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7.『泉の狩人』(オーミノ)(1)
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誰かが泣いている。泣き声さえも漏らすまいとするかのように唇を噛み、肩を震わせ、一人で泣き続けている。
(泣いているのは……お前なのか、ユーノ…)
アシャはぼんやりと呟いた。胸が重だるい。左腕にも、その鈍い感覚はあった。
(なぜ泣く?)
問いかけに振り返る気配があった。前方の闇に消えて行こうとするユーノがこちらを振り向く。
わからないの、アシャ、とユーノは問いかけてきた。
なぜ、私が泣いているか、わからない?
(わからない…んだ)
苛立たしさに首を振って手を伸ばす。ユーノの細い手首を掴む。引き寄せて胸の中に抱き締める。唇を寄せ、相手の頬に流れた涙を拭おうとする。と、瞬間、ユーノの姿は腕の中から消えていた。
(ユーノ?!)
はっとして前方を見直すアシャの目に、歩み去るユーノの姿が映った。その先の闇に禍々しい『運命(リマイン)』の気配がある。かっと開いた魔物(パルーク)の口、だがそれにも気づかずに、ユーノは淡々と歩を進めて入り込んでいく。
(馬鹿! 行くな、ユーノ! そっちは危ないんだ!)
いいんだ、アシャ、と声が響いた。わかってるんだよ。
(わかっている? 何をわかっていると言うんだ! 俺の気持ち一つもわからないくせして! ユーノ!!)
「ユー…ノっ!」
「きゃっ…」
叫んで目を開けたアシャは、握られた手首を強く引かれ、半身起こした我が身によりかかるように横座りしたレアナを認めた。驚き慌てることもなく、ごく自然な動作で乱れた栗色の髪を軽く払って、レアナはアシャを見つめ返す。紅潮した頬に美しい笑みが零れる。
「よかった……気づいたのね、アシャ」
「レアナ…」
なぜここに。いや、それよりも。
周囲へ投げた視線から、戸惑うアシャの気持ちを見抜いたように、
「セシ公公邸ですよ」
レアナは優しく囁いた。
「二日二晩、眠り続けていたのよ」
「二日…二晩……?」
レアナのことばを繰り返し、アシャははっとした。
「いかん! 、つっ!!」
「だめよアシャ! そんなに急に動いては!」
激痛に体を強張らせたアシャに、レアナが慌てて体を寄せてきた。白くたおやかな両手をアシャの胸にあて、宥めるように続ける。
「無理をしては、治るものも治らなくなりますよ」
「しかし…っ」
脳裏を過った約定、交わした相手の酷薄さを思い出して軽く皮膚が粟立つ。
「レアナ、私は…」
「アシャ」
止めようと、半裸の包帯姿のアシャになお身を寄せたレアナ、傷つけないように押し戻そうとして、結果彼女を抱きとめるような体勢になったアシャ、互いに向き合い見つめ合うそこへ、
「姉さま、アシャの具合は…」
急に扉が開いて声が響いた。ぎょっとして戸口を振り向くと、今しも扉を開けて入って来ようとしたユーノが、大きく目を見開いて凍てついた顔で立ちすくんでいる。目の前の光景を確かめるように、アシャ、レアナ、そして再びアシャと視線を動かして、唐突にふっと笑った。
「悪い」
片目をつぶって身を翻す。
「無粋なことした、ごめんね」
そのまま扉を抜けて姿を消してしまう。
「え、あ…」
レアナがようやくユーノの意図を察して薄赤く頬を染め、慌て気味に立ち上がる。
「ごめんなさいね、アシャ、あの子ったら早とちりで……でも、起きてはだめですよ、ちゃんと横になって。お腹が空いたでしょう? 今何か食べるものをもらってきます」
レアナは白い裳裾を閃かせ、どこか弾むような足取りでいそいそと部屋を出ていく。その、開け放った扉が中途半端に戻りかけ、止まっている。
「……ユーノ」
しばらくそれを見つめていたアシャは、息を吐いた。
「そこにいるな?」
キィ、とわずかに扉が動いた。たゆとうような瞳で、ユーノがおずおずと扉の影から姿を現す。
「あ、ご、ごめん、アシャ」
まるで叱られる子どものように俯き加減になったユーノが、急いでことばを継ぐ。
「まさか目が覚めてるなんて思わなくて、あの、ほんとに……邪魔するつもりはなかったんだ」
「……」
(本気かよ)
奥歯を噛み締めた。イルファではないが、詰りたくなった。
(本当に、俺の邪魔をしたと思ってるのか)
アシャの据わった視線にも気づかないまま、ユーノはわたわたと弁解を続ける。
「ほんと、気をつけるから、今度から」
「……傷」
ずっと眠っていて見ていなかった、だから密かに気になっていたことが、アシャの口から勝手に零れ落ちた。
「え?」
「傷を見せてみろ」
「大丈夫だよ」
野獣の唸り声に聞こえたのか、ユーノが両腕を背中に庇う。
「かすり傷だから。あなたのに比べりゃ、傷のうちにも入らないほどの」
「見せるんだ」
意識して唸った。このままじりじり逃げる気ならば、ベッドから飛び降りて引っ掴んでやる、その気配が通じたのか、ユーノは困りきった顔でそっと近寄ってくる。
「腕を出せ」
「う…ん…」
そっとユーノは両腕を差し出す。その手には、まだ両方とも包帯が巻かれていた。
アシャは無言で、まず左腕から包帯を解いた。ぱらりと布が落ちた下には、薄皮が張ったばかりの真新しい傷が、他の白く固まった傷痕に混じって浮き上がっている。右腕も同様に包帯を解き、アシャは丹念に傷痕を観察した。
「…っ」
間近に顔を寄せたせいで、吐息がかかったのだろう、ひくりとユーノが震えた。苦しそうに顔を歪め、やがて耐えかねたように顔を背ける。それでもアシャは傷痕を丁寧に検分し、ようやく深く溜め息をついた。
「よかった…」
「…え?」
「ダイン要城では剣に毒を塗る場合が多いんだ」
様々な毒を使うが、中でも酷いものは治りかけた傷をもう一度内側からただれさせていき、皮膚を腐らせていくものだ。どれほど手厚く治療しようと、治ったと思った部分から口を開いて崩れていく。
「…だが、大丈夫だ。この傷は毒刃にあたったんじゃない」
「そうか…」
そんなことがあるのかと訝るようなユーノの視線に繰り返す。
「運が良かったんだぞ」
「う、ん…」
(本当に運が良かった)
一歩間違えれば、勝利と引き換えにユーノを失うところだったのだと、今更冷や汗が滲んだ。
それでも今、この体を、何とか無事に自分の手に取り戻せている。
しみじみと安堵して、アシャはユーノの腕を深く押し頂いた。唇を寄せて、左腕の傷、続いて右腕の傷に口づける。
「ア、アシャ!」
悲鳴じみた抗議が上がった。
「ったく、もう…」
「何を怒ってる」
「傷口なんだぞ、まだ治り切ってなかったら」
「痛かったか?」
「…もういい」
ユーノは唇を尖らせて顔を背けた。
ベッドのアシャの瞳は笑みを含んでいて上機嫌だ。長い間臥せっていたにしては調子が良さそうだ、そう思った瞬間に脳裏を掠めた影に後悔した。
(当たり前、か)
ようやく想い人と会えたのだ。すぐ側で声を聞き、柔らかな体温を寄せられ、甘い笑みを向けられて寛がない恋人などいるものか。
「それより」
思いついたことにはっとして、ユーノはアシャを振り返る。
「ん?」
「『狩人の山』(オムニド)でのことを話してよ。後で話すって約束しただろ」
「『狩人の山』(オムニド)……そうだな」
一瞬、暗い影がアシャの瞳を覆った。だが、それは問い正す前にすぐに消え、アシャは低い声で話し始める。
「『狩人の山』(オムニド)に入ってすぐ、俺はギヌア達に待ち伏せされた」
「ギヌア…!」
息を呑むユーノに、ああ、と苦く笑った。
「俺が甘かったってことだ」
『泉の狩人(オーミノ)』と『運命(リマイン)』が手を結ぶのを阻止するべく『狩人の山』(オムニド)に分け入ったアシャは、それでも何とかギヌア達を防ぎ、その意図の一つを挫いたものの、左腕と左胸、脇腹を負傷した。
傷は思ったよりも深く、出血が続き、さしものアシャも昏倒して雪に埋もれ、このまま果てるのかと思われた。
「…ぅ…ん」
が、しばらくして、アシャは何か柔らかくてしなやかなものが、首の当たりに触れている気配に薄目を開けた。
ぼんやりと霞んだ視界に銀青色の塊が映る。瞬きをしたとたん、それは、尖った耳で四つ足の、ほっそりした顎に金と青の色違いの眼の動物となって像を結ぶ。
「く!」
(シズミィ!)
動物の名前に思い至ったアシャが跳ね起きようとした瞬間、それを待ち構えていたように喉に巻きついていた尾が締まり、左胸を押さえつけていた前足がぎっと爪を立てる。
「ぅぐ!」
激痛に弾かれる体、顔を歪めて再び雪に沈む。
衝撃に乱れた呼吸を何とか整えながら、アシャは相手を見定めた。
成獣ではないのだろう。アシャの両腕に抱えられるほどの大きさだが、ぴんと伸びた白い髭、容赦なくアシャの傷に食い込ませてくる金色の爪、細身の骨格に無駄なところのない筋肉、残忍なほど冷たい双眸は紛れもなく天性の殺戮者のものだ。
身動きを押さえたアシャの胸から、裂けた衣を濡らして生温かなものが滴っていく。相手はゆっくりとそれを見下ろし、僅かに目を細めるとすうっと顔を降ろしてきた。目を伏せ、桃色の舌を出してアシャの血を舐め取ると、満足そうに改めて口を開いた。獲物を味わうように傷の辺りから首筋、頬へと舌を移動させていく。
「…く…ぅっ」
ざらざらした細かな棘があるような舌に舐め擦られ、傷が開き、肉がこそげられる。次々砕ける激痛に、アシャは眉をしかめて歯を食いしばった。今すぐに掴みかかりもぎ離したいのを堪えながら、四肢を投げ出し目を閉じる。
銀青色の獣の名はシズミィ。肉食動物で人肉も好んで食する。攻撃は執拗で獲物を骨にするまで離れない。自由自在に動く五本目の手のような尻尾は体長と同じぐらいあり、爪で掴み切れずとも、獲物の首を尾で巻き締めて折ることもできる。
今アシャの首を締め切らないのは、アシャが身動きせずに、自分の餌となるのを甘受しているから、つまりは生き餌の方が好みなのだ。
「ぅ、ぐ、う…」
体が勝手に跳ねる。首を締める力がじりじりと増す。ぴちゃぴちゃと楽しげに鳴らす舌が肌に落ちる度に悪寒が走る。相討ち覚悟ならば抵抗できなくもない、だが、実は、この獣は他の何よりも危険な要素を持っていた。
『そこまでにするがいい、シャギオ』
ふいに、あたりの空気を一瞬に澱ませるような暗い声が命じた。ぴくりと不服そうに獣がアシャを味わうのを止めて顔を上げる。
『シズミィに襲われても耐えるところは、さすがにアシャと言いたいが』
違う方向からも似たような響きの声が嘲った。
『いかなアシャとて、これ以上に出血に耐えられるとは思えんな』
「……」
アシャは荒い息を弾ませながら眼を開けた。
目の前の雪原に、いつの間にか現れたのか、蒼白いドレス姿の美しい女性が数人立っている。ほっそりとした形のいい素足、雪と紛う白い肌は薄布のような蒼のドレスに吸い込まれ、腰には焦茶の細いベルトが巻きついている。ふっくらと豊かな胸の中程まで露にして、残りには柔らかな青色系の布を纏っており、細い首筋は繊細で華奢な作りの顎へと繋がる。流れる髪の色はそれぞれ違うが、いずれも長く、波打ち、あるいはさらさらと風になびいて体にまとわりつき艶かしい。
だが、その美女達には、本来あるはずの顔がなかった。
首から上が存在していないのではない。確かにあることはある、だが、それはそのまま在ることなどとても考えられない、虚ろな眼窩を窪ませた骸骨そのものだ。顎のあたりから肌は骨に変わり、潤いも張りもなくす。絡みつく艶やかな髪もどこかおどろおどろしい。
伝説の存在、『泉の狩人(オーミノ)』だ。
そう、何を隠そう、シズミィは『狩人の山』(オムニド)における彼女達の道案内、言い換えれば、シズミィの居るところに『泉の狩人(オーミノ)』は現れる。
『来い、シャギオ』
呼ばれたシズミィは、ちらりと物欲しそうにアシャの傷を眺めた。アシャの体の上で身構えたまま、そこから離れようとはしない。
『そなたが美しいものを好むのは知っておる』
くっくっく、と黄泉路の風が吹き過ぎるような寒々とした笑いを響かせて、先頭に居た栗色直毛の女が続けた。
『確かに、アシャは音に聞こえた美形だとも………我ら「泉の狩人(オーミノ)」とて、このまま美しい地獄絵図を楽しみたいのは同じこと』
骸骨の黒い眼窩の奥で、眼に見えぬ眼球が動き、雪を朱に染めて横たわるアシャを舐めるように眺めたようだった。
『白雪に紅と朱の花、蒼ざめた顔に紫の瞳も悪くはない……汗濡れた頬や喘ぐ口許もそなたの好みだろうて……それにアシャほどの男が血に染まっているのは確かに見物だろうよ』
背後に居た女が混ぜっ返す。
『だが、シャギオ、同時にアシャは我が王『太皇(スーグ)』の世継ぎにもなった男……我らの楽しみのために捨て置くことはできぬのでな』
シズミィは渋々と言った様子で、アシャの首から尾を解いた。そのまま離れるのかと思いきや、最後の一舐めとばかりに左胸に顎を埋める。
「ぅあっ!」
もちろんわざとだろう、牙で傷を引っ掛けられ、アシャは声を上げて仰け反った。
『ほ…ほほ……』
『きつい子じゃ、アシャの血はさぞかし旨いと見える』
『我らが盃にもどうじゃ、ええ?……ほほほっ』
女達は口々に楽しげな笑い声を響かせた。さすがに視界が一瞬暗くなり、危うく意識を飛ばしかけたアシャに、先頭の女が一歩近づく。雪が軽くきしむ音に、何とか眼を開く。血を流し過ぎたのだろう、息が弾んだまま、なかなか戻らない。
『アシャ、この通り、我らは世に外れた者だ。「太皇(スーグ)」と言えども、すぐには我らを動かしはせぬ。何をしにきたかは見当がついている……このまま帰り、出直すがいい』
「…『泉の狩人(オーミノ)』は……」
はあはあと忙しく息を吐きながら、アシャはかろうじて嗤った。
「無口な…一族と聞いて…たが……結構……おしゃべりな…奴がいる…な…」
『ほう…』
先頭の女が低く唸る。殺気を帯びた凄みのある声だった。
『あくまで……我らに喰らいつく気か』
「…その…役目を……追って……きた…」
朦朧としてくる意識、霞む視界を振り払いながら、アシャは応じた。血を失い、体温を失って、体が無意識に震えてくる。食いしばったつもりの歯がかたかたと小さな音を鳴らす。
『…ふ……ふふっ…』
先頭の女が嗤う。
『なんとも……強情な……。…よかろう。我らが長に会わせよう。セール!』
『はい』
『アシャを連れてきてやれ』
『はい』
セールと呼ばれた女が進み出る。ゆっくりとアシャに屈み込み、とても女の力とは思えぬ怪力で、軽々とアシャを肩に担ぎ上げた。
「ぐぅっ!」
体を二つに裂かれたような激痛に呻いた。必死に噛み締めた奥歯が嫌な音をたてる。ボタボタ…ッと衣服に溜まっていた血と新たに出血した分が、雪とセールの肩を紅に染めるが、相手は気にした様子もない。むしろ、体を濡らす血潮に気持ち良さそうに続けた。
『長の前でまだ口をきけたら』
くっくっくっくっとセールが嗤う。
『少しはそなたの言うことも聞こうぞ、アシャ』
そしてアシャは、傷の手当も受けないまま、雪嵐が吹き始めた『狩人の山』(オムニド)を運ばれていった。
(泣いているのは……お前なのか、ユーノ…)
アシャはぼんやりと呟いた。胸が重だるい。左腕にも、その鈍い感覚はあった。
(なぜ泣く?)
問いかけに振り返る気配があった。前方の闇に消えて行こうとするユーノがこちらを振り向く。
わからないの、アシャ、とユーノは問いかけてきた。
なぜ、私が泣いているか、わからない?
(わからない…んだ)
苛立たしさに首を振って手を伸ばす。ユーノの細い手首を掴む。引き寄せて胸の中に抱き締める。唇を寄せ、相手の頬に流れた涙を拭おうとする。と、瞬間、ユーノの姿は腕の中から消えていた。
(ユーノ?!)
はっとして前方を見直すアシャの目に、歩み去るユーノの姿が映った。その先の闇に禍々しい『運命(リマイン)』の気配がある。かっと開いた魔物(パルーク)の口、だがそれにも気づかずに、ユーノは淡々と歩を進めて入り込んでいく。
(馬鹿! 行くな、ユーノ! そっちは危ないんだ!)
いいんだ、アシャ、と声が響いた。わかってるんだよ。
(わかっている? 何をわかっていると言うんだ! 俺の気持ち一つもわからないくせして! ユーノ!!)
「ユー…ノっ!」
「きゃっ…」
叫んで目を開けたアシャは、握られた手首を強く引かれ、半身起こした我が身によりかかるように横座りしたレアナを認めた。驚き慌てることもなく、ごく自然な動作で乱れた栗色の髪を軽く払って、レアナはアシャを見つめ返す。紅潮した頬に美しい笑みが零れる。
「よかった……気づいたのね、アシャ」
「レアナ…」
なぜここに。いや、それよりも。
周囲へ投げた視線から、戸惑うアシャの気持ちを見抜いたように、
「セシ公公邸ですよ」
レアナは優しく囁いた。
「二日二晩、眠り続けていたのよ」
「二日…二晩……?」
レアナのことばを繰り返し、アシャははっとした。
「いかん! 、つっ!!」
「だめよアシャ! そんなに急に動いては!」
激痛に体を強張らせたアシャに、レアナが慌てて体を寄せてきた。白くたおやかな両手をアシャの胸にあて、宥めるように続ける。
「無理をしては、治るものも治らなくなりますよ」
「しかし…っ」
脳裏を過った約定、交わした相手の酷薄さを思い出して軽く皮膚が粟立つ。
「レアナ、私は…」
「アシャ」
止めようと、半裸の包帯姿のアシャになお身を寄せたレアナ、傷つけないように押し戻そうとして、結果彼女を抱きとめるような体勢になったアシャ、互いに向き合い見つめ合うそこへ、
「姉さま、アシャの具合は…」
急に扉が開いて声が響いた。ぎょっとして戸口を振り向くと、今しも扉を開けて入って来ようとしたユーノが、大きく目を見開いて凍てついた顔で立ちすくんでいる。目の前の光景を確かめるように、アシャ、レアナ、そして再びアシャと視線を動かして、唐突にふっと笑った。
「悪い」
片目をつぶって身を翻す。
「無粋なことした、ごめんね」
そのまま扉を抜けて姿を消してしまう。
「え、あ…」
レアナがようやくユーノの意図を察して薄赤く頬を染め、慌て気味に立ち上がる。
「ごめんなさいね、アシャ、あの子ったら早とちりで……でも、起きてはだめですよ、ちゃんと横になって。お腹が空いたでしょう? 今何か食べるものをもらってきます」
レアナは白い裳裾を閃かせ、どこか弾むような足取りでいそいそと部屋を出ていく。その、開け放った扉が中途半端に戻りかけ、止まっている。
「……ユーノ」
しばらくそれを見つめていたアシャは、息を吐いた。
「そこにいるな?」
キィ、とわずかに扉が動いた。たゆとうような瞳で、ユーノがおずおずと扉の影から姿を現す。
「あ、ご、ごめん、アシャ」
まるで叱られる子どものように俯き加減になったユーノが、急いでことばを継ぐ。
「まさか目が覚めてるなんて思わなくて、あの、ほんとに……邪魔するつもりはなかったんだ」
「……」
(本気かよ)
奥歯を噛み締めた。イルファではないが、詰りたくなった。
(本当に、俺の邪魔をしたと思ってるのか)
アシャの据わった視線にも気づかないまま、ユーノはわたわたと弁解を続ける。
「ほんと、気をつけるから、今度から」
「……傷」
ずっと眠っていて見ていなかった、だから密かに気になっていたことが、アシャの口から勝手に零れ落ちた。
「え?」
「傷を見せてみろ」
「大丈夫だよ」
野獣の唸り声に聞こえたのか、ユーノが両腕を背中に庇う。
「かすり傷だから。あなたのに比べりゃ、傷のうちにも入らないほどの」
「見せるんだ」
意識して唸った。このままじりじり逃げる気ならば、ベッドから飛び降りて引っ掴んでやる、その気配が通じたのか、ユーノは困りきった顔でそっと近寄ってくる。
「腕を出せ」
「う…ん…」
そっとユーノは両腕を差し出す。その手には、まだ両方とも包帯が巻かれていた。
アシャは無言で、まず左腕から包帯を解いた。ぱらりと布が落ちた下には、薄皮が張ったばかりの真新しい傷が、他の白く固まった傷痕に混じって浮き上がっている。右腕も同様に包帯を解き、アシャは丹念に傷痕を観察した。
「…っ」
間近に顔を寄せたせいで、吐息がかかったのだろう、ひくりとユーノが震えた。苦しそうに顔を歪め、やがて耐えかねたように顔を背ける。それでもアシャは傷痕を丁寧に検分し、ようやく深く溜め息をついた。
「よかった…」
「…え?」
「ダイン要城では剣に毒を塗る場合が多いんだ」
様々な毒を使うが、中でも酷いものは治りかけた傷をもう一度内側からただれさせていき、皮膚を腐らせていくものだ。どれほど手厚く治療しようと、治ったと思った部分から口を開いて崩れていく。
「…だが、大丈夫だ。この傷は毒刃にあたったんじゃない」
「そうか…」
そんなことがあるのかと訝るようなユーノの視線に繰り返す。
「運が良かったんだぞ」
「う、ん…」
(本当に運が良かった)
一歩間違えれば、勝利と引き換えにユーノを失うところだったのだと、今更冷や汗が滲んだ。
それでも今、この体を、何とか無事に自分の手に取り戻せている。
しみじみと安堵して、アシャはユーノの腕を深く押し頂いた。唇を寄せて、左腕の傷、続いて右腕の傷に口づける。
「ア、アシャ!」
悲鳴じみた抗議が上がった。
「ったく、もう…」
「何を怒ってる」
「傷口なんだぞ、まだ治り切ってなかったら」
「痛かったか?」
「…もういい」
ユーノは唇を尖らせて顔を背けた。
ベッドのアシャの瞳は笑みを含んでいて上機嫌だ。長い間臥せっていたにしては調子が良さそうだ、そう思った瞬間に脳裏を掠めた影に後悔した。
(当たり前、か)
ようやく想い人と会えたのだ。すぐ側で声を聞き、柔らかな体温を寄せられ、甘い笑みを向けられて寛がない恋人などいるものか。
「それより」
思いついたことにはっとして、ユーノはアシャを振り返る。
「ん?」
「『狩人の山』(オムニド)でのことを話してよ。後で話すって約束しただろ」
「『狩人の山』(オムニド)……そうだな」
一瞬、暗い影がアシャの瞳を覆った。だが、それは問い正す前にすぐに消え、アシャは低い声で話し始める。
「『狩人の山』(オムニド)に入ってすぐ、俺はギヌア達に待ち伏せされた」
「ギヌア…!」
息を呑むユーノに、ああ、と苦く笑った。
「俺が甘かったってことだ」
『泉の狩人(オーミノ)』と『運命(リマイン)』が手を結ぶのを阻止するべく『狩人の山』(オムニド)に分け入ったアシャは、それでも何とかギヌア達を防ぎ、その意図の一つを挫いたものの、左腕と左胸、脇腹を負傷した。
傷は思ったよりも深く、出血が続き、さしものアシャも昏倒して雪に埋もれ、このまま果てるのかと思われた。
「…ぅ…ん」
が、しばらくして、アシャは何か柔らかくてしなやかなものが、首の当たりに触れている気配に薄目を開けた。
ぼんやりと霞んだ視界に銀青色の塊が映る。瞬きをしたとたん、それは、尖った耳で四つ足の、ほっそりした顎に金と青の色違いの眼の動物となって像を結ぶ。
「く!」
(シズミィ!)
動物の名前に思い至ったアシャが跳ね起きようとした瞬間、それを待ち構えていたように喉に巻きついていた尾が締まり、左胸を押さえつけていた前足がぎっと爪を立てる。
「ぅぐ!」
激痛に弾かれる体、顔を歪めて再び雪に沈む。
衝撃に乱れた呼吸を何とか整えながら、アシャは相手を見定めた。
成獣ではないのだろう。アシャの両腕に抱えられるほどの大きさだが、ぴんと伸びた白い髭、容赦なくアシャの傷に食い込ませてくる金色の爪、細身の骨格に無駄なところのない筋肉、残忍なほど冷たい双眸は紛れもなく天性の殺戮者のものだ。
身動きを押さえたアシャの胸から、裂けた衣を濡らして生温かなものが滴っていく。相手はゆっくりとそれを見下ろし、僅かに目を細めるとすうっと顔を降ろしてきた。目を伏せ、桃色の舌を出してアシャの血を舐め取ると、満足そうに改めて口を開いた。獲物を味わうように傷の辺りから首筋、頬へと舌を移動させていく。
「…く…ぅっ」
ざらざらした細かな棘があるような舌に舐め擦られ、傷が開き、肉がこそげられる。次々砕ける激痛に、アシャは眉をしかめて歯を食いしばった。今すぐに掴みかかりもぎ離したいのを堪えながら、四肢を投げ出し目を閉じる。
銀青色の獣の名はシズミィ。肉食動物で人肉も好んで食する。攻撃は執拗で獲物を骨にするまで離れない。自由自在に動く五本目の手のような尻尾は体長と同じぐらいあり、爪で掴み切れずとも、獲物の首を尾で巻き締めて折ることもできる。
今アシャの首を締め切らないのは、アシャが身動きせずに、自分の餌となるのを甘受しているから、つまりは生き餌の方が好みなのだ。
「ぅ、ぐ、う…」
体が勝手に跳ねる。首を締める力がじりじりと増す。ぴちゃぴちゃと楽しげに鳴らす舌が肌に落ちる度に悪寒が走る。相討ち覚悟ならば抵抗できなくもない、だが、実は、この獣は他の何よりも危険な要素を持っていた。
『そこまでにするがいい、シャギオ』
ふいに、あたりの空気を一瞬に澱ませるような暗い声が命じた。ぴくりと不服そうに獣がアシャを味わうのを止めて顔を上げる。
『シズミィに襲われても耐えるところは、さすがにアシャと言いたいが』
違う方向からも似たような響きの声が嘲った。
『いかなアシャとて、これ以上に出血に耐えられるとは思えんな』
「……」
アシャは荒い息を弾ませながら眼を開けた。
目の前の雪原に、いつの間にか現れたのか、蒼白いドレス姿の美しい女性が数人立っている。ほっそりとした形のいい素足、雪と紛う白い肌は薄布のような蒼のドレスに吸い込まれ、腰には焦茶の細いベルトが巻きついている。ふっくらと豊かな胸の中程まで露にして、残りには柔らかな青色系の布を纏っており、細い首筋は繊細で華奢な作りの顎へと繋がる。流れる髪の色はそれぞれ違うが、いずれも長く、波打ち、あるいはさらさらと風になびいて体にまとわりつき艶かしい。
だが、その美女達には、本来あるはずの顔がなかった。
首から上が存在していないのではない。確かにあることはある、だが、それはそのまま在ることなどとても考えられない、虚ろな眼窩を窪ませた骸骨そのものだ。顎のあたりから肌は骨に変わり、潤いも張りもなくす。絡みつく艶やかな髪もどこかおどろおどろしい。
伝説の存在、『泉の狩人(オーミノ)』だ。
そう、何を隠そう、シズミィは『狩人の山』(オムニド)における彼女達の道案内、言い換えれば、シズミィの居るところに『泉の狩人(オーミノ)』は現れる。
『来い、シャギオ』
呼ばれたシズミィは、ちらりと物欲しそうにアシャの傷を眺めた。アシャの体の上で身構えたまま、そこから離れようとはしない。
『そなたが美しいものを好むのは知っておる』
くっくっく、と黄泉路の風が吹き過ぎるような寒々とした笑いを響かせて、先頭に居た栗色直毛の女が続けた。
『確かに、アシャは音に聞こえた美形だとも………我ら「泉の狩人(オーミノ)」とて、このまま美しい地獄絵図を楽しみたいのは同じこと』
骸骨の黒い眼窩の奥で、眼に見えぬ眼球が動き、雪を朱に染めて横たわるアシャを舐めるように眺めたようだった。
『白雪に紅と朱の花、蒼ざめた顔に紫の瞳も悪くはない……汗濡れた頬や喘ぐ口許もそなたの好みだろうて……それにアシャほどの男が血に染まっているのは確かに見物だろうよ』
背後に居た女が混ぜっ返す。
『だが、シャギオ、同時にアシャは我が王『太皇(スーグ)』の世継ぎにもなった男……我らの楽しみのために捨て置くことはできぬのでな』
シズミィは渋々と言った様子で、アシャの首から尾を解いた。そのまま離れるのかと思いきや、最後の一舐めとばかりに左胸に顎を埋める。
「ぅあっ!」
もちろんわざとだろう、牙で傷を引っ掛けられ、アシャは声を上げて仰け反った。
『ほ…ほほ……』
『きつい子じゃ、アシャの血はさぞかし旨いと見える』
『我らが盃にもどうじゃ、ええ?……ほほほっ』
女達は口々に楽しげな笑い声を響かせた。さすがに視界が一瞬暗くなり、危うく意識を飛ばしかけたアシャに、先頭の女が一歩近づく。雪が軽くきしむ音に、何とか眼を開く。血を流し過ぎたのだろう、息が弾んだまま、なかなか戻らない。
『アシャ、この通り、我らは世に外れた者だ。「太皇(スーグ)」と言えども、すぐには我らを動かしはせぬ。何をしにきたかは見当がついている……このまま帰り、出直すがいい』
「…『泉の狩人(オーミノ)』は……」
はあはあと忙しく息を吐きながら、アシャはかろうじて嗤った。
「無口な…一族と聞いて…たが……結構……おしゃべりな…奴がいる…な…」
『ほう…』
先頭の女が低く唸る。殺気を帯びた凄みのある声だった。
『あくまで……我らに喰らいつく気か』
「…その…役目を……追って……きた…」
朦朧としてくる意識、霞む視界を振り払いながら、アシャは応じた。血を失い、体温を失って、体が無意識に震えてくる。食いしばったつもりの歯がかたかたと小さな音を鳴らす。
『…ふ……ふふっ…』
先頭の女が嗤う。
『なんとも……強情な……。…よかろう。我らが長に会わせよう。セール!』
『はい』
『アシャを連れてきてやれ』
『はい』
セールと呼ばれた女が進み出る。ゆっくりとアシャに屈み込み、とても女の力とは思えぬ怪力で、軽々とアシャを肩に担ぎ上げた。
「ぐぅっ!」
体を二つに裂かれたような激痛に呻いた。必死に噛み締めた奥歯が嫌な音をたてる。ボタボタ…ッと衣服に溜まっていた血と新たに出血した分が、雪とセールの肩を紅に染めるが、相手は気にした様子もない。むしろ、体を濡らす血潮に気持ち良さそうに続けた。
『長の前でまだ口をきけたら』
くっくっくっくっとセールが嗤う。
『少しはそなたの言うことも聞こうぞ、アシャ』
そしてアシャは、傷の手当も受けないまま、雪嵐が吹き始めた『狩人の山』(オムニド)を運ばれていった。
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