『ラズーン』第五部

segakiyui

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4.『穴の老人』(ディスティヤト)(2)

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「……ご苦労様」
 打撃音は一回きりだった。続いたのは草むらに倒れ込む重い物体の響き、フードを落とし、鬱陶しそうに髪を掻きあげ、風に乱しながら、大岩の後ろから現れたアシャが、軽く腕を振る。
「ほら」
 放り投げられたものを受け止めながら、ユーノは尋ねる。
「あの男は?」
「そこで寝てる」
 一人でな。
 面倒くさそうに溜め息をついたアシャが顎をしゃくる。
「ったく……男と女の見分けぐらいつけろって言うんだ」
「アシャの場合、かなり難しいと思うけど」
「……ユーノ」
「…く、ふふふっっ」
「おいっ」
「はははっ!」
 如何にも不愉快そうな顔でこちらを睨むアシャが、やっぱり絶世の美女にしか見えず、ユーノは吹き出す。
(本当に、この人は幾つ顔を持ってるんだろう)
「ったく…人の気も知らないで…」
 唸りながら眉を寄せ、一旦くしゃくしゃにした髪を丁寧に整え直し、銀細工の額の輪を嵌めるアシャの横顔は、苛立つ表情までもがどことなく優美だ。
 もっともさっき兵士を誘ったときの顔は、どう見てもその道で生きている娼婦だったが、今は同じような髪型ながら、骨太な線が頬に目立って紛れもなく青年の顔、柔らかく煙る瞳が多少色艶を残すものの、もう女の匂いはない。
「アシャさ」
「うん?」
「男やめても、女で食べていけるよね」
「……どういう意味だ」
 じろりと険のある目で睨み返されて肩を竦める。
「幾つ顔があるのかわからないってことだよ」
 憮然とした顔に言い直す。
「ふん…」
 なお突っ込んでくるかと思ったアシャは、ふいと気まずそうな顔で視線を逸らせた。今度の横顔に浮かんだのは倦むと表現するのがふさわしいような憂い、それは皮肉に歪めた唇ですぐに弾き飛ばされる。
「いろんなものを見て来ているからな」
(そして、これもアシャの顔の一つ)
 一気に距離を取ったようなひんやりとした表情に、ユーノは胸の中で呟く。
 付き人としての優雅で如才のないアシャ。旅の仲間としての頼りがいのある楽しいアシャ。視察官(オペ)としてのしたたかで魔術的な剣才のアシャ。ラズーンの第一正当後継者としての華やかで物々しいアシャ。
 炎のように激しいアシャ。氷のように冷ややかなアシャ。
(どれが本当のあなたなんだろう)
 わかっていることは、ユーノの心を魅きつけるのがその全ての顔であり、新しい顔が見えれば見えるほど、より強く深く魅きつけられていくということだ。
(あなたでも悩むことはあるんだろうか)
 望みを叶えられずに苦しむ夜や、目の前で擦り抜けた幸運を嘆く日が?
(あなたでも…泣くことはあるんだろうか)
 いつも自信たっぷりで、先読みに長けて、生まれ持った才能で願いの全てを満たす事さえ出来そうな気がするのだけど。
(もっと深いところにいる、ただ一人のあなたを見るのは、誰なんだろう)
「左肩は?」
「大丈夫だよ」
 思い出したように心配そうに尋ねてくる相手に笑って答える。
(そして、優しいアシャ)
 優しくて温かくて、甘いアシャ、罪なほどに。
「…これは?」
 胸の呟きから気持ちを引きはがし、手にした灰色の革札を見つめる。ちょうど掌に納まるぐらいの大きさ、磨かれて鈍い光沢をたたえた表面には、正方形の一辺を半円にしたような二重の線に囲まれた斧の図象の焼き印が押されている。
「通行証だ」
 歩き出しながら、アシャは考え込んだ目の色になっている。
「アギャン公はそれを持っている者にしか会わないという話だ。だが、あいつは」
「うん、小物だよね。『銅羽根』とは思えないな」
 ユーノも感じていた。
「アギャン公は以前は見張りなど置いていなかった。一体、誰が、何の為に見張りを置き出したのか」
「見張りっていうのは、怪しい人間が出入りしていないか確かめるために置くもんだよね? セシ公でさえ見張りは置いていなかった。ラズーンの外壁はそこまで信用されているってことだろ?」
「この二百年、破れたことなどないからな」
 ことば少なに応じたアシャはゆっくりと目を細める。
「外壁守護は『羽根』の管理、これまで四大公は自分達の威信をかけてラズーンの外壁を護ってきている。その『内側』に『見張り』を置くということは、自らの無能を嗤うようなものだから、あのセシ公でもあり得ない。もっとも分領地に『入られては困る人間』がいる場合は別だ……あるいは…」
 前からやってきた二人連れの男が、フードもしっかり被って俯きがちに歩くアシャとユーノに視線を止め、興味深そうに体を屈めてアシャの顔を覗き込んでいく。これみよがしに薄く微笑んだアシャは、二人が通り過ぎると一転、苦々しい顔で背後を見やり、気を取り直して続けた。
「或いは、分領地から『出られては困る人間』がいるか……」
「入られては困る人間って言うと…モス兵士、とか」
 ユーノの脳裏に、モス兵士を呑み込んだ宙道(シノイ)がラズーン外壁内へ通じていたという情報が甦る。その通路は、既にアシャによって封じられてはいるものの、それまでにラズーン内に入り込んだモス兵士の行方は、依然掴めていない。
「逆に視察官(オペ)や他の分領地の『羽根』ということもあり得るがな」
「え?」
 冷たい声が指摘した内容に瞬きする。
「アギャン公が裏切っていたとしたら、分領地内に視察官(オペ)や他の『羽根』に入り込まれては困るだろう。……もっとも、モス兵士を警戒してのこと、と返答があっても疑いは同じだ。『どうして』アギャン公がモス兵士の侵入に気づき、なおかつ、『どうして』『氷の双宮』への報告を怠っていたのか、という話だからな」
「ああ…そうか」
 ラズーン外壁の内側で、モス兵士の侵入を警戒するなどということは、外壁の守りを信頼していれば起こるはずのない考えだ。そういう危険性があると考え、実際に見張りを立てる、それもどう見ても急ごしらえの下級兵を見張りにしたてるほど慌てて、となると、何らかの確証あってのことだろう。
 地表に見える外壁が破れておらず、『羽根』の守りも同様ならば、モス兵士が『どうやって』ラズーン内に入り込めたのかという疑問が残る。宙道(シノイ)の出口がラズーン外壁内にあるという情報は、情報通のセシ公でさえ知らなかったこと、それを『どうやって』アギャン公が知り得たのか。
「…やっぱり、アギャン公が…」
 裏切っているってことなんだね、とユーノが唇を噛むと、アシャは首を振った。
「可能性はもう一つある。あの見張りは、アギャン公分領地から『誰か』を外へださないためのもの、というやつだ」
 周囲には次第に人通りが増え始めていた。アシャはフードをなお深く降ろす。
 遠方からの荷を売り買いする声、旅人を誘う宿の主人、あちらこちらへ脚を止める遊山客と商売人。談笑と喧噪はどこでも見られるものだったが、気のせいか、どことなく暗く不安そうな表情が、笑顔の影に、品物をやりとりする顔にちらちら掠める。
「『誰』を外に出さないんだろう」
「一番高い確率は、アギャン公その人だな」
 アシャは声を低めた。
「表向きには、政治に倦み疲れて世捨て人となり、隠遁生活を送っているということになっているが、その実、何者かに密かに監禁されているのかも知れない」
 ここしばらく、アギャン公の姿を残りの大公の誰もが目にしていない。
「…一体,誰に?」
「そこのお二方!」
 ふいに呼びかけられて、思わずユーノは立ち止まった。
 まさか密かに交わしていた話の内容が漏れ聞こえていたのだろうか。見張りと同じく、アギャン公に絡む密偵が街のそこここに耳をそばだて、出入りする者の会話を素知らぬ顔をして聞き取っていたのだろうか。
「もし、どうぞ!」
「アシャ…」
「…」
 アシャも歩みを止め、ゆっくりと振り返る。いざとなれば大立ち回りも辞さぬつもりなのか、静かに被っていたフードを引き下ろして相手を見やる。同時に、相手がほぉおおと深い溜め息を漏らした。
「こりゃあこりゃあ、見事なお人だ!」
 見れば色鮮やかな装飾品を並べ立てている平凡な店、のっぺりとした顔に満面の笑みを広げて男は両手を広げて見せる。
「まあまあ見てお行きなさい! この耳飾り!」
 ユーノは素早く周囲を伺う。他にユーノ達に対して動き出す者はいない。殺気も鋭い視線もない、今のところは。アシャは静かにマントの内側に腕を引っ込めている。次にマントが閃くときには、目の前の男の首が、あるいは飛びかかってくる数人の手足が空中に散っているはずだ。だが、
「あんたのような背の高い御婦人にはいろいろ引っ掛かりもあるだろうが、まあこの耳飾りをつけておきゃ、男だってふらふらしますぜ!」
「っ」「…く」
 アシャがうんざりした顔になった。ユーノは思わず吹き出しかけたのを堪える。
 事前に聞いてはいた、アギャン公分領地では女性は小柄な方が美人とされ、そういう意味でもアシャは注目されにくいだろう、と。
 どうやら店主は、途方もない美人ではあるが、高い背で困ることもあるだろう、男の目をごまかすには装飾品が手助けになる、そういうつもりで気を引きにかかったらしい。
「……」
 アシャは半眼になったままくるりと身を翻した。フードをばさりと被り大股で歩き出す。
「おいおいそんな歩き方しちゃ、余計に男が寄ってこねえよ……おい、あんた、姉さんなのかい? 身内ならちょいと意見しといてやんなよ、なあ」
「…わかった。ありがとう、ちゃんと言い聞かせとくよ」
「全くだ、もったいねえよ、姉さん!」
 心配そうに呼びかける店主に手を振り、くすくす笑いながらユーノはアシャの後を追った。
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