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4.『穴の老人』(ディスティヤト)(5)
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政治に興味を失って、隠遁生活を送っているとされているアギャン公の跡を継ぐカルキュイ、という男が、正確にはアギャン公とどういった繋がりのある者なのか、知っている者はほとんどいなかった。
「カルキュイ様か、さあなあ、いつ頃からだったかな、よくお見かけするようになったのは」
「数々の公式行事にアギャン公と同席されていたな」
「グードス様は『銅羽根』の長としてお忙しかっただろう?」
「若いぞ。グードス様より若いかも知れぬな」
人々の噂は、カルキュイが何者なのかというところで霧散していく。不可思議な即位も、諸国の乱れを思えば、グードスと並んで有能な指揮官が居れば、なおよし、というあたりで納まってしまっている。
「何より、アギャン公が推されたと聞くぞ」
「グードス様も異を唱えることはなかったとか」
「グードス様にも信頼厚い方なのだろうな、やはり」
即位式のために、目の前の大通りを、多数の騎馬を従えて行進していくカルキュイは、明るい栗色の髪をしていた。アギャンの風習に従って、成人男子の常、鼻梁の上は長めに、額の両端は短めに切りそろえた短髪を風に立て、一際野心的な焦げ茶色の瞳を輝かせて周囲を睥睨していく。
「ふうん」
「どう、アシャ」
人混みの中で目立たぬように背伸びしたユーノが、隣で深草色のマントを体に巻き付け、女性用の留め具で肩にまとめたアシャに問いかける。
「『運命(リマイン)』じゃないようだな」
カルキュイ様、と女性達が慕わしげに声を上げ、さすがにそれは嬉しかったのだろう、瞳の光を和らげて手を振る青年は、確かに猛々しくはあるが禍々しい気配はない。護衛の兵士を苦もなくあしらう辺りも慣れたものだ。公式行事に参列していたというのも、噂だけではないのだろう。
「あの野心的な目は気になるが……『運命(リマイン)』の影はないな」
そういうアシャも随分鋭い目を向けている。誰かがアシャを眺めていたなら、それこそ、一癖ありそうな不穏な輩と思われかねない。
それでも長い睫毛が影を落とす、その横顔は隙なく整って綺麗だった。
(どうして、あんな夢を見たんだろう)
ユーノはぼんやり思い出す。
一昨日の夜だった。ユーノはとてもまろやかな甘い夢を見た。
アシャに抱かれて温められ、唇を髪に受け、そっと耳までついばまれたような。くすぐったいような切ないような、思わず漏らした自分の声まで蕩けそうに甘くて、我ながら恥ずかしいほどだった。
目覚めれば、確かに隣でアシャは眠っていたが、それこそまるで子どものような無邪気な寝顔、欲情に濡れてはいなくとも、見惚れるには十分で、すぐには起きてしまいたくなくて、息を潜めて寝たふりをして、しばらくじっと見つめていた。
(そんなことが、あるわけないのに)
これがよく聞く欲求不満というやつか。
そう気づいて、なおさら恥ずかしく、思わず熱くなった顔を伏せて、唇を噛んだ。
(私はアシャの唇を受けたがってるんだ、きっと)
抱き締められて、囁かれながら、繰り返し優しい唇で愛されたいと願っているのだ。
(みっともない、なあ)
体の内側がとろんと揺れているような感触をまた思い出して、また少し顔が熱くなった。
(そんなこと考えてるなんて知られたらどうしよう)
息を殺してじっとしていて、それでもどこかうっとりと、アシャの温もりに浸っていた……。
「……しかないな、ユーノ。…ユーノ?」
「えっ」
はっとして振り仰ぐ。
「何、ごめん、聞いてなかった」
「ああ、この人出じゃ、何とか公宮に入るしか、カルキュイの身辺に近づけないなと言ったんだが……どうした?」
「え、何が」
「顔が赤いぞ。熱気に当てられたか?」
「何でもないよ」
「しかし」
「何でもないって!」
「あ…ああ」
伸ばされかけた指に慌てて体を引くと、アシャが訳がわからないと言った顔でユーノを見下ろしている。
「そう、か」
「そう、だよ。あ、私もフードしっかり被っておくね」
ユーノはなおも不安そうに空中に指を浮かせたままのアシャから目を逸らせ、フードを引き下げた。
「モスも周囲に居るかも知れないよね」
これだけの人出、しかもカルキュイが万が一モスと組んでいるのなら、表立った護衛とは別に、密かに守りを固めているかも知れない。その中には『星の剣士』(ニスフェル)の名を知っている者が一人二人はいるだろうし、中には戦場でユーノと相対した者も居るかも知れない。
今のユーノは『女装』していて、多少姿形が変わっているが、それでも用心に越したことはないのは確かだ。
「とにかく公宮に入る算段にかかるか」
「わかった」
アシャがそろりと向きを変えて人混みを抜けていくのに、ユーノも付き従う。人々の歓声が、カルキュイの行く先々で上がっている。
「人気はあるみたいだね」
「恨みも買ってるみたいだがな。幾人か、鋭い目つきで睨んでる奴も居る」
「ふうん……あれ?」
ユーノがもう一度、と背後を振り返ったその時、再びカルキュイの進んだあたりで声が上がった。
だがしかし、今度は歓声ではない。何か騒動が起きたようだ。
行進が行き詰まり、隊列が乱れていく。
「アシャ!」「うむ」
アシャと一瞬顔を見合わせ、ユーノは身を翻した。野次馬達がわらわらと群がり集まっていく、それに紛れて潜り込み、カルキュイの側へ肉薄する。
「トーム!」
何とか先頭集団に紛れ込んで顔を出したとたん、嗄れた老婆の声が切なく響き渡った。
「トーム、おまえ、待っておくれ!」
「ええい、うるさいっ!」
眼前に広がったのは、豪奢な飾りをつけたカルキュイの馬のすぐ前へ、道を塞ぎ身を投げ出すようにして座り込んだ一人の老婆、あちこち縫い当てのある着古した衣服に汚れた裾、皺の寄った顔にとめどなく涙を溢れさせ、すがるように手を差し伸べて馬上のカルキュイに呼びかける。
「トーム…っ!」
「そこを退け! 即位式だぞ!」
「ひ」
吐き捨てたカルキュイの罵声に老婆は真っ青になり息を引いた。
「なんと、なんということを、トーム!」
うろたえた様子で空中に両手を泳がせ、必死に首を振りながら言い募る。
「何を勘違いしておるのじゃ、戻っておいで、今なら間に合う、おまえはこの母の」
「知らぬっ! 知らぬわ!」
「っ!」
叫ぶや否や馬の手綱を引き、猛らせた馬の脚で老婆を蹴散らそうとしたカルキュイに、ユーノが飛び込もうと思わず身構えた瞬間、隣から軽く制された。振り向いたとたん、アシャの手が薄い幻を残して一閃、光を弾いた何かが風を切って空中を奔り、馬の足元に撃ち込まれる。
「、くうっ!」
驚いた馬が棒立ちになり、あわや振り落とされかけたカルキュイがかろうじてしがみついて落馬を防ぐ。
「誰だっ! 誰が今この剣を撃った! 出て来い!」
ざわざわと群衆がどよめいたが、誰も何も見ていない。真側に居たユーノでさえ、アシャの腕がいつ動いたのか、何が放たれたのか詳細を見届けられなかった。
護衛の兵士が苛立たしげに地面から小造りの短剣を拾い上げる。細くて軽そうだが、まともに刺されば脅威になる、或いは馬の脚を傷つけるだけでとんでもない暴走を引き起こしただろうと、誰にもわかる。
「誰だと聞いているんだ!」
声を荒げながら周囲を見回すが、視線の先に居るのはいずれも体格のいい男共、もしくはうさんくさげな風体の老翁、アシャやユーノのような『女性』には全く目を留めない。
「さっさと出て来い、出て来ねば」
「もうよい!」
カルキュイが眉をしかめて遮った。道にへたり込んだ老婆を引きずり避ける護衛を振り返ることもなく、
「行くぞ」
冷淡な声をかけて黒いマントを翻し、再び行進を続ける。
「トーム……おお、トーム……何と言うことをしでかして…」
老婆は白髪頭を振りながら泣き崩れている。老婆とカルキュイ、しばらくは両者を物珍しげに見ていた人々も、やがてカルキュイの移動に付いて、次第次第にばらばらになり人垣がなくなっていった。
ちらりとアシャを見遣って、ユーノは頷き、老婆に近づく。
「大丈夫ですか、お婆さん」
「何て無体な人達でしょう、お怪我はありませんか」
アシャも寄り添いながら声をかけ、そっと老婆を抱き起こす。
「は…はあ……あの、あなたさまがたは」
「旅の者ですわ」
「お家までお送りします、ねえ、姉さん」
そっと老婆とともに歩き始める二人の背後に微かな気配が動いたようだが、振り返ってもその姿はない。
「あの…」
「さあ参りましょう」
「それから少しお話など聞かせて下さいな」
アシャに続き、ユーノはにっこりと老婆に笑いかけた。
「トーム…いえ、カルキュイ・トスト・デノは、わしの息子ですじゃ…」
老婆は粗末な木の机に、湯気の立つ温かな白湯をカップに入れて二つ置き、ユーノとアシャに勧めながら話し出した。
「いや、元々わしの息子、というわけじゃありません。公宮の近くの洞穴に捨てられていた赤ん坊を拾ったのですじゃ。その頃、わしも連れ合いを亡くしたばかり、子もおらんかったので、大事に大事に、舐めるようにして育てましたですじゃ。が…どうしたことか、二、三年前から、突然、アギャン公の跡を継ぐのだとか申しましてな……昔から気の強い子じゃったが……一体……どうした……ことやら……」
老婆は膝の上で握りしめていた灰色の目の荒い布を、急いで目元に押し当てた。声を掠れさせて苦しそうに啜り泣く、その痛ましい姿に眉を潜め、ユーノはアシャと目を見合わせる。家の中というのでフードを落としたアシャが、紅を塗った口元も鮮やかに優しく先を促した。
「それで…?」
「それで…」
ぐすっ、と洟を啜り上げた老婆は、声を励まし励まし話を続けた。
「一年前に、ついに姿を消してしまいましたのじゃ…それはもう探しましたとも。しかし、どうにもこうにも見つからなんだ。じゃが、ある日、またひょっこりと戻って参りましたのじゃ、何やら不気味な術を身につけてなあ……しかも、アギャン公の跡を継ぐ世継ぎであると名乗って、もうわしの元には戻りませなんだ。一体どうされたことか、アギャン公も何もおっしゃらずに息子をお側に置かれたようで……わしは幾度か諌めに参りましたのじゃ、じゃが、公宮に入ることも叶わず……聞けば……グードス様も、ここ十数日、『泥土』に出られたまま戻っておられないと……」
老婆は堪えかねたように、また布を口に当てる。吹き出しそうな叫びを何とか堪えようとでもしているようだ。
「そんな間に……こんなことに……こんな大それたことをしでかして……もしグードス様がお戻りあらば……どれほどお嘆きになるか…お叱りになるか……トームはどんなことになってしまうのかと……そればかり………それ……ばかり……思いまますのじゃ……そればかり案じましたのじゃ……」
衆人環視の中で、地に伏して懇願しても息子を諌めようとした母親を、容赦なく、しかもただ苛立ちに馬の足蹴にしようとした男を、老婆はなおも心配している。手塩にかけて守り育てた子どもの、幼い笑顔だけを思い返すのか、くうくうと呻き声を漏らして泣き続ける。
「アシャ…」
「ええ」
鋭くアシャを見たユーノに、相手は用心深く頷いた。
グードスが十数日前に『泥土』に出かけて帰っていないというなら、誰がミダス公を襲ったのか。いや、仮にグードスの姿を模してアギャン公に疑いをかけさせるにしても、肝腎のグードスが不在では策略の呈も為さないだろう。
(ミダス公襲撃とアギャン公は関係がないのか?)
ならば、なぜ、ミダス公は襲われたのか。
「不気味な術とおっしゃいましたね」
アシャが静かに問いかけた。
「どんな術ですの?」
「さ、それが」
老婆はびくりと顔を上げ、擦って赤くなった目を瞬いた。急に怯えた表情で周囲を見回し、そこここに潜む影に何者かが宿っていないかと訝るように視線を走らせて後、囁くように口にする。
「それがもう、人のすることとは思えませぬのじゃ。一度だけ、家に戻ってきたトームに、馬鹿なことは考えるなと諌めた時…」
なおも声を低めたので、ユーノとアシャは思わず老婆に屈み込む。その耳へ、
「あの子の腕が…」
伸びましたのじゃ。
「え…」
ぎょっとするユーノに、老婆は慌ただしく首を振る。
「本当のことですのじゃ、嘘は申しておりません。あの時、きつうく光る眼をしましてな、殴られるのかと身を縮めたとたん、まるで枯れ木のような腕がするすると伸びて……わしの首を絞めましたのじゃ」
トームは力丈夫ではなかったものの、きちんと肉のついた体をしておりました。じゃが、あの時の腕は、確かにトームのものじゃのに、まるでトームとはまったく違う何かの生き物のように、勝手にわしに絡みつくようで。
「……恐ろしい…ことですじゃ……」
それでも、我が子ではないと思い切れない、それでも、この先を案じてならない、そう泣き崩れる老婆を挟んで、ユーノとアシャは険しい顔を見合わせた。
「カルキュイ様か、さあなあ、いつ頃からだったかな、よくお見かけするようになったのは」
「数々の公式行事にアギャン公と同席されていたな」
「グードス様は『銅羽根』の長としてお忙しかっただろう?」
「若いぞ。グードス様より若いかも知れぬな」
人々の噂は、カルキュイが何者なのかというところで霧散していく。不可思議な即位も、諸国の乱れを思えば、グードスと並んで有能な指揮官が居れば、なおよし、というあたりで納まってしまっている。
「何より、アギャン公が推されたと聞くぞ」
「グードス様も異を唱えることはなかったとか」
「グードス様にも信頼厚い方なのだろうな、やはり」
即位式のために、目の前の大通りを、多数の騎馬を従えて行進していくカルキュイは、明るい栗色の髪をしていた。アギャンの風習に従って、成人男子の常、鼻梁の上は長めに、額の両端は短めに切りそろえた短髪を風に立て、一際野心的な焦げ茶色の瞳を輝かせて周囲を睥睨していく。
「ふうん」
「どう、アシャ」
人混みの中で目立たぬように背伸びしたユーノが、隣で深草色のマントを体に巻き付け、女性用の留め具で肩にまとめたアシャに問いかける。
「『運命(リマイン)』じゃないようだな」
カルキュイ様、と女性達が慕わしげに声を上げ、さすがにそれは嬉しかったのだろう、瞳の光を和らげて手を振る青年は、確かに猛々しくはあるが禍々しい気配はない。護衛の兵士を苦もなくあしらう辺りも慣れたものだ。公式行事に参列していたというのも、噂だけではないのだろう。
「あの野心的な目は気になるが……『運命(リマイン)』の影はないな」
そういうアシャも随分鋭い目を向けている。誰かがアシャを眺めていたなら、それこそ、一癖ありそうな不穏な輩と思われかねない。
それでも長い睫毛が影を落とす、その横顔は隙なく整って綺麗だった。
(どうして、あんな夢を見たんだろう)
ユーノはぼんやり思い出す。
一昨日の夜だった。ユーノはとてもまろやかな甘い夢を見た。
アシャに抱かれて温められ、唇を髪に受け、そっと耳までついばまれたような。くすぐったいような切ないような、思わず漏らした自分の声まで蕩けそうに甘くて、我ながら恥ずかしいほどだった。
目覚めれば、確かに隣でアシャは眠っていたが、それこそまるで子どものような無邪気な寝顔、欲情に濡れてはいなくとも、見惚れるには十分で、すぐには起きてしまいたくなくて、息を潜めて寝たふりをして、しばらくじっと見つめていた。
(そんなことが、あるわけないのに)
これがよく聞く欲求不満というやつか。
そう気づいて、なおさら恥ずかしく、思わず熱くなった顔を伏せて、唇を噛んだ。
(私はアシャの唇を受けたがってるんだ、きっと)
抱き締められて、囁かれながら、繰り返し優しい唇で愛されたいと願っているのだ。
(みっともない、なあ)
体の内側がとろんと揺れているような感触をまた思い出して、また少し顔が熱くなった。
(そんなこと考えてるなんて知られたらどうしよう)
息を殺してじっとしていて、それでもどこかうっとりと、アシャの温もりに浸っていた……。
「……しかないな、ユーノ。…ユーノ?」
「えっ」
はっとして振り仰ぐ。
「何、ごめん、聞いてなかった」
「ああ、この人出じゃ、何とか公宮に入るしか、カルキュイの身辺に近づけないなと言ったんだが……どうした?」
「え、何が」
「顔が赤いぞ。熱気に当てられたか?」
「何でもないよ」
「しかし」
「何でもないって!」
「あ…ああ」
伸ばされかけた指に慌てて体を引くと、アシャが訳がわからないと言った顔でユーノを見下ろしている。
「そう、か」
「そう、だよ。あ、私もフードしっかり被っておくね」
ユーノはなおも不安そうに空中に指を浮かせたままのアシャから目を逸らせ、フードを引き下げた。
「モスも周囲に居るかも知れないよね」
これだけの人出、しかもカルキュイが万が一モスと組んでいるのなら、表立った護衛とは別に、密かに守りを固めているかも知れない。その中には『星の剣士』(ニスフェル)の名を知っている者が一人二人はいるだろうし、中には戦場でユーノと相対した者も居るかも知れない。
今のユーノは『女装』していて、多少姿形が変わっているが、それでも用心に越したことはないのは確かだ。
「とにかく公宮に入る算段にかかるか」
「わかった」
アシャがそろりと向きを変えて人混みを抜けていくのに、ユーノも付き従う。人々の歓声が、カルキュイの行く先々で上がっている。
「人気はあるみたいだね」
「恨みも買ってるみたいだがな。幾人か、鋭い目つきで睨んでる奴も居る」
「ふうん……あれ?」
ユーノがもう一度、と背後を振り返ったその時、再びカルキュイの進んだあたりで声が上がった。
だがしかし、今度は歓声ではない。何か騒動が起きたようだ。
行進が行き詰まり、隊列が乱れていく。
「アシャ!」「うむ」
アシャと一瞬顔を見合わせ、ユーノは身を翻した。野次馬達がわらわらと群がり集まっていく、それに紛れて潜り込み、カルキュイの側へ肉薄する。
「トーム!」
何とか先頭集団に紛れ込んで顔を出したとたん、嗄れた老婆の声が切なく響き渡った。
「トーム、おまえ、待っておくれ!」
「ええい、うるさいっ!」
眼前に広がったのは、豪奢な飾りをつけたカルキュイの馬のすぐ前へ、道を塞ぎ身を投げ出すようにして座り込んだ一人の老婆、あちこち縫い当てのある着古した衣服に汚れた裾、皺の寄った顔にとめどなく涙を溢れさせ、すがるように手を差し伸べて馬上のカルキュイに呼びかける。
「トーム…っ!」
「そこを退け! 即位式だぞ!」
「ひ」
吐き捨てたカルキュイの罵声に老婆は真っ青になり息を引いた。
「なんと、なんということを、トーム!」
うろたえた様子で空中に両手を泳がせ、必死に首を振りながら言い募る。
「何を勘違いしておるのじゃ、戻っておいで、今なら間に合う、おまえはこの母の」
「知らぬっ! 知らぬわ!」
「っ!」
叫ぶや否や馬の手綱を引き、猛らせた馬の脚で老婆を蹴散らそうとしたカルキュイに、ユーノが飛び込もうと思わず身構えた瞬間、隣から軽く制された。振り向いたとたん、アシャの手が薄い幻を残して一閃、光を弾いた何かが風を切って空中を奔り、馬の足元に撃ち込まれる。
「、くうっ!」
驚いた馬が棒立ちになり、あわや振り落とされかけたカルキュイがかろうじてしがみついて落馬を防ぐ。
「誰だっ! 誰が今この剣を撃った! 出て来い!」
ざわざわと群衆がどよめいたが、誰も何も見ていない。真側に居たユーノでさえ、アシャの腕がいつ動いたのか、何が放たれたのか詳細を見届けられなかった。
護衛の兵士が苛立たしげに地面から小造りの短剣を拾い上げる。細くて軽そうだが、まともに刺されば脅威になる、或いは馬の脚を傷つけるだけでとんでもない暴走を引き起こしただろうと、誰にもわかる。
「誰だと聞いているんだ!」
声を荒げながら周囲を見回すが、視線の先に居るのはいずれも体格のいい男共、もしくはうさんくさげな風体の老翁、アシャやユーノのような『女性』には全く目を留めない。
「さっさと出て来い、出て来ねば」
「もうよい!」
カルキュイが眉をしかめて遮った。道にへたり込んだ老婆を引きずり避ける護衛を振り返ることもなく、
「行くぞ」
冷淡な声をかけて黒いマントを翻し、再び行進を続ける。
「トーム……おお、トーム……何と言うことをしでかして…」
老婆は白髪頭を振りながら泣き崩れている。老婆とカルキュイ、しばらくは両者を物珍しげに見ていた人々も、やがてカルキュイの移動に付いて、次第次第にばらばらになり人垣がなくなっていった。
ちらりとアシャを見遣って、ユーノは頷き、老婆に近づく。
「大丈夫ですか、お婆さん」
「何て無体な人達でしょう、お怪我はありませんか」
アシャも寄り添いながら声をかけ、そっと老婆を抱き起こす。
「は…はあ……あの、あなたさまがたは」
「旅の者ですわ」
「お家までお送りします、ねえ、姉さん」
そっと老婆とともに歩き始める二人の背後に微かな気配が動いたようだが、振り返ってもその姿はない。
「あの…」
「さあ参りましょう」
「それから少しお話など聞かせて下さいな」
アシャに続き、ユーノはにっこりと老婆に笑いかけた。
「トーム…いえ、カルキュイ・トスト・デノは、わしの息子ですじゃ…」
老婆は粗末な木の机に、湯気の立つ温かな白湯をカップに入れて二つ置き、ユーノとアシャに勧めながら話し出した。
「いや、元々わしの息子、というわけじゃありません。公宮の近くの洞穴に捨てられていた赤ん坊を拾ったのですじゃ。その頃、わしも連れ合いを亡くしたばかり、子もおらんかったので、大事に大事に、舐めるようにして育てましたですじゃ。が…どうしたことか、二、三年前から、突然、アギャン公の跡を継ぐのだとか申しましてな……昔から気の強い子じゃったが……一体……どうした……ことやら……」
老婆は膝の上で握りしめていた灰色の目の荒い布を、急いで目元に押し当てた。声を掠れさせて苦しそうに啜り泣く、その痛ましい姿に眉を潜め、ユーノはアシャと目を見合わせる。家の中というのでフードを落としたアシャが、紅を塗った口元も鮮やかに優しく先を促した。
「それで…?」
「それで…」
ぐすっ、と洟を啜り上げた老婆は、声を励まし励まし話を続けた。
「一年前に、ついに姿を消してしまいましたのじゃ…それはもう探しましたとも。しかし、どうにもこうにも見つからなんだ。じゃが、ある日、またひょっこりと戻って参りましたのじゃ、何やら不気味な術を身につけてなあ……しかも、アギャン公の跡を継ぐ世継ぎであると名乗って、もうわしの元には戻りませなんだ。一体どうされたことか、アギャン公も何もおっしゃらずに息子をお側に置かれたようで……わしは幾度か諌めに参りましたのじゃ、じゃが、公宮に入ることも叶わず……聞けば……グードス様も、ここ十数日、『泥土』に出られたまま戻っておられないと……」
老婆は堪えかねたように、また布を口に当てる。吹き出しそうな叫びを何とか堪えようとでもしているようだ。
「そんな間に……こんなことに……こんな大それたことをしでかして……もしグードス様がお戻りあらば……どれほどお嘆きになるか…お叱りになるか……トームはどんなことになってしまうのかと……そればかり………それ……ばかり……思いまますのじゃ……そればかり案じましたのじゃ……」
衆人環視の中で、地に伏して懇願しても息子を諌めようとした母親を、容赦なく、しかもただ苛立ちに馬の足蹴にしようとした男を、老婆はなおも心配している。手塩にかけて守り育てた子どもの、幼い笑顔だけを思い返すのか、くうくうと呻き声を漏らして泣き続ける。
「アシャ…」
「ええ」
鋭くアシャを見たユーノに、相手は用心深く頷いた。
グードスが十数日前に『泥土』に出かけて帰っていないというなら、誰がミダス公を襲ったのか。いや、仮にグードスの姿を模してアギャン公に疑いをかけさせるにしても、肝腎のグードスが不在では策略の呈も為さないだろう。
(ミダス公襲撃とアギャン公は関係がないのか?)
ならば、なぜ、ミダス公は襲われたのか。
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アシャが静かに問いかけた。
「どんな術ですの?」
「さ、それが」
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「……恐ろしい…ことですじゃ……」
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しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
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