『ラズーン』第四部

segakiyui

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8.使者(4)

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 『狩人の山』(オムニド)の頂上近くに建てられた神殿は冷気に満たされている。冷えて凍え、命ある者は、そこで永らえることは叶わない環境だ。
 だが、『泉の狩人』(オーミノ)達はそこを居城としていた。世界の惑乱も、人々の嘆きもここには届かない。
 彼らはとっくに絶望しているのだ、自分達の存在にも、人の世の在り方にも。
「ウォーグ」
 神殿の中、呼ばれて振り返った『泉の狩人』(オーミノ)の一人、ウォーグは、近づいてくるセールを認めた。栗色の艶やかな直毛を優雅な仕草で肩から払って相手を待つ。しなやかな足取りで近づいたもう一人の狩人は、表情のない白骨の顔の代わりに、声に面白そうな響きを含ませた。
「シャギオは?」
「それが見つからないのだ。どこかで餌でも探し歩いているとは思うが」
 ウォーグは静かに首を振る。
「餌探しも餌探し、面白い贄を相手にしているぞ」
 セールの声は楽しげに応じた。
「何?」
「まだ年若い少年じゃ。何を血迷ったか、『狩人の山』(オムニド)に踏み込んだところを、シャギオに見つかった様子、今、長が水鏡(カーフィ)でご覧になっている。そなたに確かめよとの仰せだ」
「それは面白い」
 『狩人の山』(オムニド)が聖なる場所であることは、ラズーンは元より諸国にも伝わっていると聞く。寒風吹きすさぶ峻厳な山々に、好んで踏み込もうとする者などいない。ましてや、ここは『泉の狩人』(オーミノ)支配下(ロダ)であり、ラズーンの『羽根』どもと言えども、迂闊に足を踏み入れない。
「少年か?」
「おお、ほんの子どもだ」
 セールに連れられ、ウォーグはいそいそと、蒼白く輝く、磨き抜かれた石畳を飛ぶように、奥まった一室に向かった。
 神殿の一番奥、何本もの巨大な支柱の立ち並ぶ果てに、四方を石壁で囲まれ、青水晶をはめ込んだ天井の窓からのみ光が差し込む小部屋があった。つやつやした柔らかな織の黒布で周囲の壁が覆われ、数多くの襞に夜を潜めるその部屋には、中央に腰までの高さの机があり、その真ん中を八角形に彫り込んで水を溜めてある。八角形の水盤は細やかな飾り細工で囲まれていた。
 『泉の狩人』(オーミノ)の長ラフィンニは、今しも、念を凝らして、じっとその波一つたたない澄み渡った水の表面を覗き込んでおり、周囲に集まった『泉の狩人』(オーミノ)達も、それぞれ思い思いの姿勢で水鏡(カーフィ)を見つめている。
「おお、ウォーグ、来たか」
「お呼びに」
 長はウォーグが青い衣の裳裾を素早く捌いて近寄るのに顔を上げ、楽しげに続けた。
「これは、そなたのシズミィ、シャギオと見たがどうじゃ」
「はっ」
 ウォーグは長ほどの遠視力はない。しばらく目を凝らしながら無言で覗き込んでいたが、やがて静かに顔を上げ、
「確かにこれは、私のシャギオめにございます」
「よく見回ってくれるものよのう、早々にあの者を見つけ出しおった。まだ子どもじゃが、『狩人の山』(オムニド)の噂を知らぬとは言えぬほどの年嵩、何に眩んで聖域に入り込んできたのやら」
「長!」
 それまでじっと水面を見つめていたセールが、はっとしたように声を上げた。
「この者、『使者の輪』をしております」
「何?」
 訝しく、改めてラフィンニが水鏡(カーフィ)を覗き込むと、確かに少年の左手首には銀色の輪が光っている。
「誰か、このような子どもに、『使者の輪』を与えた者はいるか?」
「……」
 問いかけに、『泉の狩人』(オーミノ)達は応えない。困惑した気配で互いの顔を見合わせるうちに、一人の狩人が歩み出た。
「恐れながら、長ラフィンニ。ひょっとして、この『使者の輪』、かのアシャ・ラズーンに与えたものではございませぬか?」
「何? アシャに…」
 考え込んで、水鏡(カーフィ)を見つめていたラフィンニが、やがてにやりと嗤った気配を白骨の面差しに漂わせた。
「読めた」
「何ごとでしょう、長」
「アシャが、あの様で死にかけても会いたがった娘は、何と言ったかな」
「……確か、ユーノ……ユーノ・セレディスと。セレドの第二皇女とのことですが」
 セレドじゃと、南の方の片田舎じゃ、ラズーン統治の南端であろうか、そう言ったざわめきが『泉の狩人』(オーミノ)達の間に広がるのを軽く制し、ラフィンニは続ける。
「その第二皇女よ、この子どもは」
「え…しかし、これはまるで少年…」
「見るがよい、ウォーグ」
 ラフィンニは思わず呟いたウォーグを促した。
「手足の華奢さ、うなじの細さ、胸元も微かに膨らんでおろう。紛れもなく少女の体じゃ。ふふふ…」
 ついつい零れてしまったと言いたげな笑い声を漏らす。
「ユーノとやら、アシャの身代わりに使者を務めに参ったらしい」
「何と」「身代わりと?」「愚かな」
 『泉の狩人』(オーミノ)達が再びざわめく。
「身代わり……少女が……ほ、ほほ」
 セールが軽く嘲笑を響かせた。
「何と大胆な」
「如何にも、アシャが惚れそうな娘じゃ」
「いやいや」
 笑いさざめく狩人達を制して、ラフィンニは続けた。
「なかなかどうしてたいした腕じゃ、見るがよい、シャギオと互角にやり合っておるぞ」
 八角形の中にラフィンニが見て取っているのは、雪山の中を対峙し、互いの隙を狙い合う一匹の獣と少女だ。少女の緊迫した表情に比べ、シズミィの気配は余裕綽々、如何に残酷に相手を屠るかと舌なめずりをしているのがはっきり見て取れる。
「しかし、これでは、そうはもちますまい」
 セールが苦笑まじりに首を振る。
「足下は雪、動きはすぐさま鈍くなり、感覚はなくなり、いずれは大地に倒れ果て、死して我らの贄となるばかり………」
 一瞬考え込んだ様子で、セールはことばを切った。ちらりとラフィンニを伺った気配、やがて、
「……アシャに免じて、シャギオを引かせましょう」「そうじゃな」
 何もこんな幼い無知な者の血で、雪山を彩ることもあるまいよ。
 ウォーグも頷く。
「待つがよい」
 合図をしかけたウォーグとセールを、ラフィンニはあっさり止めた。くっくっくっ、と不気味な獣じみた笑いを喉の奥で響かせながら、
「まだもうしばらく楽しんでもよかろう」
 くすくす、くすくす、と奇妙に可愛らしげな笑い声が周囲から漏れた。
「手が落ちれば引き上げますか」「足が裂かれて動けなくなれば?」「いやいや、心の臓が破れてからの方が楽しめるというもの」
 そこには誰もユーノの命を案じる顔はない。
「……シャギオに長引かせよと命じましょうか」
 セールは薄笑いを響かせて尋ねる。
「無知ゆえとは言え、聖なる山を蹂躙したのだから、覚悟はしているはず。己が何をしようとしたのか、心底身に沁みるまで、弄ばせましょうか」
 アシャが嘆きましょう、それもまた一興、とはどこかから漏れた嘲笑、それにもラフィンニは不快を示すことはなかった。
「いや、如何に戦うのかも見てみたい」
 ラフィンニはじっと八角形の水面を見下ろす。
「ユーノが倒れそうになったら、シャギオに導かせて連れてくるがよい」
「こちらへでしょうか」
 訝しげなセールに、ラフィンニは顔を上げた。どの顔も同じ白骨の造り、それでもラフィンニの突き出した頬骨には一層白々とした光が跳ねる。いっそ穏やかともとれる口調で、
「いや、『沈黙の扉』の中へ。アシャの代わりに来たのなら、それ相応の覚悟は見せてもらわぬとな」
「まあ……」
 一同の中に微かな驚きが走った。
「そこまで保ちましょうか」「それはアシャが?」「ユーノが?」
 口々に呟く声は嘲りと期待がある。
「なるほど、確かにそれは楽しみ……ほ、ほっほほほほ」
 堪え切れぬように笑い出すセールに、ラフィンニも笑みを返す。
「であろう? 我らは飽いておるのじゃ、この重苦しい平穏に」
「如何にも」「まさしく」「ふふふふっ」「くくっ」
 ラフィンニのことばに、狩人達は一斉に禍々しい笑い声をたてた。


「は…あっ…」
 喉が焼けついてくる。肺は熱く炎を発し、心臓は今にも破裂してくれようと抗議の声を上げている。それに反して、冷えきった四肢は思うように動いてくれず、雪は柔らかい褥を思わせ、何度となくユーノを誘っている。
(もう少し……もう少しだ)
 繰り返し疲れたことばを胸の中で呟く。
「っ!!」
 ふわりと体重がないもののように舞い上がったシズミィが、空中で身を捻り、尖った金の爪と真っ白な牙を剥き出して、再びユーノに襲いかかった。握った柄を右に振り、倒した刃を相手に向け、顔の前で攻撃を防ごうとしたユーノ、だが、それを待ち構えてでもいたように、その剣の刃にすとっ、とシズミィが飛び降りてくる。
「くっ」
 思いも寄らぬ攻撃に動けなくなった。シズミィが乗っているというのに、剣は軽い。だが、そのまま引き抜けるかと言えば、動かせない。目に見えない網に剣もろとも包まれたようだ。右手で剣を掲げ、そこに乗ったシズミィと相対したまま、ユーノは顔を強張らせる。と、まるでそれを計算していたのだと言いたげに、にやり、とシズミィは口を歪めた。改めて剥き出された牙、煌めく瞳は魔の影を宿して金と青、残虐な喜びを溢れさせてこちらを凝視してくる。
(どうする)
 はあはあと整い切らない呼吸をもどかしく繰り返しながら、ユーノはシズミィの眼を見つめていた。
(どうする)
 胸の中央で打ち鳴らされる鼓動が、弔いを知らせる鐘のように聞こえる。背骨の付け根が死の予感に竦んでいる。
(どうする)
 強張った頬に、つうっ、と額から汗が流れ落ちる。顎へと滑り落ち、ぽとりと雪に落ちる、その柔らかな音までが耳に届く静けさの中、体だけが忙しく慌ただしい命の刻みを続けている。
(コワイ)
 胸の底で怯え続けるもう一人の自分を感じた。自分で自分の胸を抱いて、震えながら訴えてくる。
(コワイヨ)
 逃げ場はない。対応を間違えれば死ぬしかない。今自分が掲げる剣の先に、死は猛る獣の姿をとって消えることなく居座っている。
(眼を、逸らすな)
 もう一つの声が囁いた。
 ごくり、と唾を呑み込む。振動で剣が震えそうで力を込める。イズミィの体重は依然露ほどにも感じない、だが、まっすぐに掲げている腕に、剣そのものの重みが次第に次第に増してくる。
(眼を逸らすんじゃない)
 呼吸を整える。瞬きをゆっくりする、けれど、視線を外さない。対峙するシズミィの目の中に、どれほど残酷な未来が待ち構えていようと、どれほど深い闇が潜んでいようと。
(逸らせば最後、こいつは私を襲ってくる)
 ユーノの思考を読んだかのように、シズミィは僅かに耳を倒し、ゆっくりと尻尾を持ち上げた。銀青色の毛に包まれた、鞭のように柔軟なその長い尾が、じわじわとユーノの首に近づいてくる。まだ触れてはいない、だが、気配に皮膚が粟立つのがわかった。
(!)
 突然、ユーノの頭に一つの考えが閃いた。成功するかどうかわからないが、やってみる価値はある。
「……」
 無言でシズミィの尾が、首を絞めに来るのを待ち受ける。右肩が鈍痛を訴え、手が小刻みに震え出す。限界に迫る瞬間を、なおも見据えて引き延ばす。
 命がぎりぎりと音をたてて引き延ばされていくのを感じた。ぷつり、とどこか、脆い部分の命の糸が一本、音をたてて切れたのがわかる。
 ぷつり。ぷつり。ぷつりぷつり、ぷつ、ぷつ、ぷつぷつ……。
 その音は、見る見るユーノの心の中で増え、重なり合っていく。過剰な緊張の負荷に耐えかねて、巨大な荷物を支えている縄が、きりきりと鳴りながら次第に解け、切れていくように。
(まだだ)
 片目を閉じた。口を噤む。慌ただしく繰り返していた呼吸を呑み込む。今この瞬間、シズミィに意識を集中させているのが精一杯だ。
(マダ…ダ)
 既に頭の中は空洞と化し、一層深い心の層には空白の夢魔が喰い込んでいく。シズミィの尾はひどく緩慢に、冷えきった空気の中をのたうつ一匹の蛇のように、空間を泳ぎ渡ってユーノの首に達そうとしている。見えはしないが、和毛が触れるのを感じる。心は恐怖と意志で充満し、だが、その意志もあっという間に活力と意味を失って、ユーノの全てが麻痺し、静止していく。
 死の瞬間。
(イ、マ)
 囁きは、夢魔に追われて心の奥底へ逃げ込んでいた、怯えた自分から漏れた。たちまち、細胞と心の層を深い下層から沸き立たせて、体中に響き渡る叫びとなる。
(今だ!!)
「っっっ!」「ギャッ!!」
 一瞬に全てが起こった。
 左手を伸ばす、シズミィの尾を掴む、そのまま全力で左腕を伸ばすとともに右手の剣を跳ね起こす。がつっ、と重い手応えが在り、同時にシズミィの銀青色の体に朱色の飛沫が飛ぶ。ユーノの左手に引っ張られ、右手の剣に裂かれながら振り回され、雪の上に鮮血を散らしたシズミィが声を上げる。左手からするりと尾が抜け落ち、だがしかし、さすがにシズミィは一太刀程度の手傷では怯まない、すぐさま解放された尾を振り、身を捻って雪上に降り立つのももどかしく、跳ね返るように雪煙を上げてユーノに飛びかかってくる。
 その攻撃に、疲労し切ったユーノに対抗する術があろうはずもなかった。無防備に左右へ開いた腕、庇うことなく晒された胸に飛びつかれ、顔を歪める。
「ぐ!」
 イズミィの爪が衣を裂き、肉の上から肋骨を掴んだ。激痛に跳ねる間もなく、がきりと喉首に牙が食い込む。ごぶっ、と鈍い音がすると同時に、飛びかかったイズミィがユーノが吹き出した血で紅に染まる。
(あ…)
 痛みは急速に消えつつあった。のしかかられて背後に倒れる、雪の中に深く埋まる、その衝撃も冷たさも感じなかった。首から溢れる温かな血に唸り声をたてながらむしゃぶりついてくるイズミィの動きにも、不安も恐怖もなく、ただその体が寄り添ってくるのが妙に暖かく感じるだけだ。
 手は動かない、足も動かない、シズミィが時折苛立たしそうに頭を押しつけ、なお深く牙を埋めてくるのに顔を仰け反らせる、そのユーノの視界には、薄い雲が漂う静かな空が広がっていくのが映るだけだ。
(……何だろう)
 それに気づいたのはシズミィの方が早かったのだろう、ふいに動きを止めて顔を上げる朱に濡れた口許、訝るように再び降ろしてくる顔は、首ではなく、ユーノの額を軽く嗅いだ。
(……鳴ってる…)
 視界の色が落ちてきた。見る見る灰色の靄となり、白黒の濃淡も薄れ、ぽたりと落ちる雫に染まって薄赤く滲み、それもすぐに暗闇になり。
 リィイ……ィイ…ン。
 額で微かな振動が続く。
(『聖なる輪』(リーソン)…?)
「…は…」
 ユーノが吐いた息は戻ってこなかった。
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