『ラズーン』第五部

segakiyui

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6.洞窟(3)

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「!」
 見えた横顔にユーノは息を呑んだ。アシャは満更予想していなくもなかったのだろう、一瞬ぐっと顎に力を入れたようだが、無言のまま進み出て、アギャン公の前に回る。我に返って置き去られるまいと、慌てて後を追って、ユーノはアシャ同様、アギャン公の前に立った。
「っ」
 ぞくり、と背中が竦む。
 一瞬よろめきかけた足を踏ん張る。
「アギャン…公」
 アシャが重く唸った。
 アギャン公は肩からマントのようなものを羽織っていた。それに包まれ隠されていたのは、洞窟で陽の光も浴びずに暮らして、やせ衰えた老人の小さな細い体だろうと思っていた。
 だが。
「お笑い下され」
 右頬だけで笑ってみせたアギャン公が、マントをそろそろと引き開ける。
 その手は既に人のものではなかった。異様にしなやかな、人間の腕ほどありそうな木の棒が、巧みにくねり伸びて、器用にマントの前をかき分けている。
 マントの内側には、古びて枯れ切った木の幹に肉塊を押し込み混ぜ合わせ、無理矢理固めたような色合いの柱が一本。その下からやはり、赤黒い、樹木の切り株か根の固まりのようなものが、広がり這って洞窟の岩場にしがみついている。しかも、それは時々ぴくりぴくりとぺったりした皮膚を震わせて蠢き、岩の隙間から隙間をずるずると這いずっていた。マントをかき分けた『手』はその中の数本だ。
 柱の上は色を薄めながら細くなり人の首の形状となり、その上にアギャン公の疲れ切った灰色の顔に繋がっている。
 アギャン公の左半分の顔も、人ではなくなっていた。樹木の繊維と赤黒い肉塊がでこぼこと入り交じり、かろうじて輪郭はあるものの眉はなく、膨らんだ瞼の下の眼は一筋の切れ目、その奥に妙にきらきらと光る金の虹彩が見て取れる。鼻も半分はぬったりと光る凹凸となって、こちらは逆に干涸びた木の裂け目のような口に繋がっている。
 だが、声だけは変わらず、低く静かに響いてきた。
「見ての通り、儂は既に体の半分以上が『穴の老人』(ディスティヤト)と化している……この隠居所をしつらえてくれる、それが条件だったのです」
 きょろり、きょろりと左瞼の下で金色の瞳が周囲を伺った。それは穏やかにこちらを見ている右目と対照的な姿、びくんびくんと脈打ちながら震え蠢く『根』が、唐突にアシャの体を掠めるように飛んで岩に落ち、ずるずるとまた引き寄せられた。
「しかし、グードスは……あれは違う…儂のように侵されてはいない…」
 びゅっ、と今度はユーノのすぐ近くへ『根』が飛び、落ちて引き寄せられていく。
 同時に、今までマントの中に納められていた『根』達が、じりじりとマントを越え、周囲の岩場へ広がり這いずり始めた.
「アシャ…」
「ああ」
 アシャも素早く周囲に眼を配る。確かに今、アギャン公は四大公として、またグードスの父親として話をしているが、左半分の顔は引き攣れるような禍々しい表情に歪み始めているし、何より、まるでアシャとユーノの居場所を手探りで探そうとするような、威嚇して身動きさせまいとするような『根』の意図は、それと知らされなくともあきらかだ。
「どうか、グードスを……グードスを…」
 助けてやって下さい。
 紛れもなく思いやり深い父親の声で懇願したと同時に、左半分の顔が邪悪に歪んだ。同時に数本立ち上がった『根』の一本が、ユーノの首へとまっすぐ飛ぶ。
「ユーノ!」「くっ!」
 とっさに差し上げた腕にぴしりと音をたてて当たった『根』は、次の瞬間巻き付いて右手を締め上げた。
「む…っ」「うぉああああ…っ」
 ユーノは後ずさりし引き寄せられまいとする。アギャン公は異様な声を絞り出し身悶えしながら一気にマントを跳ね上げる、その影から数十本の『根』が二人に襲い掛かる。
「下がれっ!」「ちいっ!」
 アシャの声に舌打ちしながら足を踏ん張り身を引いたユーノ、緩めさせるまいと更なる『根』を繰り出すアギャン公、その間にアシャが体を回して飛び込み、剣を振り下ろす。空気が裂かれる音、一瞬の緊張ののち、ユーノは弾かれるように飛び退った。両断された赤黒い『根』が数本、びたびたと光りながら岩場に乱れ落ちる。ユーノが腕から振り払った『根』が岩に叩きつけられ、それでもぴくぴく波打ちながら、どこかへ逃げ込もうとするように動く。
「うぉ…ぐぅ……」
 呻くアギャン公を前に、ユーノは『泉の狩人』(オーミノ)から授かった剣を抜き放った。『根』の動きとともに、空気まで暑苦しくねっとりとしてきた空間に、清浄な水を撒くが如き光、アシャも短剣を構えてユーノの側面を庇う。
「ぐは…っぐふ……っぐぶぶっ…」
 その二人の目の前で、名高いラズーンの四大公の一人、アギャン老公は呻き声を上げながら、異形と化した体をくねらせ身悶えていた。波打つマントの下、びちゃりびちゃりとおぞましい音をたて、肉塊と樹魂が入り交じった皮膚が分かれ、融合し、その質量を増していく。じりじりと膨れ上がっていく相手が、掠れ軋んだ声で唸った。
「さすがに……『泉の狩人』(オーミノ)が…待ち望みし……女王…」
「……どうして、それを」
 ユーノが『泉の狩人』(オーミノ)を率いる聖女王(シグラトル)となったことは、ほとんど誰も知らないことだ。ましてや、洞窟に籠っていたアギャン公が知る由もない。
「……今この……呪われた体……に……命じられた……」
 禍々しい光をたたえていた左目が、不意に細められ瞬きした。霞んでいく視界を無理矢理見定めようとするような仕草をしながら、
「……聖女王(シグラトル)を……ユーノ・セレディスを……屠れ…と…」
 予想していたことばだった。権力を手にしたのだから、敵も増える。
 隣のアシャが緩やかに息を吐き、再び体の中に気を満たしていく。側に居るだけでわかる、アシャの中に膨れ上がっていく殺気に力づけられ、ユーノも次の攻撃に備えて構え直す。だが、
「さあ……行かれよ…」
 アギャン公はひくひくと今にも二人に絡みつきそうな『根』を、強いて周囲の岩に張りつくように這わせながら促した。
「儂が…いつまで………『穴の老人』(ディスティヤト)を……押さえつけて…おけるか……わからぬ………早く行け……行って…倅を……グードスを……ぅうう」
 ことばを詰まらせ苦しげに呻く。体を折り曲げ、震えながら見上げてくる左眼は、また猛々しい金色の光を放っている。右半分の、まだ人の顔を残している部分は、哀しげに苦しげに歪むが、それさえただの見せかけにしか見えないような禍々しさだ。
「よろしいか……魔が……あなた方を追う……太古の……魔が……あなたを……聖女王(シグラトル)を…いつか必ず………お、ぅうっ!!」
 突然、アギャン公の声が獣じみた咆哮となった。ぎくんと躯を強張らせたとたん、突然全ての動きが止まる。
「…?」
 時間はそれほどかからなかった。
 何かが、アギャン公の中で動いている。
「なに……?」
 始めは何が動いているのかわからなかった。
 石化したように精一杯目を見開いて仰け反ったアギャン公の凍てついた表情、左は灰色の、右は金色のそれぞれの虹彩が妙に眼に留まるだけ、だが、そのうち気づいた、微妙に位置を変えていく、人の顔の造形に。
「…っ」
 業火に焼かれ、じわじわと蕩けていく人形の顔さえ、これほどためらいなく滑らかに、容赦なく崩れていくものとは思えない。骨格の上に不器用に貼つけてあったのだと言いたげに、ずり落ちていく灰色の髪、憂いを秘めた眉、形を歪ませ塞がれていく瞳に落窪みへこんでいく鼻。
「あ……あ…ぅ」
 声にならない悲鳴が零れかけて、ユーノは口を押さえる、右手の剣で今すぐに切り捨ててしまいたい衝動を堪えるのに必死、その目の前で、ずるずると顔を滑って流れ落ちていく造作は、直前まで形を残しているだけに余りにも惨く。
「ちっ…」
 微かな舌打ちとともに、アシャが身動きしてユーノの前に立ち塞がろうとする、その矢先、
「きゃあああーっ!」
 細く高い絶叫が響き渡った。呪縛を解かれて振り返る、ユーノの背後でぼったりと重い音を立てて落下したのは、既に溶け落ちたアギャン公の顔だろうか。それを確かめる間もなく、視界に飛び込んできたのは飛びかかってくる赤黒い『根』。
「ユーノ!」「わかってる!」
 自分もまた、この洞窟の瘴気に侵されて溶け崩れていくような感覚を、踏み込む一歩で断ち切り、容赦なく右手の剣を一閃する。立て続けに切り落とされた『根』は残骸を洞窟に広げていくが、怯まないばかりか、攻撃の手を休めることなく、地面に這いずり躯を固定するための腕さえ重ねてユーノに襲い掛かる。
「く、くそっ!」「ユーノ…っ!」
 使えぬ左手が煩わしい。庇ってどうにかできるものではない。かといって、注意を外せば、動きの悪い部分を集中して狙われて、否応なく右手で左手への攻撃を防ぐ形に追い込まれてしまう。
「ユーノっ!」
 アシャもまた苦戦していた。ユーノの側へ近づこうとすればするほど、『根』は巧みに攻撃先を動かして、ユーノが剣を振り回す範囲に突っ込まされそうになる。かといって、背中を護り合えるほど近くに寄れそうになれば、岩場を利用して戦場を分けられてしまう。無理に入れば、今度はアシャが、ユーノを傷つけかねない方向から飛び込むことになってしまう。
「アシャ! 埒があかない!」「わかってる、奥へ行くしかないか!」
 アシャは選びたくない道に顎をしゃくった。攻撃は明らかに二人をより奥へと誘導していく。そちらへ走れば、ユーノも護れようし、アシャの攻撃も有効になるが。
「さっきの悲鳴は奥から聞こえた!」
 ユーノは叫ぶ。身を引いた一瞬、追いつき損ねた数本の『根』を切り飛ばす。奥へ進めば、すぐにアシャの側へ駆け寄れる。
「気に喰わんな!」「だね、あからさまだ!」
「きゃあああっ、誰かあっっ!」
 二人の懸念を裏付けるように、悲鳴は再び彼らを呼んだ。振り向けば、なおも攻撃を続けながら、既にアギャン公の姿を脱ぎ捨てた『穴の老人』(ディスティヤト)は、今はただ、洞窟の出口を塞いでいるだけのようにも見える。
「助けてっっ!」
 声は高い、が、少女というより、少年のもののようだ。
「きっと碌な相手が待ってない!」
「違いないな、だが」
 行くしかない。
 二人はお互いに頷き合い、剣を納めて声の方へ走り出した。
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