『ラズーン』第四部

segakiyui

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「ふ、…うっ!」
「起き上がらぬ方がいい」
 水底から浮かび上がってきた泡が弾けるように、深い息を一瞬に吐いて薄く目を開けたアシャは、次の瞬間跳ね起きようとして、左胸の抉られたような痛みに呻き、体を仰け反らせて沈み込む。
 何が一体起こったのだ、その思いは甦った記憶に一気に溶ける。
(くそっ……ユーノの奴!!)
 周囲にあるものをあれこれ構わず殴りつけたい凶暴な感情が爆発する。下唇を噛み、無言で心と体の激痛に耐えていたアシャの耳に、最初に制したどこか艶のある声が再び届いた。
「あなたは二日や三日で動ける傷ではないのですよ」
「……」
 明るい陽射しの中、ベッドに横たわったまま、アシャはゆっくりと声の主の方へ顔を向けた。相手は、部屋の南の窓枠に片腕を預けて軽く寄りかかり、引きずるほど長い衣を纏った体を滑らかな動きで振り返らせる。今まで光に照らされて頬の白さしか見えなかった顔が、影を帯びて端整な面立ちに切り替わる。
「…セシ公」
 重い溜め息とともに呟いて、アシャは全てを理解した。
 では、あの、こまっしゃくれた、自信過剰の、無鉄砲で死にたがることしか考えない『クソガキ』は、アシャを当て身で倒した後のこともしっかり配慮していったというわけだ。
「その様子では…」
 セシ公は、年若いが妙に表情の読めない目に笑みを浮かべ、ことばを継ぐ。
「何があったか、おわかりですね?」
「ああ」
 我ながら苦々しい声、唸るように応じて、体に掛けられていた白い布から片手を抜き出し、額から後ろへ乱れた髪をかきあげた。
「わかっている。ユーノは…」
 正直なものだ、詰るつもりで口に出した名前だけで、声が心配を宿す。
「もう行ったのか」
「はい、昨夜のうちに」
 知っていたのならどうして止めなかった、そう怒鳴りつけそうになるのを逸らすために、旅路を急ぐ少女の姿を思い描く。
(ユーノのことだ、もう今頃は『氷の双宮』に辿り着いているはず……いや、『狩人の山』(オムニド)に入ったか)
 目まぐるしく回転していく思考と同時に押さえ切れぬ不安が、澄み切った水に落とした染め粉のように見る見る心を曇らせていく。
(どうして、無茶をする)
 まるで傷みなど知らないような顔で。
(どうして俺を置いていく)
 奥歯を噛み締め、目を閉じる。もちろん、今回は自分が傷を負ったことがへまの大元だ、それはわかっている、だが。
(俺の方がもたない)
 ユーノが引くわけがない、たとえ『泉の狩人』(オーミノ)を前にしようとも。そして、『泉の狩人』(オーミノ)はそういう『跳ね上がりの子ども』を好まないのに。
(なぜわからない)
 唇から溢れそうになる、年甲斐もなく、恥も外聞もなく泣き喚きたくなる。
(お前の屍体を抱くなぞごめんなんだ、おれは!)
 それぐらいなら、ユーノとともに百万の軍勢に向かうほうが余程気楽だ、背中にユーノを庇ってさえいれば、アシャは指一本になっても戦い抜く。
(お前はおれの主人だろうが)
 なのになぜ、主が従者の先を往く?
「く…そ…っ」
 がしりと前髪を掴んだ。
 わかっている、それがユーノだ、だからこそ惹かれ、だからこそ従い、だからこそ命にかえても守ろうとする……だが、この主は差し伸べ懇願する手を軽々と越えて駆け去っていってしまう。
(なぜ、わからない!)
「アシャ・ラズーン」
「……」
 静かに声をかけられ、我に返って手を放した。振り向いて、セシ公にしては、珍しく驚くほど無防備な感情を出した目でこちらを見つめているのに気づく。
「あの子は、一体どういう娘なのです?」
 アシャは僅かに眉を上げた。無言の促しに、セシ公は憂いを浮かべてことばを続ける。
「ご存知の通り、私もラズーンの情報屋と呼ばれた人間、通り一遍の人間は見て来てはいるが」
 困惑を響かせる声に、アシャは無意識に唇を歪める。
「だが、あんな娘……あの若さであそこまでの覚悟と腕を備えている……それも、少女、というのは今まで見たことがない。一体、彼女はどういう育ち方をした娘なのですか?」
「……常に誰かを護ってきた娘だよ」
 胸の底に甦るユーノの視線、ほんの数回しか見せることのなかった、何かを捜し求めてすがるような瞳を思い出す。
 あれは、何を探していたのか。
「誰かを護ることしか知らない……自分もまた護られるに価するのだとは、思いもしない娘だ」 
 傷に一人で唇を噛んで耐える。細い体に一生消えぬ傷痕を幾つも刻みつけられてもなお、華奢な両腕を伸ばせる限り伸ばして、ただひたすらに愛しい人々を護ろうとする。
『ボクはね…』
 遠い声が鼓膜の底で聞こえる。
『姉さま達が好きなの、セアラが愛しい…』
 どこまでも続く緑の草原の中、青空の彼方の地平にじっと瞳を凝らしながら語る、淡々とした声。何を見ているのか、何を探しているのか気になって、隣で一緒に地平を見つめていた。
『だから護りたいんだ……それだけ、なんだ』
 ボクという男ことばには違和感がなかった。それでもその一人称にはひどく寂しい響きがあって、思わずユーノを見やると、吹き過ぎる風に焦茶の髪をなびかせ、地平よりもなお遠くを眺める目になって、
『それだけなんだ』
 ぽつりと一言、繰り返した。
 それがまるで自分に言い聞かせてでもいるように深い翳りを帯びていたから、アシャは思わず問いかけようとした、じゃあ、お前は誰が護ってくれるんだ、と。
 もちろん、アシャの中では応えは決まっている。
 だがそれを口にする前に、レスファートがユーノを呼び、いつものようににこりと笑ってユーノが応じ……それきり尋ねる機会を失った。
(誰かに護ってもらおうとは考えないのか。そうしてずっと、一人で生きていくと決めてしまっているのか)
 いつかの問いに、ユーノは迷うような瞳でアシャに尋ね返したことがあった、「誰に?」と。
(俺では駄目なのか。お前の探している相手じゃないのか。おれはお前の見ている光景の片隅にも入っていないのか)
 こんなふうに、邪魔な障害物のように殴られて置き去られていくなら、大抵の男は考えるだろう、消えてしまえと言われているんだろうと。自分の行く手を遮るな、と。
(俺はお前の何なんだ? ただの旅の道連れか? イルファやレスファートよりも遠い存在か?)
 キスに抵抗しなかった、と思う。それを、自分への好意ととっていたのは、アシャの独りよがり、自惚れでしかなかったのだろうか。それともあれは、挨拶や謝礼がわりであって、ユーノは努力して『礼儀』を果たしてくれていたのか。
(……そうか……ユーノから、おれにすがりついてきたことなんて…なかったな)
 そればかりか、アシャが差し伸べた手さえ時に邪険に拒んで、意識がある時は決してアシャの腕に身を委ねようとはしなかった。幾度も襲った命の危機にも、アシャを呼ぶことはほとんどなく、ただ無言で耐え抜くばかりではなかったか。
(おれは、お前が身を委ねるには……価しない、ということか……?)
 ユーノに仕えている、いざとなれば、主の前に我が身を晒して護ることも厭わない従者だと自負していたのは、まるっきりアシャの妄想でしかなかったのだろうか。
 ならば。
(どんな奴になら……身を委ねる、ユーノ)
 じりじりと身をこじ開けるこの闇の炎は、自分が足りないと思った瞬間にこそ燃え始めるのだ、と気づく。
(おれ、ではなくて、)
「そうですか」
「っ」
 セシ公の声が響いて、アシャは息を呑んで瞬きした。視界が薄暗く眩んでいたのにようやく気づき、ついで、自分が部屋に居るセシ公の存在を全く無視していたのにぎょっとする、ラズーンのアシャともあろうものが。
(俺は)
「では、アシャ・ラズーン」
 セシ公もセシ公で非常に稀なこと、アシャの反応よりも自分の思考に没頭していたらしい。引き続き、考え込んだ顔で陽光跳ねる外庭に視線を向けながら、
「もし、自分一人と配下五人、生き残る機会が五分五分だとしたら、それでも配下の方を護る人間でしょうか」
 娘、が、人間、に変わった。
「ああ、もちろん」
 アシャは苦笑した。
「いや、たとえ、自分一人と配下一人が五分五分の確率で生き残れるとしても、あいつは配下を救いに走る」
(そうだよな)
 それは愚かなことだ、戦略的にも現実問題としてもやってはならないことだ。
 だが、『そうしてくれる』と知るからこそ、たとえユーノ一人でも生き永らえることができるようにと、周囲は粘る、頑張る、ぎりぎりの状況をしのぐ。いざとなればユーノが駆けつけてくると『知っている』から、自分にはとても越えられないと思っていた限界を、這い上がり蹴り崩し飛び出していける。
 そうして周囲は戦いを終えて、自分に向けられた誇らしげなユーノの笑みに気づいてわかるのだ、ああ自分はまた大きくなった、と。
(今ここで、命を賭けて悔いはないと確信できる)
 そして、その自分の成長を共に喜び、誇りに思ってくれ、楽しみにしてくれる、あの瞳の前で、自分もまた自分のことを、どれほど誇りに思い信頼できるか。どれほど満足し、愛せるか。
(ああ…そうか)
 アシャはふいに切ないほど強く理解する。
(だから、おれは)
 ユーノが欲しかった。ユーノに支配されたかった。ユーノの側で、自分の中で縮こまり竦み、満たされないまま成長を止めてしまった存在を見つけて、それを育て上げ、認めてもらい、愛したかった、自分自身で。
(あいつは……ユーノは……おれにとって、長、なんだ)
 ならば、当然ではないのか。
 衝撃に一瞬目を閉じる。
 アシャは、いやアシャもまた、ユーノを『護るべき存在』としては見ていなかったということだ。 
 レアナのように、セレドの皇宮の人々のように、アシャもまた無意識に、ユーノを自分の生きる拠り所としたということだ、それを背負わされる苦痛を十二分に理解しているはずのアシャが。
 最終最後では、自分が一人、戦わなくてはならない。
 ユーノは、そう『知って』いたはずだ。
 アシャは、ユーノの『付き人』なのだから。
 決戦に出向くのは、従者ではない、主であるのは理の帰結。
(わかっていなかったのは、おれ、か)
 だからこその、この、事態。
(おれ、は)
 何と情けない男なのか。
「く…」
 怒りに視界が眩んだ。体中が泡立ち、自分の愚かさに自らを粉々にしたくなる。
(当然だ、何もかも、当然なんだ)
 セレドの世情不安はラズーンの制御力の低下が引き起こしている。
 だが、その根本に座すはずのアシャは、ラズーンの統治責任を放棄し逃げている。
 ラズーンに戻ることをユーノが選択し、それに付き従って引き戻されることをアシャが選んだのは、愛情でもなんでもない、彼女の強さに従えば、責務を果たせるとどこかで察知していたからだ。
 同様、旅の空の下、いやラズーンに戻ってからさえ、ユーノに忘れ去られ置き去られることにあれほど怯えたのも、恋でも何でもない、自分一人では崩壊しつつある世界を支え切れないとわかっていたからだ。
 だから。求めた。
(好きだ? 愛している? 大事に想う?)
 くそくらえだ。
 それは自分の安全を保障し、未来を救ってくれる身代わりだからだろう。
 生まれた意味を抱え切れず、突きつけられた現実を受け止め切れず、そんな自分の弱さや脆さを認めることさえできない男が、手に入りやすくよく動いてくれそうな人形を一つ見つけた、そういうことではなかったのか。
 そして、その、アシャの奥深くにある『狡さ』を、おそらくユーノは気づいていた。
(お前は逃げなかった、ものな)
 理不尽な状況から、ただの一度も逃げることなく、全てを背負い切ってきたのだ。数々の裏切りを重ねられても、なお人への信頼を失わなかったのだ。
 その生き様が暴いたアシャという男は、どれほどみっともなかったことだろう。
 胸の底から崩れていくような虚無感。
(なのに、今もまた)
 ユーノはアシャの身代わりに『狩人の山』(オムニド)に一人向かっている。
(こんなおれからも、お前はまだ逃げずに居てくれる)
 ならば、アシャは。
「……それならいい」
 セシ公が呟いたのに目を開ける。ぼやけている視界に、薄く笑みを浮かべたセシ公が映る。
「醒め過ぎている統率者よりは、熱い魂を押さえ切れない方が、王としては好ましい………参謀としてのやりがいもあろうというものだ」
「……どういう意味だ」
 アシャはセシ公の淡々とした顔を凝視した。
(ああ、こいつも)
 予感がある。
「どういう意味とは?」
「ラズーンの情報屋としての名前を知らないとは言わない。ユーノに付いて、どんな得があるのかとも尋ねない。ただ聞こう、『セシ公』としては、何を狙っている?」
「人聞きの悪い」
 くくっ、とセシ公は忍び笑いをした。薄い唇が皮肉っぽく歪む。
「名高いアシャ・ラズーンはお見通しというわけですか」
「……」
 名前なんぞ意味がない、そう吐き捨てたくなる。
「私は単に、あの少女が気に入ったんですよ」
 楽しげな声が応じる。
「あの娘が、この争乱の世をどう生きていくのかが見たい……だが、それだけの理由では納得してもらえそうにありませんね」
 アシャは視線で無言の圧力をかける。
「では、ラズーンの情報屋として言いましょう、アシャ・ラズーン」
 淡く陽を透かした茶色の瞳が、促しに応じて細められる。肘を窓にかけたまま、寛いだ様子でセシ公は続けた。
「まだ噂程度の情報ですが………『運命(リマイン)』に降りた大公がいる」
 軽く肩を竦めてみせる。
「少なくとも私ではない。今動くには時期尚早ですから」
 聞きようによっては物騒な台詞をこともなく舌に載せた。
「となると、アギャン公、ジーフォ公、ミダス公のうちの誰か…」
 猛々しい光を満たしているはずのアシャの瞳を苦もなく見返しながら、
「だが、問題はそんなことではない。ラズーンの四大公のうち一人が、完全に『運命(リマイン)』に回ったということです。つまり、こちらの手の内をよく知っている人間が敵側に居る、ということ」
 にっ、と不敵な、なのに艶かしさのある笑みが、セシ公の唇から零れた。
「軍師としては、これ以上に、己の力量を試せる機会があるとは思えませんね。それに、あの少女の下にいるなら…」
 微かに瞳を伏せると、一層、恥じらった少女のような妖しさが広がる。
「滅びも敗北も、それなりに楽しめようというもの」
 す、っとセシ公は体を落とし、床に片膝を突いた。
「どうか、アシャ・ラズーン。私をユーノ殿の参謀としてお加え下さい」
(やっぱり、か)
 また一人、アシャにとって手強く腹立たしい相手が増える。
 アシャの表情を見て取ったのだろう、上目遣いのセシ公が薄く笑む。
「まだ何か?」
「……いやがらせか」
 自分がユーノにとって最低最悪の付き人風情だったということを自覚したこの状況で、何と不愉快な申し出か。
「まさか」
 セシ公はふんわりと笑みを深めた。
「ユーノ殿のご無事を願えばこそ」
 ユーノの無事。
(ああ、確かに)
 アシャもまた、そこから始めるしかないのだろう。
 溜め息を一つつく。
「俺はユーノの付き人だ」
 苦い声が混じらなければいいと思いながら口にしたが、セシ公相手には無駄だったようだ。返答を予想したのだろう、笑みを消し、深々と頭を下げる聡明さがむかつく。
「主人が許可したのなら、背くわけにはいくまい」
 ユーノがアシャのことを頼んでいくほどの信頼を与えたのだ、アシャが拒むことなどできない。
(ユーノ、おれは)
 頭を下げたセシ公の頬に、風に吹かれた淡い金の髪が白く光を跳ねて乱れる。それを見つめながら、遠く先往くユーノの背中を想う。
(お前は一体、いつまでおれを待っていてくれるだろう…?)
 アシャは胸の塊を静かに抱えながら目を閉じた。

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