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7.『泉の狩人』(オーミノ)(2)
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「……」
(その場に私が居なくてよかった)
ユーノは血の気が引いた顔で考えている。
大怪我をして血に塗れ、息も絶え絶えのアシャを放っておくなどできなかっただろう。たとえ『泉の狩人(オーミノ)』であろうとも剣を抜き放ち、アシャに手当を受けさせるために刃を交えていただろう。
そうなれば、せっかくアシャが激痛を堪えて持ちかけた交渉は潰れ、気分を害した『泉の狩人(オーミノ)』は敵に回り、ラズーンは崩壊するしかなくなっていただろう。
アシャが堪えたからこそ『泉の狩人(オーミノ)』の心を動かし、長の前まで連れて行かせることができたのだろう。
(よく…無事で)
背筋を滑り落ちる冷汗に震える。
「さすがにしばらく、意識がなかった」
アシャの話は淡々と続く。
どこをどう運ばれたのか。
アシャが気づいたのは、唐突に響き出した血の滴る音のせいなのか、それともどこかに視察官(オペ)の本能のようなものが働いたせいなのか。
ただ、セールが立ち止まり、もう一人の『泉の狩人(オーミノ)』の声が陰々と響くのに、どこかの邸に入ったらしいということだけはわかった。
『長よ、ラフィンニよ』
(ラフィンニ)
消えかける灯のように明滅する意識の中に、そのことばが光となって差し込んでくる。眩く輝く光ではない、周囲の光を奪い取る闇色の光条だ。
(死を……司る者…)
『おお、これはウォーグ……それは?』
もう一つの声がすぐに応じた。衣を捌く音が静かに歩み寄ってくる。
『ラズーンのアシャ……己の血を持って、長にお目通りを願いましたので』
『おろしなさい』
『はい』
どさりと無造作に手荒く床に投げ出され、アシャは呻いた。衝撃に裂かれて、止血しきっていなかった傷が新たに鮮血を絞り出し始めるのを感じる。身動きしようとしても、さっきよりも数段重くなった体は反応せず、それでも何とか頭を巡らせて、視界に相手の姿を捉えることができた。
ラフィンニの意は『死を司る者』、その名を『泉の狩人(オーミノ)』の長のものとして知っているのは、ラズーンでもごく少数だ。そして、その姿を見て生き延びた者は、過去にはただ一人、『太皇(スーグ)』のみ。
『そなたがアシャか』
すぐ近くから声がした。他の『泉の狩人(オーミノ)』と同じ、薄白い骸骨に深く窪んだ黒い眼窩が、酷薄な気配をたたえてアシャを見下ろしている。正統後継者の名も、アシャの容貌も彼女には意味がないのだろう、虫けらを見るよりも冷ややかな侮蔑が降り落ちてくる。
『ならば、我らの噂を聞かぬでもなかろう』
嘲笑さえも響かせない、無感動な声。
「聞いて…いない…」
切れ切れに応じたものの、それだけの仕事で顔から血の気が引いていくのがわかった。ショック症状が起こる寸前なのだろう、耳鳴りがうるさく、呼吸が弾み、声を保つのもままならない。ラフィンニの前に人形のように投げ出されたまま、礼も取れぬ姿だったが、かろうじて薄く笑った。
「少なく……とも……あなたの……名…ほど…には…」
名、のことばに微かにラフィンニの気配が反応した。
『我らは「太皇(スーグ)」以外には応じぬ』
感情を含まなかった声が一転、突き放した口調になる。
『そう伝えるがよい』
くるりと向きを変え、立ち去ろうとして、ラフィンニは突然立ち止まった。ゆっくりと上半身だけを振り向かせ、アシャを、いや自分のドレスの裾を血に塗れた掌で掴んでいるアシャの手を見下ろす。
「そう…いう……わけ……には……いかな…い…」
囁くような声しか出せなかった。ことばを吐き終えると、別のものがせり上がりそうになって、口と目を固く閉じる。力の限り握りしめているはずの指の感覚が遠い。床を突き抜け、どこへとも知れぬ闇に落ち込もうとする体を、かろうじてつなぎ止めている気力、握り直す余力はなかった。
「…く」
まずくすれば、伝え切れぬままに気を失う。そして、勇者の中の勇者として名高い『泉の狩人(オーミノ)』が、敵陣に使者として立ったくせに用件も口にしないうちに気を失うような男を戦士と認めるわけはなく、そればかりか、そんな屑などこの世に生きる命にとって邪魔にしかならぬ、そう考えることも明らかだった。
「…ここで……屠るか……用件…を…聞くか……どちらか…を」
ぐらりと激しく辺りが揺れた。吐き気が急に強くなり、胸を焼いて喉を詰まらせる。必死に堪えて食いしばった歯の間から、ようよう呼びかける。
「長よ…」
冷や汗が流れる。四肢が震える。掴んだドレスが指の間から擦り抜けていきそうで、爪が掌に食い込むまで力を込めた。
「…えらん…で…もら……う」
『命を盾の遣いか』
ふ、とラフィンニが苦笑した気配が漂った。
『弱ったのう、アシャ・ラズーン。彼の地におれば名高い戦士が、我らが神殿で雑兵として果てるか』
「う…」
それも覚悟、そう答える気力はなかった。崩れ落ちてくる意識に体を強張らせ、顔を背ける。吹き出した汗が滝のように流れ落ち、血と混じり衣類をしとどに濡らした。左胸も左腕も、感覚は既にない。握りしめているはずの手の感覚さえどこにもない。漆黒の奈落が目の前に口を開ける。
(あ…あ)
最後の踏ん張りも使い切った。体中の血は全て流れ落ちた。残っていた微かな意識が闇に落ち込もうとした瞬間、
「、あううっ!」
傷を強く押さえつけられ、衝撃に体が跳ね上がった。見開いた視界に光が戻る。
(まだ、俺は)
呼吸はまだ止まっていない。傷みを感じる、冷えていく自分の体の感覚も戻る。だが、ラフィンニはそこでおさめてはくれなかった。
「…、っ」
傷に潜り込む指先に息を引く。痛みというより灼熱の刃に刻まれる感覚に残った体力で身悶える。
「ぁ、あっ…!」
『セール。ウォーグ』
傷を指先で探りながら、ラフィンニは続けた。
『傷の手当を。創は深いが中は清い。遣い一つに命を賭ける男にふさわしい礼儀を……アシャ・ラズーン?』
激痛にがくがく震えるアシャを覗き込むラフィンニが囁く。
『死を司る者とて、美はわかるものでな……』
ほほ、ほ、と妙に華やかな笑みが続いた。
(そう…だ…)
アシャの話は途中からユーノの耳に入ってなかった。
(アシャだって、怪我もするし……傷も受ける……この先だって)
アシャの胸に巻かれた、陽光を白く跳ね返す包帯を凝視する。女性的な面立ちを裏切って、ほどよく引き締まった余分な脂肪一つついていない筋肉が、魔術的な拘束を受けているようにも見える。
(それどころか…死ぬことさえ、ある…)
ぞくりとしたものがユーノの背筋を滑り落ちた。
ダイン要城で感じた、足下が崩れていくような感覚。自分の四肢が切り飛ばされても、あそこまで無力感に襲われるだろうか。
確かに今までは、アシャは、数々の試練をほとんど掠り傷一つなく切り抜けてきていた。戦う姿を想像させることさえない艶やかな美貌、その実、他のどんな剣士よりも鮮やかに容赦なく敵を仕留めてきていた。
だからユーノも失念していたのだ、アシャの身に及ぶ危険について。
(外れた…とはいえ、ラズーンの『正統後継者』…)
世界が二つに分かれて戦乱へ突入していこうという時代、その称号(クラノ)だけで、アシャは十分狙われる理由がある。ましてや、第二正統後継者であるギヌアが『運命(リマイン)』の頭領となり、他に幾人正統後継者や候補がいるのかは知らないが、おそらくギヌアに対抗できるのはアシャのみとなれば、命を狙われる機会はますます増えるだろう。
今幸いにも、『泉の狩人(オーミノ)』はアシャの申し出を受け入れてくれたようだが、『運命(リマイン)』に味方する輩の中には、どんな敵が待ち受けているかわからない。その中に、アシャと同程度、いや、ひょっとするとアシャを上回る力量の持ち主が絶対いないという保証はない。悪辣な手段を使うものがいないとも言い切れない。
現に、アシャのこの傷だって、ギヌアの卑劣な手によるものなのだ。
(あなたを……失う…?)
その想いはダイン要城のあの夜を越えて、ユーノに真実の刃となって突き刺さり、慄然とさせた。
「ユーノ?」
呼びかけられて見返す、不審そうに眉をひそめる、陽の光に色を変える紫水晶の瞳、旅の途中、幾度も行き先を示してくれた確かな指、ユーノを気遣って差し伸べられた腕、眠れぬ夜に憩いと安らぎを与えてくれた甘く柔らかな声、時に妖しく濡れ、時に厳しく引き締められても、ユーノを振り返り微笑んでくれる淡色の唇、風に動作に乱れ舞う金褐色の髪。
(全てを失ってしまう時が来る、というのか?)
例えば、アシャがレアナと共に人生を歩み、ユーノは一生その側で一人孤独な夜を見つめ続けなくてはならないとしても、それでも、そこにはアシャが居る。レアナのものになってしまおうとも、二度と手の届かない人になろうとも、望めばその笑い声を聞き、その笑顔を見ることができる。
たとえ、ユーノが永久に報いられることはなくとも、少なくともアシャは生きていてくれる、ユーノと同じ場所、同じ時間に。
(嫌だ)
いつか感じたよりも数段激しく、その想いが心で砕けて、ユーノは唇を噛み締めた。
(そんなの、嫌だ)
堪え切れぬ想いに目頭が熱くなる。
(あなたを死なせるなんて……私の……ユーノ・セレディスの名にかけて、許せない)
「どうした? ユーノ?」
困惑したように問いかけてくるアシャに笑おうとした。だが、強張った頬の筋肉がなかなか解れない。揺れる心が止め切れない。眉が寄るのを感じた。細めた目の奥から熱いものが滲むのもわかった。溢れ出すものを止める力が、あの夜の記憶にこそげとられてしまったようだ。
「…ユー…ノ…」
アシャが呆然とした顔で呟いた。
「お前…」
悩ましげな色を瞳に浮かべ、そっと手を伸ばしユーノの頭を引き寄せる。指先が髪に触れるのに一瞬逃げかけたが、心の深い部分がそれを拒んだ。引き寄せられるままに目を閉じる。
「…泣いているのか…?」
惑うように、けれども、それ以上深められないほど甘い囁きを耳元に吹きつけ、アシャは顔を近づけてくる。
(ア…シャ…)
吐息が優しく唇に触れる。陶然として感覚に酔いながら、ユーノは息を吐く。
「…誰のための涙だ…ユーノ…」
低く熱っぽいアシャの声、ユーノの体を包む腕も熱い。堪え切れないように、そのくせ優しく触れかける唇……ためらいがちに……そっと…。
「アシャ」
「っっ!」
扉が開く音、それに重なるレアナの声が部屋に響くか響かないかで、ユーノは我に返った。慌ててアシャの抱擁を擦り抜け、入ってくるレアナの顔を見ないまま、入れ違いに部屋を飛び出す。
「ユーノ?」
「何でもないっ!」
不審気なレアナの声に投げ捨てるように叫んで、ユーノは庭へ走り出た。
(私、何を、姉さまのアシャなのに、何を!!)
庭を駆け抜け、厩へと走り込む。
「ヒスト!」
愛馬はぶるるっ、と鼻息を漏らした。飛び込んできた主に驚く様子はない。その体に抱きつき、顔を伏せる。訝るように首を巡らすヒストにしがみつきながら、
「ごめん……っ…ちょっとだけ……こうしてて……でなきゃ…っ」
この心が砕けてしまう。見えない傷が抉られるように口を開いて、血が溢れ出すのを感じる。
(レアナ姉さまのアシャなんだ、あの腕は私のものじゃない、あのキスは私に与えられたものじゃない)
何度も何度も胸の中で繰り返す。その度、魂の傷は容赦なくぎりぎりと広げられて新たに血を吐いていく。止まらぬ血はどこへともわからぬ心の深みに呑み込まれ、その重さが傷を求める。重さを見ないように、耐えられない自分を考えないように目を背け、そうして裂かれた傷が血を吐き、吐かれた血が傷を増やし……そして、心はズタズタになっていく。
(どこへ行けばいい? どこへ行けば、この想いを断ち切れる? 何度繰り返せば、アシャを求めなくなる? 何度言い聞かせれば、この心は納得してくれる?)
「う…」
顔を埋めた生き物の温もりに堪え損ねた嗚咽が零れた。ひどく寒く辛かった。
(どこまでいっても、一人なんだ)
どれほど多くの人に出逢い、どれほど親しい交わりが増えようとも、この胸の隙間を埋めてくれるのが誰だか知ってしまった今は、最後の瞬間、一人でいる自分しか思い浮かばない。
(姉さま……アシャ……私はどうして……どうして……私、でしか、ないんだろう…?)
果てのない自問の海に沈みながら、しばらくヒストにしがみついていたユーノは、やがて、ゆっくりと力を抜いた。
ほう、と深い息を吐く。
「しっかり……しろよ…」
そっと自分に囁きかける。
(お前はユーノ・セレディスだろう? こんなことでだめになるような、ヤワな育ちはしてないだろう?)
きゅっ、と唇を引き締める。
(わかっていただろ? あの、セレドを出た日から。それを承知で旅を続けてきたんだろ?)
いつかレアナに返さなくてはならない腕と知りながら、心を委ねてきてしまったのだ。返す時が多少早くなっただけのことだ。遅かれ早かれ、アシャの全てはレアナに注がれる。それをわかっていながら甘えてきたのは、アシャのせいでもレアナのせいでもない。全ては自分の弱さなのだ。
「大…丈夫…だろ…?」
何でもないだろ? たとえ一人で死ぬことになっても。
「…後悔なんか……しないだろ…?」
だって。
だって、私は。
「ユーノ、だろ…」
掠れて消えそうな声を飲み込んだ。
(そうだ、私は、ユーノだから)
「ユーノ! こんなところにいたのか」
「っ!」
背後から声をかけられ、ぎくりとして振り返った。すぐに何気ないふうを装う。
「リヒャルティ…」
「体の方は大丈夫かい?」
笑いかける。
「ああ。ったく、情けねえよな」
きれいな線を描く唇を不愉快そうにねじ曲げ、リヒャルティはふて腐れた表情で見返してきた。
「『緋のリヒャルティ』が何てザマだ、って、兄貴に散々言われた。それより、ユーノ、兄貴がさっきから探してたぜ」
「セシ公が?」
ユーノはきょとんとした。
「何だろう」
「さあ…何か『泉の狩人(オーミノ)』に関したことだって言ってたけど」
「わかった」
訝しそうに首を傾げる相手に、笑顔が足りないかと、なおにっこりする。
「兄貴は今作戦室にいるぜ……けど」
リヒャルティはどこか眩げに目を細めた。
「すぐに行かなくてもいいかも知れないけど」
「でもわざわざ探してくれていたんだろう? 行ってみるよ、ありがとう!」
身を翻した瞬間、リヒャルティが小さく舌打ちしたように聞こえた。
(その場に私が居なくてよかった)
ユーノは血の気が引いた顔で考えている。
大怪我をして血に塗れ、息も絶え絶えのアシャを放っておくなどできなかっただろう。たとえ『泉の狩人(オーミノ)』であろうとも剣を抜き放ち、アシャに手当を受けさせるために刃を交えていただろう。
そうなれば、せっかくアシャが激痛を堪えて持ちかけた交渉は潰れ、気分を害した『泉の狩人(オーミノ)』は敵に回り、ラズーンは崩壊するしかなくなっていただろう。
アシャが堪えたからこそ『泉の狩人(オーミノ)』の心を動かし、長の前まで連れて行かせることができたのだろう。
(よく…無事で)
背筋を滑り落ちる冷汗に震える。
「さすがにしばらく、意識がなかった」
アシャの話は淡々と続く。
どこをどう運ばれたのか。
アシャが気づいたのは、唐突に響き出した血の滴る音のせいなのか、それともどこかに視察官(オペ)の本能のようなものが働いたせいなのか。
ただ、セールが立ち止まり、もう一人の『泉の狩人(オーミノ)』の声が陰々と響くのに、どこかの邸に入ったらしいということだけはわかった。
『長よ、ラフィンニよ』
(ラフィンニ)
消えかける灯のように明滅する意識の中に、そのことばが光となって差し込んでくる。眩く輝く光ではない、周囲の光を奪い取る闇色の光条だ。
(死を……司る者…)
『おお、これはウォーグ……それは?』
もう一つの声がすぐに応じた。衣を捌く音が静かに歩み寄ってくる。
『ラズーンのアシャ……己の血を持って、長にお目通りを願いましたので』
『おろしなさい』
『はい』
どさりと無造作に手荒く床に投げ出され、アシャは呻いた。衝撃に裂かれて、止血しきっていなかった傷が新たに鮮血を絞り出し始めるのを感じる。身動きしようとしても、さっきよりも数段重くなった体は反応せず、それでも何とか頭を巡らせて、視界に相手の姿を捉えることができた。
ラフィンニの意は『死を司る者』、その名を『泉の狩人(オーミノ)』の長のものとして知っているのは、ラズーンでもごく少数だ。そして、その姿を見て生き延びた者は、過去にはただ一人、『太皇(スーグ)』のみ。
『そなたがアシャか』
すぐ近くから声がした。他の『泉の狩人(オーミノ)』と同じ、薄白い骸骨に深く窪んだ黒い眼窩が、酷薄な気配をたたえてアシャを見下ろしている。正統後継者の名も、アシャの容貌も彼女には意味がないのだろう、虫けらを見るよりも冷ややかな侮蔑が降り落ちてくる。
『ならば、我らの噂を聞かぬでもなかろう』
嘲笑さえも響かせない、無感動な声。
「聞いて…いない…」
切れ切れに応じたものの、それだけの仕事で顔から血の気が引いていくのがわかった。ショック症状が起こる寸前なのだろう、耳鳴りがうるさく、呼吸が弾み、声を保つのもままならない。ラフィンニの前に人形のように投げ出されたまま、礼も取れぬ姿だったが、かろうじて薄く笑った。
「少なく……とも……あなたの……名…ほど…には…」
名、のことばに微かにラフィンニの気配が反応した。
『我らは「太皇(スーグ)」以外には応じぬ』
感情を含まなかった声が一転、突き放した口調になる。
『そう伝えるがよい』
くるりと向きを変え、立ち去ろうとして、ラフィンニは突然立ち止まった。ゆっくりと上半身だけを振り向かせ、アシャを、いや自分のドレスの裾を血に塗れた掌で掴んでいるアシャの手を見下ろす。
「そう…いう……わけ……には……いかな…い…」
囁くような声しか出せなかった。ことばを吐き終えると、別のものがせり上がりそうになって、口と目を固く閉じる。力の限り握りしめているはずの指の感覚が遠い。床を突き抜け、どこへとも知れぬ闇に落ち込もうとする体を、かろうじてつなぎ止めている気力、握り直す余力はなかった。
「…く」
まずくすれば、伝え切れぬままに気を失う。そして、勇者の中の勇者として名高い『泉の狩人(オーミノ)』が、敵陣に使者として立ったくせに用件も口にしないうちに気を失うような男を戦士と認めるわけはなく、そればかりか、そんな屑などこの世に生きる命にとって邪魔にしかならぬ、そう考えることも明らかだった。
「…ここで……屠るか……用件…を…聞くか……どちらか…を」
ぐらりと激しく辺りが揺れた。吐き気が急に強くなり、胸を焼いて喉を詰まらせる。必死に堪えて食いしばった歯の間から、ようよう呼びかける。
「長よ…」
冷や汗が流れる。四肢が震える。掴んだドレスが指の間から擦り抜けていきそうで、爪が掌に食い込むまで力を込めた。
「…えらん…で…もら……う」
『命を盾の遣いか』
ふ、とラフィンニが苦笑した気配が漂った。
『弱ったのう、アシャ・ラズーン。彼の地におれば名高い戦士が、我らが神殿で雑兵として果てるか』
「う…」
それも覚悟、そう答える気力はなかった。崩れ落ちてくる意識に体を強張らせ、顔を背ける。吹き出した汗が滝のように流れ落ち、血と混じり衣類をしとどに濡らした。左胸も左腕も、感覚は既にない。握りしめているはずの手の感覚さえどこにもない。漆黒の奈落が目の前に口を開ける。
(あ…あ)
最後の踏ん張りも使い切った。体中の血は全て流れ落ちた。残っていた微かな意識が闇に落ち込もうとした瞬間、
「、あううっ!」
傷を強く押さえつけられ、衝撃に体が跳ね上がった。見開いた視界に光が戻る。
(まだ、俺は)
呼吸はまだ止まっていない。傷みを感じる、冷えていく自分の体の感覚も戻る。だが、ラフィンニはそこでおさめてはくれなかった。
「…、っ」
傷に潜り込む指先に息を引く。痛みというより灼熱の刃に刻まれる感覚に残った体力で身悶える。
「ぁ、あっ…!」
『セール。ウォーグ』
傷を指先で探りながら、ラフィンニは続けた。
『傷の手当を。創は深いが中は清い。遣い一つに命を賭ける男にふさわしい礼儀を……アシャ・ラズーン?』
激痛にがくがく震えるアシャを覗き込むラフィンニが囁く。
『死を司る者とて、美はわかるものでな……』
ほほ、ほ、と妙に華やかな笑みが続いた。
(そう…だ…)
アシャの話は途中からユーノの耳に入ってなかった。
(アシャだって、怪我もするし……傷も受ける……この先だって)
アシャの胸に巻かれた、陽光を白く跳ね返す包帯を凝視する。女性的な面立ちを裏切って、ほどよく引き締まった余分な脂肪一つついていない筋肉が、魔術的な拘束を受けているようにも見える。
(それどころか…死ぬことさえ、ある…)
ぞくりとしたものがユーノの背筋を滑り落ちた。
ダイン要城で感じた、足下が崩れていくような感覚。自分の四肢が切り飛ばされても、あそこまで無力感に襲われるだろうか。
確かに今までは、アシャは、数々の試練をほとんど掠り傷一つなく切り抜けてきていた。戦う姿を想像させることさえない艶やかな美貌、その実、他のどんな剣士よりも鮮やかに容赦なく敵を仕留めてきていた。
だからユーノも失念していたのだ、アシャの身に及ぶ危険について。
(外れた…とはいえ、ラズーンの『正統後継者』…)
世界が二つに分かれて戦乱へ突入していこうという時代、その称号(クラノ)だけで、アシャは十分狙われる理由がある。ましてや、第二正統後継者であるギヌアが『運命(リマイン)』の頭領となり、他に幾人正統後継者や候補がいるのかは知らないが、おそらくギヌアに対抗できるのはアシャのみとなれば、命を狙われる機会はますます増えるだろう。
今幸いにも、『泉の狩人(オーミノ)』はアシャの申し出を受け入れてくれたようだが、『運命(リマイン)』に味方する輩の中には、どんな敵が待ち受けているかわからない。その中に、アシャと同程度、いや、ひょっとするとアシャを上回る力量の持ち主が絶対いないという保証はない。悪辣な手段を使うものがいないとも言い切れない。
現に、アシャのこの傷だって、ギヌアの卑劣な手によるものなのだ。
(あなたを……失う…?)
その想いはダイン要城のあの夜を越えて、ユーノに真実の刃となって突き刺さり、慄然とさせた。
「ユーノ?」
呼びかけられて見返す、不審そうに眉をひそめる、陽の光に色を変える紫水晶の瞳、旅の途中、幾度も行き先を示してくれた確かな指、ユーノを気遣って差し伸べられた腕、眠れぬ夜に憩いと安らぎを与えてくれた甘く柔らかな声、時に妖しく濡れ、時に厳しく引き締められても、ユーノを振り返り微笑んでくれる淡色の唇、風に動作に乱れ舞う金褐色の髪。
(全てを失ってしまう時が来る、というのか?)
例えば、アシャがレアナと共に人生を歩み、ユーノは一生その側で一人孤独な夜を見つめ続けなくてはならないとしても、それでも、そこにはアシャが居る。レアナのものになってしまおうとも、二度と手の届かない人になろうとも、望めばその笑い声を聞き、その笑顔を見ることができる。
たとえ、ユーノが永久に報いられることはなくとも、少なくともアシャは生きていてくれる、ユーノと同じ場所、同じ時間に。
(嫌だ)
いつか感じたよりも数段激しく、その想いが心で砕けて、ユーノは唇を噛み締めた。
(そんなの、嫌だ)
堪え切れぬ想いに目頭が熱くなる。
(あなたを死なせるなんて……私の……ユーノ・セレディスの名にかけて、許せない)
「どうした? ユーノ?」
困惑したように問いかけてくるアシャに笑おうとした。だが、強張った頬の筋肉がなかなか解れない。揺れる心が止め切れない。眉が寄るのを感じた。細めた目の奥から熱いものが滲むのもわかった。溢れ出すものを止める力が、あの夜の記憶にこそげとられてしまったようだ。
「…ユー…ノ…」
アシャが呆然とした顔で呟いた。
「お前…」
悩ましげな色を瞳に浮かべ、そっと手を伸ばしユーノの頭を引き寄せる。指先が髪に触れるのに一瞬逃げかけたが、心の深い部分がそれを拒んだ。引き寄せられるままに目を閉じる。
「…泣いているのか…?」
惑うように、けれども、それ以上深められないほど甘い囁きを耳元に吹きつけ、アシャは顔を近づけてくる。
(ア…シャ…)
吐息が優しく唇に触れる。陶然として感覚に酔いながら、ユーノは息を吐く。
「…誰のための涙だ…ユーノ…」
低く熱っぽいアシャの声、ユーノの体を包む腕も熱い。堪え切れないように、そのくせ優しく触れかける唇……ためらいがちに……そっと…。
「アシャ」
「っっ!」
扉が開く音、それに重なるレアナの声が部屋に響くか響かないかで、ユーノは我に返った。慌ててアシャの抱擁を擦り抜け、入ってくるレアナの顔を見ないまま、入れ違いに部屋を飛び出す。
「ユーノ?」
「何でもないっ!」
不審気なレアナの声に投げ捨てるように叫んで、ユーノは庭へ走り出た。
(私、何を、姉さまのアシャなのに、何を!!)
庭を駆け抜け、厩へと走り込む。
「ヒスト!」
愛馬はぶるるっ、と鼻息を漏らした。飛び込んできた主に驚く様子はない。その体に抱きつき、顔を伏せる。訝るように首を巡らすヒストにしがみつきながら、
「ごめん……っ…ちょっとだけ……こうしてて……でなきゃ…っ」
この心が砕けてしまう。見えない傷が抉られるように口を開いて、血が溢れ出すのを感じる。
(レアナ姉さまのアシャなんだ、あの腕は私のものじゃない、あのキスは私に与えられたものじゃない)
何度も何度も胸の中で繰り返す。その度、魂の傷は容赦なくぎりぎりと広げられて新たに血を吐いていく。止まらぬ血はどこへともわからぬ心の深みに呑み込まれ、その重さが傷を求める。重さを見ないように、耐えられない自分を考えないように目を背け、そうして裂かれた傷が血を吐き、吐かれた血が傷を増やし……そして、心はズタズタになっていく。
(どこへ行けばいい? どこへ行けば、この想いを断ち切れる? 何度繰り返せば、アシャを求めなくなる? 何度言い聞かせれば、この心は納得してくれる?)
「う…」
顔を埋めた生き物の温もりに堪え損ねた嗚咽が零れた。ひどく寒く辛かった。
(どこまでいっても、一人なんだ)
どれほど多くの人に出逢い、どれほど親しい交わりが増えようとも、この胸の隙間を埋めてくれるのが誰だか知ってしまった今は、最後の瞬間、一人でいる自分しか思い浮かばない。
(姉さま……アシャ……私はどうして……どうして……私、でしか、ないんだろう…?)
果てのない自問の海に沈みながら、しばらくヒストにしがみついていたユーノは、やがて、ゆっくりと力を抜いた。
ほう、と深い息を吐く。
「しっかり……しろよ…」
そっと自分に囁きかける。
(お前はユーノ・セレディスだろう? こんなことでだめになるような、ヤワな育ちはしてないだろう?)
きゅっ、と唇を引き締める。
(わかっていただろ? あの、セレドを出た日から。それを承知で旅を続けてきたんだろ?)
いつかレアナに返さなくてはならない腕と知りながら、心を委ねてきてしまったのだ。返す時が多少早くなっただけのことだ。遅かれ早かれ、アシャの全てはレアナに注がれる。それをわかっていながら甘えてきたのは、アシャのせいでもレアナのせいでもない。全ては自分の弱さなのだ。
「大…丈夫…だろ…?」
何でもないだろ? たとえ一人で死ぬことになっても。
「…後悔なんか……しないだろ…?」
だって。
だって、私は。
「ユーノ、だろ…」
掠れて消えそうな声を飲み込んだ。
(そうだ、私は、ユーノだから)
「ユーノ! こんなところにいたのか」
「っ!」
背後から声をかけられ、ぎくりとして振り返った。すぐに何気ないふうを装う。
「リヒャルティ…」
「体の方は大丈夫かい?」
笑いかける。
「ああ。ったく、情けねえよな」
きれいな線を描く唇を不愉快そうにねじ曲げ、リヒャルティはふて腐れた表情で見返してきた。
「『緋のリヒャルティ』が何てザマだ、って、兄貴に散々言われた。それより、ユーノ、兄貴がさっきから探してたぜ」
「セシ公が?」
ユーノはきょとんとした。
「何だろう」
「さあ…何か『泉の狩人(オーミノ)』に関したことだって言ってたけど」
「わかった」
訝しそうに首を傾げる相手に、笑顔が足りないかと、なおにっこりする。
「兄貴は今作戦室にいるぜ……けど」
リヒャルティはどこか眩げに目を細めた。
「すぐに行かなくてもいいかも知れないけど」
「でもわざわざ探してくれていたんだろう? 行ってみるよ、ありがとう!」
身を翻した瞬間、リヒャルティが小さく舌打ちしたように聞こえた。
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