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5.宿敵(4)
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(いやだ)
ギヌアは身動きもせずにラズーン支配下(ロダ)の地図を見ながら考えた。
アシャに剣では敵わなかった。
(そうだ、剣では)
あの時の恐怖をそうすり替えている。腹立たしさと悔しさが、下腹部で赤くちろちろと舌を出し、燠のように燃えている。
(だからと言って、俺が全てあいつに劣っているはずがない)
アシャは視察官(オペ)として事実上『ラズーン』を棄てた。『太皇(スーグ)』は他の正当後継者をその任より解いた。『ラズーン』崩壊は止むなし、万が一、アシャが『ラズーン』に牙を剥くなら、自らが向かおうと言うつもりなのだろう。
いずれにしても、もうこの『ラズーン』はギヌアの手には入らない。
(そんなことにさせるものか)
ギヌアは決意を込めて地図を睨んだ。
本来ならば、アシャがその座を離れた後、これはギヌアが継ぐべき領土だったはずだ。彼が戴く冠だったはずだ。
それをみすみす焦土とし、或いはアシャの蹂躙や、他国の侵略に解放するどんな道理があるのだ。
(まだ俺が居る)
もちろん、ギヌアとて、『ラズーン』が暗躍する『運命(リマイン)』や甦る太古生物の存在に苦慮しているのは知っている。
だが、ギヌアは彼らの扱いに『太皇(スーグ)』と異なる見解を持っている。
いくら『正しい』生命体とはいえ、確かに『ラズーン』は弱々しい存在だ。『氷の双宮』の再生力で、人はようやく存在を保証されているに過ぎない。
けれど『運命(リマイン)』達は世界各地に散り、闇に潜み、夜に巣食い、着々とその力を蓄えつつある。遅かれ早かれ、『運命(リマイン)』は世界に繁茂する闇となり、人はその間を恐れ戦きながら擦り抜けるように生きる時が来るだろう。
それほどの力を利用しない手はないのではないか?
『運命(リマイン)』を説得し、或いは力づくで征服し、従えることができたならば、『ラズーン』という昼の支配者と『運命(リマイン)』という夜の支配者に区分けして、世界を治めればいい。
流石のアシャも、二つの勢力を持ってすれば倒せるだろう。『ラズーン』滅亡を防ぐ手立てはそれしかない。
だが、『太皇(スーグ)』は、ギヌアの考えを受け入れなかった。遠い昔、星に忠誠を誓ったのは、己の生を、闇の力に曲げずに全うすることであったとして、闇をも受け入れよというギヌアには反対した。
「確かに、始めは闇を従えることができよう」
『太皇(スーグ)』は憐憫を込めた口調で諭した。
「しかし、ギヌアよ、人の心は想像以上に脆いものじゃ。闇を従え闇を支配していると思い込んでいるうちに、いつしか、闇にこき使われ魔に仕えることとなろう。そうして、世は再び荒廃の時代を迎えよう……そうなった時には、我らがこれまで行ったことは全て水泡に帰すだろう」
惑いはなかった。ただ悼みだけをたたえた声音は、別の者であったなら、また、別の機会であったなら、相手の心に深く沁み渡ったかも知れなかった。
だが、ギヌアの心には届かなかった。
(この『ラズーン』を諦めろというのか?)
目も眩むほどの巨大な権力と栄誉が、手の届く所に転がされているのに、触れるなと?
(本気のはずがない)
数百年、その地位に居たのだ。『太皇(スーグ)』に欲がないわけがない。
(手放したくなくなったのだ)
アシャが居れば譲らざるを得ないが、アシャが居なくなった今、ギヌアにやるのは惜しくなったのだ。
(ならば)
これ以上、『太皇(スーグ)』に訴えても何も変わらないと判断したギヌアは、単身、『運命(リマイン)』に近づき、その支配者になることを決意した。『運命(リマイン)』を従え、この長の座を、本来ならギヌアの物であるこの世界を取り戻すのだ。
『運命(リマイン)』は、魔の力を持ってはいたが、実のところ烏合の衆だった。人の世界に挑むのはただただ捨て去られた恨みから、それまでは、各々がそれぞればらばらに、己の力で何とか『ラズーン』に穴を空けて潜り込み、そこで生き延びようとしていただけだった。次々どこからともなく、生まれ来て増えていく仲間も、我が居場所を荒らす者と考え、互いに争い合うことさえあった。
未来はないのに、生きることを望み、死ぬこともできず、互いの魔の力で争い合うしかない集団。
その中に降り立ったギヌアは、まさに救世主だった。自分達の未来を勝ち取るための方策を授け、決して関わることも入り込むこともできない人の世界に闘いを挑み、『運命(リマイン)』とともに戦場を駆け抜ける『人』。
そうして、ギヌアは『運命(リマイン)』に降り、王となった。
「は……はぅっ…」
精一杯見開いたイリオールの瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ち続けている。息を喘がせながら、何とか自分の躯に加えられている責め苦から逃れようと、弱々しい嘆願を繰り返す。
「お…許し…を……ギヌア…様……おゆるし……くださ…い…」
がくがくと震えているのは揺さぶられているからだけではない。真っ青になっている唇を戦慄かせるのは恐怖だ。
「ゆる…して…」
何に対して謝っているのかも、もうわからないだろうに。
「ゆる…」
「…いや」
冷徹にイリオールの怯えを見下ろしていたギヌアが、ようやく口を開いた。
「許さぬ」
「っ!」
少年の体が跳ね上がる。
「許すわけにはいかん」
「ぁっ、あああっ!!」
悲鳴が迸った。顔を歪めて眼を閉じる、首を背けたが堪え切れず体を弓なりに逸らしたイリオールが、かっと目を見開く。
「あ、あ、あ、あっ!!」
抱え込まれた下半身に突き立てられる刃に感じているのは、もう激痛だけかも知れない。全身を濡らす汗、零れ落ちる涙を飛び散らせるイリオールは、世界にそれしかないように叫び続ける。
「ああああああっっっ」
「……許すものか…」
イリオールの悲痛な叫びを耳に、ギヌアは低く殺気を込めて吐く。
『運命(リマイン)』の王となったのは間違っていなかった。
迎え入れられ求められ、ギヌアは充足を感じた。揺らぐラズーンを、荒れる世界を蹂躙し、ついには全てを掌中にできるのも遠くはあるまい、そうほくそえんだ矢先。
またもや立ち塞がった、一つの影。
アシャ・ラズーン。
勝利を目前に、忘れ去っていた恥辱を、記憶の底から引きずり出す、その名前。
ギヌアの夢を砕き、希望を奪い、闇の王にまで追い込んだ男。
守りが薄れた瞬間を狙った。関わった者を庇う相手に、容赦ない一撃を不意打ち同然に叩きつけた。
だが、殺せなかった。諸国へ逃がしてしまった。二度と会わぬとそれが悔しかった。手足の一本一本に腹立ちを恨みを、刻みつけ突きつけ思い知らせてやりたかった。
アシャは馬鹿ではない。今では『運命(リマイン)』を手足の如く使うギヌアに、たった一人では立ち向かえぬとわかっているはずだ。だから逃げ去り、だから捜し出せなくなるだろう、そう思っていた。
しかし。
アシャは再びギヌアの前に現れた。以前とは違う覇気、しかも、今度ははっきりとギヌアの敵の立場となって。
溶け合わぬと言った、永遠に平行線だとも言った、それでもギヌアは誘ってみたのだ、こちらに来い、と。
キャサランを滅して気分が高揚していた。いずれ『運命(リマイン)』が制圧した世界には、きっと人手が必要となる。ギヌアと同等か、勝らずとも劣らぬ器量の者が。『運命(リマイン)』達に配下としての任を与えるつもりはなかった。彼らは単によく動く手足、天高く駆け上がるための踏み台でしかないのだから。
アシャは愚かではない。アシャは鈍くはない。アシャは……鋭く、美しい。
ギヌアの側に侍る資格は十二分にあるだろう。跪くなら考えてやろう、憐れみを請うなら裳裾ぐらい触れさせてやろう、どうしてもと言うのなら、夜伽を命じてもやろう、散々に待たせて不安に怯えた後に。
だが、アシャは、誘いを一蹴した、ギヌアを汚らわしいもののように見下して。
(許すものか、アシャ・ラズーン)
胸に降り積もるのは憎しみだけだ。
(許すものか)
おそらくは、あの少年の日から、アシャはギヌアの敵だったのだ。どれほど話し合い向き合おうとも、どうしても噛み合わぬ一線がある、それこそが宿命が定めた敵の証だったのだ。
ならば屠るだけだ、一番残酷な痛みを与えつつ。
(お前には枷がある)
ギヌアは薄笑いする。出逢うたびに、うまく擦り抜けごまかしてはいるが、その眼が、その手が、その体全体が気遣い守ろうとする、愛しい者が。
(ユーノという、重い枷が)
笑みは顔中に広がっていく。
それだけは随分と愚かなことに、アシャはギヌアに告白してくれている、あのユーノという娘が己の命よりも大事なのだと。ならば、そこを責めずにどこを狙うというのか。
(苦しませてやるぞ、あの娘だけを狙い続けてやる、お前には指一本触れずに、な)
喉の奥で低く嗤った。アシャの驚愕と衝撃を思うと、心がこれほど豊かになる。
(あの娘を傷めつけてやる。ずたずたにしてやる。身も世もあらぬ苦しみを味あわせて責め立て、屠ってやる、お前の目の前で)
その時のアシャの顔を見るのは、貫くよりも快感かも知れない。
(お前のせいで、あの娘は死ぬのだ。それをどう耐える?)
最愛の娘の死が、他ならぬ自分のせいだと思い知らせて後、アシャを葬り去ってやろう、永遠の夜の中に。
(それとも牢獄に繋いで放置しておくか)
己の罪業に悔いながら、死ぬこともできない日々を生き延びるのは地獄だろう。
「ふ…ふふ…っ」
イリオールを責め立て揺さぶりながら、ギヌアは嗤う。
少年は既に声もなく、真っ白な顔でされるがままになっている。乱れた髪の下から汗か涙かそれとも涎か、流れ落ちる雫でべたべたになった顔は虚ろだ。半開きになった口から漏れる呼吸は微かで、開いた瞳は閉じることができない人形のもののようだった。
「む」
ふと、寝所の隅に影が動いた。動きを止めてギヌアはイリオールから離れる。無造作に腰を拭うと、ベッドのシーツは紅に染まった。解放された瞬間にも、イリオールはぴくりとも動かなかった。ただぼんやりと、離れていくギヌアの姿を目で追う。
「何だ」
「……ユーノ・セレディスの居場所」
影は囁いた。
「突き止めましてございます」
「うむ、どこだ」
「お喜びを。『穴の老人』(ディスティヤト)のところに」
「ほう…そうか」
ギヌアはにまりと不気味な笑みを広げた。
『狩人の山』(オムニド)でアシャを葬るのに失敗してから、無駄に日々を過ごしていたのではない。『泉の狩人』(オーミノ)がラズーン側についたのは手痛かったが、『運命(リマイン)』の情報で『穴の老人』(ディスティヤト)の生き残りがいるのを確かめ、逸早く味方に引き入れることができたことで、多少は利を取り戻せたはずだ。
「それに、アシャもそこにおります」
「ユーノとともに、か」
「は」
「面白い」
ギヌアは手早く深い紺の衣を羽織った。腰に黒い帯を締め、細身の剣を吊る。足元まで垂れた衣の裾を乱すことなく、するすると移動しながら問いかける。
「アギャンはどうした」
「グードスは『泥土』に……公はそのまま……カルキュイが即位いたします」
「よし、次はジーフォ公を狙え」
くつくつ嗤いながら、扉を開ける。
「どんな人間でも、魔を持つものだ」
「心得ております……ユーノの方は如何致しましょう」
「考えがある。来い」
「はっ」
ギヌアは身動きもせずにラズーン支配下(ロダ)の地図を見ながら考えた。
アシャに剣では敵わなかった。
(そうだ、剣では)
あの時の恐怖をそうすり替えている。腹立たしさと悔しさが、下腹部で赤くちろちろと舌を出し、燠のように燃えている。
(だからと言って、俺が全てあいつに劣っているはずがない)
アシャは視察官(オペ)として事実上『ラズーン』を棄てた。『太皇(スーグ)』は他の正当後継者をその任より解いた。『ラズーン』崩壊は止むなし、万が一、アシャが『ラズーン』に牙を剥くなら、自らが向かおうと言うつもりなのだろう。
いずれにしても、もうこの『ラズーン』はギヌアの手には入らない。
(そんなことにさせるものか)
ギヌアは決意を込めて地図を睨んだ。
本来ならば、アシャがその座を離れた後、これはギヌアが継ぐべき領土だったはずだ。彼が戴く冠だったはずだ。
それをみすみす焦土とし、或いはアシャの蹂躙や、他国の侵略に解放するどんな道理があるのだ。
(まだ俺が居る)
もちろん、ギヌアとて、『ラズーン』が暗躍する『運命(リマイン)』や甦る太古生物の存在に苦慮しているのは知っている。
だが、ギヌアは彼らの扱いに『太皇(スーグ)』と異なる見解を持っている。
いくら『正しい』生命体とはいえ、確かに『ラズーン』は弱々しい存在だ。『氷の双宮』の再生力で、人はようやく存在を保証されているに過ぎない。
けれど『運命(リマイン)』達は世界各地に散り、闇に潜み、夜に巣食い、着々とその力を蓄えつつある。遅かれ早かれ、『運命(リマイン)』は世界に繁茂する闇となり、人はその間を恐れ戦きながら擦り抜けるように生きる時が来るだろう。
それほどの力を利用しない手はないのではないか?
『運命(リマイン)』を説得し、或いは力づくで征服し、従えることができたならば、『ラズーン』という昼の支配者と『運命(リマイン)』という夜の支配者に区分けして、世界を治めればいい。
流石のアシャも、二つの勢力を持ってすれば倒せるだろう。『ラズーン』滅亡を防ぐ手立てはそれしかない。
だが、『太皇(スーグ)』は、ギヌアの考えを受け入れなかった。遠い昔、星に忠誠を誓ったのは、己の生を、闇の力に曲げずに全うすることであったとして、闇をも受け入れよというギヌアには反対した。
「確かに、始めは闇を従えることができよう」
『太皇(スーグ)』は憐憫を込めた口調で諭した。
「しかし、ギヌアよ、人の心は想像以上に脆いものじゃ。闇を従え闇を支配していると思い込んでいるうちに、いつしか、闇にこき使われ魔に仕えることとなろう。そうして、世は再び荒廃の時代を迎えよう……そうなった時には、我らがこれまで行ったことは全て水泡に帰すだろう」
惑いはなかった。ただ悼みだけをたたえた声音は、別の者であったなら、また、別の機会であったなら、相手の心に深く沁み渡ったかも知れなかった。
だが、ギヌアの心には届かなかった。
(この『ラズーン』を諦めろというのか?)
目も眩むほどの巨大な権力と栄誉が、手の届く所に転がされているのに、触れるなと?
(本気のはずがない)
数百年、その地位に居たのだ。『太皇(スーグ)』に欲がないわけがない。
(手放したくなくなったのだ)
アシャが居れば譲らざるを得ないが、アシャが居なくなった今、ギヌアにやるのは惜しくなったのだ。
(ならば)
これ以上、『太皇(スーグ)』に訴えても何も変わらないと判断したギヌアは、単身、『運命(リマイン)』に近づき、その支配者になることを決意した。『運命(リマイン)』を従え、この長の座を、本来ならギヌアの物であるこの世界を取り戻すのだ。
『運命(リマイン)』は、魔の力を持ってはいたが、実のところ烏合の衆だった。人の世界に挑むのはただただ捨て去られた恨みから、それまでは、各々がそれぞればらばらに、己の力で何とか『ラズーン』に穴を空けて潜り込み、そこで生き延びようとしていただけだった。次々どこからともなく、生まれ来て増えていく仲間も、我が居場所を荒らす者と考え、互いに争い合うことさえあった。
未来はないのに、生きることを望み、死ぬこともできず、互いの魔の力で争い合うしかない集団。
その中に降り立ったギヌアは、まさに救世主だった。自分達の未来を勝ち取るための方策を授け、決して関わることも入り込むこともできない人の世界に闘いを挑み、『運命(リマイン)』とともに戦場を駆け抜ける『人』。
そうして、ギヌアは『運命(リマイン)』に降り、王となった。
「は……はぅっ…」
精一杯見開いたイリオールの瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ち続けている。息を喘がせながら、何とか自分の躯に加えられている責め苦から逃れようと、弱々しい嘆願を繰り返す。
「お…許し…を……ギヌア…様……おゆるし……くださ…い…」
がくがくと震えているのは揺さぶられているからだけではない。真っ青になっている唇を戦慄かせるのは恐怖だ。
「ゆる…して…」
何に対して謝っているのかも、もうわからないだろうに。
「ゆる…」
「…いや」
冷徹にイリオールの怯えを見下ろしていたギヌアが、ようやく口を開いた。
「許さぬ」
「っ!」
少年の体が跳ね上がる。
「許すわけにはいかん」
「ぁっ、あああっ!!」
悲鳴が迸った。顔を歪めて眼を閉じる、首を背けたが堪え切れず体を弓なりに逸らしたイリオールが、かっと目を見開く。
「あ、あ、あ、あっ!!」
抱え込まれた下半身に突き立てられる刃に感じているのは、もう激痛だけかも知れない。全身を濡らす汗、零れ落ちる涙を飛び散らせるイリオールは、世界にそれしかないように叫び続ける。
「ああああああっっっ」
「……許すものか…」
イリオールの悲痛な叫びを耳に、ギヌアは低く殺気を込めて吐く。
『運命(リマイン)』の王となったのは間違っていなかった。
迎え入れられ求められ、ギヌアは充足を感じた。揺らぐラズーンを、荒れる世界を蹂躙し、ついには全てを掌中にできるのも遠くはあるまい、そうほくそえんだ矢先。
またもや立ち塞がった、一つの影。
アシャ・ラズーン。
勝利を目前に、忘れ去っていた恥辱を、記憶の底から引きずり出す、その名前。
ギヌアの夢を砕き、希望を奪い、闇の王にまで追い込んだ男。
守りが薄れた瞬間を狙った。関わった者を庇う相手に、容赦ない一撃を不意打ち同然に叩きつけた。
だが、殺せなかった。諸国へ逃がしてしまった。二度と会わぬとそれが悔しかった。手足の一本一本に腹立ちを恨みを、刻みつけ突きつけ思い知らせてやりたかった。
アシャは馬鹿ではない。今では『運命(リマイン)』を手足の如く使うギヌアに、たった一人では立ち向かえぬとわかっているはずだ。だから逃げ去り、だから捜し出せなくなるだろう、そう思っていた。
しかし。
アシャは再びギヌアの前に現れた。以前とは違う覇気、しかも、今度ははっきりとギヌアの敵の立場となって。
溶け合わぬと言った、永遠に平行線だとも言った、それでもギヌアは誘ってみたのだ、こちらに来い、と。
キャサランを滅して気分が高揚していた。いずれ『運命(リマイン)』が制圧した世界には、きっと人手が必要となる。ギヌアと同等か、勝らずとも劣らぬ器量の者が。『運命(リマイン)』達に配下としての任を与えるつもりはなかった。彼らは単によく動く手足、天高く駆け上がるための踏み台でしかないのだから。
アシャは愚かではない。アシャは鈍くはない。アシャは……鋭く、美しい。
ギヌアの側に侍る資格は十二分にあるだろう。跪くなら考えてやろう、憐れみを請うなら裳裾ぐらい触れさせてやろう、どうしてもと言うのなら、夜伽を命じてもやろう、散々に待たせて不安に怯えた後に。
だが、アシャは、誘いを一蹴した、ギヌアを汚らわしいもののように見下して。
(許すものか、アシャ・ラズーン)
胸に降り積もるのは憎しみだけだ。
(許すものか)
おそらくは、あの少年の日から、アシャはギヌアの敵だったのだ。どれほど話し合い向き合おうとも、どうしても噛み合わぬ一線がある、それこそが宿命が定めた敵の証だったのだ。
ならば屠るだけだ、一番残酷な痛みを与えつつ。
(お前には枷がある)
ギヌアは薄笑いする。出逢うたびに、うまく擦り抜けごまかしてはいるが、その眼が、その手が、その体全体が気遣い守ろうとする、愛しい者が。
(ユーノという、重い枷が)
笑みは顔中に広がっていく。
それだけは随分と愚かなことに、アシャはギヌアに告白してくれている、あのユーノという娘が己の命よりも大事なのだと。ならば、そこを責めずにどこを狙うというのか。
(苦しませてやるぞ、あの娘だけを狙い続けてやる、お前には指一本触れずに、な)
喉の奥で低く嗤った。アシャの驚愕と衝撃を思うと、心がこれほど豊かになる。
(あの娘を傷めつけてやる。ずたずたにしてやる。身も世もあらぬ苦しみを味あわせて責め立て、屠ってやる、お前の目の前で)
その時のアシャの顔を見るのは、貫くよりも快感かも知れない。
(お前のせいで、あの娘は死ぬのだ。それをどう耐える?)
最愛の娘の死が、他ならぬ自分のせいだと思い知らせて後、アシャを葬り去ってやろう、永遠の夜の中に。
(それとも牢獄に繋いで放置しておくか)
己の罪業に悔いながら、死ぬこともできない日々を生き延びるのは地獄だろう。
「ふ…ふふ…っ」
イリオールを責め立て揺さぶりながら、ギヌアは嗤う。
少年は既に声もなく、真っ白な顔でされるがままになっている。乱れた髪の下から汗か涙かそれとも涎か、流れ落ちる雫でべたべたになった顔は虚ろだ。半開きになった口から漏れる呼吸は微かで、開いた瞳は閉じることができない人形のもののようだった。
「む」
ふと、寝所の隅に影が動いた。動きを止めてギヌアはイリオールから離れる。無造作に腰を拭うと、ベッドのシーツは紅に染まった。解放された瞬間にも、イリオールはぴくりとも動かなかった。ただぼんやりと、離れていくギヌアの姿を目で追う。
「何だ」
「……ユーノ・セレディスの居場所」
影は囁いた。
「突き止めましてございます」
「うむ、どこだ」
「お喜びを。『穴の老人』(ディスティヤト)のところに」
「ほう…そうか」
ギヌアはにまりと不気味な笑みを広げた。
『狩人の山』(オムニド)でアシャを葬るのに失敗してから、無駄に日々を過ごしていたのではない。『泉の狩人』(オーミノ)がラズーン側についたのは手痛かったが、『運命(リマイン)』の情報で『穴の老人』(ディスティヤト)の生き残りがいるのを確かめ、逸早く味方に引き入れることができたことで、多少は利を取り戻せたはずだ。
「それに、アシャもそこにおります」
「ユーノとともに、か」
「は」
「面白い」
ギヌアは手早く深い紺の衣を羽織った。腰に黒い帯を締め、細身の剣を吊る。足元まで垂れた衣の裾を乱すことなく、するすると移動しながら問いかける。
「アギャンはどうした」
「グードスは『泥土』に……公はそのまま……カルキュイが即位いたします」
「よし、次はジーフォ公を狙え」
くつくつ嗤いながら、扉を開ける。
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