『ラズーン』第五部

segakiyui

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1.『剣の伝説』(シグラトル)(3)

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「ユーノっ!!」
「っ!」
 唐突に怒鳴り声が響いてびくりと震える。怪我の功名、その瞬間に風に吹かれたリボンが指に絡んでくれて、慌てて掴んで枝から引き抜く。
「お前っ、何してるんだっ!」
 激怒一歩手前のアシャの怒号。
「顔を出せっ!」
「あ、あのさ…っ」
 尋常じゃない声、予想以上に怒らせてしまったらしい。
「リボン、取ってたんだ、リディノの、ほら…」
「ほらじゃね、…ないっ!」
 ほらじゃねえっ、と吠えかけたのを直した理由はすぐにわかった。樹下で顔に血を上らせて怒っているアシャの横で、レアナが心配そうに彼を見ている。白い簡素な長衣、栗色の艶やかな髪に陽射しを受けて、まるで見えない冠を戴いているような神々しさ、ゆっくりとこちらを見上げた瞳がきららかに潤んでいる。
「ぶっ倒れて何日目だと思ってるっ!」
 そりゃあな、わかるさ、側にレアナ姉さまがいるんだから、武骨な物言いをしたくないのは。けど、そこまで詰ることもないだろう、ベッドから離れていいと言ったのはアシャなんだし。
「そんなに喚くなっ!」
 むっとして叫び返す。
「もう取ったから、今降りるとこだっ…」
 バキッ!
「っっ!」「ユーノ!」「きゃあっ!」
 悲鳴と叫びが交錯する中、一気に空中に放り出されてユーノは息を呑んだ。
 今の今まで大丈夫だったのに、どうしたはずみか、掴んでいた枝の方が音をたてて折れた。掴み直そうとするのも間に合わない。重さを減らされて保っていた足下の枝も派手に折れる。
「くっ!」
 とっさに頭を抱え込んだ。顔と言わず、体と言わず、そこら中を叩きつけてくる枝を片っ端からへし折って、薄緑の葉の渦巻きの中を転げ落ちる。
 どすっという手荒い地表の歓迎を予想して体を固めた次の瞬間、ふわっ、と何かに受け止められ、驚いて目を開けた。
「ふ、ぅっ…」
(アシャ!)
 あの瞬間によくも間に合った、ユーノの体をアシャがしっかり抱え込んでいる。いつの間にか無意識に掴んでしまっていた衣服の胸あたり、鼓動が全力疾走の後のように速まっている。青ざめた顔をほっと息をついて和らげた表情、唇から漏れた吐息にユーノの前髪が優しく嬲られる。
(アシャの心臓…速い…)
 気づいて胸を絞られた。
(私のことも、心配、してくれた…?)
 すぐ側にレアナがいるのに? ユーノを抱き止めてくれたって?
「あ…」
 視界が滲みそうになる。唇が震える。だめだ、早く何か言わないと、何か、でないと、とんでもないことを口走りそうだ。
「、っ!」
 必死に笑顔を作って口を開きかけた矢先、ぎゅ、とアシャが抱き締めてきて思考が弾け飛んだ。視線の遠くにリボンが絡んだ指先、孤独に震えた夜とは違い、こうして気遣ってくれる温かな体、記憶が重なって泣き出しそうになる。
(いいの、かな)
 大丈夫じゃなくて、怖かった、と言って?
(甘えても)
 ごめんね、じゃなくて、ありがとう、と笑って?
「アシ…」
「この、大バカ野郎っ!」
 ことばを遮った声に冷たさに固まった。すがりついた手をもぎ離すように体を遠ざける、まるで不愉快なものが飛びついてきたと言いたげに。
「何度言わせれば、気が済む!」
 容赦ない罵倒が続いた。
「十二や三のガキじゃあるまいし、自分の体ぐらい、自分で面倒見られないのか!」
 ぐさり、と音をたてたのは心の一番脆い部分。そこによく磨かれて鋭い罵声が突き立っている。
(自分の体ぐらい、自分で)
 ミテ、キタケド…?
「そうよ、ユーノ」
 冷ややかに怒った表情のアシャの隣から、レアナが心配そうな覗き込んできて、宥めるように優しく続けた。
「あんな危ないことをして……女の子でしょう? せっかく治った傷が、また開いたらどうするの?」
 アシャがあれほどきちんと手当をしてくれたからこそ、こうやって無事に生きているものを、あなたはまた無茶をして、それを無駄にしてしまうところだったのよ……。
(……ああ…そうか…)
 続いたレアナのことばを聞き流しながら、ユーノはゆっくりとレアナを、そしてアシャを見た。
(そうか……アシャは…もう…)
 心配しなくちゃならない相手がいる。守らなくてはならない女性が、すぐ側にいる。だから。
(私に構ってる暇なんか…ない、から)
 ああ、そうだっけ。
(だから、怒られてるのか)
 ユーノの体を心配したのではなく、迷惑をかけるな、と。
(そうか…)
 簡単なことなのに、今の今までわからなかった。
 茫然としてアシャを見るユーノに、さすがに不審を覚えたのだろう、アシャが眉を寄せて訝しげに尋ねてくる。
「おい? 聞いてるのか?」
 もう一度、アシャを見、レアナを見る。
(アシャは怒ってる)
 胸の中で繰り返す。
(私を案じて、ではなくて、何度治療をしても無茶ばかりする困った奴に対して。大事な女性に心配させる馬鹿な者に対して)
「おい、ユーノ…傷が痛むのか?」
 一瞬レアナを振り返り、それからおもむろに心配そうに片手を伸ばして左肩に触れようとするのから、するりと擦り抜けた。強張っていたのが嘘のように軽々と動いた体を、これ見よがしに目の前でパンパン、と叩いて埃を落とす。
「傷む訳ないだろ、とっくに治ってるのに」
 口から零れたのは、不服そうなふてぶてしい文句。唇を尖らせる、でもまだ、アシャが見られない。
「ユーノ! 助けてもらったのに、あなたは」
「ああ、ごめん」
 レアナが珍しくきつい調子で言い募るのに軽く謝って、肩を竦めた。立ち上がるアシャ、それに寄り添うレアナの前でぺこりと頭を下げる。
「いえ、ごめんなさい、姉さま」
 一息つく。よし、たぶん、大丈夫。
 顔を上げて、複雑な顔でこちらを凝視しているアシャに、に、と笑って、もう一度頭を下げる。
「ごめんなさい、アシャ」
「あ、ああ…」
 あやふやに頷く相手にくるりと背中を向ける。後ろでは凍りついたようなリディノとレスファートが見守っていた。
「はい、リディ、リボン」
「ありがとう、ユーノ」
 固い表情でリボンを受け取り、ちらりとレアナを見やるリディノに、
「また引っ掛かったらお言いよね、取ってあげるから」
「ユーノ!」「お前っ!」
「あははっ」
 またもや、アシャとレアナが異口同音に詰るのに声を上げて笑い、けれどそれが限界で、レスファートに片目をつぶって身を翻す。
「ユーノ!」
「ちょっと用事思い出した! 後でね、レス!」
 ユーノっ、ぼくもっ、そう追いかけてくる声に言い捨てて、ユーノは速度を上げ、花苑の中に走り込む。花を散らして無茶苦茶に駆け、次第次第に速度を落として、真っ白のラフレスのあたりで項垂れて立ち竦んだ。
「ばか…だなあ…」
 呟いて、そろそろと右手を上げる。左肩に当て、包むように片手で自分を抱き締める。
「逃げて…きちゃって……」
 今更どんなリボンを選ぶつもりだったのか。
「…は…っ」
 乾いた声で嗤う。肩を包んだ手が震えるのを、力込めて堪えようとし、堪えかねて吐き出しかけた声を殺す。
 イ…タイ…ヨ。
 俯いたユーノの表情を知っているのは、陽射しに輝くラフレスの花々だけだった。
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