『ラズーン』第五部

segakiyui

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3.魔手(8)

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 夜の闇にむせ返るようなラフレスの薫り。星々の光を受けて淡く輝いているのは『月光花』の異名を持つラフレスにふさわしい、地面に散り乱れた真白の花弁だ。
 昼間とは打って変わって風のない、月も雲に隠されたのか、星光のみの薄暗い夜だった。
 花苑にジノの姿はなかった。
 先に行って待っているつもりではなかったのか、それとも花に紛れて襲ってくる気だったのか。
「…」
 背後に突然ひやりとした冷気が現れ、ユーノはゆっくり振り返った。
「ジノ…」
「お呼び出しして申し訳ありません」
 謝りながらも、細めた瞳の奥から殺気が消えない。手にはあまり見た事のない細身の短剣、構えながらことばを続ける。
「何も聞かずに、お相手下さいますように」
「ジノ…」
 ユーノも右手から剣を離さず、静かに問いかけた。
「どうしてなんだ?」
 私にはあなたと闘う理由がない。
 言外に想いを込めたのは、相手が紛れもなく本気だとわかったからだ。
「詳しいことは申せません」
 普段ならば立風琴(リュシ)を抱える右手、今は剣を逆手に緩やかに顔の前へ構える動きは、奇妙なことに慣れた気配があった。いつもより幼く見える顔立ちが苦しげに歪んでいる。じりじりと間を詰める足下に、ラフレスの花弁が踏みにじられる。常ならば、姫さまこれを、と愛おしそうに選んだ美しいものを拾い上げ、主を喜ばせようと心砕くその顔が。
「私には、姫さまのお嘆きが耐えられません」
 おそらくはここに落ち着くまでには数々の修羅場を潜ってきたのだろう。短剣の先は震えもぶれもしない。レスファートが構えるよりも隙ない仕草、なのに、その剣の向こうからこちらを見据える目には諦観漂う静かな色があった。
 死ぬのは覚悟の上。勝てるとは思っていない。けれど、他に手がない。
 一瞬噛み締められた唇が、赤みを増して吐き出される。
「お願いいたします」
「リディが、どうしたの」
 相討ちにすることしか考えていない、そんな相手を逸らせるとは思っていない。
 けれど、ユーノはジノを殺したくない。
 間合いを詰める相手に、ごく僅かごくごく僅かに体を開いて気を逸らせ、そのままほんの少しの空間を作る、そこにことばを落としてほしいと願いながら。
「……姫さまは……」
 何かが心に通じたのだろう。
 ジノは眉を寄せた。
「心より、アシャ様を愛しておいでです。けれども、アシャ様のお心には…」
 悲痛を響かせてジノは一瞬唇を引き結び、吐いた。
「もはや、姫さまはおられない。幼い頃より、アシャ様のみを慕われ続けた方ですのに…」
「ジ…」
「お忙しい公達に、ずっとお寂しい想いをされて、アシャ様を実の兄上とも慕われておられた方ですのに…っ!」
 苦しそうに顰めた顔は、自分のことばの意味を気づいているからだ。
 『兄上』と『恋人』の間にはどうしても越えられない壁がある。この想いは報われない、始めからそう定められていたことを、ことば一つが証明してしまっているからだ。
 それでも、それを越えようとする。
 それでも、それを押し通そうとする、自分の命を賭けてまで。
「……どうして、あなたが、そこまでリディノに賭ける…?」
 問いはからかいではなかった。ジノが胸に抱えて、口にしないと誓った何かを吐き出させないうちは、剣を向けられない。
 きっと力は圧倒的だ。ユーノはジノを易々と屠れる。
 それにこの戦いは後に退けない。無傷で終らせられないかも知れない。
 ならば、命を確約されている者は、可能性に賭ける者に敬意を表して向かうべきだろう。
「……私は……姫さまに拾われました…」
 ジノが小さく呟いた。さわ、と草木を揺らせた風が、ジノの頭に巻いた深草色の布の端を閃かせる。
「……姫さまに拾われて初めて……人の温かさを知りました」
 ジノの体が急に小さく縮んだ。ほんの幼い子どもが、衣服の端を握りしめ、今にも泣きそうな顔で見上げているように見えた。
「夜闇に怯えなくていいことも……お腹を空かせて泥を掘ったり、雨の中を這いずって食べられるものを探さなくても生きられる……寒くなくて、痛くなくて、温かい寝床で、優しい吐息を聞きながら眠れる……」
 ジノは薄く微笑んだ。
「…なんと…幸せな、ことか…」
 夢のような、と掠れた声が続けた。
「………私のような者に……姫さまは、計り知れない慈悲をかけて下さいました……」
 口調の柔らかさ甘さを裏切って、力を込められて真っ白になった指先が、もう薄青く見える。
「その姫さまが……兄上と慕われた方を失われるのを哀しまれている……それをお慰めするのに…立風琴(リュシ)でも詩でも足りない…私の命など…なお…足りない…」
 ぐ、とふいにジノが歯を食いしばった。それまでの独白を裏切る激しさで顔を上げ、ユーノを見据える。
「この方法しか思いつかない、愚かな頭をお嗤い下さい。これは私の独断、姫さまの命ではございません!」
「…」
 思わず、ユーノは苦笑した。
(アシャが愛しているのは私じゃないのに)
 セレドを発つ間際、レノの背で聞いたアシャの告白、レアナのためなら命を賭けても悔いはないと言い切ったアシャのことばに、抉られた胸の傷みを、今も覚えている。旅の空、どれほど遠く離れていても、アシャのレアナに対する想いは薄れることも揺らぐこともなく、ラズーンに着いて生死の境にもその名を呼ぶほどに深まり続け、今はその最愛の女性を側に置いて、アシャの覇気は日々増しているようにさえ感じる。
 そしてユーノは、セレドだけでなく、ここでもこうして夜闇に溶け入るしか、アシャへの想いを耐える術がないというのに。
「あなた様にはおわかりになりますまい!」
 ユーノの苦笑にむっとした顔で、ジノは声を荒げた。
「セレドの皇宮でぬくぬくと育ち、美しい姉君と妹君、優しいご家族に囲まれ、当然のように平和と安寧を享受なさって来られた方には! 夜が来ることだけでも恐ろしいと思う気持ちも、たった一人、自分を抱き締めて下さった方への忠誠も、想像さえつきますまい!」
「…」
 噛みつくジノを、ユーノはじっと見返した。
(わからない、と)
「……」
 吐息をつく。
(わからないだろうと、言うんだね、ジノ)
 暮れ落ちていく陽をこの手で掴んで引き戻したい不安、また刺客に狙われる夜が来ると息を詰めて横になる寝床、怖くて辛くて歯を鳴らしながら、それでも背中にレアナやセアラがいると思って退けないままに歩む足。傷の傷みに呻くまいと耐え続けながら、それでも一瞬だけでいいからと必死に探す誰かの腕、捕まえたと思えばいつもいつも幻で、あり得ないと言い聞かせながら、いつかは誰かが大変だったねと呼びかけてくれると願って、何度も何度も絶望する。
 夢の中で繰り返し殺され続けて、飛び起きても温もりもなく吐息もなく、ただべたべたと血に濡れた体を必死に一人拭き取る闇。
(想像さえつかないだろう、だって…?)
 欲しかったのは、美しいドレスでも、高価な贈り物でも、珍味を選りすぐった食卓でもない。傷みに悲鳴を上げれば抱えてくれる腕、それでなくても、今はただ泣いていいと許してくれる無言の背中。
 どれほど望んだことだろう。
(大丈夫だよと、笑う顔)
「お覚悟!」
 キンッ!
 飛びかかってきたジノの剣を、本能的に受け止めた。
(私は、生まれてきてはいけなかったんだって、だから、こんなに苦しくて痛くて辛いばっかりなんだって)
 そう思い定めた時に見上げた、星満ちる空は、本当に健やかに晴れていた。
(ならば、どうしたらいいんだろうって)
 どうしたら死ねるんだろうって。
 どうしたら、この無用な命を処分できるんだろうって。
(だから)
 大切な人を、守るために。
(そのために)
 使い尽くしてしまえばいいやって。
「ユーノ様ぁっ!」
 立て続けに飛び込み攻撃してくるジノの切っ先を、繰り返し受け流し、払い流し、体から逸らしながら、ユーノは無意識にあの夜の空を探して視線を彼方に向けた。
「手加減は無用ですっ、どうぞ本気で…っ!」
「ジノ…」
 必死に叫ぶジノにあの夜の自分が重なった。
 大事なのだ大事なのだ大事なのだ。自分の命はほんとに意味なくちっぽけで、守るべき相手の命の方がうんと大事で大切でかけがえなくて。
 だからカザドを挑発してさっさと無駄な命なんか終らせたくて。意味ない命だけどそれでもあの子は私達のために頑張ってくれたと思われたくて。
 せめて、自分がどれほどあなた達を愛していたかは示したくて。
(ああ、そういうことか)
 ふいに瞳から零れ落ちた涙に理解する。
(私も、ジノも、おんなじで)
 そうやって、自分もまた、大事な命だと叫んでた。
 大事な大事なあなた達、けれど、その大事なあなた達を今必死に守ろうとするこの命だって、大事だろう?
 誰の同意を求めていたのか。
 誰を納得させたかったのか。
(このまま続けちゃいけない)
 これは意味がない闘いだ。
「憐憫ですか…っ、ユーノ様…っ、私は本気であなたを…っ」
 肩で息を切らせながら、あしらわれる一方の闘いにジノが激怒する。
「違う、ジノ」「あっ…」
 ぐい、と頬の涙を擦り取り、ユーノは一瞬の隙に飛び離れた。逃げられると感じたのか、ジノがうろたえた顔で追いすがろうとするのにぱっと手を広げて制止する。
「やめよう、ジノ」
「いいんです、構わないから続きを」
「意味がないよ」
「姫さまは…っ」
「アシャの想い人は、レアナ姉さまだ」
「し、しかしっ」
「証拠があるよ」
「証拠…?」
 さすがに一瞬ジノの顔が惚けた。ユーノが長剣を地面に置くのに、困惑しうろたえた顔になる。
「ユーノ様、一体何を」
「立派な証拠がある。アシャが、ううん、どんな男の人だって、私を求めるはずがない、だって」
 一瞬唇を噛み、ユーノは思い切った。腰の紐を一気に引く。チュニックに手をかけ、見る間に全部脱ぎ落とす。
 折しも、隠れていた月が雲間を抜け、白々とした光をユーノの裸身に注ぎかける、全てを明らかにすると言いたげに。
「あ…っ」
 ジノが目を見開いて息を呑んだ。


 手がふいに頼りなくなって、握りしめていた重みが抜け落ちた。
「…ね…?」
 唇を淡く笑ませて、ユーノがジノに向き直る。
「…」
 ことばが出なかった。
 ユーノの左肩から胸にかけて、まだ白々とした包帯が巻きつけられている。傷が完治していない、それは伝え聞いている。だが、その肩だけではない、腕と言わず脚と言わず、胸から腹にかけても全面に、細身で華奢な躯には大小さまざまな無数の傷が所狭しと刻まれている。幾つかの傷は治りかけた矢先に抉られたのか、合わさり重なって醜く引き攣れてしまっている。無事な皮膚を探した方が早いようにさえ思える惨状。
「こんなに派手な傷があるんだもの、普通の男の人は、私を女扱いしないよ」
 夢の彼方から漂うように、淡く淡く声が聴こえてきた。
「アシャだって、まず、私を選ぶわけはない……そうだろ?」
「アシャさまは……ご存じに…」
 掠れてひび割れた声は、ユーノからではなかった。自分の、いきなり乾いて唾一つも呑み込めなくなった干涸びた喉から押し出したものだ。
「うん」
 非情な問いに、ユーノは平然と頷いた。
「よく知ってる。……本当に、身体中にあるんだ、こういう傷」
 こちらに向けられていない背中にもある、と。
 ことばにされなかった意味を察して、ジノの頭から血の気が引いてくる。
「でも……どうして…」
 尋ねなくていい、そんなことは想像がつく。
 屠られるような襲われ方をしたのだ、ほんの幼い頃から。身動きできず、抵抗出来ない子どもに対して、大人がその容赦ない力を、殺意をもって揮ったのだ。
 わかっているのに口は勝手にことばを繋ぐ。
「セレドの皇族の方が……どうしてそんな傷を……一体何が」
 皇族と聞いたのは間違いだったのか。セレドの第二皇女との情報は誤りだったのか。セレドは辺境の平和で穏やかな国ではなかったのか。
 ジノは凍りつくような想いで必死に理由を探る、でなければ。
 でなければ。
「何もなかったよ……ただ」
 滲むように儚い微笑がユーノの唇から零れ落ちた。
「荒っぽい事もあったんだ」
「ユーノ…さま……」
 でなければ、そうだとも、どうしてユーノがこれほどの、アシャと並んで戦場を駆け抜けられるような剣士であっただろう。野戦部隊(シーガリオン)が仲間と認め、その腕をなおも欲するだろう。そしてまた、そうでなければ、アシャがなぜ、この危険な旅にユーノを伴おうとするだろう。
 星の剣士(ニスフェル)。
(では、この傷が異名を取った代償なのか)
 皇族ではあっただろう、第二皇女なのも確かなのだろう。ただ、セレドはユーノにとって、平和でも穏やかでも、心安らぐ場所でさえなかった、そういうことではないのか。
 で、ないならば。
「ジノ…もう、いいかい?」
「っっ!」
 我に返ったジノの視界に、月光に裸身を晒し続けているユーノが飛び込んだ。強くなった月光に表情ははっきり読み取れない。けれど、これほど全身に傷を負い、今もその傷を癒さないまま、闘いに旅立とうとする剣士の前、愚かにも構えた剣を取り落とすほどの動揺に立ちすくむ自分に、かっと全身熱くなった。
(何と言う、醜態!)
 慌てて走り寄る。脱ぎ捨てられたチュニックの埃を払い、跪いて差し上げる。
「ありがとう、ジノ」
 近寄れば、ユーノの頬は僅かに紅潮していた。
(私は何てことを)
 当たり前だ、こんな傷、しかも娘ならば誰だってこんな風に人目に晒したいはずがない。ジノの直情に応じ、想いを受け止め、気持ちを思いやってくれたからこそ、辱めを耐えて伝えてくれた。
(これが、アシャが自分を愛さない理由だ、と)
 そんなことは、口にしたくなかっただろうに。
(どうしよう、とんでもないことをしてしまった)
 正義恩義の話ではない、人としてしてはならないところに踏み込んでしまった。
 周囲を見渡し、剣を見つけて拾い上げる。頭に巻いていた布を解き、丁寧に汚れと埃を拭い清めた。チュニックを着終わったユーノに、両手に捧げて差し上げる。
 自分の情けなさに今にも泣き出しそうになりながら、それでも声を張り上げた。
「どうぞ、これを」
「うん」
 穏やかな声が応じて、掌から剣が持ち上げられ、なぜだか急にほっとした。
(この方は王なのだ)
 そろそろと両手を降ろす。乱れた髪の間から、自分の薄汚れた手が白く輝いて見えた。
(姫さまのように、誰かの庇護を求めて嘆かれているのでない。自ら先に立って道を切り開かれようとされるのだ)
「ジノ?」
 訝しげな声に振り仰ぐ。戸惑った表情のユーノの顔に怒りは見えない。
(ならばこそ、アシャ様のような誇り高い方が跪かれる…この方のお心を得るがために)
「お許しを…」
 呟いて俯いた。深く頭を下げ、首を差し出す。
(なぜ私は笑ってるんだろう)
 ユーノの手には長剣がある。今しがたの非礼を償うのに、ユーノがジノの命を求めたとしても足りないぐらいだろう。なのに、この穏やかさは何だろう。
(私の願いを叶えてくれようとした…)
 自分が傷つくのを代償に。
「…どうぞ、お好きなように」
 ユーノが死ねというのなら、それでいいのかも知れない。
 修羅の世界を知り、その上でジノに向けてくれた温情があるならば。
(姫さま…申し訳ありません)
「……わかった」
 低く響くユーノの声に眼を閉じる。脳裏にそれでも過ったのは、明るく朗らかなリディノの笑顔だ。足音が一旦離れ、やがてゆっくり近づいてきて息を詰めると、
「?」
 突然片手が掬い上げられ、ひんやりとしたものを載せられた。慌てて眼を開くと、間近に自分を覗き込むユーノの顔にぎょっとする。
「私とアシャが出かけている間、リディやレスのことを頼むよ、ジノ」
「え…」
「あなたならきっと守り抜いてくれるだろう?」
「っ」
 黒い瞳に満ちている確かな信頼を読み取って、ジノは胸が痛くなった。片手に載せられたのは自分の短剣、それもまた拭い清められていると知り、ざわざわと寒くて熱いものが背筋を駆け上がる。
(私は信じられている)
 留守を任せるに足る者だと。
「…お任せ…下さい」
 言い切って、一瞬めまいがした。短剣を収め、立ち上がったユーノの前で、なお深く礼を取る。
「命に代えましても、お守りします」
「助かる」
 じゃあ、おやすみ。
 穏やかに言い残して、ゆっくりと足音が去っていく。
 そろそろと顔を上げた視界の彼方、月光に白く輝く姿を、ジノは見えなくなるまで見つめ続けた。

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