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10.幻遥けく(3)
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夜は更けている。
静かな暖かい晩で、風が微かにそよぐ程度、鳥も眠り馬も眠り、墓場で憩う死者達さえも眠り続ける、そんな夜だった。
ミダス公公邸の一室、ユーノに与えられた居室には、ぼんやりと明るい月光が、開いた窓から差し込んでいる。
ベッドで寝息をたてているのは、プラチナブロンドをくしゃくしゃにして丸くなっているレスファート、白い夜着に手足を縮め、時折小さな口を動かして何事か呟いている。
当の部屋の持ち主、ユーノの姿はベッドにはない。
開けた窓に腰掛け、窓枠に凭れて腕を組み、じっと彼方の空を見つめている。夜着でさえない服装ーチュニックに短い腹辺りまでの上着、腰には愛用の剣を吊るし、額に『聖なる輪』(リーソン)という出で立ちーで、ユーノがたまたま起きていたのではないと誰にでもわかる。
遠くから風がゆっくりと吹き寄せて来て、ユーノは少し眼を伏せた。短く削いだ焦茶の前髪の毛先が、目元に乱れるのをそのままに、微苦笑を浮かべる。
(こんな夜に眠れない、なんて)
ふと思い出した。
以前、野戦部隊(シーガリオン)の野営の夜、見張りをしていたユーノにユカルが話しかけてきた。
俺達はこんな平和な夜こそ眠りにつけないんだ。戦いがある時は、敵がどこにいるのか、何を待っているのかがわかる。けれども、こんな静かな夜は、敵の居場所さえも『夜の王子』(セトラート)の衣の影に隠れてしまってわからない。どこからかやってくる敵の匂いを、一瞬でも早く嗅ぎ取ろうと、静まった夜気にぴりぴりと神経を尖らせちまう。戦いから戦いへ、毎日を戦乱に明け暮れる俺達の性分というものかも知れないな。
(私も、性分かも知れない)
静かな夜ほど心が尖る。この平穏が偽物ではないかと訝る心を持て余し、一人何度もセレドの街をレノで駆けた。
これは真実か。
それともたまさかの夢にごまかされているのか。
それはいつも、心にあった危機感だ。平穏な日々という仮面を被って『何か』は確実に進み続けている。その『何か』に気づいていなければ、自分は大きなものを失ってしまうに違いない、と警告が響く。
(考えてみれば、カザドのことだけじゃなかったんだ)
ユーノの敏感な心に聴こえていたのは、揺れ動く諸国動乱に踏み散らされる人々の悲鳴、日々の要であるラズーンが撓みきしんでいる音だったのだ。
そして、ユーノはレアナの身代わりとしてにせよ、セレドから遥か遠く、故国においては世界の果てと言われたラズーンへ、ただひたすらな旅を続けて来た。この旅さえ済めば、世界を統べる府に辿り着きさえすれば、『何か』が明らかになる、『何か』の姿がはっきり見える、そう信じて。
(でも)
多くのものを重ね見るほど、目に見えない渦の中へ巻き込まれている自分が、垣間見えるような気がする。
ラズーンの崩壊、『運命(リマイン)』との戦い、『太皇(スーグ)』の交代、遥か昔に作り上げられ定められていた未来への流れ。
それらは宙道(シノイ)のように、数多くの背景を持ちながら、どれ一つとも関わらずにまっすぐある一点へと伸びている。
ひょっとすると、世界というものはそのように成り立っているのかも知れない。その辿り着く先を見ようとして、人は数限りなく生と死を繰り返すのかも知れない……。
「、誰だ?」
ふいに、扉の向こうに熱を感じた。人の立ち止まった気配、誰何して剣に指を触れる。
もう、この公邸も安全ではないことをユーノは熟知している。ましてや、無防備に眠るレスファートを側に、一瞬たりともためらう気はない。
「私です」
「…ジノ?」
殺気が届いたのだろうか、扉の向こうの人物はすぐに答えを返した。抜き放ちかけていた剣を鞘に戻し、ユーノは扉の方へ向かう。気配は身動きしない。
レスファートを気にしながら、そっと扉を開け、薄暗い廊下に一人佇む相手の姿を認めた。
「どうしたの?」
まるで手酷く詰られることを覚悟しているような俯き方、それでもそろそろと顔を上げて、ジノは瞬いた。
「少しお尋ねしたいことが。……入ってもよろしいでしょうか」
「うん、いいけど……レスが眠ってる。そっと入って」
「はい」
ジノは頷き、しなやかな動きで扉の隙間から滑り込んできた。背後にリディノがいる気配はない。物音一つたてずに部屋に入ってきたジノに、ユーノは目を細める。
「前から気になっていたんだけど」
「はい」
「あなた、ただの詩人(うたびと)じゃないね? つまり、ねっからの詩人(うたびと)じゃないだろ?」
「…お察しの通りです」
ジノは深い青の瞳に微笑をたたえた。月光の中では黒と見まごう色味が静かに瞼に隠される。
「九つの歳まで、地方の一都市で盗みまがいをして生きておりました。ミダス公に拾われ、姫さまにお会いしていなければ、あのまま今も、日々を盗み暮らし、やがては捕まってくびり殺されていたことでしょう」
「…そう」
ジノの何を認めてミダス公が愛娘の側に置く事を許したのか、それは想像するよりないけれど、おそらくはリディノが強く懇願したのだろう。重ねた年月の中で、ジノはリディノを唯一の主として仕えることを選んだ、それが振舞いに見て取れる。
そのかけがえない主の側にいることなく、ジノは夜更けにユーノを訪ねてきている。何か事情があることなのだ、とユーノは察した。
「ところで、何の用?」
「……どうしても、お尋ねしたいことがあるのです」
再びあげてきた瞳は、光を吸い込んで重い。
「何?」
「アシャ様は、ひょっとして、あなた様を愛しておられるのではありませんか」
「っ」
びくり、と思わず体が震えた。どうしてそんな、そう考える心が千々に切れる。
そうであったらよかったのに。そうであるはずもないのに。そうではないのにどうしてそんな。
波立つ心に抗うユーノを、ジノはじっと凝視している。ふざけたり、からかったりしている表情ではない。
「まさか」
にじみ出てくる苦笑は、自分に対する自嘲。
これほど望みがないことを、それでもことば一つにまだ揺れる、自分の甘さ愚かしさ。
「アシャが好きなのは、レアナ姉さまだよ」
言い慣れた台詞は、何の苦労もなく口から零れた。夢の中でも現実でも、繰り返し繰り返し何度も何度も言い聞かせて来た、そのことば。
「私みたいなの、『あの』アシャが女扱いすると思う?」
肩を竦めて見せた、どれほどふざけた内容か理解してもらうために。
「ボクはアシャの弟分なの。そういう役割なんだ。アシャはとにかく綺麗な女性に目がないし。リディならまだしも、ボクは対象以前の問題だよ」
だが、ジノは笑わない。じっとユーノを見つめ続ける。
しばらくユーノのことばを胸の内で反芻していたようだったが、納得しかねる口調でこう尋ねた。
「あなたはアシャ様をどう思われているのですか」
礼儀さえ排した、直接的、むしろ朴訥な問い。そして、曖昧なごまかしを許さない問い。
(さすが詩人(うたびと)だよね)
リディノに向けた、その忠誠にも感嘆する。瞳が静かに語っている、邪魔をするならこの場で斬る、と。
「アシャはね」
にいっ、とユーノは笑った。
「旅のいい仲間。剣の師匠。レアナ姉さまの想い人。そして、ゆくゆくは、ボクの兄になってくれる人」
「!」
ジノが息を呑む。
「リディには、悪いけど」
小さい頃からアシャの花嫁になることを夢見てきた、と話したリディノの、桜色の頬を思い出し、胸が痛んだ。
「………その、おことば」
ジノも同様の思いだったのだろう、それでもなお、苦しげに問いを重ねる。
「嘘偽りはございませんか」
「こんなことに嘘をついても仕方ないだろ? リディの気持ちは知ってる……嘘なんてつけない。……本当のことだよ」
(そうとも)
ユーノはアシャを愛してなどいない。好いてもいない。アシャはいい友人だ。いい仲間だ。
(何よりアシャがそう望んでいる)
嘘も、死ぬまで尽き続ければ本当になる。
そうして、今日かも知れない、明日かも知れない、この命が尽きた果てには、ユーノの想いはどこにも何も残らずに済むだろう。アシャはレアナと結ばれて、セレドの安寧を守るだろう。セレドは立派な皇と皇妃に率いられ、美しく富み栄えてくれるだろう。ユーノの想いは誰一人知らぬままで、それを抱えてユーノは死出の旅へと出向くだろう。想いを封じ込めた魂を『死の女神』(イラークトル)に差し出すのだ。
「…」
ジノはなおも納得していない視線をこちらに向けたままだ。それでいいのか、そう問いかけている気がする。
お前はそれで、本当にいいのか。
口に出して重ねれば、虚構も真実に成り代わってしまうのだぞ。
(うん、いいんだ)
聴こえぬ問いにユーノは頷く。
(それで、いい)
「……そうですか」
ジノは再び目を伏せた。やがて、静かに頭を下げる。
「夜分遅くに失礼いたしました」
「構わないよ」
「おやすみなさいませ」
「うん、おやすみ」
ジノはしずしずと引き下がり、扉を閉めた。気配が廊下をゆっくりと遠ざかっていく。さっきより、足を引きずるような重さが加わった気がする。
その気配を感じながら、ユーノはもう一度、開け放った窓の向こうに目をやった。
(彼方の空の下、この世の果て、神々の住まうラズーンがあると、昔語りによく聞いた)
さわさわ、と遠い闇から葉鳴りがした。吹き込んでくる風の源を見つけようとするように、なおも夜に目を凝らしながら、ユーノは考えに耽る。
(ラズーンはこの世の統合府、神々は性を持たず、その果ての向こうには何もない……まるで幻の都のような気がしていた)
しかし、今はどうだろう。
ラズーンに辿り着き、その四大公の一人、ミダス公公邸にこうして住まってみると、セレドこそが、遠く幼い日々に抱いた夢まぼろしのような気がしてくる。
(セレドのことばかりじゃない)
あれほど長かった旅さえも、一つ一つの場面は鮮明に心に焼きついているのに、いざそれを心の中から拾い上げてみれば、それらもまた、昔語りの一つのように、妙に遠いものになってしまっているようだ。
(『洗礼』を受けたせいかな。それとも、これが『思い出』というものなんだろうか)
脳裏をきららかな金と紫が駆け抜ける。
(そうしていつか、アシャのことも、こんな風に思い出になったなと考えられるようになるんだろうか)
それは、『いつかセレドに帰れるんだろうか』とか『帰り着くまで無事に生きていられるんだろうか』という問いと同じく、切なく儚い問いかけのような気がした。
(それともずっとこうやって、思い切れないまま、諦め切れないまま、想い続けていくんだろうか)
そんなのまるで女の子みたいじゃないか、と考え、一瞬目を見開いてくすりと笑った。
(女の子、だったんだっけ、忘れてた)
「それでも…」
思わず声に漏れたのは、堪え切れぬ傷みのせいだろうか。
(それでも)
心の中で繰り返す。
(やり遂げなくちゃいけない、そう求められるなら……ううん)
軽く首を振って弱気を追い出し、前方の闇を見つめ直す。
(やり遂げられるはずだ、だって、他でもない、自分が選び取った道なんだから)
「…!」
ふいに、嵐の前の静けさに似た沈黙を守っていた彼方の空が、夜明けではない、どこか毒々しい紅にぼんやりと明るんだ。
(『運命(リマイン)』が……来る)
唐突に予感が広がった。
無意識に剣を探り、唇を引き締める。
「ゆ……の…」
その彼女の心象を受け取ったのか、ベッドでレスファートが小さく怯えたような声を上げた。
風はユーノに向かってきている。
『聖なる輪』(リーソン)がわずかに熱を含む。
朱に染まった空の下、ギヌアの哄笑が、深く密やかに広がり始めたようだった。
第四部、終了
静かな暖かい晩で、風が微かにそよぐ程度、鳥も眠り馬も眠り、墓場で憩う死者達さえも眠り続ける、そんな夜だった。
ミダス公公邸の一室、ユーノに与えられた居室には、ぼんやりと明るい月光が、開いた窓から差し込んでいる。
ベッドで寝息をたてているのは、プラチナブロンドをくしゃくしゃにして丸くなっているレスファート、白い夜着に手足を縮め、時折小さな口を動かして何事か呟いている。
当の部屋の持ち主、ユーノの姿はベッドにはない。
開けた窓に腰掛け、窓枠に凭れて腕を組み、じっと彼方の空を見つめている。夜着でさえない服装ーチュニックに短い腹辺りまでの上着、腰には愛用の剣を吊るし、額に『聖なる輪』(リーソン)という出で立ちーで、ユーノがたまたま起きていたのではないと誰にでもわかる。
遠くから風がゆっくりと吹き寄せて来て、ユーノは少し眼を伏せた。短く削いだ焦茶の前髪の毛先が、目元に乱れるのをそのままに、微苦笑を浮かべる。
(こんな夜に眠れない、なんて)
ふと思い出した。
以前、野戦部隊(シーガリオン)の野営の夜、見張りをしていたユーノにユカルが話しかけてきた。
俺達はこんな平和な夜こそ眠りにつけないんだ。戦いがある時は、敵がどこにいるのか、何を待っているのかがわかる。けれども、こんな静かな夜は、敵の居場所さえも『夜の王子』(セトラート)の衣の影に隠れてしまってわからない。どこからかやってくる敵の匂いを、一瞬でも早く嗅ぎ取ろうと、静まった夜気にぴりぴりと神経を尖らせちまう。戦いから戦いへ、毎日を戦乱に明け暮れる俺達の性分というものかも知れないな。
(私も、性分かも知れない)
静かな夜ほど心が尖る。この平穏が偽物ではないかと訝る心を持て余し、一人何度もセレドの街をレノで駆けた。
これは真実か。
それともたまさかの夢にごまかされているのか。
それはいつも、心にあった危機感だ。平穏な日々という仮面を被って『何か』は確実に進み続けている。その『何か』に気づいていなければ、自分は大きなものを失ってしまうに違いない、と警告が響く。
(考えてみれば、カザドのことだけじゃなかったんだ)
ユーノの敏感な心に聴こえていたのは、揺れ動く諸国動乱に踏み散らされる人々の悲鳴、日々の要であるラズーンが撓みきしんでいる音だったのだ。
そして、ユーノはレアナの身代わりとしてにせよ、セレドから遥か遠く、故国においては世界の果てと言われたラズーンへ、ただひたすらな旅を続けて来た。この旅さえ済めば、世界を統べる府に辿り着きさえすれば、『何か』が明らかになる、『何か』の姿がはっきり見える、そう信じて。
(でも)
多くのものを重ね見るほど、目に見えない渦の中へ巻き込まれている自分が、垣間見えるような気がする。
ラズーンの崩壊、『運命(リマイン)』との戦い、『太皇(スーグ)』の交代、遥か昔に作り上げられ定められていた未来への流れ。
それらは宙道(シノイ)のように、数多くの背景を持ちながら、どれ一つとも関わらずにまっすぐある一点へと伸びている。
ひょっとすると、世界というものはそのように成り立っているのかも知れない。その辿り着く先を見ようとして、人は数限りなく生と死を繰り返すのかも知れない……。
「、誰だ?」
ふいに、扉の向こうに熱を感じた。人の立ち止まった気配、誰何して剣に指を触れる。
もう、この公邸も安全ではないことをユーノは熟知している。ましてや、無防備に眠るレスファートを側に、一瞬たりともためらう気はない。
「私です」
「…ジノ?」
殺気が届いたのだろうか、扉の向こうの人物はすぐに答えを返した。抜き放ちかけていた剣を鞘に戻し、ユーノは扉の方へ向かう。気配は身動きしない。
レスファートを気にしながら、そっと扉を開け、薄暗い廊下に一人佇む相手の姿を認めた。
「どうしたの?」
まるで手酷く詰られることを覚悟しているような俯き方、それでもそろそろと顔を上げて、ジノは瞬いた。
「少しお尋ねしたいことが。……入ってもよろしいでしょうか」
「うん、いいけど……レスが眠ってる。そっと入って」
「はい」
ジノは頷き、しなやかな動きで扉の隙間から滑り込んできた。背後にリディノがいる気配はない。物音一つたてずに部屋に入ってきたジノに、ユーノは目を細める。
「前から気になっていたんだけど」
「はい」
「あなた、ただの詩人(うたびと)じゃないね? つまり、ねっからの詩人(うたびと)じゃないだろ?」
「…お察しの通りです」
ジノは深い青の瞳に微笑をたたえた。月光の中では黒と見まごう色味が静かに瞼に隠される。
「九つの歳まで、地方の一都市で盗みまがいをして生きておりました。ミダス公に拾われ、姫さまにお会いしていなければ、あのまま今も、日々を盗み暮らし、やがては捕まってくびり殺されていたことでしょう」
「…そう」
ジノの何を認めてミダス公が愛娘の側に置く事を許したのか、それは想像するよりないけれど、おそらくはリディノが強く懇願したのだろう。重ねた年月の中で、ジノはリディノを唯一の主として仕えることを選んだ、それが振舞いに見て取れる。
そのかけがえない主の側にいることなく、ジノは夜更けにユーノを訪ねてきている。何か事情があることなのだ、とユーノは察した。
「ところで、何の用?」
「……どうしても、お尋ねしたいことがあるのです」
再びあげてきた瞳は、光を吸い込んで重い。
「何?」
「アシャ様は、ひょっとして、あなた様を愛しておられるのではありませんか」
「っ」
びくり、と思わず体が震えた。どうしてそんな、そう考える心が千々に切れる。
そうであったらよかったのに。そうであるはずもないのに。そうではないのにどうしてそんな。
波立つ心に抗うユーノを、ジノはじっと凝視している。ふざけたり、からかったりしている表情ではない。
「まさか」
にじみ出てくる苦笑は、自分に対する自嘲。
これほど望みがないことを、それでもことば一つにまだ揺れる、自分の甘さ愚かしさ。
「アシャが好きなのは、レアナ姉さまだよ」
言い慣れた台詞は、何の苦労もなく口から零れた。夢の中でも現実でも、繰り返し繰り返し何度も何度も言い聞かせて来た、そのことば。
「私みたいなの、『あの』アシャが女扱いすると思う?」
肩を竦めて見せた、どれほどふざけた内容か理解してもらうために。
「ボクはアシャの弟分なの。そういう役割なんだ。アシャはとにかく綺麗な女性に目がないし。リディならまだしも、ボクは対象以前の問題だよ」
だが、ジノは笑わない。じっとユーノを見つめ続ける。
しばらくユーノのことばを胸の内で反芻していたようだったが、納得しかねる口調でこう尋ねた。
「あなたはアシャ様をどう思われているのですか」
礼儀さえ排した、直接的、むしろ朴訥な問い。そして、曖昧なごまかしを許さない問い。
(さすが詩人(うたびと)だよね)
リディノに向けた、その忠誠にも感嘆する。瞳が静かに語っている、邪魔をするならこの場で斬る、と。
「アシャはね」
にいっ、とユーノは笑った。
「旅のいい仲間。剣の師匠。レアナ姉さまの想い人。そして、ゆくゆくは、ボクの兄になってくれる人」
「!」
ジノが息を呑む。
「リディには、悪いけど」
小さい頃からアシャの花嫁になることを夢見てきた、と話したリディノの、桜色の頬を思い出し、胸が痛んだ。
「………その、おことば」
ジノも同様の思いだったのだろう、それでもなお、苦しげに問いを重ねる。
「嘘偽りはございませんか」
「こんなことに嘘をついても仕方ないだろ? リディの気持ちは知ってる……嘘なんてつけない。……本当のことだよ」
(そうとも)
ユーノはアシャを愛してなどいない。好いてもいない。アシャはいい友人だ。いい仲間だ。
(何よりアシャがそう望んでいる)
嘘も、死ぬまで尽き続ければ本当になる。
そうして、今日かも知れない、明日かも知れない、この命が尽きた果てには、ユーノの想いはどこにも何も残らずに済むだろう。アシャはレアナと結ばれて、セレドの安寧を守るだろう。セレドは立派な皇と皇妃に率いられ、美しく富み栄えてくれるだろう。ユーノの想いは誰一人知らぬままで、それを抱えてユーノは死出の旅へと出向くだろう。想いを封じ込めた魂を『死の女神』(イラークトル)に差し出すのだ。
「…」
ジノはなおも納得していない視線をこちらに向けたままだ。それでいいのか、そう問いかけている気がする。
お前はそれで、本当にいいのか。
口に出して重ねれば、虚構も真実に成り代わってしまうのだぞ。
(うん、いいんだ)
聴こえぬ問いにユーノは頷く。
(それで、いい)
「……そうですか」
ジノは再び目を伏せた。やがて、静かに頭を下げる。
「夜分遅くに失礼いたしました」
「構わないよ」
「おやすみなさいませ」
「うん、おやすみ」
ジノはしずしずと引き下がり、扉を閉めた。気配が廊下をゆっくりと遠ざかっていく。さっきより、足を引きずるような重さが加わった気がする。
その気配を感じながら、ユーノはもう一度、開け放った窓の向こうに目をやった。
(彼方の空の下、この世の果て、神々の住まうラズーンがあると、昔語りによく聞いた)
さわさわ、と遠い闇から葉鳴りがした。吹き込んでくる風の源を見つけようとするように、なおも夜に目を凝らしながら、ユーノは考えに耽る。
(ラズーンはこの世の統合府、神々は性を持たず、その果ての向こうには何もない……まるで幻の都のような気がしていた)
しかし、今はどうだろう。
ラズーンに辿り着き、その四大公の一人、ミダス公公邸にこうして住まってみると、セレドこそが、遠く幼い日々に抱いた夢まぼろしのような気がしてくる。
(セレドのことばかりじゃない)
あれほど長かった旅さえも、一つ一つの場面は鮮明に心に焼きついているのに、いざそれを心の中から拾い上げてみれば、それらもまた、昔語りの一つのように、妙に遠いものになってしまっているようだ。
(『洗礼』を受けたせいかな。それとも、これが『思い出』というものなんだろうか)
脳裏をきららかな金と紫が駆け抜ける。
(そうしていつか、アシャのことも、こんな風に思い出になったなと考えられるようになるんだろうか)
それは、『いつかセレドに帰れるんだろうか』とか『帰り着くまで無事に生きていられるんだろうか』という問いと同じく、切なく儚い問いかけのような気がした。
(それともずっとこうやって、思い切れないまま、諦め切れないまま、想い続けていくんだろうか)
そんなのまるで女の子みたいじゃないか、と考え、一瞬目を見開いてくすりと笑った。
(女の子、だったんだっけ、忘れてた)
「それでも…」
思わず声に漏れたのは、堪え切れぬ傷みのせいだろうか。
(それでも)
心の中で繰り返す。
(やり遂げなくちゃいけない、そう求められるなら……ううん)
軽く首を振って弱気を追い出し、前方の闇を見つめ直す。
(やり遂げられるはずだ、だって、他でもない、自分が選び取った道なんだから)
「…!」
ふいに、嵐の前の静けさに似た沈黙を守っていた彼方の空が、夜明けではない、どこか毒々しい紅にぼんやりと明るんだ。
(『運命(リマイン)』が……来る)
唐突に予感が広がった。
無意識に剣を探り、唇を引き締める。
「ゆ……の…」
その彼女の心象を受け取ったのか、ベッドでレスファートが小さく怯えたような声を上げた。
風はユーノに向かってきている。
『聖なる輪』(リーソン)がわずかに熱を含む。
朱に染まった空の下、ギヌアの哄笑が、深く密やかに広がり始めたようだった。
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ご配慮ありがとうございます。なかなかに収まりのつかぬ物語というのは、書くのも悩みと楽しみが同居いたしますね。鴎古様も豊かな旅を楽しまれるよう願っております。