『ラズーン』第五部

segakiyui

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6.洞窟(4)

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「……そして……」
「ジノ」
「はい?」
 ミダス公邸の一隅、花苑に面したベランダで、詩を紡いでいたジノ・スティルは、敬愛する主人リディノに唐突に遮られた。嫌な顔一つせず、立風琴(リュシ)を弾く手を止める。黒髪の頭に巻いて片端を垂れ下がらせている深緑の布をふわりと舞わせて振り返り、自分の詩のどこがリディノに不興をもたらせたのかと訝るように主人を見つめ返した。
「ごめんなさい、詩を途中で切らせて」
 リディノはジノの視線に申し訳なさそうに詫びた。
 詩人は、詩を自分の命の発露と考える。自分の生き様の証であれと願う。
 その詩を理由もなしに遮った非礼をまず詫びる、そこにリディノの育ちの良さが伺える。
「構いませんよ、姫さま」
 にこりと笑って、強く舞い上がり満たされようとした気持ちを緩め、その吐息がわりにぽろりと立風琴(リュシ)に指を滑らせる。
「アシャ様のことがご心配なのですね」
「……ええ」
 一瞬ためらって答えたリディノは長い睫毛を伏せた。その頬が見る見る薄紅を帯びていくのは誠に美しい眺めだったが、なぜだろう、いつもならば、その後に続くアシャへの恋慕を、今日の主は口にしない。それどころか、ふいとジノに背中を向け、花苑に向き直ってしまった。
「ごめんなさい……一人になりたいの」
 珍しくきっぱりと口にされた拒否に少し驚いたものの、ジノは静かに頷いた。
「はい」
 微笑みを浮かべて主の想いを大事にしていると知らせようとしたが、リディノはジノを振り返りもしない。ことさら顔を背ける横顔は、いつもより鋭いように思える。
 だが、ジノはそれ以上の詮索をせず、深く一礼し、無言で立ち上がった。こちらの動きに意識さえ向けないようなリディノに、気配を殺してその場を立ち去る。
(姫さま…)
 廊下まで戻ったジノは、完全に離れる前にちらりとリディノを見やった。
 淡い紅のドレス、腰に締めた幅広の凝った織の帯、風に舞うプラチナブロンドの巻き毛にはキャサランの金細工と紅金糸石の髪飾り。
 艶やかで華やかな、小さな花園のように見える愛らしい出で立ちなのに、背中を向けて花苑に向き合う姿は、どことなく寂しげで苦しげで、何かを想い悩んでいるような様子だ。
「……」
 ジノは主に聞こえぬように、そっと小さく溜め息をついて歩き出した。自室の方へまっすぐに向かう、主が再びジノを求めた時に、彼女の所在を探させることなどないように。
 けれど思わず知らず、眉を寄せて考え込んでいた。
 リディノの心配が、アシャの安全、ユーノの無事に向けられているのは、まぎれもない事実だ。ラズーンの裏切り者かも知れないアギャン公、その領地へたった二人で、碌な武器も携えずに乗り込んでいった無謀さに胸を痛めているのは、リディノばかりではない。
(アシャさま……ユーノさま…)
 ご無事であれ、と願う脳裏に、鮮やかなアシャの笑い顔、怯みさえ見せずに堂々と歩き去るユーノの後ろ姿が浮かぶ。
(お二人ならば大丈夫だ、きっと姫さまも、そう信じたいはず)
 もう一度、ジノは肩越しに、遠ざかった主を振り返る。
 ならばなぜ、ジノはリディノの元に残り、不安に震える主を慰めなかったのか。自分の抱いているアシャの腕やユーノの度量への信頼を伝え、あのお二人ならば、きっと如何なる窮地も乗り越えて戻って来られます、そう伝えなかったのか。
(私は)
 ジノはゆっくりと立ち止まり、自分の胸の内を覗き込むように目を凝らした。
(何を不安がっている?)
 ジノはアシャとユーノの力量に不安は抱いていない。アシャは百戦錬磨の剣士で類稀なる参謀だし、ユーノの度胸や胆力と来たら、下手な男どもよりよほど優れている。二人がどうしても突破するべしと決めたなら、アギャン如きの策謀に負けるとは思えない。なのに。
(気になるのは……)
 姫さまだ。
 心の声は容赦なく秘密を暴いた。
(あれは、何だろう?)
 詩人は観衆の気持ちの動きに細やかであれと教えられる。聴き手は詩の何に喜び、何を受け止め、何を望んで待っているのかを常に意識していなくてはならない。同時に、己の心の動きにも注意深くあれと諭される。観衆に影響を受けて、語らなくてはならぬ本質を見失い、激情に弄ばれてしまわぬように。
 今ジノは、さきほど詩を聴いていたリディノの心の奥に広がったものを凝視していた。
 それはどす黒い澱みのようなものだ。たゆたゆと微かな音をたてながら、休むことなくリディノの心の岸辺に押し寄せ打ち寄せ続け、一波一波の力は弱くとも、確実に着実に岸辺を侵蝕していっている。
 何よりジノが気がかりなのは、その侵蝕にリディノが抗しようともせず、手をつかねて、昏い波に侵されていく自分をただ見守っているという事実だ。
(何を考えておられる……姫さま?)
 それはジノの知っているリディノの姿ではなかった。何かもっとねっとりした、もっと生々しい、別の『女』のような……。
「ジノ!」「っ!」
 ふいに部屋の影から飛びつかれて、ジノは危うく立風琴(リュシ)を取り落としそうになった。鼻先にリディノとはまた違った色合いのプラチナブロンドの直毛が乱れ、どこか懐かしい甘い匂いが漂う。
「どこに行ってたの?」
 明るい声が続けた。
「ぼく、さがしたんだよ」
「…すみません、レスファート様」
 立風琴(リュシ)を抱えたとは別の腕で抱きついた少年を受け止め、ジノはくすりと笑った。
「何か御用でしたか?」
 アシャに同行してきた少年は、辺境の地の王族だと言う。王族ならではの物怖じのなさと、ただの王族の少年とは違ったしたたかさを兼ね備えたレスファートは、ジノにとっても好ましい相手だ。
「詩を教えてほしいんだ」
「またですか?」
 ジノは顔を反らせて見上げてくるレスファートを覗き込んだ。
 ここのところ連日、レスファートは時間があればジノに詩をねだりにくる。リディノのように慰めを楽しみを得るためではなく、詩を自ら歌おうとして、つまりは教わりに来ているのだ。
 ユーノがいない不安を詩を教わることで紛らわせているというにはあまりにも熱心過ぎた。また、国に戻れば一国の主となる者が、あえて詩人のように詩を覚えなくてはならない理由もはずだ。
「詩人にでもおなりですか」
 それでもからかうようにレスファートに問いかけると、少年は思いのほか大真面目な顔で答えた。
「うん。それぐらい、たくさん覚えたい」
 ジノが覚えている詩ぐらいは一通り。
「私が覚えている詩ぐらいは、ですか」
 幼い物言いに思わず苦笑する。ジノが覚えている詩だけとはいえ、数百曲はあるだろう。もちろん、この世の中にはもっとたくさんの詩があり、こうしている今も,新たな詩が生み出され紡がれ続けているのだが。
 レスファートはジノを探して公邸中走り回っていたのだろう、汗で濡れた額に張り付いた髪をうるさそうに払い、透明なアクアマリンの瞳でジノを見返した。
「なぜ?」
 そのまっすぐさに押されそうになって、問い返す。
 少年の答えは単純だった。
「ユーノをね、慰めてあげたいの」
 当然のように、けれど、どこか照れくさそうに微笑する、その笑顔にはっとするほど大人びたものが通り過ぎた。
「ずっと旅をして来て、いろんなことがあったよ。つらいこともかなしいこともあったけど、ユーノはどんな時も、ぼくをだきしめて守ってくれた。ぼくもユーノがつらいとき、だきしめてあげたいけど」
 きゅ、と一瞬、大人の男のように苛立たしげに唇を結び、レスファートは両腕を広げて見せる。
「ぼくの腕はまだ小さい」
 低い声音が悔しそうに訴えた。
「ユーノをだきしめるほど大きくなりたいけど、まにあわないんだ。ぼくがおっきくなる間、ユーノはきっと、いくにちも、いくばんも、じっとつらいことをがまんするんだ。それは、嫌だ」
 はっきりと言い切った声は強かった。
「けれど……詩なら、ぼくにも歌える」
 微かに目を伏せる。瞼の下の瞳が、地底深くの泉のように、ゆらめきながら何かを見通すように輝いている。
「どんな暗い夜でも、どんな寒い所でも、かんかん照りのさばくでだって、ぼくはユーノのために歌ってあげられる。この手でユーノをだきしめられなくっても、アシャがいない時でも、ぼくが詩を歌えるでしょ?」
(この方は)
 ジノは無意識に顔を引き締めて、レスファートの語ることばを聴いていた。
(愛情というものを、ご存知なのだ)
 それが、『側に居る』ということに尽きるということも。
 脳裏を、花苑に向かってただ一人、ジノを遠ざけたリディノの姿が掠めた。その耳にレスファートのことばが届き続ける。
「そのとき、ぼくは、ユーノが詩ってほしいと言うだけ、詩ってあげたいんだ。もういいよってユーノがいって、そのうちぐっすりねむってしまうまで、ずっと詩っていてあげたいの」
 それがどれほど厳しい覚悟か、理解している者は少ない。大人であっても、ほとんどの者は、そんな容易いことと笑うだろう。
 けれど、一度でも、為してみようとすれば、わかるのだ。何も求めず、ただ相手の慰めのために側に居ること、側に居て相手のために自分のものを差し出し続けること、それは、自らの中に干涸びることのない豊かな泉を持っていて初めてできる、奇跡の一つだと。
(私は、足りなかった)
 リディノの側を離れたのは、離れよと命じられただけではない。ジノの持ち得る全てを差し出しても、今のリディノを慰め切れない、そう諦めたからでもあった。
 レスファートが聴けば不思議がるだろう、今こそリディノの側に侍ること、それがジノの仕事の全てではないのかと。
「だから、ジノ」
 ジノの想いとは無関係に、レスファートはじっとこちらを見つめながら、生まれ持った王族の度量に旅で培った意志力を加えたのだろう、拒むことを許さない明瞭さで命じてくる。
「ぼくに、詩を教えて」
「レスファート様…」
(そう、だったな)
 思い出した。
(私に『創世の詩』を続けさせたのは、この方だった)
「ジノ?」
「わかりました」
 ジノはレスファートに立風琴(リュシ)を手渡し、手を差し伸べて相手を抱き上げた。大事な立風琴(リュシ)を落とすまいとしっかり抱えたレスファートが大きく目を見開く。
 その顔を見上げて、ジノは笑いかけた。
「イルファ様はどこにおいでです? 二人であの方にお聴かせして、どちらが上手か比べてみましょう」
「イルファはだめだよ」
 レスファートが唇を尖らせる。
「詩なんて、シチメンドウクセエのはショウにあわないって言ってるもん」
 舌足らずな口調で、イルファのやくざな台詞をまねて、吹き出した。
「ぜったい、とちゅうで寝ちゃうから」
「かもしれませんね。なら、どちらがイルファ様を眠らせないかというのはどうでしょう」
「うーん…それならできるかなあ…」
(レスファート様が詩って楽しく、聴かせて喜ばしい詩は…)
 レスファートが考え込むのに、ジノは聴き手を眠らせない賑やかで明るい詩を思い出そうとしながら、ゆっくりと歩いていった。
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