『ラズーン』第四部

segakiyui

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8.使者(2)

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「、ふっ…」
 詰めていた息を吐いて、ユーノはぼんやり眼を開けた。
 冷えきった額の『聖なる輪』(リーソン)がきつく締めつけてきて我に返ったらしい。ぶるっ、と小動物のように頭を振って、ユーノは辺りを見回し、どこに居るのか思い出した。
 周囲は雪、さらさらと風に舞い散る雪の斜面で、雪溜まりに脚を突っ込んで体勢を崩し、そのまま転げ落ちてしばらく眠り込んでしまっていたらしい。
(『狩人の山』(オムニド)…)
 ユーノは凍てついた四肢をのろのろと引き抜こうとした。チュニックも羽織っていたマントも既にびしょぬれになっている。怪我はしていなくとも、このままぼやぼやしていれば、凍死するのは目に見えている。
「……」
 ユーノはそっと『聖なる輪』(リーソン)に指を触れた。吹きつけてくる風に目を閉じ、意識を遮断する。心を指先に集めて、『聖なる輪』(リーソン)の中へと循環させる。
 風の冷たさを感じなくなってくるのと入れ代わりに、脳裏には二日前の出来事が甦ってきていた。

「『狩人の山』(オムニド)へ?」
 『太皇(スーグ)』は一瞬、自分の耳を疑うように玉座から身を乗り出した。
 『氷の双宮』は以前と変わらず静まり返り、『太皇(スーグ)』の声の隅々の音色を反響させる、疑いと不安と、密やかな感嘆を。
「はい」
 玉座の前に片膝を突いて礼をとったユーノは、じっと床の上を見つめながら低く応えた。
「アシャの代わりに向かうというのか」
「はい」
「そなた一人で」
「はい」
 同じように、幾人もがここで、自分の決意を確かめられただろう。
 それら先人の意志と同じぐらい、自分の心が強固に練り上げられていると伝わるといい。
 ユーノの淡々とした声に、『太皇(スーグ)』は重い溜め息をついた。
「……『泉の狩人』(オーミノ)のことは知っているのであろうな」
「はい」
 熟知しているわけではない。
 けれど、踏み込む。
 その先にあるものを手に入れるためには、こんなところで怯んじゃ駄目だ。
「彼らは荒廃の世に生を受け、時の『神』の命に寄って、我らに力を貸しはした。だが、元々は我らにも『運命(リマイン)』にも属さぬことを誇りとする一族、わしの願いを聞くのも、神の命じた『太皇(スーグ)』に敬意を払ってのこと、わし個人に向けられた忠誠ではない」
 時を越えて生き抜いてきた老人の声は、憂いに満ちて呟いた。
「アシャが彼らへの使者を務め得たことさえ法外なことなのだ。その『泉の狩人』(オーミノ)の所へ、一人で、しかも使者を成り代わって行こうというのか?」
「はい」
 ユーノは、弾けば響く立風琴(リュシ)のように、軽々と応じた。
「わかっています。使者とはいえ、『泉の狩人』(オーミノ)に気に入られなければ岩とかげよりも易々と屠られることも、道案内とされるシズミィのことも、人の生を呑み込む聖なる『狩人の山』(オムニド)の恐ろしさも」
 まばたきする一瞬だけことばを止め、
「けれども、私以外に、誰が今、動けますか?」
 相手の喉元に切っ先を突きつけるような声だと感じた。
 しばらく沈黙が続く。
 応えあぐねているというよりは、冷静に現実を見極めている『太皇(スーグ)』の気配に、少し安堵する。
「身勝手をお許し下さい、『太皇(スーグ)』。せっかく『聖なる輪』(リーソン)を頂きながら、その命を投げ捨てるようなことをする私をお許し下さい。そして、私が無事に帰った暁には」
 故郷を出る時には、統合府ラズーンの長を相手に、こんな交渉を持ちかけるような状況など想像もしていなかった。それは天に向かって槍を投げるようなもの、風に抗して矢を放つようなもの、凄まじい力に打ち倒されて我が身を滅ぼす類の暴挙のはずだった。
 だが、今のユーノは対等ではないにせよ、『太皇(スーグ)』の抱える傷みを知り、ラズーンの裡深く彫り込まれた約定を理解している。それに対して果たすべき責務を僅かでも背負い、それらを呑み込んだ上の自分の願いも自覚している。
 セレドを発った時の、隣国の侵略からただただ自分の国や家族を守りたいだけの感覚を越え、もっと大きな仕組みの中でどうやって生き延びていくか、どうすれば自分のささやかな願い、愛しい人に幸福に笑っていて欲しいという祈りを叶えることができるかを考え始めている。
 巨大な歴史の歯車の中で、踏みつぶされていくしかないこの命でも、何ができるのか、何を望むのか、それを思うとき、ユーノの胸の中には、あの『氷の双宮』を保とうとした人物の覚悟が沁み渡る。
 この小さな手は、何も救い得ないのかも知れない。
 けれど、けれど。
 幻のような命であっても、なお。
 最後のときには満足したいじゃないか、なあ。
 何かを成し遂げたという満足じゃない。
 いつでも逃げられた、安全圏に引っ込めた、けれど、振り返ったその先に、小さな子どもが泣いていた、だから駆け戻って地割れに呑み込まれてしまった、そういう人のように。
 私は、私を裏切らなかった、そう思って死にたいじゃないか。
(アシャ)
 唇を噛み、目を閉じる。
(あなたを、護る)
「……『泉の狩人』(オーミノ)の協力はなくとも、『運命(リマイン)』にはつかぬとの誓言あった暁には……叶えて頂きたい願いがございます」
「何じゃ?」
「それは……まだ…」
 口ごもるユーノを見つめていた『太皇(スーグ)』は、白い眉を緩やかに開いた。静かな瞳で彼女を見下ろす。
「ユーノ」
「はい?」
 問いかける口調に顔を上げる。
「そなたは、強い娘じゃな」
 ぴく、と思わず肩が震えたが、ユーノはまっすぐに『太皇(スーグ)』を見返した。
 自分の瞳の中には怯えもためらいもまだあるだろう、自己憐憫も恐れも満ちているだろう、それらをすべて読み取られても構わない。
(魂よ、我が信頼に応えよ)
 しっかりと目を見開くと、ひとりでに唇が綻んだ。
 もう迷わない声が応じる。
「はい、『太皇(スーグ)』」


 『太皇(スーグ)』はミダス公の屋敷に置き去りにしてきた『聖なる輪』(リーソン)の代わりに、新しい『聖なる輪』(リーソン)を授けてくれた。
 そしてユーノは、幾日分かの水と食糧を手に、『狩人の山』(オムニド)へ踏み込んだのだった。
(後、五日)
 目を開き、左手首に通した銀の輪を見つめる。残った輪は後二本と半分、後は全て鈍い茶色に変色してしまっている。
「ふ…」
 きゅ、と唇を引き締め、雪の中に埋まり込んだ脚をゆっくりと引き抜き、前進を再開する。『聖なる輪』(リーソン)のおかげで少しは体力を保持できるものの、体の奥底には濁った疲れがたまっていて、一歩進むたびに、体の中をあちらへこちらへと流れていく。
 数歩進んだだけで、額には汗が滲み、呼吸は荒くなり、白い息が視界を漂った。
(よくこんな所を、アシャは行ったな)
 行けども行けども変わらぬ景色は、想像以上に人の心を摩耗させる。体の疲弊と相まって、それが再び気怠い放心状態を作り出す。
 脚を引き抜く。引っ掛かる。数回動かして少しずつ抜き、ほんの僅か離れた積雪の上に降ろす。脚はすぐにずぶりと頼りなく沈んで、少しも浅くならない雪原を思い知らせる。
(進んだ気がしない……それでか、あんな夢を見たのは)
 自分が見る夢は、いつも切ない夢ばかりだ、と思う。
 幼い頃からそうだった。痛みと疲労に気を失うように眠り込んでみる夢は、どれもこれも心を切なく絞り上げる。
 精一杯伸ばすのに届かない手、走っても走っても追いつかない後ろ姿、救いを求めて見回した周囲には闇色の空間、そこに潜むのはいつも、隙あらばユーノの心を喰い散らかそうとする魔の気配だけ。
 悲鳴を上げて飛び起きてみれば、誰もいない冷えきった部屋、人恋しさに枕を抱いて皇宮の中を彷徨えば、母はいない、父もいない。ああ、確か今日は夜通しの宴だったと思い出してレアナを探せば、ベッドで心地良さそうに熟睡している姿…。
 姉…。
 呼びかけかけて、響いた声の大きさにどきりとして口を噤み、起こしてしまったのかと相手を覗き込み……そのまま、声もかけられず、立ち去ることもできず、薄い夜着で震えながら、その場にずっと立ち竦んでいた。
(魂の強さを悔やむまい、心の雄々しさを哀しむまい……あれは、何の唄だったかな)
 自分のことを歌ったようだと思って、きっとこういうことは、誰にでもあることなのだ、自分一人のことではないのだと言い聞かせて。
 それでも時折、切なさは嵐のように心を襲って、一人立つ決意を滲ませる。
「ふぅ………っ!」
 額の汗を拭って立ち止まったユーノは、ふいに突き刺さるような殺気を感じて振り返った。同時に、眼前にふわりと音もなく舞い降りた銀青色の影が広がる。
「っっ!!」
 ザッ!
 とっさに雪に呑まれた体を投げ出し、かろうじて金の爪を避けたものの、左腕を軽く擦られ顔を歪めて雪上に転がる。右手で腰の剣を引き抜き、体勢を整えて身構えるや否や、軽々とユーノを飛び越えた銀青色の獣は、深い雪の中、まるで体重がないように空中で体を捻り、ユーノに相対して舞い降りた。
 冷ややかに細めた瞳は、宝石のような金と青の色違い、長い尻尾をゆっくりくねらせてユーノを正視している。
(飛びかかってくるまで、気配がなかった)
 ごくりと唾を呑んで、剣の柄を両手で支える。空気がぴりぴりと痛い。寒さよりも数段鋭い、殺意の刃だ。
(聖なる山の道案内、シズミィ)
 その名は昔語りの中に生き、夜に語り継がれる多くの古老の話の中でも、一際異彩を放っている。
 獲物の生き血を啜り、死を願い生を危うくすることを至上の使命とする天性の殺し屋。雪の夜には血を求め、風に紛れて人里を襲うという話も、ラズーンの中で何度も耳にした。
(敵にするには無謀なほど厄介な相手)
 冷たい心の持ち主である『泉の狩人』(オーミノ)は、この獣の美しさと凶暴さを愛で、選んだ客のためにのみ、シズミィを迎えに放つ。だが、シズミィは単に『泉の狩人』(オーミノ)への道案内であるだけではなく、客の力量を試す役割も与えられていると聞く。
 風はいつしか止んでいた。
 静まり返り、生き物の気配さえない『狩人の山(オーミノ)』で、睨み合ったユーノとシズミィの周囲では、時間さえも止まってしまったかのようだ。
「……」
 どれほどの時間がたったのだろう。
 シズミィは周囲に溶け込むような淡い銀色の体に、僅かな朱みを加えた。沈んだ銀青色の水盤に張った水に、一滴二滴鮮血を滴らせるように、淡い桜色に身を染めていく。
 ゆっくり、一歩、前足を雪の上に置いて体重を移した。
 続いてもう一歩、ユーノの方へ身を進める。
 完全に体重を消しているのか、その足跡は、ユーノがふくらはぎまで埋まっている雪上に、花弁が舞い落ちたほどの深さでしか残らない。
 緊張感に身を引き締め、剣を握りしめるユーノの掌には、いつしかじっとりと粘りつくような汗が滲んで来ていた。
(アシャで五分五分……私なら……もって四分六……まずくすれば七分三分…)
 シズミィが低く身を伏せた。渾身の力を体に溜める。
 ユーノも息を吐いて剣を構え、目を細める。
 空気がきりきりと捻り上がった。
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