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6.魔物(パルーク)(3)
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「そう、だったの……」
レアナは深々と溜め息をつきながら、ユーノの手首に包帯を巻いている。
「それで、こんなに傷が増えて…」
剥き出しになった腕に縦横に走る白い傷痕を、痛ましそうな顔で眺めながら眉をひそめる。
「女の子なのに」
どこか母親じみた懐かしい声音で悲しそうに呟く、まるで世界の悲劇を見せつけられたように。
(女の子なのに?)
そのことばを、ぽかりと虚ろな胸の奥で繰り返して、ユーノはぼんやりと瞬きした。
レアナは今ユーノの両腕の傷の手当をしてくれている。だが、見ているのは両腕だけだ。この傷だけで、これほど心を悩ませるのならば、ユーノの全裸を目にしたのなら、レアナはどう言うのだろう、と遠い感覚で思う。
「レアナ、姉さまは…」
久しぶりに呼んだ名前は妙にぎごちなく口を滑り、見知らぬ他人の名前のようだった。
「どうして…ここに」
「それがね、ユーノ」
ともすれば黙りがちになるユーノを促しつつ、ラズーンまでの旅のあらましを聞き取ったレアナは、問いに応えて、ガデロに来るまでの経緯を語った。
皇宮に急使が来たこと、ユーノが高熱にうなされてレアナを求め呼んでいると聞いたこと、渋る両親を説得してセレドを旅立ったこと、通常の道ではなく、闇の中を貫く不思議な道を幾度も出入りしてガデロに着いたこと、そのとたん暴漢に襲われ、急使とはぐれ、そのまま攫われてあの城に閉じ込められたこと……。
「始めは縛られていたのよ……ほら、まだ痕が残っているわ」
レアナは白い両腕を差し上げた。滑らかな肌に赤く擦れた痕が幾筋か残っている。その筋を不安そうに視線で眺め、はっとしたようにレアナは首を振った。
「でも、こんなことは何でもないわね、だって、ユーノ」
その腕でぼうっとしているユーノの頭を抱き寄せる。
「あなたはもっと酷い傷を受けているんですものね。あなたの方がつらい旅をしてきたんですものね」
「……」
(つらい、旅)
甘く柔らかな声音で呟かれたそのことばは、鋭くユーノの心を貫いた。
つらい旅と言うのですか。それをあなたが言うのですか。どうしてあなたはそんなに優しいのですか。
問いかけは次々と口に出せないままに心の中で砕け散っていく。
たとえ口にしたところで、ただの一つも解答を得られない類のものだろう。質問している内容は、レアナには『想像できるよりずっと外側の出来事』でしかないだろう。
「…は…はっ」
我知らず小さく笑って、ユーノは体を起こした。
「大丈夫だよ、姉さま」
にっと笑って見せる。
「私は強いの。姉さまは心配性だね。これぐらいのこと、何でもないんだから」
「でも…」
レアナは優しく目を瞬いた。
「そんな傷があっては、ドレスが着にくいでしょう?」
「……ははっ…」
邪気のない問い、レアナの暮らしている世界を思えば、ごく当然の疑問、けれどもそれは、ユーノが生きている世界が姉の生きている世界とどれほど隔たっているのかを知らせた。
「何言ってるんだよ、姉さま」
胸の奥に虚ろな脱力感が過るのを無視する。どう説明してもわからないのだろうという確信に気づかないふりで、強いて元気に答える。
「私,元々ああいうの、嫌いなんだってば。こういう服の方が」
着替えた草色のそっけないチュニックを引っ張る。
「好きなんだ……動きやすいしね」
「そう…」
不得要領な顔でレアナが頷く。控えめにユーノの姿を眺める瞳がそっと語る、それでもユーノ、その姿はとても皇女のものではない、と。
「それより、セアラは元気?」
「ええ、シィグトとじゃれてるわ」
「母さまは?」
「穏やかに過ごされているわ」
「父さまは?」
「変わりなく、よく治められててよ。ゼランの事は悲しまれたけれど…」
「ああ……そうだね」
レアナは気づいているだろうか。娘であるユーノが危険な旅に出ている間、家族は『変わりなく』穏やかに過ごしているという意味を。ゼランはユーノのごく近くに居た男だった。その男が裏切り者であったことを知らされたのに、ユーノを襲ったかも知れない危険を案じなかったという現実を。
ましてや、その裏切り者の末路を『悲しんだ』と、ユーノに言うのだ。
自分の笑顔が保てているのか、ユーノは自信がなくなった。遠く離れたラズーンで、家族はここから祖国の距離よりも遠くに居るのだと、改めて思い知らされた気分だった。
「ユーノ」
扉の向こうで声が響き、ゆっくりと開いた戸口から、紫の衣に身を包んだセシ公が姿を現した。レアナに軽く会釈して、ユーノの側に歩み寄る。
「医術師が帰ったが……アシャの容態はあまり良くない、と言っている」
「っ」
びく、と体が震えるのを止められなかった。顔が表情を失ったのがわかる。だが、あえて口を開かず、ユーノはセシ公のことばを待った。
「だが、今夜を何事もなく越せば、大丈夫だろうとのことだ」
「ああ…」
吐息を漏らした。
(感謝します)
ユーノはどこへともなく祈りを捧げる。
(感謝します、まだ力を注げる時間がある)
既に打つべき手は打ってある。後はアシャの体力勝負、ならば少しは安心できる。旅の空の下、アシャの頑丈さはよく知っている。あれほどの傷で、それでも今夜一晩さえと言うのなら、かなり期待がもてるはずだ。
「側に付き添われるか?」
「あ…」
セシ公が瞳に複雑な色をたたえて尋ねてくれ、ユーノは動揺した。
もちろん、側に付き添いたい。傷ついたアシャの休息を妨げるものがあるのなら、この手で全て排除したい。だが。
「私、は」
「セシ公」
ユーノのことばを遮って、厳しい表情になったレアナが進み出た。
「私に付き添わせて下さい」
「しかし」
ちらり、とセシ公がユーノを見遣ってことばを濁す。
「あなたとて、つい先ほど起きられたばかりでは」
「ユーノは怪我人です。この子も眠らなくてはなりません」
一国の皇女の威厳がレアナの言葉尻にほの見えた。
「それに……アシャは私達の命の恩人です」
すうっとレアナの白い頬が上気する。はにかむような響きが口調に混じる。
「私が付き添います」
セシ公は問いかけるような視線でユーノを見た。その眼を一瞬見返し、けれどすぐに目を伏せ、ユーノは無言で頷いた。喉に詰まりそうな想いを一瞬で押し込み、顔を上げ、打って変わって明るい口調で応じる。
「じゃあ、姉さま、お願い。私、実はもう眠くて…」
「ええ、わかったわ、ユーノ」
すらりと立ち上がったレアナがユーノの頬に軽くキスして続ける。
「心配しないで。アシャは大丈夫よ」
「…それでは、レアナ姫」
セシ公がするすると退いて、扉を開けた。いつの間にか、そこに、神妙な、けれどどこか嬉しそうな顔をしたバルカが控えている。
「この者がご案内します」
「お願いします」
セシ公公邸に来てから与えられた純白のドレスの裾を鮮やかにさばいて、始めからここで暮らしていたように、レアナは部屋を出て行く。
ぱたり、とその背後で扉が閉まる。簡素な飾りを施した木製の扉が、まるで世界を隔てる力があるもののように思える。
「よかったのか?」
閉じた扉を見ていたセシ公が、ゆっくりと振り返った。どこか妖しい色気のある微笑、レアナが居る時には秘されていた本性が見える笑みを零す。
「……何が、です」
「レアナ姫に付き添わせて」
「……アシャはレアナ姉さまを愛している」
ぼそりとユーノは呟いた。
「苦しんでいる時に、愛している者に側に居て欲しいと思うのは、当然でしょう」
「それで、あなたは…」
それ以上、相手のことばを続けさせまいと、ユーノは鋭い視線を向けた。応じて黙するセシ公に、冗談のように肩を竦めてみせる。
「私は姉さまの妹、それだけのことです。……それより、セシ公」
姿勢を改めて向き直った。
「あなたがダイン要城へ来て下さるとは、思いもしませんでした」
負傷し気を失ったアシャを抱えて立ち往生していたユーノ達を救ったのは、他ならぬセシ公に率いられた『金羽根』の一群だった。国境を地下道で越え、ダイン要城の様子を伺いつつ待機し、魔物(パルーク)の狂乱がおさまり、疲れ果て横たわった隙に襲い掛かってこれを屠り、死が充満したダイン要城へ乗り込んできて、ユーノ達を助けてくれたのだ。
ただ一つ、ドーヤル老師の姿がどこにもなく、それだけが気がかりと言えば言えたが……。
「それは…私が中立だからか?」
セシ公が楽しげに問い返した。
「あなたは慎重な方だ」
ユーノは微笑みながら続ける。
「たとえ、実の弟が居たとは言え、自ら兵を率いられるのは前代未聞のはず」
「荒仕事は苦手なのだ」
セシ公は笑みを絶やさないまま、そっと指先で髪をかきあげた。
「情報交換を行う方が容易い」
そう言いながらも、その実、おそらくセシ公は『金羽根』の誰より『荒仕事』を完璧にこなしてみせるだろう。微笑みながらラズーンを裏切り、『運命(リマイン)』にも従わない、そういう綱渡りを易々とやってのける度胸と実力の持ち主だろう。
「そのあなたが、一体どうして」
ユーノは静かに問いかけた。
確かに、負傷したアシャに手厚い看護を受けさせ、ユーノ達に慰謝を与えてくれようとしていることに、嘘偽りはない。
だが、その裏に何の意図もなく、ただただ善意だけを与えてくれる、とは思えなかった。仮にも、セシ公、ラズーンの情報屋を名乗る男が、己の立場を捨ててまで一方に加担するのに、何の見返りも期待していないとは思えない。
「……一つには、リヒャルティはやはり私の弟だということ」
どう応じようか、一瞬そうためらった気配を漂わせた相手は、目を細めた。
「次には、世に名高いレアナ姫を見たかったこと」
さきほどのやりとりの上のこのことば、ユーノを挑発しているのかも知れないと思ってもちりちりした。
(からかうだけならいい、私を抑える手立てでも構わない)
だが、本当に何かの手段としてレアナの存在を考えているだとしたら。
「…」
無言で殺気を込めてセシ公を睨みつける。だが、相手は瞳を淡く煙らせて、ゆっくりと目を伏せた。白皙の美貌に微かな苦笑が広がる、まるで敵陣で初めて自分の窮地に気づいてしまった男のように。
「そして何よりも」
なおためらい、やがて諦めたように続けた。
「……リヒャルティの二の舞だ」
「は?」
「………あなただ」
意味がわからず、ユーノは瞬いた。
「あなただ、ユーノ殿」
セシ公という存在からは考えられないほどのうやうやしさでことばを継いだ。
「何があなたを動かしているのか、あなたがどうしてそこまでラズーンに肩入れするのか、それを知りたくなった」
「私が…」
何がユーノを動かすのか。なぜラズーンの側に立ち続けるのか。
脳裏に過ったのは今床に伏しているアシャ、護りたいと願い、幸福で居てほしいと祈る相手の笑顔。
ただ、アシャに笑っていてほしい、それだけなのだと伝えて、さてセシ公は信じるだろうか?
「我らは、これからラズーンの下に居る」
セシ公は淡々と言い切った。
「いつ何時でも呼ばれるがよい。ラズーン四大公の一人、セシ公は我が配下と、胸を張って言われるがよい」
薄い唇が皮肉な笑みを浮かべた。
「ユーノ殿、私が武運をと願うのは、あなたが最初で最後になるだろう。セシ公は…」
くっ、と低い忍び笑いをして付け加える。
「得ておいても損にならない男だと思うが?」
それは自惚れでも何でもないだろう。セシ公が味方となるなら、これほどラズーンにとって心強いことはないだろう。
だが、本当、だろうか。
ただユーノの生き方への興味だけで、この男が協力してくれるものだろうか。
「ラズーンは滅ぶという噂の中、私に賭けると?」
「滅びもまた悪くない。ユーノ殿」
セシ公はユーノのことばを待たなかった。静かに深く礼を取る。他の者にこれほど頭を下げたことがあったのかどうか、さらさらと流れ落ちる髪が灯を跳ねながら床に垂れる。それから静かに顔を売るあげて、ユーノを振り仰いだ。
「快き夜を」
「…こころよき、よるを」
それが挨拶らしいと気づいて慌てて返すと、一瞬、ひどく不似合いな、子どものように嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がり、セシ公は静かに部屋を出て行った。
「私に…賭ける…?」
おそらくは、今ラズーンはとても不利な状況にあるのだろう。
長らく続いた安寧は人々から危機に立ち向かう気概を奪い、自らの抱えている問題が何なのかを考える力さえ衰えさせている。『運命(リマイン)』はその人々の心の緩みにつけ込み、脅威と恐怖を見せびらかし、世界は破滅に向かいつつあるのだと思い込ませて動揺させ、『運命(リマイン)』が描いてみせる、ありもしない幻の享楽と繁栄へと駆り立てている。
その実は、『運命(リマイン)』こそが脅威と恐怖の源、自分達だけが生き残るために全てを食らい尽くしていこうとしている。だが、それを語るためにはラズーンの真実の姿を明かさねばならず、それが新たな不安と争乱の種となりかねない。
そういった事情を薄々察知しているはずのセシ公が、いや、そういった事情を十分に理解しているはずの『太皇(スーグ)』もまた、ユーノに賭ける、という。
(こんな私に)
いつまでもレアナに対する揺らぎを抱えたままの。
時にレスファートに詰られ、イルファに叱られるような。
そして、アシャのことさえ、想い切れない弱い心の。
「っ」
はっとした。周囲の気配を探り、ユーノはそろそろと部屋を出る。うろうろしているのが見つかれば、怪我人が何をしているとまた見咎められるだろう。足音を忍ばせ廊下を進み、教えられていたアシャが眠る部屋の前に立つ。
(アシャ…)
流れた血は多かっただろうか。傷は深かっただろうか。耐えていた痛みは激しかっただろうか。
(気づかなきゃいけなかったんだ)
どこか蒼い顔、リヒャルティも言っていた、血の匂いがするようだ、と。
(今夜一晩)
一歩扉に近寄った。
(ちょっとだけ、顔を見るだけでも)
手を上げ、扉を叩き、声をかけようとする。が、寸前で、ユーノは手を握りしめて俯いた。
(今さら)
唇を噛んで、少しずつ離れる。
部屋に入ってどうしようと言うのだ。レアナが既に付き添っている。その側で、何をしようと言うのだ。
少し離れた戸口から外へ出て、屋敷に沿って回り、アシャの部屋近くに身を寄せる。そっと覗き込んだ視界に、ベッドに寝ているアシャと、そのすぐ側に座り、アシャの片手を握り、優しい眼でアシャを見守るレアナの姿が飛び込んできた。
「…ぁは…っ…」
ずきりと疼いた胸の痛さを笑いで紛らせる。
(何て、似合ってる、んだろ)
それは、想像していたよりもずっと眩い光景だった。
まるで嵌め絵の最後の一片のように、レアナは何の苦もなくアシャの側に納まり、全く違和感がなかった。白い指先が布を挟み、アシャの額に浮いた汗を拭き取る。苦しげに寄せられていたアシャの眉が、ほっとしたように緩む。
(安心、してるんだ…)
膝の力が抜け落ちていくような気がした。
(アシャ……姉さまが居て、安心してるんだ……)
長く一緒に旅をしてきたユーノではなく。ずっと離れていて、旅のあれこれも全く知らなかったレアナが側に居て。
それはきっと、アシャが求める相手だから。
ただ一人、自分が心を預ける人だから。
(私じゃ…駄目なんだ…)
少しはアシャの近くに居たと思っていた。ラズーンの秘密を知り、正統後継者候補となり、そっくり同じではないだろうけど、アシャの抱えていた秘密や傷みや苦しみを、少しは分け合えたと思っていた。
それでも。
それでも。
(姉さま…)
心の中で呟いた。
(私だって、それでも、夢見ていたことは、あるんだ)
あなたは全く考えもしていなかっただろうけど。
愛しい人を守ろうと思った。心を尽くし、体一杯で守り切ろうと思っていた。
それでも、もし愛しい人が傷ついたら、自分の全てで受け止めて、その傷を包んで癒そうと。ずっと側についていて、また再び笑えるようになるまで、一緒に守り支えようと。
(私だって……私、だって)
ただ側にいたいと。
それだけの夢、なのだが。
「でも…」
無意識に呟いてぎょっとする。レアナが何かに気づいたようにこちらを振り返る気配、慌ててしゃがみ込む。静かに移動して窓の下に身を伏せるとほとんど同時に、レアナが窓を開いた。
「誰か居たような…」
不安げに響いたレアナの声を追うように、掠れた声が呼ぶ。
「レアナ…」
「はい」
レアナはすぐに窓を閉め、離れていく。
そしてユーノは、目を見開いて零れそうになった声を殺す。
(こんな時でも…呼んでもらえない…?)
レアナが何を知っているのだろう。ユーノとアシャの旅を、くぐり抜けてきた危険を、辿ってきた日々の出来事を、きっと何一つも知らないし、話したところで理解さえできないはずなのだ、だって。
(姉さまは……姉さまは…)
ずっと、何も、知らなかったじゃないか。
「…っ」
滲む視界、しゃくりあげそうになって口を押さえて踞る。
(何も、知らなかったじゃないか!)
どれだけユーノが苦しかったのか。寂しかったのか。辛かったのか。
痛くて、身動きできなくて、悲しくて、それでも。
(それでも)
どれだけ堪えて、頑張ってきたのか。
(それでも)
「……は」
溢れ落ち零れ落ちた涙を必死に殴り拭いながら震える体を抱き締める。
(それでも)
「…は……」
しばらく泣き続け、やがてぽろ、と落ちた最後の涙を擦ると、後は喉と胸が切なくて痛いだけで、もう涙も零れなかった。
胸に満ちる、一つの真実。
(呼ぶのは、姉さまの名前だけ、なんだもの、なあ)
「ひ、でぇ、の」
イルファの口ぶりをまねて、くすり、と笑う。
(側に居たいと思うのさえも、許してもらえない人間っているんだなあ)
「ふ…ぅ…」
目を閉じ、ゆっくりと呼吸する。自分の心臓の鼓動を感じた。
(結局、一人、か)
誰かの鼓動が重なることはない。誰かの温もりに包まれることはない。ユーノの選んだ道は、こんなにも孤独で、きつい。
(それでも)
閉じた闇の視界に、一つ一つ甦ってくる顔があった。レスファートの泣いた顔、イルファの驚いた顔、ハイラカの頷く顔、シートスの厳しい顔、ユカルの怒った顔、そして……アシャの笑った顔。
「…ん…」
旅は、豊かなものだった。
「……うん」
後悔などしない。もし生まれ変わって同じことがあったとしたら、やっぱりユーノは戦い、一人で旅立つ道を選ぶだろう。
膝を抱え、そっと顔を上げた。
背後の部屋では寄り添う二人が静かな時を過ごしている。
(今夜一晩、ここにいよう)
ごめんよ、アシャ。
(邪魔はしないから。何もしないから。ただ)
もし、死神が外からやってくるのなら。
遠くの闇をしっかりと見つめる。
(私の命にかけて、通さない)
誓いに応じるように、深まりつつある空に一筋、星が翔けた。
レアナは深々と溜め息をつきながら、ユーノの手首に包帯を巻いている。
「それで、こんなに傷が増えて…」
剥き出しになった腕に縦横に走る白い傷痕を、痛ましそうな顔で眺めながら眉をひそめる。
「女の子なのに」
どこか母親じみた懐かしい声音で悲しそうに呟く、まるで世界の悲劇を見せつけられたように。
(女の子なのに?)
そのことばを、ぽかりと虚ろな胸の奥で繰り返して、ユーノはぼんやりと瞬きした。
レアナは今ユーノの両腕の傷の手当をしてくれている。だが、見ているのは両腕だけだ。この傷だけで、これほど心を悩ませるのならば、ユーノの全裸を目にしたのなら、レアナはどう言うのだろう、と遠い感覚で思う。
「レアナ、姉さまは…」
久しぶりに呼んだ名前は妙にぎごちなく口を滑り、見知らぬ他人の名前のようだった。
「どうして…ここに」
「それがね、ユーノ」
ともすれば黙りがちになるユーノを促しつつ、ラズーンまでの旅のあらましを聞き取ったレアナは、問いに応えて、ガデロに来るまでの経緯を語った。
皇宮に急使が来たこと、ユーノが高熱にうなされてレアナを求め呼んでいると聞いたこと、渋る両親を説得してセレドを旅立ったこと、通常の道ではなく、闇の中を貫く不思議な道を幾度も出入りしてガデロに着いたこと、そのとたん暴漢に襲われ、急使とはぐれ、そのまま攫われてあの城に閉じ込められたこと……。
「始めは縛られていたのよ……ほら、まだ痕が残っているわ」
レアナは白い両腕を差し上げた。滑らかな肌に赤く擦れた痕が幾筋か残っている。その筋を不安そうに視線で眺め、はっとしたようにレアナは首を振った。
「でも、こんなことは何でもないわね、だって、ユーノ」
その腕でぼうっとしているユーノの頭を抱き寄せる。
「あなたはもっと酷い傷を受けているんですものね。あなたの方がつらい旅をしてきたんですものね」
「……」
(つらい、旅)
甘く柔らかな声音で呟かれたそのことばは、鋭くユーノの心を貫いた。
つらい旅と言うのですか。それをあなたが言うのですか。どうしてあなたはそんなに優しいのですか。
問いかけは次々と口に出せないままに心の中で砕け散っていく。
たとえ口にしたところで、ただの一つも解答を得られない類のものだろう。質問している内容は、レアナには『想像できるよりずっと外側の出来事』でしかないだろう。
「…は…はっ」
我知らず小さく笑って、ユーノは体を起こした。
「大丈夫だよ、姉さま」
にっと笑って見せる。
「私は強いの。姉さまは心配性だね。これぐらいのこと、何でもないんだから」
「でも…」
レアナは優しく目を瞬いた。
「そんな傷があっては、ドレスが着にくいでしょう?」
「……ははっ…」
邪気のない問い、レアナの暮らしている世界を思えば、ごく当然の疑問、けれどもそれは、ユーノが生きている世界が姉の生きている世界とどれほど隔たっているのかを知らせた。
「何言ってるんだよ、姉さま」
胸の奥に虚ろな脱力感が過るのを無視する。どう説明してもわからないのだろうという確信に気づかないふりで、強いて元気に答える。
「私,元々ああいうの、嫌いなんだってば。こういう服の方が」
着替えた草色のそっけないチュニックを引っ張る。
「好きなんだ……動きやすいしね」
「そう…」
不得要領な顔でレアナが頷く。控えめにユーノの姿を眺める瞳がそっと語る、それでもユーノ、その姿はとても皇女のものではない、と。
「それより、セアラは元気?」
「ええ、シィグトとじゃれてるわ」
「母さまは?」
「穏やかに過ごされているわ」
「父さまは?」
「変わりなく、よく治められててよ。ゼランの事は悲しまれたけれど…」
「ああ……そうだね」
レアナは気づいているだろうか。娘であるユーノが危険な旅に出ている間、家族は『変わりなく』穏やかに過ごしているという意味を。ゼランはユーノのごく近くに居た男だった。その男が裏切り者であったことを知らされたのに、ユーノを襲ったかも知れない危険を案じなかったという現実を。
ましてや、その裏切り者の末路を『悲しんだ』と、ユーノに言うのだ。
自分の笑顔が保てているのか、ユーノは自信がなくなった。遠く離れたラズーンで、家族はここから祖国の距離よりも遠くに居るのだと、改めて思い知らされた気分だった。
「ユーノ」
扉の向こうで声が響き、ゆっくりと開いた戸口から、紫の衣に身を包んだセシ公が姿を現した。レアナに軽く会釈して、ユーノの側に歩み寄る。
「医術師が帰ったが……アシャの容態はあまり良くない、と言っている」
「っ」
びく、と体が震えるのを止められなかった。顔が表情を失ったのがわかる。だが、あえて口を開かず、ユーノはセシ公のことばを待った。
「だが、今夜を何事もなく越せば、大丈夫だろうとのことだ」
「ああ…」
吐息を漏らした。
(感謝します)
ユーノはどこへともなく祈りを捧げる。
(感謝します、まだ力を注げる時間がある)
既に打つべき手は打ってある。後はアシャの体力勝負、ならば少しは安心できる。旅の空の下、アシャの頑丈さはよく知っている。あれほどの傷で、それでも今夜一晩さえと言うのなら、かなり期待がもてるはずだ。
「側に付き添われるか?」
「あ…」
セシ公が瞳に複雑な色をたたえて尋ねてくれ、ユーノは動揺した。
もちろん、側に付き添いたい。傷ついたアシャの休息を妨げるものがあるのなら、この手で全て排除したい。だが。
「私、は」
「セシ公」
ユーノのことばを遮って、厳しい表情になったレアナが進み出た。
「私に付き添わせて下さい」
「しかし」
ちらり、とセシ公がユーノを見遣ってことばを濁す。
「あなたとて、つい先ほど起きられたばかりでは」
「ユーノは怪我人です。この子も眠らなくてはなりません」
一国の皇女の威厳がレアナの言葉尻にほの見えた。
「それに……アシャは私達の命の恩人です」
すうっとレアナの白い頬が上気する。はにかむような響きが口調に混じる。
「私が付き添います」
セシ公は問いかけるような視線でユーノを見た。その眼を一瞬見返し、けれどすぐに目を伏せ、ユーノは無言で頷いた。喉に詰まりそうな想いを一瞬で押し込み、顔を上げ、打って変わって明るい口調で応じる。
「じゃあ、姉さま、お願い。私、実はもう眠くて…」
「ええ、わかったわ、ユーノ」
すらりと立ち上がったレアナがユーノの頬に軽くキスして続ける。
「心配しないで。アシャは大丈夫よ」
「…それでは、レアナ姫」
セシ公がするすると退いて、扉を開けた。いつの間にか、そこに、神妙な、けれどどこか嬉しそうな顔をしたバルカが控えている。
「この者がご案内します」
「お願いします」
セシ公公邸に来てから与えられた純白のドレスの裾を鮮やかにさばいて、始めからここで暮らしていたように、レアナは部屋を出て行く。
ぱたり、とその背後で扉が閉まる。簡素な飾りを施した木製の扉が、まるで世界を隔てる力があるもののように思える。
「よかったのか?」
閉じた扉を見ていたセシ公が、ゆっくりと振り返った。どこか妖しい色気のある微笑、レアナが居る時には秘されていた本性が見える笑みを零す。
「……何が、です」
「レアナ姫に付き添わせて」
「……アシャはレアナ姉さまを愛している」
ぼそりとユーノは呟いた。
「苦しんでいる時に、愛している者に側に居て欲しいと思うのは、当然でしょう」
「それで、あなたは…」
それ以上、相手のことばを続けさせまいと、ユーノは鋭い視線を向けた。応じて黙するセシ公に、冗談のように肩を竦めてみせる。
「私は姉さまの妹、それだけのことです。……それより、セシ公」
姿勢を改めて向き直った。
「あなたがダイン要城へ来て下さるとは、思いもしませんでした」
負傷し気を失ったアシャを抱えて立ち往生していたユーノ達を救ったのは、他ならぬセシ公に率いられた『金羽根』の一群だった。国境を地下道で越え、ダイン要城の様子を伺いつつ待機し、魔物(パルーク)の狂乱がおさまり、疲れ果て横たわった隙に襲い掛かってこれを屠り、死が充満したダイン要城へ乗り込んできて、ユーノ達を助けてくれたのだ。
ただ一つ、ドーヤル老師の姿がどこにもなく、それだけが気がかりと言えば言えたが……。
「それは…私が中立だからか?」
セシ公が楽しげに問い返した。
「あなたは慎重な方だ」
ユーノは微笑みながら続ける。
「たとえ、実の弟が居たとは言え、自ら兵を率いられるのは前代未聞のはず」
「荒仕事は苦手なのだ」
セシ公は笑みを絶やさないまま、そっと指先で髪をかきあげた。
「情報交換を行う方が容易い」
そう言いながらも、その実、おそらくセシ公は『金羽根』の誰より『荒仕事』を完璧にこなしてみせるだろう。微笑みながらラズーンを裏切り、『運命(リマイン)』にも従わない、そういう綱渡りを易々とやってのける度胸と実力の持ち主だろう。
「そのあなたが、一体どうして」
ユーノは静かに問いかけた。
確かに、負傷したアシャに手厚い看護を受けさせ、ユーノ達に慰謝を与えてくれようとしていることに、嘘偽りはない。
だが、その裏に何の意図もなく、ただただ善意だけを与えてくれる、とは思えなかった。仮にも、セシ公、ラズーンの情報屋を名乗る男が、己の立場を捨ててまで一方に加担するのに、何の見返りも期待していないとは思えない。
「……一つには、リヒャルティはやはり私の弟だということ」
どう応じようか、一瞬そうためらった気配を漂わせた相手は、目を細めた。
「次には、世に名高いレアナ姫を見たかったこと」
さきほどのやりとりの上のこのことば、ユーノを挑発しているのかも知れないと思ってもちりちりした。
(からかうだけならいい、私を抑える手立てでも構わない)
だが、本当に何かの手段としてレアナの存在を考えているだとしたら。
「…」
無言で殺気を込めてセシ公を睨みつける。だが、相手は瞳を淡く煙らせて、ゆっくりと目を伏せた。白皙の美貌に微かな苦笑が広がる、まるで敵陣で初めて自分の窮地に気づいてしまった男のように。
「そして何よりも」
なおためらい、やがて諦めたように続けた。
「……リヒャルティの二の舞だ」
「は?」
「………あなただ」
意味がわからず、ユーノは瞬いた。
「あなただ、ユーノ殿」
セシ公という存在からは考えられないほどのうやうやしさでことばを継いだ。
「何があなたを動かしているのか、あなたがどうしてそこまでラズーンに肩入れするのか、それを知りたくなった」
「私が…」
何がユーノを動かすのか。なぜラズーンの側に立ち続けるのか。
脳裏に過ったのは今床に伏しているアシャ、護りたいと願い、幸福で居てほしいと祈る相手の笑顔。
ただ、アシャに笑っていてほしい、それだけなのだと伝えて、さてセシ公は信じるだろうか?
「我らは、これからラズーンの下に居る」
セシ公は淡々と言い切った。
「いつ何時でも呼ばれるがよい。ラズーン四大公の一人、セシ公は我が配下と、胸を張って言われるがよい」
薄い唇が皮肉な笑みを浮かべた。
「ユーノ殿、私が武運をと願うのは、あなたが最初で最後になるだろう。セシ公は…」
くっ、と低い忍び笑いをして付け加える。
「得ておいても損にならない男だと思うが?」
それは自惚れでも何でもないだろう。セシ公が味方となるなら、これほどラズーンにとって心強いことはないだろう。
だが、本当、だろうか。
ただユーノの生き方への興味だけで、この男が協力してくれるものだろうか。
「ラズーンは滅ぶという噂の中、私に賭けると?」
「滅びもまた悪くない。ユーノ殿」
セシ公はユーノのことばを待たなかった。静かに深く礼を取る。他の者にこれほど頭を下げたことがあったのかどうか、さらさらと流れ落ちる髪が灯を跳ねながら床に垂れる。それから静かに顔を売るあげて、ユーノを振り仰いだ。
「快き夜を」
「…こころよき、よるを」
それが挨拶らしいと気づいて慌てて返すと、一瞬、ひどく不似合いな、子どものように嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がり、セシ公は静かに部屋を出て行った。
「私に…賭ける…?」
おそらくは、今ラズーンはとても不利な状況にあるのだろう。
長らく続いた安寧は人々から危機に立ち向かう気概を奪い、自らの抱えている問題が何なのかを考える力さえ衰えさせている。『運命(リマイン)』はその人々の心の緩みにつけ込み、脅威と恐怖を見せびらかし、世界は破滅に向かいつつあるのだと思い込ませて動揺させ、『運命(リマイン)』が描いてみせる、ありもしない幻の享楽と繁栄へと駆り立てている。
その実は、『運命(リマイン)』こそが脅威と恐怖の源、自分達だけが生き残るために全てを食らい尽くしていこうとしている。だが、それを語るためにはラズーンの真実の姿を明かさねばならず、それが新たな不安と争乱の種となりかねない。
そういった事情を薄々察知しているはずのセシ公が、いや、そういった事情を十分に理解しているはずの『太皇(スーグ)』もまた、ユーノに賭ける、という。
(こんな私に)
いつまでもレアナに対する揺らぎを抱えたままの。
時にレスファートに詰られ、イルファに叱られるような。
そして、アシャのことさえ、想い切れない弱い心の。
「っ」
はっとした。周囲の気配を探り、ユーノはそろそろと部屋を出る。うろうろしているのが見つかれば、怪我人が何をしているとまた見咎められるだろう。足音を忍ばせ廊下を進み、教えられていたアシャが眠る部屋の前に立つ。
(アシャ…)
流れた血は多かっただろうか。傷は深かっただろうか。耐えていた痛みは激しかっただろうか。
(気づかなきゃいけなかったんだ)
どこか蒼い顔、リヒャルティも言っていた、血の匂いがするようだ、と。
(今夜一晩)
一歩扉に近寄った。
(ちょっとだけ、顔を見るだけでも)
手を上げ、扉を叩き、声をかけようとする。が、寸前で、ユーノは手を握りしめて俯いた。
(今さら)
唇を噛んで、少しずつ離れる。
部屋に入ってどうしようと言うのだ。レアナが既に付き添っている。その側で、何をしようと言うのだ。
少し離れた戸口から外へ出て、屋敷に沿って回り、アシャの部屋近くに身を寄せる。そっと覗き込んだ視界に、ベッドに寝ているアシャと、そのすぐ側に座り、アシャの片手を握り、優しい眼でアシャを見守るレアナの姿が飛び込んできた。
「…ぁは…っ…」
ずきりと疼いた胸の痛さを笑いで紛らせる。
(何て、似合ってる、んだろ)
それは、想像していたよりもずっと眩い光景だった。
まるで嵌め絵の最後の一片のように、レアナは何の苦もなくアシャの側に納まり、全く違和感がなかった。白い指先が布を挟み、アシャの額に浮いた汗を拭き取る。苦しげに寄せられていたアシャの眉が、ほっとしたように緩む。
(安心、してるんだ…)
膝の力が抜け落ちていくような気がした。
(アシャ……姉さまが居て、安心してるんだ……)
長く一緒に旅をしてきたユーノではなく。ずっと離れていて、旅のあれこれも全く知らなかったレアナが側に居て。
それはきっと、アシャが求める相手だから。
ただ一人、自分が心を預ける人だから。
(私じゃ…駄目なんだ…)
少しはアシャの近くに居たと思っていた。ラズーンの秘密を知り、正統後継者候補となり、そっくり同じではないだろうけど、アシャの抱えていた秘密や傷みや苦しみを、少しは分け合えたと思っていた。
それでも。
それでも。
(姉さま…)
心の中で呟いた。
(私だって、それでも、夢見ていたことは、あるんだ)
あなたは全く考えもしていなかっただろうけど。
愛しい人を守ろうと思った。心を尽くし、体一杯で守り切ろうと思っていた。
それでも、もし愛しい人が傷ついたら、自分の全てで受け止めて、その傷を包んで癒そうと。ずっと側についていて、また再び笑えるようになるまで、一緒に守り支えようと。
(私だって……私、だって)
ただ側にいたいと。
それだけの夢、なのだが。
「でも…」
無意識に呟いてぎょっとする。レアナが何かに気づいたようにこちらを振り返る気配、慌ててしゃがみ込む。静かに移動して窓の下に身を伏せるとほとんど同時に、レアナが窓を開いた。
「誰か居たような…」
不安げに響いたレアナの声を追うように、掠れた声が呼ぶ。
「レアナ…」
「はい」
レアナはすぐに窓を閉め、離れていく。
そしてユーノは、目を見開いて零れそうになった声を殺す。
(こんな時でも…呼んでもらえない…?)
レアナが何を知っているのだろう。ユーノとアシャの旅を、くぐり抜けてきた危険を、辿ってきた日々の出来事を、きっと何一つも知らないし、話したところで理解さえできないはずなのだ、だって。
(姉さまは……姉さまは…)
ずっと、何も、知らなかったじゃないか。
「…っ」
滲む視界、しゃくりあげそうになって口を押さえて踞る。
(何も、知らなかったじゃないか!)
どれだけユーノが苦しかったのか。寂しかったのか。辛かったのか。
痛くて、身動きできなくて、悲しくて、それでも。
(それでも)
どれだけ堪えて、頑張ってきたのか。
(それでも)
「……は」
溢れ落ち零れ落ちた涙を必死に殴り拭いながら震える体を抱き締める。
(それでも)
「…は……」
しばらく泣き続け、やがてぽろ、と落ちた最後の涙を擦ると、後は喉と胸が切なくて痛いだけで、もう涙も零れなかった。
胸に満ちる、一つの真実。
(呼ぶのは、姉さまの名前だけ、なんだもの、なあ)
「ひ、でぇ、の」
イルファの口ぶりをまねて、くすり、と笑う。
(側に居たいと思うのさえも、許してもらえない人間っているんだなあ)
「ふ…ぅ…」
目を閉じ、ゆっくりと呼吸する。自分の心臓の鼓動を感じた。
(結局、一人、か)
誰かの鼓動が重なることはない。誰かの温もりに包まれることはない。ユーノの選んだ道は、こんなにも孤独で、きつい。
(それでも)
閉じた闇の視界に、一つ一つ甦ってくる顔があった。レスファートの泣いた顔、イルファの驚いた顔、ハイラカの頷く顔、シートスの厳しい顔、ユカルの怒った顔、そして……アシャの笑った顔。
「…ん…」
旅は、豊かなものだった。
「……うん」
後悔などしない。もし生まれ変わって同じことがあったとしたら、やっぱりユーノは戦い、一人で旅立つ道を選ぶだろう。
膝を抱え、そっと顔を上げた。
背後の部屋では寄り添う二人が静かな時を過ごしている。
(今夜一晩、ここにいよう)
ごめんよ、アシャ。
(邪魔はしないから。何もしないから。ただ)
もし、死神が外からやってくるのなら。
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(私の命にかけて、通さない)
誓いに応じるように、深まりつつある空に一筋、星が翔けた。
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