『ラズーン』第五部

segakiyui

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4.『穴の老人』(ディスティヤト)(1)

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 ミダス公分領地とアギャン公分領地は、『狩人の山』(オムニド)の雪解け水と雨水を集めて海へと流れる『白の流れ』(ソワルド)の支流の一つ、ファスン川で区切られている。川は幾つかの橋ー素材は木や石など、形もまた様々だったがーで跨ぎ越され、双方の行き来ができるようになっている。
 それぞれの橋のアギャン公側の小屋には、ミダス公側と対照的に、傍目にも物々しい見張りが詰めていた。屈強な体を濃い灰色の短衣と赤銅の板を綴り合わせた鎧を着た男達、手持ち無沙汰な顔で通りがかった旅人をあれやこれやと理由をつけては止めている。
「ほう…」
 中の一つの橋で、他の橋同様に旅人を検問していた男が、ふと目を止めて溜め息まじりの声を上げた。
「これは…これは……」
 軽く首を振って呟き、我に返って、額の中央を長め、両端に向かって髪の生え際辺りまで短くした前髪を急いで手櫛で整える。小さく咳払いして、腰の剣をよく見えるように位置を直すと、近づいてくる人間を待ち構える。
「来い来い…」
 ちらりと周囲へ向けたのは警戒の視線、せっかくの獲物を奪われては困ると思ったからだが、幸い、仲間達は裕福そうな家族連れに絡んで言いがかりをつけるのに忙しく、こちらには注意が向いていない。
「極上じゃねえか」
 くく、と喉の奥で笑い声を漏らしながら、もう一度相手を眺めた。
 ミダス公分領地側から石橋を渡り、アギャンの見張り小屋に近づいてくるのは二人の姉妹だった。妹はどうでもいいが、姉の方がこれまで見たどんな女よりも美人だ。深草色のフードつきのマントをすっぽり被っているが、その下から真昼の陽射しに照り輝く黄金の髪が零れている。滑らかで吹き出物一つない額には細い輪、それと対になった飾り輪で前髪を上げているから、陽の光を浴びてきらきらちらちらと不思議な色合いに揺れる、宝石さながらの紫の瞳がよく見える。通った鼻筋を追いかければ、淡い輪郭から内側に向けて急に深みと鮮やかさを増す紅色の唇に導かれる。最近の娘はやたらと色濃くべったりと口を描きたがるのに、化粧も碌にしていないような顔に膨らむ薄紅の唇はきっと生来のものなのだろう。艶やかな頬の線が一つに結ばれた顎、おとがいを摘んで持ち上げてやったら、どんな顔で拒むのだろう。それとも意外に笑み綻んで、待っていたとばかりにこの腕に崩れるか。
「へへへ…」
 いささか重くなる下半身を笑ってごまかし、目の前をゆっくりと会釈して通り過ぎようとする相手を呼び止める。
「ああ、えーと、ちょっと待て」
「え?」
 できるだけむっつりとした顔で前へ進み出ると、先に通り過ぎかけていた妹の方が、小柄な体を素早く振り向かせ、こちらを見返してきた。
「ふうむ」
 思わず唸ってしまう。
 これは本当に一人の母親が産み分けた姉妹なのか。焦茶の固そうなぴんぴんと跳ねる髪がフードに納まりかねてはみ出している。額に嵌めている透き通った水晶のような輪は確かに逸品だが、あまりの美貌の差に親が憐れんで与えてやったのか。黒い瞳も潤った視線というよりは、きつく荒々しく、こちらの胸の内を貫きそうな意志がある。
 いや、待て、と兵士は考える。こいつはひょっとすると男が女装しているのかも知れないぞ。美しい姉の一人旅を危ぶんで、けれど明らかに従者付きの旅となれば良からぬ輩に金目当てに絡まれるから、あえて少年を女装させて随行させているとか。
「何ですか」
 訝しげに眉を潜めて問いかけてきたのは、やっぱり『妹』の方だった。慌てた様子もなく、けれど隙なく姉の元へ戻ってくる足取り、無意識に相手の腰に剣を探してしまうような気配に、兵士は僅かに緊張を取り戻す。
「いや、その、何だな、どこへ行くのか、聞こうと思ってな」
「どうして私達だけ?」
「む」
 こちらの方が上背もあり、武具防具も備えており、しかも明らかに理不尽な接近なのに、『妹』はうろたえもしていない。淡々と問い返されて、逆にこちらが狼狽する、まるで下心を見抜いてでもいるようで。視界の端で家族を問い詰めていた仲間が包囲を緩める、こちらの獲物に気づくかも知れない。姉の方がフードの影から笑みを浮かべて、自分と『妹』のやりとりを見つめているのも気になる。
「そんなことはどうでもいい!」
 思わず荒れた声になった。
「女二人というのが珍しいから心配してやったのだ、物騒な世の中だからな」
「物騒……?」
 兵士のことばを繰り返した『妹』が、不敵な笑い方をした。
「っ」
 こいつは違う。決して女なんかじゃない。ましてや、見かけ通りの小僧でもない。だが、百戦錬磨の兵士ではないし軍人などでは無論ない。世間擦れした、わきまえを知らぬ、知ったかぶりした生意気なガキだ。
「それはどうも」
 ことばに続けて、くすりと軽く笑った、その声に自制が切れた。目を剥き、構えた一瞬で剣に手をかけ、相手を睨みつける。仲間二人とやりあっても時には勝てる腕だと知らぬ輩に、教えてやることなど決まっている。
「愚弄する気か」
 最後通告に『妹』は奇妙な顔になった。あえて言えば、吹き出しそうな、そんな嘲った気配のまま、
「私が?」「うぬっ」
「お待ち下さいな」
 一触即発の状況を、さすがに姉が危ぶんだ。しとやかに優しく声をかけてくる。掠れたような甘い声、褥で囁かれれば、なお一踏ん張りできようという危うげな響きに気が逸れた。
「…なんだ」
「お許し下さいな。何もアギャンの兵士の方が、小娘一人に本気になられることはないじゃありませんか」
「……」
 おやこれは意外に砕けた物言いだ、と兵士は姉を見やった。もっと取り澄ました女かと思ったが、なかなか話が通じそうだ。続いた妄想に反応したものに、ごほん、と白々しく咳き込む。
「妹も口が過ぎました……ねえ?」
「だって、姉さん」
 妹が口を尖らせて抗議するのを、姉がやんわり押しとどめる。
「失礼をしたのですよ」
 兵士の方を振り返る瞳は、甘く濡れて誘うようだ。
「お願いです、お許し下さい。まだまだ長い旅ですし…」
「そうか、長い旅なのか」
 思わずにんまりと笑ってしまったが、男なら当然だろう。
「では、そう急ぐこともあるまい。俺はもう休憩だ。場所を変えて、今の件について、これからの旅の安全について、少々忠告をしてやろう」
 言いながら、妹の厳しくしかめた不愉快そうな顔と、どこか戸惑った、けれど哀願するような姉の顔を楽しんだ。
 まあ、いささか跳ねっ返りで手に余るかも知れないが、この際、どうやらこの先女としての喜びを知ることもなさそうな妹の方にも、情けをかけてやっても悪くない。姉が蹂躙されるのを見れば、生意気な妹も世間とはこういうものだと賢くなるだろう。
「……わかりました」
 姉の方はちらりと周囲を見やったが、仲間の兵士はもちろん羨ましそうに笑うだけで助けに来ない。休憩時間の借りは返せよ、と叫ぶ奴らがいるぐらいだ。
「では…どちらへ?」
 姉は覚悟を決めたようだ。伏し目がちに尋ねてくるのが愛らしい。まあ、近づいてみれば、思ったより上背があるが、それで美貌が半減するわけもない。
 兵士に止められている旅人達も可哀想にと囁き合う程度、誰も割って入ったり兵士を宥めたりする者などいない。
「こっちだ。後に付いてこい、何、時間は取らせない、こちらも仕事があるからな」
 大人しく俺に従えば、無体な時間は長くない、そう言外に響かせれば、妹の方も神妙な顔で俯いた。ようやく自分の置かれた立場に気づいたらしい。だが、もう遅いのだ、何もかも。
 二人の姉妹を侍らせて耽る楽しみで頭を一杯にしながら、兵士は意気揚々と歩き出した。逃げる気配もなく、屠殺場に連れて行かれる家畜のように、二人が黙々と付いてくる。
 見張り小屋から離れて少し行った街外れには、こういったことのお誂え向きの宿屋が幾つもあった。そこの主人は何も言わない見ない聞かない。鼻薬さえ必要がない。扱いの惨さに心を失った女を手元に置いて客に供する、それだけで満足してくれる。兵士もたまにはまともに泊まって、女達と一夜を楽しむ。それで持ちつ持たれつだ、それに…。
「あ、の…」
「うん?」
 火照る体を弾ませていた兵士は、静かに声をかけられて振り返った。マントを心細げに体に巻き付け、フードの影から姉の方がそっと囁く。
「私は……ここの方が…」
「え?」
 指先でそっと示されて、実は少々驚いた。大岩が重なった茂みがある。道から少し入り込み、倒れ込んでしまえば確かに見られることもない。けれど声は聞こえるし、何せ野天だ、誰かが駆けつけてくれば、あられもない姿を晒す羽目になる。へたをすれば、なお酷い目に合うかも知れないのに。
「…結構好き者だな。……商売女か?」
「……まさか…でも……そうだとしたら……お嫌…?」
 姉がフードを軽く上げて微笑んだ。低く響いた笑い声が耳に届いてくらりとする。妹はさっきの勢いはどこへやら、逃げ去る様子もなく、ただただじっと側に立っている。姉がするりと大岩の向こうへ姿を消すのに、兵士は鎧帷子に手を掛けた。
「よ、よし、待ってろよ」
 仲間が良からぬ気を起こさないとも限らなかった。鎧を脱ぎ捨て、短衣の紐を解きながら、大人しく体を晒そうとしている姉を追って大岩の後ろに回り。
「……え?」
 ぼぐっ、という音は頭上で重々しく響き渡った。

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