ぎくりと体を強張らせた。左胸に右手を当てる。激痛が走った奥、細胞の活力の弱まりを感じる。代謝がまだ不安定だ。
「ちっ」
(思ったより深いな)
 『氷の双宮』の最新技術もなく、よくも永らえたというところだが、手当をし直している時間もない。
 舌打ちしつつ、動くにつれて見る見る増してくる痛みを堪えながら、ベッドから抜け出た。銀の輪を左手首に通し、椅子に畳まれていたチュニックを身に着ける。一緒に置かれていた剣を部屋の隅で帯び、薬袋から痛み止めを口に放り込む。
 いつぞやユーノに呑ませたものとは違う、感覚を遮断する類のものだ。効きが遅いのが難点だが、『泉の狩人(オーミノ)』ともう一度交渉に持ち込むあたりには十分効いてくれているだろう。持続時間は長いはずだ。
(明日になれば大騒ぎだ)
 きっとまたユーノに力の限りののしられるのだろう。
 薄く笑いつつ、部屋を出て廊下を歩いていくと、ふいに前方に影が動いた。立ち塞がるような姿、『運命(リマイン)』の気配ではないが、このご時世、安全なところなどないだろう。
 鯉口を切りかけた矢先、
「アシャ」
「ユーノ…」
 聞き慣れた、だがまさかこんなところで聞くとは思わない声が響いて、アシャは呆気にとられた。廊下の窓から入る月光の中へ出てくる相手に声をかける。
「どうした? こんな時間に」
「それはこっちの台詞だろ」
 じろり、とユーノは険のある目つきでアシャをねめつけた。
「昨日まで『死んでた』怪我人が、こんなとこで何してる?」
「いや、ちょっと、その……用足しに」
「ふぅん、用足し」
 ユーノは剣を帯びたアシャの姿を眺めて繰り返す。
「そっ、用足し」
「じゃ、早く行って来たら」
「あ、ああ」
 ほっとしてユーノの側を擦り抜けかけ、続いたことばにぎょっとして立ち止まる。
「期限は七日」
「!」
「『使者の輪』によればね。間に合うの?」
「……知っていたのか」
 ゆっくりと振り返り、相手の黒い瞳がこちらを見つめているのに苦笑した。
「実のところ、間に合えばいい、というところだな」
 今更隠しても無駄だろう。本音と不安を少し、吐き出す。
「どうする気?」
「宙道(シノイ)を片っ端から開ける。狩人の山(オムニド)に入ってからは、うまくいけばシズミィの道案内が得られるかも知れない」
「シズミィ…」
 ユーノが考え込みながら呟く。
「聞いたことがある。聖なる山の道案内だ」
「そういうことだ」
「でも、アシャ!」
 こともなげに応じたアシャに腹を立てたように、ユーノが噛みついてきた。
「そんなことしたら、あなたの体、もたないよ!」
「ばか」
 必死な目の色に笑みを返す。
「それほどヤワじゃない。伊達や酔狂で視察官(オペ)だったわけじゃないぞ。ただ…」
「うん、ただ?」
(男は狡いな)
 アシャはユーノの口許を見つめた。レアナに似た、けれども数段意地っ張りな線の、不安げな唇。
「『守り札』があると嬉しいな」
「あ…」
 夜目にもそれとわかるほど、頬の辺りを染めたユーノが、怒り狂うかと思いきや、きゅっと唇を引き締め頷いたのに驚く。
「わかった」
「…」
 浅ましいが、ごくり、と唾を呑み込んでしまった。
「気をつけていってきて」
「ああ」
 どうする? 頬にくれるはずの唇を、何かが聞こえて振り向いたと偽って口で受け止めるか? それとも一度大人しく受けておいて、大変な任務に向かうのには足りないとごねてみせようか。
「ちょっと屈んでよ」
「ああ…」
 ユーノはまともに『守り札』をくれる気らしい。少し背伸びをする仕草が愛らしくて、間近に漂う柔らかな熱を早く体に感じたくて、思わず零れる笑みのまま見下ろしていたら、
「…目を閉じろよ」
 赤い顔で詰られた。名残惜しく、その表情を楽しんで、それから浮き浮きと目を閉じ体を屈ませた、次の瞬間。
 ドスッ。
「ぅぐっ」
 視界に飛び散った鮮紅色の花火、まともに鳩尾に一発食らい、痛みが体を走り抜け、呻いて崩れる。
「ごめんね、アシャ」
 耳元で囁かれる声がきんきんと鳴る警告音の向こうで掠れていく。
「今夜ぐらいだと踏んでたんだ。『使者の輪』、借りるよ」
 体が少しの間支えられ、床の上に横たえられる。抵抗ができない。激痛に吐きそうだ。必死に食いしばった歯の間から漏らした声に、ユーノが少し震える。
「や…め…」
 左手首から抜き取られていく『使者の輪』に悪寒が走り上がった。視界が見る見るなくなっていく。ようやく塞がりかけた傷が開いたのを感じて、全身が竦み感覚を落としていく。痛み止めを呑んでいなければ、とうに消えていた意識に、ためらいがちな声が届く。
「レアナ姉さまのこと、頼むよ」
(勝手なことを言うな)
 心は暗闇に抵抗する。ようやくこの手で守り切ったはずの命が、今目の前から飛び去ろうとしていることを知って、恐怖に凍った。
(俺をなんだと思ってる)
「それから…」
 ユーノの声が波打つ意識の向こうで響く。
(俺は)
「ちょっとだけ……私に『守り札』、ちょうだいね」
 頬に押しつけられた柔らかな温かみ、すぐに離れたそれを求めて顔を動かす。
「…く…っ」
 だが、それだけで、がしり、と巨大な鎖が降り落ちたような体の重さに喘いだ。
(俺は、お前を)
「ごめん……ごめんね…っ」
 慌て気味に飛び退く気配。
(お前を)
「ごめん…っ、アシャ……っ!」
 遠ざかる足音、悲鳴のような謝罪、その全てが闇の奥へ消え去るのを引き止めることもできず。
「…ノ……っ…ぅ」
 アシャは胸を抱えて意識を失った。
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