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6.洞窟(2)
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す、とふいにアシャがユーノとアギャン公の間に割り入った。視界が全面アシャの背中に遮られる。あ、と思った瞬間に体が後ろへよろめいた。慌てて足を踏み替える、同時にほ、と吐息をつき、我に返る、自分がどれほど熱くなっていたのか自覚する。
(私)
だって、と胸の内で小さな微かな声が囁いた。
(生きたかったんだもの)
突然視界が熱くなりぽろぽろと零れ出した涙に呆然としながら、胸の中の声に耳を傾けた。
(もっと幸せに、笑って、楽しく、生きたかったんだもの)
死にもの狂いで剣を引っさげ草原を走り抜けるのではなく、温かな陽射しに剣の煌めきを見ながら完成された技を楽しみたかった。冷たく光る星の下で血塗れになって戦い抜くのではなく、目を奪う美しい月と豊かな草原を吹き渡る風の中で眠りたかった。夜会は苦手で一緒に舞い踊ることはできなかったかも知れないけれど、見事な細工物や珍しい旅語りを肴にこころゆくまで味わいたかった。
(あなたが世界に絶望していようと)
私は、生きたいんだ。
(どう言えば、伝わる)
あなたの絶望を私に押し付けるんじゃない。
「く、そ…っ」
ことばにならなくて俯き、歯を食いしばる。その耳に、ひどく穏やかなアシャの声が聴こえてきた。
「その様子ではご存知ないらしい」
アギャン公は動く気配がない。
「あなたが統治を棄てられたのは知っている」
背中越しに響いてくるアシャの声は温かかった。だがそれは、容赦のない厳しさを含んでいた。
「一つ、お知らせしておこう。私達がアギャンの分領地で聞いたところでは、即位はグードス殿ではなく、カルキュイ殿とのことだった」
空気が止まった。
「話によれば、グードス殿は『泥土』へ赴かれて行方知れず、あなたは統治されず、ならば、カルキュイ殿の即位もやむを得まい。だが、それについて『氷の双宮』に知らせがないのはどういうことか?」
「な…に……?」
声にそっと覗き見ると、アギャン公の背中が強張っていた。再びそろそろと、顔だけが右肩方向から振り返って、片目でアシャを凝視する。
「グードスがおらぬ…?」
不安げな声とともに眉が寄せられる。
「……カルキュイが……即位…?」
「うむ」
「そんな、馬鹿な!」
アシャの肯定に間髪入れず、アギャン公が叫んだ。
「一体誰がグードスを『泥土』に……カルキュイなぞがなぜ即位を……あやつらは、そんなこと一言も…!」
(あやつら?)
「アギャ…」「…」
問いかけようとしたユーノを、背中を向けたまま、アシャが右手を背後へ回して制した。庇うように包むように体に回された腕、だがそれよりアギャン公の叫びが気になって、ユーノは身を乗り出す。
「『泥土』になぞ……どうして『泥土』になぞ……」
老人の声はなお嗄れる。
「あそこには泥獣(ガルシオン)が復活しておるというのに…」
(がるしおん?)
聞いたことがあるようなないような、だが、確か太古生物の一種、ではなかったか。昔語りの詩人がことさら声を潜めて語った下りになかったか。
「帰らぬ……? 帰らぬ……カルキュイが即位………ぉ」
ふいに、ことりと音をたてて、アギャン公の中で何かが固まったようだった。ぎょっとしたように見開いた眼がぎらぎらと輝く。
「そう…か……あやつらが欲しがったのは…四大公の座か……グードスを死なせて………お……おおお」
声が悲嘆を帯びる。
「儂は……儂は……取り返しのつかぬ……ことを…」
(騙されたんだ)
ユーノは覚った。
アギャン公は政治と支配に倦み疲れていた。息子に座を譲り、余生をこの岩屋で穏やかに終えようと考えていた。迫り来るラズーンの破滅も気にはなっていたのだろうが、それを扱いあぐねたのだろう。
その『逃げ』に巧みにすり寄った者がいた。アギャン公の穏やかに静かに暮らしたいという望みと、一人息子にきちんと大公の座を継がせたいというその願い、もちろんアギャンが健常であれば、そうそうは叶うわけもない願いを、双方とも満たしてやろうと持ちかけた者が。
闇の彼方にギヌアの笑みが浮かび上がって見えた。自分の保全しか考えない四大公を嘲弄し、まんまと『運命(リマイン)』の手先を潜り込ませていく。
「…アシャ殿…」
茫然自失から立ち直ったアギャン公は、より一層濃い絶望に顔を歪ませながら、真っ白になった唇を開いた。右肩越しに振り返ったままの奇妙な体勢で、横目でアシャを見やってくる。
「……我が裏切り……如何ように処分されても仕方がない……が、こんなことをお頼みできるわけはないと思いながらも申し上げる……グードスを……我が息子を……探してやっては下さらぬか」
「『泥土』へ行けと?」
酷薄な響きでアシャが問い返す。
「おおもちろん、危険なだけでは済みますまい、だが、カルキュイの即位はならぬのです、あれは、あれだけは決して四大公に据えられぬ」
そんなことになれば、『泉の狩人』(オーミノ)は、容赦なくラズーンを滅ぼすべしと定めましょう。
「、ではあれは」
はっとしたようにアシャが続けた。
「『穴の老人』(ディスティヤト)の一族か!」
「おお、おお、そうでありましょうとも、でなければ、このような策に関わるわけもありませぬ」
「では、アギャン公」
アシャは厳しい声で促した。
「これからすぐに取って返し、カルキュイの座にあなたを座らせ、その足で『泥土』へ赴こう」
グードスはまだ即位していないし、行方がはっきりしていない。アギャン公そのものが戻るのが確かに一番説得力がある。
「いや!」
アギャン公は強く拒んだ。
「儂は行けぬ、行けぬのです、アシャ殿、なぜなら」
応じながらアギャン公は、ゆっくりと首を回し始めた。一旦正面に向き直り、それから今度はじわじわと左肩から振り返る。
(私)
だって、と胸の内で小さな微かな声が囁いた。
(生きたかったんだもの)
突然視界が熱くなりぽろぽろと零れ出した涙に呆然としながら、胸の中の声に耳を傾けた。
(もっと幸せに、笑って、楽しく、生きたかったんだもの)
死にもの狂いで剣を引っさげ草原を走り抜けるのではなく、温かな陽射しに剣の煌めきを見ながら完成された技を楽しみたかった。冷たく光る星の下で血塗れになって戦い抜くのではなく、目を奪う美しい月と豊かな草原を吹き渡る風の中で眠りたかった。夜会は苦手で一緒に舞い踊ることはできなかったかも知れないけれど、見事な細工物や珍しい旅語りを肴にこころゆくまで味わいたかった。
(あなたが世界に絶望していようと)
私は、生きたいんだ。
(どう言えば、伝わる)
あなたの絶望を私に押し付けるんじゃない。
「く、そ…っ」
ことばにならなくて俯き、歯を食いしばる。その耳に、ひどく穏やかなアシャの声が聴こえてきた。
「その様子ではご存知ないらしい」
アギャン公は動く気配がない。
「あなたが統治を棄てられたのは知っている」
背中越しに響いてくるアシャの声は温かかった。だがそれは、容赦のない厳しさを含んでいた。
「一つ、お知らせしておこう。私達がアギャンの分領地で聞いたところでは、即位はグードス殿ではなく、カルキュイ殿とのことだった」
空気が止まった。
「話によれば、グードス殿は『泥土』へ赴かれて行方知れず、あなたは統治されず、ならば、カルキュイ殿の即位もやむを得まい。だが、それについて『氷の双宮』に知らせがないのはどういうことか?」
「な…に……?」
声にそっと覗き見ると、アギャン公の背中が強張っていた。再びそろそろと、顔だけが右肩方向から振り返って、片目でアシャを凝視する。
「グードスがおらぬ…?」
不安げな声とともに眉が寄せられる。
「……カルキュイが……即位…?」
「うむ」
「そんな、馬鹿な!」
アシャの肯定に間髪入れず、アギャン公が叫んだ。
「一体誰がグードスを『泥土』に……カルキュイなぞがなぜ即位を……あやつらは、そんなこと一言も…!」
(あやつら?)
「アギャ…」「…」
問いかけようとしたユーノを、背中を向けたまま、アシャが右手を背後へ回して制した。庇うように包むように体に回された腕、だがそれよりアギャン公の叫びが気になって、ユーノは身を乗り出す。
「『泥土』になぞ……どうして『泥土』になぞ……」
老人の声はなお嗄れる。
「あそこには泥獣(ガルシオン)が復活しておるというのに…」
(がるしおん?)
聞いたことがあるようなないような、だが、確か太古生物の一種、ではなかったか。昔語りの詩人がことさら声を潜めて語った下りになかったか。
「帰らぬ……? 帰らぬ……カルキュイが即位………ぉ」
ふいに、ことりと音をたてて、アギャン公の中で何かが固まったようだった。ぎょっとしたように見開いた眼がぎらぎらと輝く。
「そう…か……あやつらが欲しがったのは…四大公の座か……グードスを死なせて………お……おおお」
声が悲嘆を帯びる。
「儂は……儂は……取り返しのつかぬ……ことを…」
(騙されたんだ)
ユーノは覚った。
アギャン公は政治と支配に倦み疲れていた。息子に座を譲り、余生をこの岩屋で穏やかに終えようと考えていた。迫り来るラズーンの破滅も気にはなっていたのだろうが、それを扱いあぐねたのだろう。
その『逃げ』に巧みにすり寄った者がいた。アギャン公の穏やかに静かに暮らしたいという望みと、一人息子にきちんと大公の座を継がせたいというその願い、もちろんアギャンが健常であれば、そうそうは叶うわけもない願いを、双方とも満たしてやろうと持ちかけた者が。
闇の彼方にギヌアの笑みが浮かび上がって見えた。自分の保全しか考えない四大公を嘲弄し、まんまと『運命(リマイン)』の手先を潜り込ませていく。
「…アシャ殿…」
茫然自失から立ち直ったアギャン公は、より一層濃い絶望に顔を歪ませながら、真っ白になった唇を開いた。右肩越しに振り返ったままの奇妙な体勢で、横目でアシャを見やってくる。
「……我が裏切り……如何ように処分されても仕方がない……が、こんなことをお頼みできるわけはないと思いながらも申し上げる……グードスを……我が息子を……探してやっては下さらぬか」
「『泥土』へ行けと?」
酷薄な響きでアシャが問い返す。
「おおもちろん、危険なだけでは済みますまい、だが、カルキュイの即位はならぬのです、あれは、あれだけは決して四大公に据えられぬ」
そんなことになれば、『泉の狩人』(オーミノ)は、容赦なくラズーンを滅ぼすべしと定めましょう。
「、ではあれは」
はっとしたようにアシャが続けた。
「『穴の老人』(ディスティヤト)の一族か!」
「おお、おお、そうでありましょうとも、でなければ、このような策に関わるわけもありませぬ」
「では、アギャン公」
アシャは厳しい声で促した。
「これからすぐに取って返し、カルキュイの座にあなたを座らせ、その足で『泥土』へ赴こう」
グードスはまだ即位していないし、行方がはっきりしていない。アギャン公そのものが戻るのが確かに一番説得力がある。
「いや!」
アギャン公は強く拒んだ。
「儂は行けぬ、行けぬのです、アシャ殿、なぜなら」
応じながらアギャン公は、ゆっくりと首を回し始めた。一旦正面に向き直り、それから今度はじわじわと左肩から振り返る。
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