『ラズーン』第五部

segakiyui

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3.魔手(7)

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「姫さま?!」
 ちょうどリディノを探しに行こうとしていたジノは、ただならぬ勢いで飛び込んできたリディノに驚いて、手にしていた立風琴(リュシ)を落とした。そのままリディノを抱き止める。
「どうなさったのです?!」
「ジノ…ジノ…っ」
 唇を震わせ、止めようもなく溢れてくる涙とともに、リディノは泣きじゃくりながらアシャへの想いと、彼の想い人への自分の想いを訴えた。
「レアナ姫なら…っ…諦められるわ…けれど……けれど…っ…ユーノ……ユーノ・セレディス……っ」
 身悶え身もがいて唇を噛む。苦しそうに、今にも噛みちぎりそうな勢いで綺麗な唇を噛み締めた後、これまでジノが聞いたことのない呪詛を含んだ声で呻いた。
「ユーノは嫌じゃないのに…でも……ジノ…っ……アシャ兄さまの選んだのが……ユーノだということが……嫌なの! 苦しいのよ!」
「姫…さま…」
「いけないことだとわかってるわ、でも、すぐに考えてしまう、どうしてユーノなの、どうして私じゃないの、どうして……どうして……っっ、私が、ユーノの、どこに劣るのかしらって…っ!」
 涙が頬を濡らし、プラチナブロンドの巻き毛を湿らせる。心の中の闇が唇をわななかせている。
「でも、姫さま」
 ジノは困惑し戸惑い、いつも穏やかで優しい女神のようだった主人が、見たこともない怒りと嘆きに崩れそうになるのに、必死に宥める。
「ユーノ様は、アシャ様のことは『いい旅の仲間』だとおっしゃっておいでです、そのようなことは」
「でも…でも、ジノ!」
 リディノは悲鳴を上げるように激しく頭を振った。
「アシャ兄さまのあれほどの想い、素知らぬふりができる女性が何人いるかしら……たとえ、ユーノが氷の心の持ち主でも、きっとアシャ兄さまの熱は『狩人の山』(オムニド)さえも溶かすわ…っっ!」
(ユーノ様…)
 ジノの脳裏に、いつかの夜、ユーノのアシャに対する気持ちを確かめに行った夜のことが甦る。
 あの時、アシャは『いい仲間』だと言い切ったユーノの漆黒の瞳には、ジノにそれを疑わせる深い哀しみが宿っていた。『いい仲間』どころではない、何かあれば己の命さえ賭けようという激情を向ける唯一人の相手、そうアシャを見ていること、そして、それを悟られまいと、やはり全身全霊を賭けて己の揺れる心を制していること、その情熱をことばの端々から十分に読み取ることができた。
 だが、ジノの確認に、ユーノははっきりと首を振って言ってのけた、レアナ姉さまの想い人だから、と。
 ユーノがレアナの名前を口にした以上、その誓いが破られるとは思えない、だが。
(それでは、ユーノ様もご存知ないのか、アシャ様がご自分を求められていることを?)
 ならば、今度のアギャン公分領地への旅が、今度こそ二人を結びつけるかも知れない。リディノに自分の気持ちを知られたアシャが、ユーノにはっきりとした態度に出ようとするかも知れない。
(ユーノ様、アシャ様)
 ジノの目から見ても、その二人はふさわしいように思えた。
 アシャは見かけほど柔らかくも優しくもない男だろう。リディノの知らぬ、裏に通じる暗い世界でも、アシャの名は密かに恐れられている。先日の視察官(オペ)の裏切りに対して、アシャがどれほど冷酷なことをやってのけたかを耳にすれば、昔は知らず、今は公然と自分の地位と力を使おうと決心した男が、行く手を遮る者に対してどう振舞うかは自明の理だ。
 そのアシャの暗く激しい負の面に向かうには、リディノはあまりにも幼な過ぎ、経験も知恵も浅過ぎた。そしてまた、レアナもまた、アシャの裏の姿を受け止めるには、明る過ぎ穏やか過ぎるように思えた。
 共に戦場を駆け、互いの背中を唯一の盾とし、互いの剣を最後の拠り所とするような世界、その世界でアシャに並び立つことができるのは、やはりユーノか、それとも『泉の狩人』(オーミノ)の長ぐらいしかいないのではないか。
「アシャ……アシャ…兄さま…っ」
 それでも、腕の中で体を震わせて失恋に泣き崩れる主の姿は、ジノの胸には痛すぎる。
「姫さま…」
「ジノ……私……私……嫌な娘だわ…っ」
 ましてや、主は、自分の闇に、これほど打ちのめされている。
 ならば、従者として正しい道は一つしかないだろう。
「姫さま…お苦しみなさいますな」
 リディノにどれほど救われただろう。リディノにどれほど安らいだだろう。
 ジノの胸の奥に、沈め切り収め切っていた、荒れた心が舞い戻る。
「ジノ…?」
 そっとリディノを押しのけたジノに、今度はリディノが戸惑ってきょとんと自分を見返してくる。そっとその体を押し上げ、優しく微笑んで、ジノは片膝を突き、深々と頭を下げた。
「ジノは姫さまに救われてこそ、今ここにございます。なれば、ジノの命は、姫さまのためにこそ、生き長らえております」
 相手はユーノだ。どの程度までジノの腕が通用するか。
 しかし、もともとはリディノなしには残っていなかった命なのだ。
「ジノにお任せ下さい。姫さまが苦しまれることなどありません。これから何が起ころうとも、姫さまがお気になさることはありません。よろしいですね?」
 これから為すことは、ひょっとすると世界を崩壊させてしまうようなことなのだろうか。その引き金を引いてしまうようなことなのだろうか。
 けれど今、女神のような主が、己の醜さに悶え苦しみ、悪鬼の世界に堕ちて行こうとすることこそは、許されることではなかった。
「ジノ…」
 何かを察したのだろうか、リディノは溢れる涙で瞳を曇らせながらも、ジノを止めようとしない。
「失礼いたします、姫さま」
 敬意と愛情を込め、リディノの手の甲に唇を押し当て、ジノは立ち上がった。落とされた立風琴(リュシ)を拾い上げようともしない、その自分の背中に張りついてくるようなリディノの視線を感じながら、ジノは無言で扉を閉めた。


「レス……? レス?」
「う…ん……」
「やれやれ…」
 くすりと笑って、ユーノはベッドに丸くなって寝息をたてているレスファートの体に、起こさぬようにそっと掛け物をかけてやった。声をかけても微かに身動きし寝返りを打つだけ、ついさっきまで、今度こそ絶対にユーノと一緒に行くんだと言い張っていた少年は、もう起きているのが限界だったのだろう、ぐっすりと深く眠り込んでいる。頬や額にプラチナブロンドを乱し、小さく開いた唇が動いて、ユーノ、と寝言を紡ぐ。
「これでまた、黙って出かけるんだからな」
 また帰ってきた時が大騒ぎだ、と苦笑する。
 戦いに出かけることは苦にならない。各種の危険も覚悟している。
 だが、レスファートのような綺麗な子どもに泣きながらしがみつかれると、どうして扱えばいいのかわからなくなって困る。温かい吐息を耳元に吹きつけられ、ぎゅっと首にしがみつかれると、レスファートを置いて旅立つ自分がひどく悪者のように思えてくる。
「…必ず帰ってくるからね…」
 そんな確証など、これっぽっちもないことを十分知りながら囁いて、ユーノはちょんとレスファートの頬を突いた。
 何せ、今度は相手が相手、ラズーン四大公の一人が裏切っているかも知れないのだ。もしそれがアギャン公だとしたら、ユーノ達は真昼にかまどに飛び込むリュガ同様、自ら餌になりに行くようなものでしかない。
 今頃、アシャもリディノに泣かれて困っているだろう。
(アシャ…)
 荷物をまとめていた手をふと止める。
(神様も結構残酷なことをなさる)
 これからレアナが同行し、レスファートとイルファを連れる旅の日々で、ユーノとアシャが二人きりになる機会など、まずないだろう。このミダスの屋敷内でさえ、慣れない場所でレアナが不自由を感じないようにとの配慮で、アシャはレアナに付き添っていた。ましてや、ここを離れ、セレドに戻る旅の空は、動乱の世界を横切る危険なもの、アシャがレアナの側を離れるなどありえない。
 ならば、今度のアギャン公分領地へ向かう旅が、ユーノがアシャと二人になれる最後の機会かも知れない。
(二人……二人か)
 くく、と自嘲に口を歪める。
(二人になったからと言って、何がある)
 レアナに付き添うアシャ、その二人の柔らかな陽射しを思わせる気配。
 リディノと話し込むアシャ、その親密で温かな空気。
(私といるアシャは…)
 殺気立っているか、からかってくるか、警戒しているか、怒っているか。
(……喧嘩、友達、ぐらい、だよな…)
 寄り添えればよかったのだろうか。甘えればよかったのだろうか。無邪気に何も考えてないふりで、珍しい話に目を輝かせてみればよかったのだろうか。
(切ないだけだ)
 手に入らないものを、壊さないようにそっと包み守るだけしかできない。
「!」
 ふいに殺気を感じた。扉の方を振り返りながら、右手は既に剣に滑っている。
「誰だ」
 誰何は間合いを詰める時間を稼ぐためのものだ。身構えながら鋭く問う、が。
「…ジノです」
「ジノ…?」
 依然殺気が漂ってくる方向から、聞き慣れた声が響いて、ユーノは眉をしかめた。ジノから放たれるとは思えない気配、だが見抜かれていると気づいただろうに、なおも消えない殺気に、目の光を強めつつ、問いかける。
「何の用?」
「………お話が」
 姿を見せない相手からの殺気はますます強まる。ただの『お話』ですみそうもないのは、火を見るよりも明らかだ。
(だが、なぜだ?)
「レスがいる」
 じり、と少年を庇う位置に移動した。
「込み入った話なら、明日にしてくれないか」
「明日には、あなた方が発たれてしまいますので」
 何が何でも今夜ケリをつけなくてはならない、そう響いた。
「……わかった」
 ユーノは頷いた。
「じゃあ、外で」
「花苑でお待ち致します」
 気配は素直に移動した。
「……ちょっと行ってくるよ、レス」
 小さく呟いて、ユーノは花苑に向かった。
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