『ラズーン』第五部

segakiyui

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3.魔手(6)

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「さて」
 アシャは旅の荷物をまとめた袋の口を締めた。それから、少々、いやかなりうんざりした気分で椅子にかけられている衣装を見つめる。
 深い緑の長衣は艶やかな美しい布で見事に仕立て上げられたもの、着心地もまことに良さそうだ。別にそれには問題はない。問題があるのは、その上に載せられた様々な飾り物、丹念に精緻な紋を彫り込んだマント留め、髪飾り、華奢な銀鎖を複雑に絡み合わせた幅広の帯、落日の光にきらきら輝くそれらは、どれを取っても『女性用』だ。しかも、
「……」
 帯を取り上げ、アシャは微かに唇を曲げる。
 これらの『女性用』は、本来の女性が身に着ける大きさではない。それとなく意匠を凝らして、大柄で武骨な体が目立たないように工夫されている。つまりは、純然たる『女装用』だと言うことだ。
(こういうものがあっさり手に入ってしまうというのが)
 性別を取り替えて遊ぶのは文化の爛熟を示すものだと、どこかの賢者に聞いた気もする。
「兄さま…」
「…リディ?」
 薄く開いた扉の外から、おずおずとした声が響いてアシャは振り返った。開かない扉に訝しく近寄り、開け放ってやる。
 いつもなら元気よく飛び込んできそうなリディノは、淡いピンク色の薄物を幾重にも重ねたドレスを身に着け、誰もが守ってやりたくなるようなあどけなさ、愛らしさをたたえてアシャを見上げる。
「どうした?」
 アシャは微笑んだ。
「…アギャン公のところへ行かれるって…本当?」
 控えめに尋ねる口調もらしくない。もっと明るく笑いながら尋ねてきそうなものだが。
「ああ…どうも動きが気になってな」
 もっと話があるらしいと察して、体を引いた。滑り込むように距離を詰めるリディノに、部屋の中へ戻ると、相手は後ろ手に扉を閉めた。
「リディ、悪いが」
 準備は途中だ。ユーノとも話さなくてはならない。あまり時間を取れないぞ、と続けようとしたところへ、
「……ユーノも一緒だって聞いたんだけど…」
「ああ、そうだ」
 アシャは頷いた。
「明日の朝早くに出る。だから今日はもう」
「どうしてユーノなの?」
「え?」
 唐突な問いに戸惑った。
「どうして?」
「……どうして、ユーノなの」
 言い間違えとか聞き間違えではないらしい。にしても、質問の意味がよくわからない。リディノの表情は強張っていて真剣だ。その思い詰め方を逸らしたくなって、
「一応、あいつは女だろ。姉妹ということでアギャン分領地に入り込むからな。まさか」
 思わずくすりと笑った。
「イルファに女装させるのは無理だろう」
 レースやリボンに包まれた盛り上がった二の腕を高々と振り上げてアシャを呼び止められたら、それだけでも目立ってしまう。地方巡業の旅芸人か、それともゴスタックの土相撲の女闘士だとでも言い抜けるか。
「シャイラは?」
「彼は『銀羽根』の長だぞ」
 飛び出した名前に不審を覚える。リディノは何を言いたいのか。
「連れていくわけにはいかんだろう。俺と違って各分領地にも顔をよく知られているし、それに…女装に耐えられるとは思えんな」
 あの生真面目な顔を真っ赤にして、震えながら硬直していそうだ。
「第一、また、いつミダス公が狙われるかわからん」
 口には出さないが、遠回しにここは安全ではなくなったのだぞ、と心配を響かせる。
「そのためにもシャイラには残ってもらわないと」
「でも」
 リディノはいきなり挑むような光を薄緑の瞳に浮かべた。
「ユーノだって、まだ左手が使えないのよ。アシャ兄さまが、そんな薄情な人だと思わなかった」「だからこそだ」
 思わず応じてしまい、アシャははっとして口を噤んだ。
「え…?」
「…ユーノは両手で剣が使える」
 一瞬のためらいをするりと言い抜ける。
「左手が使えなくても十分助けになる。今はちょっと無理をしてもらわねば、な」
 不審げなリディノに、いささか人の悪い笑みを浮かべてみせながら、胸の奥がちくりとした。本音は胸の中で吐く。
(左手が使えないからこそ、連れていくんだよ、リディノ)
 もしユーノを残して出かけ、万が一にもミダス公が再び狙われたとしたら、ユーノは決して大人しくなどしていないだろう。それどころか、ミダス公とリディノ、レスファート達を救うためならと、残りの片腕、いや命を賭けて闘うことだろう。
 だが左手が使えないということは、単に右手しか使えないということではない。知らず知らずのうちに、体重移動や各種の動きに使っている半身に制御がかかっているということだ。いつものユーノなら切り抜けられても、今のユーノなら代わりに屠られることも十分あり得る。
(そんなことにはさせない)
 振り払われた手を思い出す。ユーノの傷をあからさまにしたことで、お前は嫌だとはっきり拒まれたのは理解している。覚悟していたとは言え、友人や仲間にさえ戻れないのかと、不安がしこっているのも自覚している。ならばこそ。
(俺の手は、もう要らないのだと言われるにしても)
 アシャはユーノを護りたい。
 ことばは封じられている。動きは拘束されている。正直なところ、今アシャのすることで、どれがユーノを傷つけないのか、それさえ自信がない。緩く遠く、非常に大きな囲いとなってでしか、ユーノを護ってやれないのかも知れない。
(あれほど、近くに居たのに)
 無意識に自分の掌を見つめていた。かつてユーノを眠らせたことさえある自分の腕。
 もしかして、『男』でなければ、側に居られるのだろうか…?
「アシャ、兄さま」
「ん」
 リディノに声をかけられ、アシャは我に返った。
「何だい?」
 微笑みを返す。
「一度、聞きたかったの」
 リディノは強張った表情で続けた。酷薄なほど透明な瞳を、ひたとアシャに据える。ほんの僅かなためらいも迷いも、嘘もごまかしも看破せずにはおかないような、強い光をたたえた瞳。レスファートの目を思い出す。
「兄さまは、どなたか、想う人がおありなの」
「……」
 問いの形なのに、問いではなかった。
「答えて、兄さま」
 リディノは一歩踏み出した。ぐいと逸らせた額に、残照が弾かれる。
「リディ…」
 生半可な答えでは納得しそうにない。かと言って、ユーノへの想いを口にするわけにはいかない。
(答えてしまいたい)
 この場で大声で、ユーノが欲しいのだ、と。
「………どうしてだい、リディ」
 アシャは目を伏せた。髪をゆっくり掻きあげる。
「……ずっと兄さまに憧れてきたわ」
 リディノの声が少し震えた。
「あの日、アシャ兄さまが私の招待を受け入れて下さった時から、ううん、アシャの名前を初めて聞いた時から、兄さまは私にとって、誰よりも愛しい、大切なひとになった…」
 白くて細い指が内側の情熱に砕かれそうになるのを堪えるように、ドレスを掴み固く握りしめる。
「そして、兄さまも……私を好いて下さっているとばかり……思っていた……」
 アシャは無言だ。リディノが語るまっすぐな恋心を、それが過去形になっているのを意識する。
 沈黙が落ちた。
 花苑を飛び交っていたブーコが窓辺に近づき、室内から零れ落ちてくる空気に気圧されたように、再び羽音を響かせて飛び去っていく。黄昏の光の中、金の触角がきらきら光る。
「……違う……のでしょう……?」
 哀しげな声が呟いた。
「アシャ兄さまが帰って来られてから気づいたの。もう、兄さまは、以前のアシャ兄さまじゃない。私を優しく見つめて下さるその目が……いつも、別の誰かを探している………どなたなの?」
 答えを迫られる。
 決して答えてはならない答えを、こんな切羽詰まった哀しい声で迫られる。
「…」
 一瞬強く奥歯を噛み、アシャは力を緩めた。
「……聞いてどうするんだ、リディ?」
 静かな問いにリディノはぴくりと指を震わせた。目を上げると、淡く小さな唇が白い歯に激しく噛みつかれるのが見えた。すぐに唇を解放し、強くかぶりを振りながら、
「わか、らない、でも」
 振り仰いだ目はやはり強い。
「知りたいの」

(そう、もし、レアナなら)
 リディノの胸の奥底で、密やかな声が囁く。
(アシャ兄さまの想い人がレアナなら、きっと私も諦められる、でも)
 もし、ユーノなら。
 息を詰めて見守るリディノの前で、アシャの中に何か激しいものが膨れ上がり、やがて突然引いていったのがわかった。強張った肩から力が抜ける。ゆっくりと後じさる、まるで足下が危うくなったとでも言うように。
(アシャが)
 あの、アシャ・ラズーンが。
(想い人の名前を告げろと言われただけで)
「…っ」
 それがどれほどの強さで想っているのかを語っているようで、それが絶対に自分には向けられないと思い知らされるようで、リディノはまた足を踏み出す。
 後じさったアシャが俯きがちに背後に手を伸ばし、触れたへッドボードを掴んで、のろのろと視線をベッドに移した。
「………護りたい娘がいる……」
 低く掠れた声がようやく答えた。ゆっくりと動くアシャの唇を目で追い、耳に届くより先に、その内容を聞き取ろうとする。
「その娘しか目に入らない。……自分でも驚いている」
 声が微かにはにかんだ。まるで少年だ、リディノはそう思う。
 あのアシャが。
 氷の微笑を武器にしていた、あのアシャ・ラズーンが。
「もし、その娘が俺の命を欲しがったら」
 声が震えた、まるで初めての夜を過ごしている睦言のように。
「俺はきっとためらわずにくれてやる」
 ああ、違うかな、と優しい声が戸惑った。
「ためらわずに……差し出す…」
(差し出す、ですって?)
 相手が受け取ってくれるかどうかわからないから。そういう気配がほの見える。こんなに優しいことばが、これほど酷く胸を貫くものだとは思わなかった。
「兄さま…」
 何をおっしゃってるの。
「アシャ…兄さま…」
 何をおっしゃってるか、わかっているの。
 ラズーンの娘達がどれほど望んだだろう、アシャのこの恭順を。
 どれほど願ったことだろう、アシャのこの祈りを。
(わかってるの、アシャ)
 どれだけ優しく温かく華やかな笑みを向けられても、ただ一人として、それを受け取った娘などいないのに。
(あなたは、今、こう言ってるのよ)
 俺を愛して欲しい、と。
(一体誰に向けて)
「それは…一体…」
 誰なの。
「アシャ、」
「っっ!」
 突然開いた扉と響いた声に、二人は息を呑んだ。口を噤むリディノ、はっとしたように振り仰いだアシャが、一瞬にして体勢を立て直す。
「あ……ごめん」
 荷物らしきものを片手に入ってきかけたユーノが、驚いたように立ち止まり、向かい合うリディノとアシャを見て取って薄赤くなった。照れたように笑って向きを変える。
「後でいいから」
「ユーノ!」
 アシャの動きは素早かった。リディノの側を吹き過ぎる風、それほどの素っ気なさで擦り抜け、一足飛びに扉を出かけたユーノを捕まえる。
「構わん。何か用だったんだろう?」
 覗き込むアシャの顔は僅かにうろたえている。落ち着かなく揺れる視線はユーノの全身を必死に捉えて、何かを探し出そうとしているようだ。
「いや、全然後でいいんだ、たいしたことじゃないし」
 ユーノは困った顔であたふたと手を振る。
「ごめん、話し込んでるとは思ってなくて」
 だめだな、ちゃんと声をかけなくちゃいけないよね、お里が知れるな。
 恥じらった口調が繰り返しごちる。
「大丈夫だ、もう終るところだったんだし…何か聞こえたか?」
 応じたアシャの物言いも随分だったが、何よりリディノの胸に痛かったのは、今の話をユーノに聞いていて欲しかったという表情がちらちらと見えるあたり、それはリディノを打ちのめす。
 それは、誰なのか、の答え。
(ユーノ、なの…?)
「何も聞いてないよ、そんな礼儀知らずじゃない」
「ああ、そういう意味じゃない」
「聞かれて困る話なら、ちゃんと扉を閉めとけって」
「そういう話じゃないんだ」
「じゃあ、いいだろ、何も聞いてない」
「何も聞いてないんだな」
「しつこいぞ、アシャ!」
 扉でごちゃごちゃやり合う様子、ユーノはあからさまに迷惑している顔だが、アシャはどことなく嬉しそうにも見える。
 どんな形でもいいんだ。
 どんな形でもいいから、側に居たいんだ。
(あなたの、側に)
「……っっっ」
 それは、まるで、アシャに向かう自分そっくりで。
「お、お話がおありよね、アシャ兄さま」
「!」
 リディノの声にアシャが振り返った。
「ユーノに話があるんでしょう」
「…何のことだ」
 背後にユーノを庇うような姿勢、いや違う、リディノの視線からユーノを護るかのようなアシャの姿は既に殺気立っている。まるで、目の前に巨大な怪物が居るように。卑劣な罠があるかのように。見えない剣が引き抜かれている、背中に庇うユーノを護るために。
(私なのに)
 アシャを兄と慕い、ただひたすら無邪気に敬愛を捧げてきたリディノなのに。
(まるで、ユーノを害する敵に向かうような顔!)
 潤み零れ落ちた視界、それでもアシャの表情は揺らがない。冷淡で厳しく、いささかの同情もなく。
「リディっ?」
 逆にその背から部屋を覗き込んだユーノが顔色をなくして声を上げた。
「ちょ、アシャっ、リディが」
「いいんだ」
「、ごめんなさい、アシャ!!」
「リディ!!」
 呼びかけるユーノの声も疎ましく、リディノは回廊を駆け抜けて自室へ飛び込んだ。
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