『ラズーン』第五部

segakiyui

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1.『剣の伝説』(シグラトル)(2)

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「リディ?!」
 陽射し明るいミダス公邸の一角、テーノトなどに比べると背は低い方だが、四方八方に曲がりくねった枝を突き出したスティルの、細かな葉が風で波打つ中から、ユーノのやや頓狂な声が響く。
「どのあたり?!」
「そこ!」
 スティルの樹の下で上を見上げているレスファートが、一所懸命伸び上がって、小さな指で樹の天辺あたりを指す。
「そこ! そこだよ!」
「ユーノ! もういいわ、危ないから!」
 レスファートの側で、リディノは両手の指を組み合わせて握りながら、はらはらした顔で祈るように上を見上げている。
「また、お父様に買って頂くから! ねえ!」
「大丈夫、もう少しで見つけるから……あ、あれか」
 ユーノはあっさり応えて、枝を移動していく。がさがさざわざわと、薄緑の葉が命があるもののように塊となって揺れる。
 レスファートが指差したのは、スティルの枝の先端にかかっている薄紅の艶のあるリボン、リディノの髪を結んでいたリボンの片方だ。
「ねえ!」
 ユーノがなかなかリボンに辿り着かないのにじれったくなったのだろう、レスファートが跳ね上がりなら叫ぶ。
「ぼく、行くよ! ねえ、ぼく行っちゃだめ?! ねえ! ユーノぉ!」
「だーめ」
 間髪置かず、ユーノは葉の隙間から透けて見える少年に答えた。
「楽そうに見えるんだろうけど、結構難しいんだぞ! 足の置き場とか、体の伸ばし方とか」
 続けながら、枝をゆっくりと伝わっていく。それほど太い枝ではないから、周囲に広がるように伸びている枝は体重移動ですぐにしなる。
「レスには無理だよ!」
「そんなことないよ! ねえ!」
 レスファートは地上でぴょんぴょん飛び跳ねている。
「ぼくも!」
「だめだ」
 すっぱり切り捨てて、ユーノは首を伸ばす。
「リディ! あのリボン、こっちの枝?」
 これぞと思った枝に手をかけてゆさゆさと揺らせてみた。だが、視界の彼方にある淡色のリボンが絡みついているのは違う枝らしく、振動で揺れさえせず、微かに吹き寄せる風にそよそよと愛らしく嬲られているだけだ。
「違うみたいだな…」
「もういいわ、ユーノ! 危ないもの! 降りて来て!」
「よかぁないよ!」
 思わずユーノは枝の間から顔を出した。地上のリディノの緊迫した顔を見下ろす。
「ミダス公からの誕生日の贈り物なんだろう? ソクーラ製、キャサラン金糸が織り込んであるんだろう?」
 それにリボンを見せてもらってて、風に飛ばしちゃったのはレスじゃないか。
「だからさ、ぼくが!」
「レスの保護者は私だ。なら私が取らなくちゃ」
 にやりと笑うと、一瞬ぐ、と唇を噛んだリディノが、もう一度大きく首を振った。
「でも、細い枝だわ……危ないわよ!」
「だからぼくが行くって!!」
「おいおい……」
「うわっ」
 聞き慣れた声が響いて、ユーノは慌てて枝の間へ身を潜めた。
「一体、何の騒ぎだ?」
 訝しげな声が尋ねながらどんどん近づいてくる。後退するのも枝が揺れて所在を知らせそうだし、とにかく下からも見えにくいような葉影を探して縮こまる。
(やばっ)
 現れたのはレアナを連れたアシャの姿、見つかれば目一杯お小言を食らうに決まっている。何せ、ユーノは一昨日ようやくベッドから起きてもいいと言われたばかり、気分転換に木登りをしてたんだよ、ああそうか、で済まないのはわかりきっている。
「アシャ兄さま! あのね、ユーノが…」「ちがうんだよ、ぼくが…」
 それぞれにユーノにリボン確保を諦めさせたがっていた二人が、慌ててアシャ達に近づいて事情を話し始めるのに舌打ちする。それほど待つまでもなく、アシャの罵声が届くに違いない。
(その前に)
 ユーノはそうっと枝を伝い始めた。上方にある枝を掴み、踏みしめる枝にかかる重量を減らす。あちこちの枝を幾箇所か踏んでいる間に、リボンが絡んでいる枝がわかった。思ったより細くないし、遠くなさそうだ。
「ちっ…」
 枝を揺らさぬように腕に力を込めると、中途半端に保持する体勢の左肩が傷んだ。
(まだ無茶をするなって?)
「…ユーノが? どうしたって?」
 アシャの声が漏れ聴こえた。不愉快そうな、苛立たしげな響きに、体の別の部分がずきりとする。
(本当に、いつまでたっても、私は)
 アシャにあんな声を出させるようなことしかできないんだな。
 一瞬顔をしかめ、それを振り切るようにリボンに近づいていく。もう少しだ。もう一、二歩前へ進んで手を伸ばせば届くだろう。が、足下が気になる。このあたりから急に枝は細くなり、大きく揺れてしまいそうだ。
 顔を上げて周囲を見回して、よりしっかりと体を吊り上げられそうな枝を探した。
 アシャのことだ、事情を聞けば自分で登ってきかねない。それよりも先にリボンを掴んでしまえば、一応は目的を達したという気持ちにはなれる、あれこれ後から詰られるにせよ。
「あれか…」
 しっかりした枝が一本、斜め頭上を過って伸びている。リボン間近まで今踏みつけている枝よりもしっかりと広がっているようだ、ただし。
「……っ、しょ…」
 少し遠い。必死に体を伸ばして掴めば、余裕がほとんどない。枝先まで行って、うまくリボンまで手を伸ばせるかどうか。左手を精一杯伸ばして頭上の枝を掴み、じりじりと前へ進んだ。片腕にかかる荷重はきついが、幸い、足下の枝にはほとんど負荷がかかっていないようだ。
(そのまま…その、まま…)
 先へ行けば行くほど、足下の枝は予想以上に細くなっていた。爪先で辿るのが精一杯、体重をほとんどかけられない。だが、目の前にリボンは現れ、風に大きくなびいている。掴むなら今だ。伸ばして手を開き、掴む。駄目だ、目測が狂った。わずか先をひらりと翻られた。
(く、しょっ)
 焦るユーノの指先を、リボンはからかうようにひらりひらりと擦り抜ける。まるで意志があるかのように、ユーノには絶対捕まらないと言いたげに。何度も掴もうとしたのに、その度に風が乱れ、枝が揺れ、葉が邪魔をし、そのくせ、諦めかけた矢先に、指先のすぐそこで無防備に垂れ下がる。
(リボン…)
 指先はもちろんリボンを追いかけている、けれど、翻弄されるその感覚が、ユーノの脳裏に一つの光景を呼び起こす。

 セレド皇宮に、異国からのリボンを仕入れたという商人がやってきたことがあった。
 入り乱れる様々な色の流れ、模様の乱舞、艶も織りも手触りも全部違う無数のリボン、商人の手から渡されたそれを、レアナとセアラがとっかえひっかえ試してみていた。
 レアナの栗色の髪にはクリーム色はよく映えた。セアラの髪には甘いピンクか、濃い鮮やかな青が映りが良かった。
 戸惑うユーノにも商人は当然のようにリボンを差し出した、どうぞ、お好きなものをお試し下さいませ、と。
 だが、ユーノの、手入れの不十分で乾燥したばしばしの焦茶の髪に、クリーム色は白々として骨のように見えた。甘いピンクはとってつけたようで、濃い鮮やかな青は繊細な織が跳ね返る髪をまとめられなかった。緑の鳥達をあしらった模様は髪に埋もれて野原の草をくっつけたのかという有様、紫は道具を縛る帯留めに思えたし、赤に至っては幾種類もあった赤のどれ一つとして、流した血を思い出さぬ色はなく……。
(きまり悪かった…な…)
 母の困惑、父の訝しげな顔、商人の仕方なさそうな愛想笑い、『なかなかお品が揃わなかったようでございますな、海の方に参りますと、多少は丈夫な紐も……おっと』。
(紐、ってのも、凄いよな…)
 髪を飾るよりも、ユーノの髪をどうしたら縛り上げられるかと、商人は途中からそればかり思っていたのだろう。
 どれほどいろいろなものを試しても似合わない自分、もちろん、商人の言うように品揃えを責めることもできるのだけど、だんだんそこに居るのが辛くて居たたまれなくなってきて。中座しようとしても、両親はせっかく来ておるのだし、そなたにも買ってやりたいのだと同意してくれなかった。
『何も欲しくないのか、そんなことはないだろう』『あちらのはどうです、もっと、ほら、あのリボンはどうかしら』
 その側で、レアナとセアラは何本も自分に似合いのものを見つけて、どれにしようかと迷っている最中、リボンが似合わないことが悪いわけではないはずなのに、竦む心は、どうして自分ばかりこんなに出来損ないなのだとそればかりで。
『ユーノ、せっかくなのだから、自分で選ぶことも考えなくては』『迷うなら、何本も買っていいのですよ』
 違うんだ。
 何も似合わない、それがわかるばっかりなんだ。
 どれを選んでも、どれだけ気に入ったリボンがあっても、それをつけた自分のみっともなさを、繰り返し鏡の中に見つけてしまう。自分だけではなく、両親や商人の、慰め顔や労りの口調に察してしまう、これではだめなのだ、と。
『かあ、さま』
 とっさに手近の一本を手に取った。真っ白で艶やかな織で、確かの上物には違いない、けれど味も素っ気も無い、それを。
『私、これがいい』
『え、まあ』『それは…その』
 口ごもる両親を商人が救う。
『お似合いですよ!』
 安堵したような響きに押されるように、両親がほっとした笑顔になった。
『そう、ね。そういえば、よく似合っているわね』『気づかなかったぞ、お前にそんなに白いリボンが似合うとは!』
 殊更な賛辞は、すぐ側のレアナとセアラの視線に崩れそうになる。え、だって、あれって、ただの、白い布じゃないの。あれなら、ほら、あの箱の中に、数十本もあるよね。
 わかっている。ちゃんと見えている。このリボンが、飾るためのものではなく、他の色とりどりのリボンを絡めて留めるためのもので、無造作に箱の中に投げ入れられている数十本の一本にしか過ぎないことを。鏡の中で、額に当てて巻いてみせた自分の顔が、笑顔なのに、今にも泣きそうなのも。
 だって、その姿は、ほんとうによく似合っているんだもの、何度も見慣れているんだもの、いつものように、包帯を巻いている姿、として。
 白いリボンが似合う。
 白いリボンしか、似合わない。
 それでもはしゃいで見せた、ありがとう、とっても嬉しいよ、大事な時に使うね、と。
(結局、あのリボンは、すぐに使った、んだよな…)
 数日後、カザドに狙われた。腕に掠り傷を負った。幸いに毒は仕込まれていなかった。だが、血の止まりが悪くて、生憎手元にあった長い布はそれだけだった。
 本当は嫌だった、使いたくなかった、けれどそのままだと周囲を血で汚してしまうから、慌てて巻き締めて、気づく、布が血を吸ってくれないことに。
 気持ちを堪えて締めた白いリボンの下から、真っ赤な毒液のように血が滴る。衣服で押さえるしかない、見つからないように衣服ごと処分するしかない、ぼろぼろ零れた涙を振り払いながら思っていた、何であんなに選んだんだろう、と。
(何選んでも同じだったじゃないか。結局、こうやって血に汚れて、捨てるんだから)
 どんなに願っても、どんなに望んでも、全ては血に汚れて失うしかないのに、何を人並みに迷ったり選んだりしたんだろう。
(何色でも良かったんだ。何色選んでも同じだったんだ)
 あんな想いをして、あそこに居なくても、そこまでして、何かを選ばなくても、さっさと適当に掴んで逃げ出してしまう方が、よっぽど楽だったんだ。
(私は、馬鹿だ)
 脱いだ服を抱き締めて、嗤い続けていた、自分の愚かさを。
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